基本的人権制約原理6(兵役納税の義務2〜ヘイト規制)

外国国旗損壊罪も外国の気を悪くしないように刑事罰の対象になっていると言う解説を信用するとしても、国民の人権侵害がないのに集団利益を守るための刑罰が許される一例になります。
基本的人権は「人類普遍の原理」と宣言する以上は、世界中に通用する原理でなければならないはずですが、兵役拒否罪は人権と人権の衝突場面でないのに刑罰に処して人を拘束し苦役を強制するのですから、個人人権より優越する法原理を持つ国が多いことを示しています。
憲法学者こぞって?集団自衛権反対にこだわる背景は、戦後の天賦不可譲の基本的人権論の基礎が崩壊する点にあるのかもしれません。
韓国で今年の6月28日に良心的拒否を処罰するのは、憲法違反と言う最高裁判決が出たようです。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/07/post-1052

2018年7月3日(火)15時30分
エホバの証人」投獄は違憲と韓国憲法裁判所 良心的兵役拒否は基本的人権の一つ
Jehova’s Witnesses in South Korea Are Imprisoned
韓国の憲法裁判所は6月28日、良心的兵役拒否者を処罰することを定めた兵役法の条項を「違憲」とする判断を下した。
http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2013/07/15/0200000000AJP20130715001100882.HTML
2018年 07月 09日(月)
「良心的兵役拒否」による収監の92%が韓国人
2013/07/15 11:29 KST
【ソウル聯合ニュース】全世界で宗教的信念を理由に軍入隊を拒み投獄された人のうち、9割以上が韓国人であることが分かった。
国連人権理事会(UNHRC)が先月3日に発刊した報告書によると、世界各国で宗教・信念などを理由に軍入隊を拒む「良心的兵役拒否者」として刑務所に収監されている人は723人に上った。
国籍別では、韓国が全体の92・5%に当たる669人で大部分を占めた。
次いでアルメニア人が31人、アフリカ・エリトリア人が15人、トルクメニスタン人が8人と続いた。
また報告書は、徴兵制と代替服務制を併用し2011年に徴兵を暫定的に中断したドイツでは、過去50年間に代替服務を通じ271万8360人の若者が約3万7000カ所の社会福祉施設や慈善団体で働き有益な活動をしてきたことを自国の人権委員会が評価したと強調した。
さらに、各国は代替服務機関を軍服務期間の1.5倍を超えないように定めたり、同じくするなど差別を撤廃する動きを見せており、ウクライナとグルジアでは代替服務者にも市民として同等の権利を保障していると紹介した。
上記の通り、徴兵拒否処罰禁止はエホバの証人という宗教信条との相克として諸外国では無罪になっているようです。

日本のようにそのような宗教のない国ではどうなるのでしょうか?
また、無罪運動はセットで服務制度を求めていることから分かるように、前提として国民には国防に参加する義務があることを前提にしています。
人権の衝突もなく、道徳にも反しないのに、なぜ犯罪者扱いされるのか?ということが私の疑問であり「特定宗教信者であれば【良心的拒否者】として例外的に許される」と言う信仰の自由次元の問題ではないはずです。
人権が天賦不可譲・・・憲法以前の普遍的権利だと言うように義務にも組織の一員である限り国防に参加するのも納税義務同様に「天賦不可譲」の義務と言うのでしょうか?
こうなってくると「天賦不可譲(国家社会成立前からある人類普遍の原理)の人権論」は世界で日本だけの特異な学説かもしれません。
昨日紹介した甲斐素直氏の説明で補完説として説明される「パターナリズム」(後見保護的機能?)でもカバーしきれません。
納税義務や国防の義務〜内乱罪や 兵役拒否罪やスパイ罪などは、人権の衝突や道徳律だけでは説明できません。
人権制約原理として、「組織維持に協力する義務」を認めるしかないのではないでしょうか?
ところで人格的利益説〜道徳論によれば、誹謗中傷は不道徳ですから人権の枠外となりますので、許されないとなっていますが、一方で名誉毀損ではなぜか、民事刑事ともに集団に対する誹謗は対象にならないと(我が国独自の学説のようですが、詳細不明です)学説上決まっています。
名誉毀損に関するウイキペデイアの記事からです。

対象の特定可能性
名誉毀損が成立するには特定人に対してなされたものであることを要し、「東京人」や「関西人」のように単に漠然と集団を対象としても名誉毀損は成立しない[32]。これは刑事名誉毀損の場合と同じである。
本人に直接言及しない場合だが名誉毀損が成立する場合がある[33]。

