公務員は労働者か?2(任命1)

国家公務員法を見れば「公務員」に関する法(組織法の亜流?)であって、公務員の地位をどうやって取得し、公務員になればどのような職務義務があるかを法で定めている法律であり、その一環として給与等の勤務条件記載がある程度の印象です。
裁判所法では裁判所の種類や重要人員構成に関する裁判官になる方法・権限を書いたものであって裁判官の労働条件確保を決めるためのものでないのと同じです。
労働の対価である賃金と言わず職務に対する給与(給わり与えられるもの・・目上の者から下の者に物品を与えるもの)ですし、内容的には賃金の仕組みを踏襲して残業手当や休日出勤手当など同様にしているでしょうが、法の建て付け・精神の有りよう・・本質は労働対価という形式をとっていないと思われます。
個人的経験によりますが、司法修習生の頃にお世話になった地裁刑事部長(専門誌に論文を書いている著名な人でした)が交通事故被害にあったとかで長期休暇中でだいぶ経ってから出てこられたのですが、ある時の雑談で裁判官は労働者でなく身分官僚なので、事故で半年〜10ヶ月程だったか?長期休んでも俸給に何の影響もないんだよ!というお話を伺ったことがあります。
要は官職に応じた俸給があり、個々の労働の対価ではないということでした。
言われて見れば勤務時間や残業とか細かいルールもなく、公判のある日とか何か予定(合議予定、令状当番など)が決まっている日以外は出てこなくても良いのが当時の裁判官でした。
平成に入った頃からだいぶ世知辛くなって、裁判官もほぼ毎日出てくるような印象ですが・・。
(自宅書斎で調べ物をしているより裁判所で資料を見ながら思索する方が効率がよくなった面があります・この辺は最近の大学教授も同じでしょう)
我々弁護士も勤務時間の縛りがないものの、事務所で処理した方が合理的なので家に仕事を持ち帰る頻度が減っています。
研究も同様で鉛筆一本で思索する時代が終わり各種研究所が発達している・勤務時間の定めがなくとも資材の揃っている研究所にいる時間が増えているのはこのせいでしょう。
労働法のように契約交渉等で決まる仕組みを前提に弱い個々の労働者の地位を守るために団結権や団体交渉や争議権を認めるのではなく、あるいは契約に委ねると対等な力がないので労働者が不利になりすぎないように最低賃金、最大労働時間等の最低基準を決めて労働者を保護しようとするためではなく、別の目的で職務内容の他給与基準まで全て法律で決まっている前提です。
国民代表の意思による法で決まっているものを公務員が上司との交渉で変更できるとした場合、お手盛りになり兼ねないし、法治国家・国民主権に違反するということかな?
公務員の地位につくのは試験等の公的基準に従って任命されるだけであって、労働契約によって始まるのではありません。
私も法律家の端くれなのによく分からないまま生きてきたのですが、契約でないとすれば「任命」すなわち命令ですから命令された方は結果として従うかどうかしかないと言う建て付けでしょう。
事前根回しや同意・納得があった方がスムースと言う程度の位置づけです。
現在は受験制度ですので受験する段階で、任官(就職)したいと言う事実上の意向が示されているので、事前同意の概括的担保がある仕組みです。
ただし腕試しに一応受けて見たとか滑り止めなどいろんな要素があるので、各省採用に当たっては、もう一度一種の二次試験みたいな申し込みと面接試験などが必要になっています。
ここまで来た人は、任官意思が固いので採用通知を特別な事情なしに蹴飛ばす人は滅多にいないでしょう。
古代〜中世は別として近代社会においては、人に対して特定行動を命じ、それに応じない場合行為そのものの強制は許されないのが社会の合意です。
馬を水飲み場に連れて行けるが飲ませることはできないと言われる所以です。
結果的に徴兵あるいは、法令で決まった帳簿検査、提出命令などに応じなければ罰則で間接強制するしかないようになっていますが、保釈条件違反→保釈決定取り消しなどの不利益が用意されているのが普通です。
しかし、任命に応じない場合には罰則まで設けるのは行きすぎでしょう。
労働法ではこの点はっきり書いています。

