サイレントマジョリティ19(投票率8)

以下憲法解釈論として考えて行きましょう。
棄権者を全部不信任とする法制度・・有権者の過半数を獲得しない限り当選させない制度にした場合はどうでしょうか?
憲法は法に任せるとなっているものの、外の条文と比べると棄権者を不信任に数えると言う前提でないことは、明らかです。
以下の条文を見ると全ての議決は「出席者の過半数」や3分2〜3分の1以上となっていることや、裁判官の国民審査も、投票者の多数を要件にしていることから見ると、憲法は「議決に参加しない者は結果お任せ」精神・・信任票と見ることを前提にしていることが推定されます。
棄権者を全部不信任票と見ると国家運営が成り立たないことや、世界中で不信任に数える制度の国がないことからも議論する必要のない常識として書いていないだけと読むべきでしょう。
憲法制度全体の趣旨から言っても、この学者の意見は憲法違反の主張をしていると言うべきでしょう。

憲法

「第五十五条  両議院は、各々その議員の資格に関する争訟を裁判する。但し、議員の議席を失はせるには、出席議員の三分の二以上の多数による議決を必要とする。
第五十六条  両議院は、各々その総議員の三分の一以上の出席がなければ、議事を開き議決することができない。
○2  両議院の議事は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、出席議員の過半数でこれを決し、可否同数のときは、議長の決するところによる。
第五十七条  両議院の会議は、公開とする。但し、出席議員の三分の二以上の多数で議決したときは、秘密会を開くことができる。」

第七十九条  最高裁判所は、その長たる裁判官及び法律の定める員数のその他の裁判官でこれを構成し、その長たる裁判官以外の裁判官は、内閣でこれを任命する。
○2  最高裁判所の裁判官の任命は、その任命後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際国民の審査に付し、その後十年を経過した後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際更に審査に付し、その後も同様とする。
○3  前項の場合において、投票者の多数が裁判官の罷免を可とするときは、その裁判官は、罷免される。

参加自由の公聴会なども特定意見グループ(多くは反対論者)が呼びかけてこれに呼応した人が積極的発言することが多く、政府施策に同意している人やどっちでもいい人は出席しないのが普通の行動です。
反対派が数十人しか集まらない場合、その程度しか集まらないのか?と見られるのが普通で、公聴会で賛成派が一人もいなくとも国民全員が反対とはなりません。
放射性廃棄物保管場所の説明会も同じで、賛成の人は元々行きません・・反対の人ばかり行って、反対意見を述べたり、「もしも◯◯があったらどうする」式の質問攻めにするのが普通です。
参加自由の公聴会なども特定意見グループ(多くは反対論者)が呼びかけてこれに呼応した人が積極的発言することが多く、政府施策に同意している人はわざわざ出席しないのが普通です。
反対派が数十人しか集まらない場合、その程度しか集まらないのか?と見られるのが普通で、公聴会で賛成派が一人もいなくとも国民全員が反対とはなりません。
千葉で身近になっている放射性廃棄物の保管場所設置の説明会の様子を見ると、反対意見ばかりのようですが、賛成・積極賛成ではないとしてもどこかで引き受けるしかないとすれば、仕方が無いのじゃないかと思っているの人はソモソモ行きません。
開かれた委員会あるいは選挙で、賛否ギリギリの予想のときに決議を通したい勢力は一生懸命に参加呼びかけしていますが、決議に関心があれば普通は参加(急病など特別な事情がない限り)するのが普通です。
過激系学生自治会組織やお宅系の委員会のように閉ざされた委員会は別として、参加するチャンスが充分にあり秘密投票で自由な意見発表が出来るのに、参加しない・・関心がないと言うことは、結果がどうでも良い・・その場で決まったことで結構・・決議を信任する意思表示と見るのが普通ではないでしょうか?

