基本的人権制約原理8(ヘイトスピーチ規制3

ところで、少数派とは、何でしょうか?
組織暴力団も国民全体から見たら少数派ですし、飲酒運転したり金融取引ルール違反する人もそれぞれの分野では少数派でしょうが、暴力行為や金融取引ルール違反があれば処罰される制度は加害者よりさらに弱者の一般消費者・弱者保護のために仕方のないことです。
中小学校等で暴力を振るういじめっ子の多くが、家庭内で虐待されている弱者かも知れませんが、いじめられる子にとってはいじめっ子が強者です。
論理的批判抜きに、まず高裁決定批判ばかりでは、何のために裁判制度があるかわかりません。
まして在日の場合その代弁メデイアに事欠かない・むしろ民族系主張を支持するメデイアが皆無・民族系主張はネット発信によるしか発表の場がない現状から見て、この種の主張は形式論にすぎません。
しかも、少数派保護というならば、「関西人や東京人というような集団に対する名誉毀損は成立しない」という昨日引用のウイキペデイアの解説との整合性がどうなるか?という疑問があります。
首都圏で特定県民性批判・たとえば「〇〇県人にはこういう欠点がある」と批判されても(その県出身者は首都圏には数〜5%しか住んでいない場合)極小数であって、正面から反論できない点では同じではないでしょうか?
関西人は〇〇、名古屋の人は△とかの県民性等の批判が良くて、少数民族なら許されないという区分けの根拠がなにか不明です。
そもそも民族と地域性による特徴ある集団の区別もよくわかっていません。
民族は人種そのものと一致しないのが常識でしょうし、文化的同一性・風俗習慣の共通性といえば県民性や地域性(東北の人と関西系の違い)とどこが違うのか?となりますし、言語の同一性を基準にすると(在日も日本語を普通に話せる)など一方で拡散し過ぎ、他方で方言的違いの区別を言い出せば細かくなりすぎます。
その上、特徴には両面があって、信州人のようにきっちりした県民性は賞賛のようでいて逆から見ると融通の利かない人というマイナス的評価も含みます。
具体事例ではアメ公とか(沖縄基地関連で)ヤンキーゴーホームという派手な運動が許されて、韓国人に対する批判だけ許されないとすれば基準がおかしいとの批判もありますが・・。
沖縄在住の米国人は確かに少数でしょうが、事実上の支配権力類似のバック(治外法権を持つ軍事基地)がある面で違いがありますが、権力者の子供が権力者の意向の及ばない学校や野球等のサークル内でいじめにあっているようなものでしょうか?
大手企業社長や評論家は日本全体では発言力があって地元の身近な問題・・局地的問題に対する影響力がありません。
日本有数の発言力を持つ言論人や企業経営者も子供(孫)の生活圏では影響力がない・その孫等は小学校内では一人の子供でしかない「弱い者」ですから、おじいさんの政治発言に対する反感を直接その評論家に反論しても論戦で勝てないないので、(相手にされない・自分の意見は正論ではないので)関係ない小さな子供にぶつけていじめの対象にするのは、「卑怯なこと」です。
韓国の慰安婦攻撃の過激化に対する反感を背景に在日批判が激しくなったことから考えると、国と国との論戦・・韓国との国際言論戦の劣勢?に対する鬱憤を、日本にいる在日に対する攻撃で晴らそうとするもので、米軍基地撤去運動の効果が出ない不満を弱い沖縄居住米国人個人攻撃に向けている点では似ています。
スポーツ選手がスポーツの試合では叶わないので、腹いせに相手選手の子供をいじめるようなものですから、相手を擦り変えて攻撃すること自体が卑怯な振る舞いです。
「ヘイト」という変な外国語を振りかざすのではなく、卑怯な行為は「道義として許されない」とした方が日本の武士道に根ざす安定した議論になるでしょう。
道義の分野は法による強制ではなく、道義の浸透によって解決すべきです。
西欧でも(フランスやドイツで)移民排斥運動を公式に唱えている政党があるようですが、同じように外国人排斥運動すると日本でだけヘイトになる=表現の自由を制限できるのでしょうか?
ヘイト=表現の自由を制限できるかどうかは国によって政策的に決めて良いとなれば、「表現の自由」は人類普遍の原理ではなくなります。
「弱いものいじめをするな!」という道徳律は重要ですが、「弱いものかどうか」の評価を法運用の基準にするのは却って危うい感じです。
ヘイト規制論の一つとして、明日紹介するように「聞くに耐えない粗野な暴言」「意味のない薄い言語」などを挙げる意見もあります。
でも本当にそうならば、論者は、自分だけ一般民度より高いと思っているかも知れませんが、高民度の日本社会ではそういう粗野で野蛮な言動は「言論の自由市場が受けつけない」ので法規制しなくとも短期間に自然消滅していくのではないでしょうか?
憲法学者や文化人の好きな言論の自由市場論はどこへ行ったのでしょうか?
言論の自由市場に委ねると負けてしまうから規制が必要」という論法のように見えますが・・・。
「自由市場論は元々思想の表現の優劣を市場できめるべき」という原理ですから、「自由競争で負けてしまいそうだから規制すべき」というだけでは、自由市場論の自殺行為のように見えます。
自由主義敬愛にも独禁法がるように構成案市場競争が歪られているならば、その点を具体的に主張すべきでしょうがその点の主張がはっきりしません。
http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3598/1.html