慰安婦騒動や南京虐殺などの主張が事実無根?とした場合でも、日本民族や国に対する名誉毀損にならないという論理がどういう根拠か「常識でしょう」という決めつけで決まっています。
だからやりたい放題言いたい放題(南京虐殺の被害数字がいくらでも膨らんでいくなど)になり、これを事実上支持するかのようなイメージ報道が広がるような印象です。
「じゃ倍返し」だと嫌韓運動が始まるといきなり「ヘイトスピーチを許さない」となるので不思議(ご都合的な印象)に思う人が多いでしょう。
少数者に対する攻撃だから、「反論できないから」可哀想でないか?というようですが、米国では日本人は少数者ですし韓国でも同じです。
韓国や米国で慰安婦像を設置して日本人に対して嫌がらせするのは、表現の自由で問題がないというのですが・・・。
ヘイトを理由に表現を制約する原理(があるとすれば)は新たに生じてきた難しい問題です。
ヘイト禁止の要件は国によって違うとしても、ヘイトというのは他民族に対する憎悪表現が基本ですから、韓国人の慰安婦問題提起は対日憎悪感情でやっているのではないが日本人は「兼韓」というように「憎悪感情でやるから違法なんだ」となるのでしょうか?
それならば日本でも、「憎悪感情をむき出しに」しないで韓国人の悪行を暴くだけならば(それが事実にあっていなくとも?)有る事無い事でっち上げて批判していても、表現の自由で構わないのでしょうか?
靖国神社に対するデモでは、天皇陛下の顔写真を引きのばしたプラカードに竹槍みたいなもの?を突き刺してデモしている様子が出ていましたが、(ちらっと見た記憶ですから正確ではありません・・総理大臣の顔もあったようですが)これが表現の自由で許されて日本人が韓国大統領の顔写真に竹槍を突き刺してデモするのはヘイトになるのか?の疑問です。
多数派/強者は自制すべきと言うことでしょうが、少数派・弱者だからとエスカレート始めると・・消費者は情報弱者→クレーマーのモンスター化同様で、いわゆる弱者ビジネスが許されるか?の疑問が起きてきます。

基本的人権と制約原理5(兵役納税の義務1)