サイレントマジョリティ18(投票率7)

ところで立候補者一人の場合、自動当選にしないで不信任投票制にした場合には、実務的不合理性があります。
最高裁判事のように15人もいてその内の一人二人の適格性審査の場合、仮に不信任になっても裁判実務にそれほどの影響がありません・・。
裁判官の選任(欠員補充)は内閣の任命で足り、選挙がいりませんし、しかも15人の内数人が数日程度欠けても実務は回って行きます。

憲法
第七十九条  最高裁判所は、その長たる裁判官及び法律の定める員数のその他の裁判官でこれを構成し、その長たる裁判官以外の裁判官は、内閣でこれを任命する。
○2  最高裁判所の裁判官の任命は、その任命後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際国民の審査に付し、その後十年を経過した後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際更に審査に付し、その後も同様とする。
○3  前項の場合において、投票者の多数が裁判官の罷免を可とするときは、その裁判官は、罷免される。

ところが、国会議員や市長県知事選挙の場合、選挙区でたった一人の候補者が不信任となった場合、どうなるの?と言う問題が起きます。
再選挙の繰り返しと言う訳に行かないし・・その選挙区は代議士や市長のないままになるのでしょうか?(後任が決まるまで前任者が居座り続ける?)
代議士の場合国会議員の何百人の一人でしかないので、少しの選挙区で決まらなくとも、他に一杯当選した議員がいるならば、)何とかなるでしょうが、知事・市長等の選挙ではどうなるのでしょうか?
選挙は文字どおり選挙する=選んで挙げることであって、引きずりおろす制度ではありません。
不信任制度は、一旦選んだ市長等のリコール・・裁判官の審査など後の判断行為に限定されるべきであって、選ぶべき選挙に用いるのは現実制度的に無理があることが分ります。
有権者の過半数の得票がないと不信任=落選とした場合、これをクリアー出来るのは、談合がない限り・・全国で多くても数人〜10人前後しか当選して来ないとすれば、国会制度は機能するのでしょうか?
国会議員が過半数でなければ内閣を組織出来ませんので、事実上の寡頭政体か、無政府状態を予定するしかありません。
憲法はこう言う状態を予定しているのでしょうか?
 
憲法
第六十八条  内閣総理大臣は、国務大臣を任命する。但し、その過半数は、国会議員の中から選ばれなければならない。

第十五条  公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
○2  すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
○3  公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。

第四十七条  選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める。

憲法で定めているのは、「成年者による普通選挙」とある以外は、法に委任しているのであって、それ以外の規定がありません。
中野教授のいうとおり、法律で全有権者の過半数の得票がないと不信任・当選させないと言うことまで選挙法で決めないと憲法違反と言えるかですが、この点についてはこの条項だけからは分りません。
法律に一任しているとすれば、得票数の比較多数を当選とする現行法を国会が制定しているのは、憲法違反ではありません。
どう言う制度設計が正しいか法・・国民意思で決めるべき・・思想の自由競争の世界です。
中野教授は棄権者を不信任と決める制度にすべきと言う意見・・立法論を言うのは勝手ですが、現行制度下で棄権者を不信任と決めつけて現内閣の正統性がない講演したとすれば立法論と現行制度の解釈論とを混同しているものになります。
こう言う(誰も支持しない)「変わった考え方もあり得ます」と言う程度の意見を聞いた会員が、過剰な思い込みしただけかも知れませんが・・・。

サイレントマジョリティ17(投票率6)