2015年1月13日(火)放送
ヘイトスピーチを問う ~戦後70年 いま何が
ゲストロバート・キャンベルさん(東京大学大学院教授)
●去年の秋ごろ 実際にデモを見て
私が去年最後に見たのは、秋ですけれども、見に行って一番感じたことは、驚くほど内容が、中身がないということです。
中身がないということは、非常に力強く、大変耳を疑うような言葉が次々と出てくるわけですが、例えば、彼ら、彼女たちが標的にしている在日のその特権、それが具体的に何かっていうこと、本当に存在するかどうかということを示そうとしない、もっと大きなこととして、おそらく、その先にもし自分たちのその目標を達成した暁に、そこにどういう日本があるのか、日本という国はどうあるべきかというビジョンと言いますか、思いと言いますか、それを外に対して伝えようとしない、非常に内向きで内容が非常に乏しいものだということを、私はまず聞いて驚いたんですね。
粗野で内容のない一方的非難言動は激しければ激しいほど「聞くに耐えない暴言」あるいは、「内容のない決めつけ発言」は相手にされない社会、静かに論理的に持論を主張するようにしないと誰もまともに聞いてくれないような社会・・市場原理に委ねるようにすれば、解決して行ける・・日本社会はレベルの高い社会です。
私は「ダメなものダメ!」「少なくとも県外へ!」などの根拠のない決めつけスローガンを常々批判してきました。

こういう根拠ない意見をメデイアが有り難そうに煽るので、遅れて発信者として参加した初心者は・・メデイアで聞き慣れた「決めつけ調」から始めるしかないのは仕方のないことです。
保守系がメデイアの真似をするとメデイアの寵児ケントギルバート氏がそれを批判するのはおかしなものです。

基本的人権制約原理7(ヘイトスピーチ規制2)