労働基準法
(賠償予定の禁止)
第十六条 使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない。

戦闘集団が基本である武家社会では主君の命令は絶対であり、これに応じないことだけで首を刎ねられることが許されるような価値観のストーリーが多く見られます。
上洛後の信長からの越前朝倉家に対する義昭名での上洛命令に応じないところから信長と朝倉の対決が起きたものでした。
このように出仕=任官すること自体が時の事実上権力者に従属することを受け入れることを意味することから、信長や秀吉政権樹立を認めたくない勢力は当然応じません。
小牧長久手の戦いが長引き、秀吉が徳川とのヘゲモニー争いで勝敗がつきかねている時に、秀吉が関白太政大臣の官位による召集をかけて出仕すれば徳川はその下位につく意思表示になるという、政治駆け引きに徳川が応じたことで豊臣対徳川の抗争が収束しました。
秀吉が人質まで出して徳川との和平をした実態を見て小田原北条氏(後北条)は(徳川と誼を通じていれば・・秀吉政権が弱体と甘く見たのでしょう)出仕命令無視するばかりか総無事例も無視した上で、北条と真田間の沼田城支配をめぐる争いに関して豊臣政権(支配地分割)の裁定により沼田城を受け取りながら、真田側領地に残った真田の枝城(大くるみ城だったか?)を攻めたことが秀吉の怒りを買い、ついに小田原攻め→北条氏照や主な家臣らの切腹と領地全面没収になりました。

国家公務員は労働者か?1

一族だとか、側近、譜代の臣、時々応援してくれる近隣豪族との違いと言っても、それは比較をいうだけであって、側近の関係に限定すれば、他人と同じ対立関係が凝縮されて、あるいは複雑化していていろんな要素で相殺される結果見えにくくなっているにすぎません。
関係が遠くなるに比例して利害が単純化する・・土地勘のない通りがかりの客にとっては刹那的な利害の一致だけ・例えば我慢できないほどの空腹者にとっては、目につくところに飲食店一軒の他は、建築資材その他物販店ばかりであれば、その飲食店の料理が標準以上に美味しいかどうかの吟味の余地がありません。
これが近隣の店であれば、以前の客あしらいや料理と値段のバランス、複雑な情報処理が行われます。
しょっちゅう顔を合わす関係だと何か気に入らないことがあってもストレートに顔や態度に出しません。
側近や身内の場合、主人との接触濃度が違うので複雑な関係に比例して総合判断を経るのでちょっとした不満にすぐ反応しない違いでしょう。
独身男性が「所帯を持って一人前」と言われていたのは、幼い子供など弱者に対する日々の思いやりの蓄積による人間的深みの成長と同時に自分の言動が及ぼす影響に対する責任感が言動を慎重にさせる面があったでしょう。
近隣や顧客関係と違って、儒教道徳下の臣従の場合は、命まで捧げる特殊な契約?なのでやめる権利がない・実施したかどうかは別として幕末頃には理念的には脱藩は死罪という・極端なパターン・・「君君たらざるも臣臣たらざるベカラズ」刃向かう権利もないという、特殊道徳の教育理解でやってきました。
ただし徳川体制の思想的基盤を固めた林羅山が敷衍した儒教道徳は、彼独特の創作に係るものであった可能性がありますが、ともかく日本人はこれに従い受け入れてきたのです。
民間でも一旦正規従業員になれば、一時的に売れ行きが落ちて競合他社より給与が低くなっても、挽回盛り返せるように皆で頑張ってくれるのが従業員という意識が一般的に濃厚でしょう。
これに対してメール着信に応じて数時間だけ配車サービスする人の場合、少しでも単価の良い方のメールに応じる簡単な関係です。
自分の会社、お店意識を共有するようになる方が改良努力もしてくれるのですが、明治政府は国民は皆日本国家事業体の従業員だと言えば、外国との競争に頑張ってくれると思ったからでしょうか?
現在でもこの精神が濃厚なせいか?国民=臣民の図式がダメになっても国家公務員はまさに国家の直接の従業員なのだから、国家の外側の民間の従業員とは違うという面を強調したいのではないでしょうか?
民間も含めて皆「臣民」だったのを民間だけ止む無く切り離したという仕方ナシの論理のようです。
憲法上でもいまだに総理大臣と内閣を構成する大臣と大臣に任命される省庁の公務員という建てつけであることを見てきました。
国家公務員には各種労働法の適用がないし、地方公務員もほぼ同様であることを1月9日に紹介しました。
なぜ適用がないかについては、その代わり人事院で公正な給与計算をしているし安全管理も監督官庁の方が厳しいからその必要がないという意見があるでしょうが、事務職の場合、同じ職務内容なのに民間と国家等で待遇が違うのはおかしいという批判に耐えるためにそういう制度を作って糊塗しているだけであって、違いの生じた原因ではないでしょう。
このように待遇だけが信頼関係の基礎ではないので、国家公務員には、特殊な御恩と奉公の古い意識の温存を期待するものがありそうです。
企業でも会社側の労働者・・管理職には、争議権がありません。
その視点で見れば、官は国全体から見た場合の管理側の人たち・・民間管理職と共通論理によると思われます。
そもそも国家公務員法は労働条件を定める目的の法ではなく、公務員になる為の資格やその職務や管理体制を法定し、そのついでに待遇も書いている印象です。