各種売れに売れている大ヒット商品についても、大ヒットテレビ放送等でも国民の過半数が視聴したり買っていることは滅多にありません。
映画も野球もベストセラーも全て国民の過半数が見に行ったり買ったりしないと、国民がその映画や本が嫌われている・・失敗作とは言わないでしょう・・国民の一割でも見たり、買ったりすれば大成功ではないでしょうか?
特定のチョコレートを国民の1割も買うようになればヒットどころかホームランです。
国民の9割が否定しているのではなく、何万と言う似たような商品がそれぞれ0、00何%しか支持されていないのに対して、その商品だけが10%もの人から支持されていると言う見方をするのが普通です。
ある店で作ったお菓子が10個しか売れないのに、別の店で作ったお菓子が100個売れれば、多く売れた方が成功していると評価出来る・・人口比何%しか買っていないかではなく、比較多数に価値基準をおくのが人類共通の基準です。
上智大学教養学部教授中野晃一氏(政治学)の意見では、政党別の得票率を言うだけであって個々の候補者の得票率は有権者の半分以下でも良いんだと言うのかも知れません。
しかし、政党は選挙区で当選した・信任を受けた代議士の集合体として国政に影響力を持っているのであって、政党と言う抽象的なものは、制度上直接(比例代表制によって顔を出している程度ですし、これも個々の代議士の小選挙区での得票率・・惜敗率によることになっています。)予定されていません。
また政党別得票率と言われているものも、多分各選挙区の得票合計=各候補者の得票数によっている筈です。
政党の力は、個々の代議士が選挙区で国民の信任をどれだけ受けているかの集積ですから、選挙制度論は、個々の代議士の当落に関係させる議論でないと意味がありません。
あるいは政権批判しているだけで、野党の得票の場合には、こんなに批判票があったと、得票数だけを取り出すのが正しいとすれば、御都合主義過ぎてこれもおかしな議論です。
安保法制反対デモでは、人口一億数千万のうち(主催者発表で)数万人も参加したと大いばりですが・・・。
この学者の意見だとデモに参加しないその他国民全員が、安保法制反対運動を支持していないことになるのでしょうか?
投票率に話を戻しますと、選挙の都度、有権者の過半数を得た場合だけが信任されている→当選とした場合、昨日紹介したように石原氏でさえ僅か3割の得票率にしかなりませんので、適格者が全国でゼロ名〜7〜8名しかいない可能性が大ですが、そうすると日本全国殆どの選挙区では地元選出代議士がいない状態になります。
それでは困るので共倒れ防止のために選挙前の談合がはやって、実際には各選挙区では一人しか立候補しないようになるのでしょうか?
事実上の絞り込みの結果、選挙が事実上なくなって地方ボスの話し合いで村長さんを選んでいた時代に逆戻りになりそうです。
実際に千葉県弁護士会は未だにそう言う状態で、選挙らしい選挙したことがないことをこのシリーズで紹介しました。
気心の知れた少人数組織でしかも元々政治的な意見対立課題がない・・日常的同業組合的事務処理が中心だった時代・・例えば総称手続運営についての裁判所や検察庁との話し合いなどでは、プロの委員会主導で検討して、会長そのとおり発言して行けば良い・・適当な年功でなって行く・・言わば政治的立場は誰でも良かった・・日教組との政治対立のないときの小中学校の校長先生が名誉職だったのと同じです。
現在のように弁護士会が政治意見をしょっ中発表し行動するようになって来ると、(従来型お任せ意識の会員にとっては話が違うじゃん・・潜在的な会内意見対立・・)不満が蓄積して行きます。
運動体的な各種委員会はこの動きを早めに制して、従来名誉職的地域代表だった常議員会に委員会推薦立候補をさせるようになって来ていることを以前のコラムで書きました。
この結果「政治運動まで任せていないよ!」と不満が出るようになると、直ちに「正当な会内手続を踏んでいる」と言う反論が出て来ます。
こう言う正当化論が中国の全人代(地方から順次上がって来た民主的意見によって運営していると言う独裁正当化論)が民主的であると言う論理の基礎です。
弁護士会の場合、一人しか立候補しないと選挙すら実施しないのですが、立候補者が一人の場合こそ、信任・不信任の投票をしたら本当にみんなの意思で候補を絞ったのかの判定が明らかとなります。
公職選挙法の場合はどうなるのでしょうか?
候補者を一人に絞っても選挙・・信任投票を実施するとした場合、有権者の5割以上の投票率がないとこの理屈では不信任になります。
22日に紹介した上智大学教授の意見はこの段階を言うのかも知れません。
この場合でも棄権者を不信任に数えるといつまでも決まりせんから、(競争相手のない選挙・・信任だけの投票になると投票率が5割を超えるのは難しいでしょう)信任・不信任のどちらかの投票が出来るようにしておいて、有効投票の比較多数だけで決めるのが現実的でしょう。
結局棄権者を不信任と評価する考えはこの段階で破綻します。

サイレントマジョリティ16(投票率5)