私は昨日紹介したデータの存在を昨日まで全く知りませんでしたが、(真偽は別として)こういうデータが出回っているのに「在日犯罪率が高いなどの故なき批判」を非難するメデイアのイメージ批判が主流で、メデイアの方で上記データに間違いがあるならばきちんと否定証拠を公開した方が良いでしょう。
メデイアからのデータ開示ないままでは、なぜ在日批判論が根拠ないか不明です。
※ただし、有能な外国人誘致の必要性が今朝の日経新聞にも出ていますが、(底辺労働ばかり入れると将来的に保護受給者や犯罪率の上がるマイナス)このような視点から見ると、有能な人ばかり入れて日本人の多くが底辺層になり有能な外人の稼ぎのおこぼれで日本人の多くが生活保護あるいは犯罪率が高まる社会も考えものです。
この種の意見は01/06/03「外国人労働力の移入3」前後に書きました。
後から入ってくる有能な移民(トランプ氏もドイツからの移民2世か?)に負け続けているアメリカでは、移民の古い順にフードスタンプに頼る比率が上がり、これが怒れる白人層を形成している印象です。
在日の生活保護受給率や犯罪率が高いと言うことは、日本人が在日との生存競争に勝っている証明・・めでたい結果で文句いう事ではありません。
流言蜚語というものは情報不足に起因するものですから、犯人検挙の場合には、日本人同様の実名報道を在日団体自体が許容しメデイアに「遠慮なく実名報道してください」と求めれば解決することですが、事実上の匿名「特権」?保持のまま「在日特権などない」と主張しても説得力がないでしょう。
説得力のない批判では表現の自由市場の競争に勝てない・在日批判論が広がる一方になっている危機感から?人権団体?オハコである「思想の自由市場論」をかなぐり捨てて「在日批判自体をさせない」かのような強権行動に出たのがヘイトスピーチ論の背景でないか?と批判が出てきます。
ちなみに一方の人権を過度に保護するのは他方被害者の人権無視につながることを、6月中旬から月末ころまでの袴田再審高裁決定の話題で書きましたが、
「人権団体とは、被害を受ける弱い立場を無視し、加害者=強者の人権のみを主張する団体」
のことでしょうか?
車にぶつかると歩行者が負けるので道の端をビクビクして歩くしかないので安心して歩けるように交通ルールがあるように、(高槻市の震災事故以来社会問題になっているブロック塀の規制論もブロックの下敷き被害に遭いそうな子供の保護が目的です)消費者保護その他多くのルールは弱者保護が基本です。
このルール(信号)無視で歩行者を跳ね飛ばして捕まった犯人・加害者を何が何でも擁護するのが、人権派の使命のように誤解しているようです。
人権擁護派が、被告人が本当に信号無視したかの事実究明を求めるなら合理的・刑事弁護制度はそのためにあるのですが、信号無視やルール違反の有無にかかわらず「検挙拘束自体を人権侵害」と主張するならば、この世の中にルールなど不要・強いものは何をしてもいいのだ」という無政府主義者の主張と同じです。
宮沢憲法のいう「基本的人権は国家社会成立前からある自然権である」というナイーブな意見に忠実なのかもしれませんが、それでは強いもののやりたい放題で人間社会がなり立ちません。
袴田再審高裁決定批判報道を見ると事実認定の合理性を問題にせずに、決定直後内容吟味もなしに、まず「不当判決」の垂れ幕のイメージ報道の氾濫と高裁決定批判の洪水ですから驚きです。
事実認定の合理性の有無にかからず再審開始決定を認めない高裁決定は「不当」という主張の引用報道の氾濫は、交通事故で言えば、交通ルール違反の有無を問題にせずにまず「無罪・釈放せよ」というような報道姿勢です。
訴訟手続きや法に反しているかの吟味なしに、「不当」と決めつける運動をしているグループ(これをあたかも正義のように洪水的に報道し続ける報道姿勢)・・支持する人権団体の論理によれば訴訟手続きを守っているか否かではなく、結論が納得しなければ「不当」と言うのですから、「自分たちが処刑したい」側に立てば、面倒な訴訟手続き遵守しない・・証拠吟味などしないで、まず「1日も早く処刑しろ」という主張に簡単に転化できる危険な集団イメージです。
社会主義国で普通に行われてきたいわゆる(文化大革命時の紅衛兵による吊るし上げで実例が知られます)「人民裁判」という吊るし上げ処刑を理想化する思考方法を、民主主義社会に移植しようとしているかのように見えませんか?
彼ら革新系というか左翼系運動家は、「刑を減らしなくす方向への運動ならば、訴訟手続き無視でも人権侵害にならない」という片面的価値観であるとすれば、理解可能です。
よく言われるように障害者枠を設定したり一定比率の女性役員を強制する場合の基本原理でしょう。
しかし、弱者救済のためと言っても職務能力がなくとも一定率の雇用を割り当てて強制しも良い職場と一定技能レベルが要求される職務とでは許容分野が違います。
取締役等の場合、能力不足の人が女性枠で1〜2人程度役員になっても、能力がなければ発言力がないので、(大方の議案に黙ってうなづくばかり?)重要意思決定に影響力が及ばず実害が起きません。
医師その他の各種資格等は、患者が医師を選べないし、歩行者が正面から未熟運転でぶつかってくるトラックの運転手を選べないので、危険です。
すぐに暴力行動に出る危険な子供も教育を受ける権利があるとは言っても、一方で被害を受ける子供の存在を無視することは出来ません。
このようにどの場面でどの程度弱者優遇すべきかは、学校で習った「基本的人権尊重・弱者保護」の精神と言うお題目を唱えるだけでは何の基準にもならないので、国民の総意・民意=法で具体的に決めていくべきでしょう。
この結果、訴訟手続きで見れば、訴訟手続き上弱い立場にある被告人にどこまで有利に下駄を履かせるかについては、立証責任で無罪の推定を原則化しているほか、証拠法則も厳格化し、国費による弁護人選任権など訴訟法で細かく決めていることであって、法で決めた以上に有利に運用しろという主張は「法」=民意を無視した意見となります。
日本は法治国家・人民裁判が許される国ではないので、「結論をこうしろ!」という主張ではなく、高裁決定を批判するならばどのような訴訟手続き違反があるかを主張すべきです。
言論の自由市場論の例外として在日批判をどの程度許さないか・・特別保護すべきかのテーマに戻ります。
ヘイトスピーチ論は、少数派/マイノリテイーは反論が自由にできないから「少数派批判は許されない」というのが一般的ですが、自由競争に馴染まない弱者であるから、「下駄を履かせろ」ということでしょうか?
「下駄を履かせろ」と言うのは刑事手続で言えば、無罪推定や証拠法則等の方法論で足りる・将棋で言えば飛車角落ち、囲碁で言えば置碁、ゴルフのハンデイなどその後の戦うルールは同じというのが普通の考えです。
これを超えて「強い選手の出場禁止」、「犯罪を犯しても刑事訴追禁止」あるいは、「日本人に比べて刑罰を半分にしろ」とまで行くと、弱者救済論の目的を逸脱し特権付与論になります。
ヘイト被害者が少数派であって言論発表の場がないならば、公平な言論競争ができるような反論の場を提供するなどの土俵作りをするのは、独禁法による救済同様の弱者保護基準ですが、強者の発言自体を封じるのは、少数派救済にかこつけた反対意見発表を制限するのが目的でないかの疑念が生じます。