国家公務員法
(昭和二十二年法律第百二十号)
第一条 この法律は、国家公務員たる職員について適用すべき各般の根本基準(職員の福祉及び利益を保護するための適切な措置を含む。)を確立し、職員がその職務の遂行に当り、最大の能率を発揮し得るように、民主的な方法で、選択され、且つ、指導さるべきことを定め、以て国民に対し、公務の民主的且つ能率的な運営を保障することを目的とする。
2 この法律は、もつぱら日本国憲法第七十三条にいう官吏に関する事務を掌理する基準を定めるものである。
第六十三条 職員の給与は、別に定める法律に基づいてなされ、これに基づかずには、いかなる金銭又は有価物も支給することはできない。
(俸給表)
第六十四条 前条に規定する法律(以下「給与に関する法律」という。)には、俸給表が規定されなければならない。
○2 俸給表は、生計費、民間における賃金その他人事院の決定する適当な事情を考慮して定められ、かつ、等級ごとに明確な俸給額の幅を定めていなければならない。
(給与に関する法律に定めるべき事項)
第六十五条 給与に関する法律には、前条の俸給表のほか、次に掲げる事項が規定されなければならない。
一 初任給、昇給その他の俸給の決定の基準に関する事項
二 官職又は勤務の特殊性を考慮して支給する給与に関する事項
三 親族の扶養その他職員の生計の事情を考慮して支給する給与に関する事項
四 地域の事情を考慮して支給する給与に関する事項
五 時間外勤務、夜間勤務及び休日勤務に対する給与に関する事項
六 一定の期間における勤務の状況を考慮して年末等に特別に支給する給与に関する事項
七 常時勤務を要しない官職を占める職員の給与に関する事項
○2 前項第一号の基準は、勤続期間、勤務能率その他勤務に関する諸要件を考慮して定められるものとする。

神は民族利益を超越したか?

法律相談者が、裁判の「勝ち負けに関係なく相手を裁判の場に引きずり出したい」と言い張る人がたまにいますが、こういう人は、神の審判・・御稜威をもらいたいという自然の声に導かれているのかもしれません。
あるいは野党系弁護士が、政治主張が通らない分野で、何かと訴訟を仕掛けるのは同じような信念があるのかもしれません。
しかし彼らは、負けると決まったように「不当判決」の看板を用意しているのはツヤ消しです。
神の意を求めたならば、勝った時だけ神の意を得たかのように騒ぎ、負けると判決をこき下ろすのではなく潔く結果を受け入れるべきでしょう。
孝謙天皇と弓削道鏡の世俗権力の結束がいかに強かろうとも、一たび宇佐八幡の御神託が降ればこれに従うしかない・・権力構造をひっくり返したのが民族精神です。
グローバル化しても異邦人(根っからの日本文化に浸った人以外)にはこうした精神土壌は理解不能でしょうし、これがゴーン氏の日本脱出劇につながったかもしれません。
彼にしてみればイスラム法で裁かれるなら結果を受け入れられるが、日本の「神」に裁かれるのは嫌だということでしょうが、「自民族の法が優れている」という理由で特定国に対する治外法権主張が許されないのが、国際社会の常識です。
「郷に入りては郷に従え」という日本古来の法が現在国際法の基本原理です。
この程度のことは高校生でも大方知っている法原理でしょうが、ゴーン氏が日本の法制度に従いたくなければ日本に入国しなければいいのであって、日本で経済活動しながら日本法を批判さえすれば日本法の適用を免れられると思い込んでいるとすれば、子供レベルの法常識もないことを満天下に晒したことになるでしょう。
フランスやレバノン政府が、日本の法制度は野蛮であるから自国民が日本で法を犯しても日本の裁判制度によって裁くのを許さないと言えるのでしょうか?
大和朝廷の神(天照大神系)は当初侵略者であり征服者の正当性を主張する一方的論理だったかもしれませんが、多数の土着神を抱え込んで行くうちにいつのまにか日本列島の支配的精神である「天壌無窮ノ宏謨ニ循ヒ」神の御心のままに行動すれば自ずと神の道に連なるというモラルを体得し得た神に昇華できたようです。