棄権者の心理を、信任・不信任に区分して議論する不毛さは、棄権者を不信任に数える場合の現実弊害を考えればすぐに分ることです。
戦後ずうっと中選挙区(2人区)ないし大選挙区(3〜5〜6人区)でしたから、投票者の過半数獲得者でさえ、滅多になかったし、ましてや選挙区全有権者の過半数獲得などは夢物語の世界です。
過去の中選挙区制や、現在の比例代表制の場合、これらの制度自体が選挙区の有権者の過半数の得票を得た候補者のみが当選者とすることを予定していません。
政党単位で見ても与野党が併存する仕組み・・民主制の基本ですが、これ自体が過半数支持を得ていない政党の存在を前提にしています。
過半数支持を得た代議士しか存在出来ない前提の議論は・・これを政党段階に押し進めると・・中野教授の意見では全有権者の5割以上の支持を得ていないと何も決められないことになるので、結果的には一党独裁制・・中国等の政体を理想・前提にした議論になります。
左翼系学者派はこれが好きなことは繰り返し書いて行きました。
日本の中〜大選挙区制は、1つの地域では、Aの政治姿勢に対する支持者が4割で、Bの支持者が3割、Cの支持者が2割その他・・諸派の場合、Aだけが地域の声を代表するのではなく、地域少数意見もその比率で中央に出て行って意思表示出来ると言う意味で優れた制度です。
我が国古代から八百万の神・・多神教世界の合議制社会・・多様な声を吸い上げる伝統に則った優れた制度だったと思われます。
豊かな社会とは売れ筋商品しかおいていない画一社会よりは、100〜200人に一人しか買わないような特殊な商品(サービス)も提供されている社会ではないでしょうか?
思想の自由も同様で過半数支持を受けた思想の代表しか存在出来ないような社会では、思想の自由が事実上抑制されてしまいます。
多数説一色しかないよりは、百家争鳴状態の方が思想の自由があるのです。
上智大学教養学部教授中野晃一氏(政治学)の意見が、仮に棄権者全員が不信任者であるとした場合、(同人の論文を直接読んでいない・・・・参加者の報告だけなので正確には分っていません・・何回も書いているようにこのコラムは専門誌ではなく、自宅でちょっとした時間に思いつきで書いているコラムですから、それ以上調査する気持ちはありません) 戦後何十年も行なって来た中〜大選挙区制や、現行比例代表制度を国民主権の理念に反している・・・実質憲法違反だと言うのでしょうか?
過半数を得ていない少数者も当選する比例代表制がある御陰で、少数政党=野党の存在が理論的に可能になっている現実を無視しています。
同教授の意見によれば、野党は皆無・・一党独裁性になるのが理念的に正しくなると思われれます。
現在の小選挙区制では、有権者の過半数の得票者だけ当選と言う場合も理論的には成立可能ですが、仮に7割の投票率の場合、投票者の7割の票を獲得しても有権者の49%でしかないので、過半数に足りません。
対立候補者・次点の2倍以上の票を獲得しても落選することになります。
この基準で当選出来た人が過去に何人いたか?と言うことです。
こんな非現実的制度が正しいことを前提とする意見?国民主権の理想に合致していて正しいと誰が考えるのでしょうか?
平成26年12月の総選挙に関する総務省のデータに入ると都道府県別有権者数が出ていますが、選挙区別有権者数が出ていませんので有名代議士の有権者に対する得票率を探せませんが、多分殆どの選挙区で有権者の過半数を得た人はいないのではないでしょうか?
石原元都知事のように選挙に強かった人でも、東京都有権者の過半数の得票を得ていたかとなると、疑問があるように思われます。
ウイキペデイアによると以下のとおりです。

2003年東京都知事選挙(2003ねんとうきょうとちじせんきょ)は、2003年(平成15年)4月13日に執行された東京都知事選挙。第15回統一地方選挙の一環で実施された。
選挙前から現職の石原慎太郎の圧勝が予想され、対立候補の擁立は難航した。
この都知事選では、事前に石原の圧勝が予想されていたためか、中松以外の常連泡沫候補は一様に出馬を見送り、候補者が乱立する東京都知事選挙では珍しい、少人数の争いであった。
投票率は44.94%で、前回1999年の57.87%を大きく下回った、当日の有権者数は988万4071人で投票総数は444万2195票となった[1]。
当選 1 ■石原慎太郎 無所属 現 3,087,190 70.21%

上記のとおり、圧勝の予想されていた石原氏は投票者の100%を獲得しても有権者の44、9%しか得票出来なかったことになります。
・・・実際の獲得票数は、3,087,190で得票率としては、70.21%でしたが、有権者に対する比率で言えば、44、9x70=約30%にしかなっていません。
中野教授やこの意見を有り難がっている特定グループの意見によれば、石原氏は都民の7割から不信任されていたのに都知事をやっていた・・違法な存在と言うコメントになるのでしょうか。
総務省が政党別得票率などデータ化しているのに、個々の候補者の有権者に対する獲得票率・・・選挙区別有権者数の数値をデータ化して公表していない・・上記都知事線に関するウイキペデイアでも有権者に対する得票率を出していないと言うことは、このデータ需要がない・・特定候補者の有権者に対する得票率について、多くの国民が全く価値を認めていないことが明らかです。