基本的人権と制約原理6(ヘイトスピーチ規制1)

いわゆる在日特権論に対して「行政は公平に運用している」「特権などない」というのは、理論的にはその通りでしょうが、在日批判者が言うのは「法的特権」ではなく「事実上の運用上の特別優遇」を言うのですから、噛み合っていません。
「在特会」が知られるようになったきっかけとなった京都の朝鮮人学校の公園占拠問題も、行政が特に許可したわけではないから、法的権利を付与したわけではない・特権付与ではないが、大目に見てきたという「事実上の優遇」が目に余っていた現実が白日の下に曝される効果がありました。
そのやり方が激しすぎたので「違法評価されて」巨額の損害賠償支払いを命じられましたが、国民的注目を浴びた結果、朝鮮人学校による公園の事実上独占使用状態が終わりました。
メデイアは暴言批判一色でしたが、在特会の主張自体広く国民支持を受けたように見えます。
政府批判であれば「日本シネ」のアッピールの場合、表現の品位について批判が一切なく、訴えようとしている保育所不足に焦点を当てて野党の得点にしているのに比べて、在日の日本社会に対する問題では、国民が不満に感じている問題を掘り下げ報道を一切しないのは不自然です。
在日が日本人同等に窓口で保護されていないならば、目に見えない差別解消に努力すべきですが、日本人でもしないような権利以上の行為・・共用物を事実上独占使用するなど目に余る行為を繰り返していることを指摘したならば、表現方法に対する批判に終始しないで、本来の国民不満を掘り下げるべきです。
「弱者に優しく」という基本精神が日本にはあるので、結果的に在日系が弱者として優遇される傾向が生じ、一方ではそれに遠慮しながら感謝するのではなく、既得権益のように日本人を排斥するかのように振舞っていることに対する不満ですから、形式論では解決しません。
公園不正使用にとどまらず、事実上の優遇しすぎがあちこちで目立っていないか?・・鬱積された不満が広がる導火線になったのが在特会の過激行動だったようです。
在日系犯罪の場合でいえば、目立たせないような配慮からか?在日とわからないようにするためにか、実名報道しない慣習になっているのも、結果的に「第4の権力」と称されるメデイア界が事実上優遇をしているように見えます。
弱者優遇精神・・隠蔽保護の結果、在日の犯罪率、生活保護受給率が高いかのようなデマ?が広がるのですが、日本もアメリカがやっているようにいろんな分野の統計でドイツ系フランス系、日系という出身国別の発表をした方が却って透明化し、根拠ない憶測・思い込み批判を防げると思います。
公表されていないと思い込んでいましたが、真偽不明ですが、特別入手情報?として以下の通り公開されています。
http://taiyou.bandoutadanobu.com/?eid=1235636