国家転覆目的・内乱罪を頂点にしたスパイ罪〜兵役拒否罪〜租税納付義務違反罪などが世界中にありますが、これが諸外国でなぜ憲法違反でないのか・・人権衝突論や自己実現論/道徳論では蒙昧な私には理解できないからです。
共謀罪法の成立で具体的テロ行為の共謀だけでも共謀罪法で犯罪になりましたが、傷害等各種刑法犯該当のテロ行為ではなく、抽象的な日本の社会不安・相互不信を煽り、中国や韓国の支配下に入るべきという謀議はそれだけでは共謀罪法違反にはならないし、そういう集会に対して施設使用不許可するのは、憲法違反になるような解説です。
(これが問題になったのがクジラ博物館の事件でしょう)
古くは共産党員は自分の勤務先の会社を潰すのが目的だと非難され支持を失っていきましたが、そういう批判は時代遅れの間違った意見だったのでしょうか?
自民党でも自民党をぶっ潰せというスローガンで総理になった人もいますが、本音は自民党再生のための主張であって反自民ではありません。
自己実現論等の解釈によれば、日本を韓国や中国の支配下に置くべきだ・日本は昔中韓で悪いことをしたから今度は中韓の奴隷状態に入るべきと言う主張でも「自己実現」と称して自由にできるのが基本的人権なるようです。
是枝監督の言う「公権力とは距離を保つ」という主張は、反公権力=反政府 =反国益→反国民?のための言論の自由・・(新参の右翼発信者同様にメデイア界の婉曲的表現訓練をうけていないからか?)国益に反することを目的にしている実態をストレートに表現したことになるようです。
私の場合、千葉で生まれ育ったわけではないですが、千葉に住んでいる以上千葉市や千葉県(弁護士である以上弁護士会全般も)が良くなって欲しい気持ちがいっぱいですが、中には自分の住んでいる街や勤務先組織が嫌いな人もいるのでしょう。
普通に考えれば勤務先が嫌いならば転職すればいいような気がしますが、それが簡単にできないのでそこで楽しくやっている人を自分のように、不幸な状態に巻き込みたい捻れた感情が発達するのでしょうか?
住んでいる町や国が嫌いという場合、企業のように嫌な上司や同僚が身近にいる関係がないので(都会の場合近所づきあいがほぼ不要)その社会での主流から外れている疎外感がそうさせるのでしょうか?
他人のものを奪ってはいけないというルール→等価交換ルール=「私有財産権の絶対」思想も古代からありますし、殺人、傷害や弱いものいじめ、ひいては人命尊重も国家成立前からのことと言えますが、古代から所属集団のためには命も捨てる心構えが賞賛され、民族・集団のために命を賭して戦った人を讃える英雄像も古代からあります。
各地を旅行すると献身的に地元発展に尽くした人が、地元の偉人として顕彰されています。
特攻隊の自己犠牲精神をできるだけ矮小化する政策で戦後政治が行われて教育してきましたが、時間が経てばその尊い精神に感じる人が増えるようになるでしょう。
戦後政治=教育は占領軍の影響で、民族や集団のために尽くすのはよくない・「個人利益と対立すれば個人優越」という方向性が過ぎていたように思われます。
「国家・民族ひいては自分の家族を守るためには、自己犠牲を厭わない」というのも古代から尊ばれた古代亜kらの精神です。
生物は自己の生命を全うすることが最大の価値の筈ですが、子グマ連れの母熊が危険を顧みずに攻撃してくる本能を見えば、種の保存のために自己犠牲を厭わない本能があるのです。
人間は集団で力を合わせてこそ他の猛獣に負けずに生き残れたので、目の前の自分の子供だけではなく守るべき対象を集団にまで拡大してきたことになります。
ライオンだって狩をするときは集団戦法ですし、犬・狼・猿だけではなく多くは程度の差こそあれ、集団で生活しています。
このように考えると集団利益無視または卑しむ個人利益優先の思想教育は、集団で生きていく知恵を知らない程度のレベルです。
この辺で真面目に勉強する気になって、基本的人権に関する学説のお浚いを短時間にネット検索できる限度ですが・でしてみました。
以下の説明によると、基本的人権論は、戦前の美濃部説による公共の福祉による外在制約論から戦後の宮沢説・内在制約論〜人格的利益説・・佐藤幸治教授の道徳論〜さらにはパターナリズムによる補完・有用性?までを以下のネット記事では分かりよく説明されています。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaisunao/seminar/916restriction_of_Humanrights.htm(甲斐素直氏)
引用省略
ただ、人権の衝突による制約しか人権制約原理がないとすれば、納税の義務→脱税が犯罪になり徴兵制の国では徴兵拒否罪がなぜあるのか不明・・人格的利益説や道徳律と言い換えれば解決するのか私の能力では不明です。
内乱罪やスパイ法違反・・兵役の義務=所属組織を守る義務→違反に対して懲罰として各種の人権侵害行為ができる根拠を道徳律によるというのでは、戦前の美濃部説=外在制約論・公共の福祉論とどう違うのか不明です。
私の学んだ宮沢説は古いかもしれませんが、なんらかの人権制約原理がなければ、人を兵営に拘束し苦役を強制することは基本的人権違反で許されない→拒否しても犯罪にできないはずです。
基本的人権は人類普遍原理とは言うものの、「徴兵制のある先進国では普遍原理が認められていない」と言う説明になるのでしょうか?
それとも国ある限り国を守る義務があり、敵国と通謀し、引入れるのは「道徳に反するに決まっている」と言うのでしょうか?
こうなってくると基本的人権とは別にある道徳が基本的人権制約原理になってくるので、その範囲を誰がどのようにして決めるか?となります。
道徳とはそれぞれの集団・社会維持のための規範でしょうから、基本的人権は社会・国家成立以前からあると言う「自然権論」と対立関係にあるはずです。
内乱罪や兵役拒否罪あるいは租税強制徴収権・脱税罪の合憲性を認めるならば、結果的に戦前の美濃部説・外在的制約論とどう違うかになって来るのではないでしょうか。
素朴な感想では道徳という意味不明原理によるのではなく、国家に限らずどんな組織でもその集団所属者は、その「組織維持に協力する義務がある」(嫌なら会員脱退権・・国籍離脱の自由)という原理を立ててそこから納税(会費負担)義務、国家防衛(兵役)義務を導き出す方がスッキリします。
この点、弁護士会の強制加入主義(離脱の自由がない)は異例ですから、将来的に憲法違反の意見が出てくるでしょう。
相馬馬追いや博多や岸和田その他の夏祭りをユーチューブで見ていると、地域共同体の行事にこぞって参加することことこそが、共同体構成員になっている証のように見えます。
地元の人でこういう無駄な行事をやめようという声を上げられないのは、言論の自由がないからなのか、それとも共同体結束に必要な行事は地域にとって必須だと考える人の方が多いからではないでしょうか?
人権は無制限のものだが、個人人権の相克調整のためにだけ制約されるのではなく、もう一つの原理・・民族集団維持防衛のための義務も所属員にはあるという二本立てではないでしょうか?
この辺の議論は専門家同士で克服済みかもしれませんが、素人に分かり良く説明できない理論って、本当は裸の王様同様に「内部で傷を舐め合っている」だけの論ではないでしょうか?
わかりよい推理・素人の推量ですが、日本では幸い戦力不保持の憲法があるので、徴兵制の議論を避けて誰も問題にしないで今までごまかしてこられたのかもしれません。

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