サイレントマジョリティ15(投票率4)

与党支持者がこれだけしかいないと言う意見を言うよりは、野党の得票がこれしかないと言う逆の見方も出来ますが、投票者心理の詳細調査が正確に出来ないと言う謙抑論が合理的・公平です。
投票心理の調査は客観性に欠ける点から、今の調査レベルでは、「与党寄り、あるいは野党寄り」の水掛け論・非難合戦になり兼ねません・・・・どちらの不信任と言う意見を言わない・・結局は得票結果だけで比較論評するのが公平です。
投票しない人の心理分析によって国論を決める意見によれば、結果的に投票者の表明した意見を無視するか、軽視する(投票しない多数の意見によるとなれば・・)方向に行くことになります。
結果的に権力者(日本ではマスコミ?)等が「国民心理がこれだ」と決めれば良いことになってしまい民主主義が崩壊します。
マスコミや文化人がしょっ中「国民意思に反している」と宣伝していて、これを既に実行しています。
この既成事実化している状況に対して、法律学者がお墨付きを与えようとしているのでしょうか?
本来のサイレントマジョリティ重視論は、反中韓暴動をしなくとも、黙って中韓へ旅行に行かない、製品を買わない・・集会等で面と向かって反対し難い人を重視する・・その意思をどうやって知るかと言えば、秘密投票や実際の購買行動・・市場の動き等によって見るべきと言うものであって、投票しない人を重視するのではなく逆から言えば投票結果重視論です。
投票しない人の意思を推測して自己判断を押し付ける論とは逆です。
この意味では、市場経済論は民主主義実現手段であり、一体的に必要な思想です。
デモや公聴会等で激しく言い募る人が集まって、投票に参加した人を軽視することになる棄権者=不信任論を聞いて感激しているのは、形を変えたサイレントマジョリティ軽視論ではないでしょうか?
日本国民は目に見えた反中国・反韓国暴動や不買運動をしませんが、最近韓流が絶滅状態で、サムソン製品であることを隠さないと売れないほどになっている中国韓国への旅行が激減しているのは、日本国民のサイレントマジョリテイーを表していると見るのが普通でしょう。
投票しない人を不信任票に数える10月21日に紹介した上智大学教養学部教授中野晃一氏(政治学)の論理によれば、仮に投票率が6割で投票した人の得票率8割の場合、投票数の得票率で数える現行制度では与党になりますが、有権者に対する得票率で言えば、48%の票しか得てないから不信任となります。
政党に対する直接投票制度はありませんから、政党得票率は各代議士個人が獲得した得票の集積です。
有権者の5割未満得票では・・各選挙区の候補者が不信任・当選出来ないとすれば、・・5割未満の得票率で当選した代議士が総理大臣選任に参加し、多数決で法律を作ることが憲法で定める民主主義に反しても無効だとなり、現実社会はどうなるでしょうか?
上智大学教養学部教授中野晃一氏(政治学)は「当選が無効」などと言っていないと言うことでしょうが、当選有効を認めるしかないとすれば、現実政治では現行制度である投票した票に対する得票数の多い人が当選する制度が妥当と認めることになります。
「ほんらいは不信任だが現実妥協のために当選者にしているだけ」と言う意味とすれば一貫しますが、上記のとおり、現行制度は棄権者の真意を誰も決めることが出来ないと言う自己抑制論によるとすれば、「本来は」不信任票だとは決めつけられない筈ですから、この意見は、自己抑制をしない・・「棄権者は全員政権反対者である」と言う自分の判断だけが正しい前提にした意見になります。
少人数の場合は別として一定組織規模以上になると、出席者の過半数や特別多数などで決めて行くのが世界中の組織決定基準になっています。
投票しない人を不信任・信任どちらに数えることも無理があると言う世界の常識が現行制度・・選挙制度に限らず株主総会や各種総会の決議要件になっているのではないでしょうか?

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