2017.01.10 Tuesday
外国人犯罪問題に積極的に取り組んでいる自民党衆議院議員の長尾敬先生のご協力で、今回総務省からは世帯数を、厚労省からは生活保護受給世帯数を、最新の平成27年7月段階の数値で国籍別に入手することができました。
この数値は未だメディアには出ていませんので初公開です(^o^)

                      

生活保護は個人個人ではなく各世帯ごとに受給していますので、国際結婚家庭の場合はその世帯主の国籍で分類されています。
何故かまったく非公開の「在日」外国人検挙情況の総検挙件数と総検挙人員数
(同じく平成27年データ、28年公表。ご協力は衆議院議員長尾敬先生)↓

                        

なぜ非公開なのか?については、みなさんから警察庁に直接聞いてみて下さい。
(警察庁意見箱 https://www.npa.go.jp/goiken/)
うち在日人口の7割を占める「特別永住者」は外国人の身分のまま代々世襲でその滞在を認められ、殺人を含めたいかなる犯罪によって検挙されても唯一退去強制処分がない特別なご身分。
強制送還がないので再犯者が濾過されないという在日特権の悪影響が、在日韓国朝鮮民族全体の不名誉につながっています。

基本的人権制約原理6(兵役納税の義務2〜ヘイト規制)

外国国旗損壊罪も外国の気を悪くしないように刑事罰の対象になっていると言う解説を信用するとしても、国民の人権侵害がないのに集団利益を守るための刑罰が許される一例になります。
基本的人権は「人類普遍の原理」と宣言する以上は、世界中に通用する原理でなければならないはずですが、兵役拒否罪は人権と人権の衝突場面でないのに刑罰に処して人を拘束し苦役を強制するのですから、個人人権より優越する法原理を持つ国が多いことを示しています。
憲法学者こぞって?集団自衛権反対にこだわる背景は、戦後の天賦不可譲の基本的人権論の基礎が崩壊する点にあるのかもしれません。
韓国で今年の6月28日に良心的拒否を処罰するのは、憲法違反と言う最高裁判決が出たようです。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/07/post-1052

2018年7月3日(火)15時30分
エホバの証人」投獄は違憲と韓国憲法裁判所 良心的兵役拒否は基本的人権の一つ
Jehova’s Witnesses in South Korea Are Imprisoned
韓国の憲法裁判所は6月28日、良心的兵役拒否者を処罰することを定めた兵役法の条項を「違憲」とする判断を下した。
http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2013/07/15/0200000000AJP20130715001100882.HTML
2018年 07月 09日(月)
「良心的兵役拒否」による収監の92%が韓国人
2013/07/15 11:29 KST
【ソウル聯合ニュース】全世界で宗教的信念を理由に軍入隊を拒み投獄された人のうち、9割以上が韓国人であることが分かった。
国連人権理事会(UNHRC)が先月3日に発刊した報告書によると、世界各国で宗教・信念などを理由に軍入隊を拒む「良心的兵役拒否者」として刑務所に収監されている人は723人に上った。
国籍別では、韓国が全体の92・5%に当たる669人で大部分を占めた。
次いでアルメニア人が31人、アフリカ・エリトリア人が15人、トルクメニスタン人が8人と続いた。
また報告書は、徴兵制と代替服務制を併用し2011年に徴兵を暫定的に中断したドイツでは、過去50年間に代替服務を通じ271万8360人の若者が約3万7000カ所の社会福祉施設や慈善団体で働き有益な活動をしてきたことを自国の人権委員会が評価したと強調した。
さらに、各国は代替服務機関を軍服務期間の1.5倍を超えないように定めたり、同じくするなど差別を撤廃する動きを見せており、ウクライナとグルジアでは代替服務者にも市民として同等の権利を保障していると紹介した。
上記の通り、徴兵拒否処罰禁止はエホバの証人という宗教信条との相克として諸外国では無罪になっているようです。

日本のようにそのような宗教のない国ではどうなるのでしょうか?
また、無罪運動はセットで服務制度を求めていることから分かるように、前提として国民には国防に参加する義務があることを前提にしています。
人権の衝突もなく、道徳にも反しないのに、なぜ犯罪者扱いされるのか?ということが私の疑問であり「特定宗教信者であれば【良心的拒否者】として例外的に許される」と言う信仰の自由次元の問題ではないはずです。
人権が天賦不可譲・・・憲法以前の普遍的権利だと言うように義務にも組織の一員である限り国防に参加するのも納税義務同様に「天賦不可譲」の義務と言うのでしょうか?
こうなってくると「天賦不可譲(国家社会成立前からある人類普遍の原理)の人権論」は世界で日本だけの特異な学説かもしれません。
昨日紹介した甲斐素直氏の説明で補完説として説明される「パターナリズム」(後見保護的機能?)でもカバーしきれません。
納税義務や国防の義務〜内乱罪や 兵役拒否罪やスパイ罪などは、人権の衝突や道徳律だけでは説明できません。
人権制約原理として、「組織維持に協力する義務」を認めるしかないのではないでしょうか?
ところで人格的利益説〜道徳論によれば、誹謗中傷は不道徳ですから人権の枠外となりますので、許されないとなっていますが、一方で名誉毀損ではなぜか、民事刑事ともに集団に対する誹謗は対象にならないと(我が国独自の学説のようですが、詳細不明です)学説上決まっています。
名誉毀損に関するウイキペデイアの記事からです。

対象の特定可能性
名誉毀損が成立するには特定人に対してなされたものであることを要し、「東京人」や「関西人」のように単に漠然と集団を対象としても名誉毀損は成立しない[32]。これは刑事名誉毀損の場合と同じである。
本人に直接言及しない場合だが名誉毀損が成立する場合がある[33]。

慰安婦騒動や南京虐殺などの主張が事実無根?とした場合でも、日本民族や国に対する名誉毀損にならないという論理がどういう根拠か「常識でしょう」という決めつけで決まっています。
だからやりたい放題言いたい放題(南京虐殺の被害数字がいくらでも膨らんでいくなど)になり、これを事実上支持するかのようなイメージ報道が広がるような印象です。
「じゃ倍返し」だと嫌韓運動が始まるといきなり「ヘイトスピーチを許さない」となるので不思議(ご都合的な印象)に思う人が多いでしょう。
少数者に対する攻撃だから、「反論できないから」可哀想でないか?というようですが、米国では日本人は少数者ですし韓国でも同じです。
韓国や米国で慰安婦像を設置して日本人に対して嫌がらせするのは、表現の自由で問題がないというのですが・・・。
ヘイトを理由に表現を制約する原理(があるとすれば)は新たに生じてきた難しい問題です。
ヘイト禁止の要件は国によって違うとしても、ヘイトというのは他民族に対する憎悪表現が基本ですから、韓国人の慰安婦問題提起は対日憎悪感情でやっているのではないが日本人は「兼韓」というように「憎悪感情でやるから違法なんだ」となるのでしょうか?
それならば日本でも、「憎悪感情をむき出しに」しないで韓国人の悪行を暴くだけならば(それが事実にあっていなくとも?)有る事無い事でっち上げて批判していても、表現の自由で構わないのでしょうか?
靖国神社に対するデモでは、天皇陛下の顔写真を引きのばしたプラカードに竹槍みたいなもの?を突き刺してデモしている様子が出ていましたが、(ちらっと見た記憶ですから正確ではありません・・総理大臣の顔もあったようですが)これが表現の自由で許されて日本人が韓国大統領の顔写真に竹槍を突き刺してデモするのはヘイトになるのか?の疑問です。
多数派/強者は自制すべきと言うことでしょうが、少数派・弱者だからとエスカレート始めると・・消費者は情報弱者→クレーマーのモンスター化同様で、いわゆる弱者ビジネスが許されるか?の疑問が起きてきます。

基本的人権と制約原理5(兵役納税の義務1)

国家転覆目的・内乱罪を頂点にしたスパイ罪〜兵役拒否罪〜租税納付義務違反罪などが世界中にありますが、これが諸外国でなぜ憲法違反でないのか・・人権衝突論や自己実現論/道徳論では蒙昧な私には理解できないからです。
共謀罪法の成立で具体的テロ行為の共謀だけでも共謀罪法で犯罪になりましたが、傷害等各種刑法犯該当のテロ行為ではなく、抽象的な日本の社会不安・相互不信を煽り、中国や韓国の支配下に入るべきという謀議はそれだけでは共謀罪法違反にはならないし、そういう集会に対して施設使用不許可するのは、憲法違反になるような解説です。
(これが問題になったのがクジラ博物館の事件でしょう)
古くは共産党員は自分の勤務先の会社を潰すのが目的だと非難され支持を失っていきましたが、そういう批判は時代遅れの間違った意見だったのでしょうか?
自民党でも自民党をぶっ潰せというスローガンで総理になった人もいますが、本音は自民党再生のための主張であって反自民ではありません。
自己実現論等の解釈によれば、日本を韓国や中国の支配下に置くべきだ・日本は昔中韓で悪いことをしたから今度は中韓の奴隷状態に入るべきと言う主張でも「自己実現」と称して自由にできるのが基本的人権なるようです。
是枝監督の言う「公権力とは距離を保つ」という主張は、反公権力=反政府 =反国益→反国民?のための言論の自由・・(新参の右翼発信者同様にメデイア界の婉曲的表現訓練をうけていないからか?)国益に反することを目的にしている実態をストレートに表現したことになるようです。
私の場合、千葉で生まれ育ったわけではないですが、千葉に住んでいる以上千葉市や千葉県(弁護士である以上弁護士会全般も)が良くなって欲しい気持ちがいっぱいですが、中には自分の住んでいる街や勤務先組織が嫌いな人もいるのでしょう。
普通に考えれば勤務先が嫌いならば転職すればいいような気がしますが、それが簡単にできないのでそこで楽しくやっている人を自分のように、不幸な状態に巻き込みたい捻れた感情が発達するのでしょうか?
住んでいる町や国が嫌いという場合、企業のように嫌な上司や同僚が身近にいる関係がないので(都会の場合近所づきあいがほぼ不要)その社会での主流から外れている疎外感がそうさせるのでしょうか?
他人のものを奪ってはいけないというルール→等価交換ルール=「私有財産権の絶対」思想も古代からありますし、殺人、傷害や弱いものいじめ、ひいては人命尊重も国家成立前からのことと言えますが、古代から所属集団のためには命も捨てる心構えが賞賛され、民族・集団のために命を賭して戦った人を讃える英雄像も古代からあります。
各地を旅行すると献身的に地元発展に尽くした人が、地元の偉人として顕彰されています。
特攻隊の自己犠牲精神をできるだけ矮小化する政策で戦後政治が行われて教育してきましたが、時間が経てばその尊い精神に感じる人が増えるようになるでしょう。
戦後政治=教育は占領軍の影響で、民族や集団のために尽くすのはよくない・「個人利益と対立すれば個人優越」という方向性が過ぎていたように思われます。
「国家・民族ひいては自分の家族を守るためには、自己犠牲を厭わない」というのも古代から尊ばれた古代亜kらの精神です。
生物は自己の生命を全うすることが最大の価値の筈ですが、子グマ連れの母熊が危険を顧みずに攻撃してくる本能を見えば、種の保存のために自己犠牲を厭わない本能があるのです。
人間は集団で力を合わせてこそ他の猛獣に負けずに生き残れたので、目の前の自分の子供だけではなく守るべき対象を集団にまで拡大してきたことになります。
ライオンだって狩をするときは集団戦法ですし、犬・狼・猿だけではなく多くは程度の差こそあれ、集団で生活しています。
このように考えると集団利益無視または卑しむ個人利益優先の思想教育は、集団で生きていく知恵を知らない程度のレベルです。
この辺で真面目に勉強する気になって、基本的人権に関する学説のお浚いを短時間にネット検索できる限度ですが・でしてみました。
以下の説明によると、基本的人権論は、戦前の美濃部説による公共の福祉による外在制約論から戦後の宮沢説・内在制約論〜人格的利益説・・佐藤幸治教授の道徳論〜さらにはパターナリズムによる補完・有用性?までを以下のネット記事では分かりよく説明されています。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaisunao/seminar/916restriction_of_Humanrights.htm(甲斐素直氏)
引用省略
ただ、人権の衝突による制約しか人権制約原理がないとすれば、納税の義務→脱税が犯罪になり徴兵制の国では徴兵拒否罪がなぜあるのか不明・・人格的利益説や道徳律と言い換えれば解決するのか私の能力では不明です。
内乱罪やスパイ法違反・・兵役の義務=所属組織を守る義務→違反に対して懲罰として各種の人権侵害行為ができる根拠を道徳律によるというのでは、戦前の美濃部説=外在制約論・公共の福祉論とどう違うのか不明です。
私の学んだ宮沢説は古いかもしれませんが、なんらかの人権制約原理がなければ、人を兵営に拘束し苦役を強制することは基本的人権違反で許されない→拒否しても犯罪にできないはずです。
基本的人権は人類普遍原理とは言うものの、「徴兵制のある先進国では普遍原理が認められていない」と言う説明になるのでしょうか?
それとも国ある限り国を守る義務があり、敵国と通謀し、引入れるのは「道徳に反するに決まっている」と言うのでしょうか?
こうなってくると基本的人権とは別にある道徳が基本的人権制約原理になってくるので、その範囲を誰がどのようにして決めるか?となります。
道徳とはそれぞれの集団・社会維持のための規範でしょうから、基本的人権は社会・国家成立以前からあると言う「自然権論」と対立関係にあるはずです。
内乱罪や兵役拒否罪あるいは租税強制徴収権・脱税罪の合憲性を認めるならば、結果的に戦前の美濃部説・外在的制約論とどう違うかになって来るのではないでしょうか。
素朴な感想では道徳という意味不明原理によるのではなく、国家に限らずどんな組織でもその集団所属者は、その「組織維持に協力する義務がある」(嫌なら会員脱退権・・国籍離脱の自由)という原理を立ててそこから納税(会費負担)義務、国家防衛(兵役)義務を導き出す方がスッキリします。
この点、弁護士会の強制加入主義(離脱の自由がない)は異例ですから、将来的に憲法違反の意見が出てくるでしょう。
相馬馬追いや博多や岸和田その他の夏祭りをユーチューブで見ていると、地域共同体の行事にこぞって参加することことこそが、共同体構成員になっている証のように見えます。
地元の人でこういう無駄な行事をやめようという声を上げられないのは、言論の自由がないからなのか、それとも共同体結束に必要な行事は地域にとって必須だと考える人の方が多いからではないでしょうか?
人権は無制限のものだが、個人人権の相克調整のためにだけ制約されるのではなく、もう一つの原理・・民族集団維持防衛のための義務も所属員にはあるという二本立てではないでしょうか?
この辺の議論は専門家同士で克服済みかもしれませんが、素人に分かり良く説明できない理論って、本当は裸の王様同様に「内部で傷を舐め合っている」だけの論ではないでしょうか?
わかりよい推理・素人の推量ですが、日本では幸い戦力不保持の憲法があるので、徴兵制の議論を避けて誰も問題にしないで今までごまかしてこられたのかもしれません。

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