大日本帝国憲法
告文
皇朕レ謹ミ畏ミ
皇祖
皇宗ノ神霊ニ誥ケ白サク皇朕レ天壌無窮ノ宏謨ニ循ヒ惟神ノ宝祚ヲ承継シ旧図ヲ保持シテ敢テ失墜スルコト無シ顧ミルニ世局ノ進運ニ膺リ人文ノ発達ニ随ヒ宜ク
皇祖・・・以下略

以上は大日本帝国憲法の告文の精神であり、独りよがりに過ぎないと冷笑する方もいるでしょう。
これは日本書紀に始まる神話の継承をことさら強調している大日本帝国憲法の絵空事に過ぎないとも言えますが、日本民族が連綿と継承してきた精神の文字による再確認だったとも言えます。
どちらが正しいかは不明ですが、私個人の印象的意見では日本の神様は各地土着の神を大事にしてきた歴史によって結果的に特定部族宗派の利害に偏らず公平無私の神様に昇華してきたように見えます。
この点キリスト教であれイスラム教であれ、存立基盤民族の生存をかけた戦いの旗印的役割が今尚強すぎることから、(キリストやイスラム教徒には不愉快な意見かもしれませんが・・)異教徒排撃精神が強いすぎる?点で真のグローバル宗教に昇華・脱皮できていないように見えます。
我々弁護士は一方の立場での勝利を目指して依頼者のために戦うのですが、それでも背後にある正義の基準を背負ってその限度で戦う精神が濃厚ですし、その点で弁護「士」であってアメリカ的弁護「屋」ではないという誇りを持って生きてきました。
最近、この基準に反するのではないかが弁護士倫理として厳しく問われるようになりつつあります。
アメリカでは民族人種対立的事件の裁判では、各民族から日系裁判官の裁判を希望する比率が高いと言われるようです。(正確な統計に基づくは不明)
そして「官」とは、この正義感に裏打ちされた職責・・「職を賭しても正義を守る気概を保持する人」をいうように精神面からは考えられます。
ちょっと横にそれましたが、大臣と官と一般公務員との関係に戻します。
日本国憲法は国民主権を謳っているものの一方では、各省大臣は天皇に「任命」された総理大臣(太政官)が任命し、その認証を天皇から受けた大臣が補助者・官僚を任命するという天皇の臣下系列の一貫的残存です。
平安時代にも摂関家・太政大臣の意向で左右大臣以下の人事(叙任)は決まっていたので、(平安末期に清盛が太政大臣になっていた時に源頼政の嘆きの歌を知って、官位をすぐに従三位に引きあげた故事を紹介しました)総理が各大臣を任命できて天皇がそれを認証するだけになったと言っても古代の天皇と実質はほぼ同じです。
現憲法と蘇我氏や摂関時代との違いは、太政大臣に当たる総理を民意で決めるところだけでしょうが、国民主権国家かどうかの原理では、そこにこそ重大な意味があり、それさえしっかり決まっていれば問題がないと言うことで、妥協が成立し日本国憲法は成立したと見るべきでしょうか。
今の日本では神の声=民意でしょう。
神の声=人類共通の人倫とすれば即ち法であり、世俗的表現をすれば価値観共有外交となるのでしょうか?
世界中で子供の頃から日本価値観を基本とするアニメ等に親しんで育ってきた世代が3〜40歳台になろうとしている状態です。
世界的に見れば世界で日本価値観を全面否定したい勢力は、国家民族的には韓国政府と韓国国民に限定されているようですし、ゴーン氏はこれに乗っかって日本の法制度=価値観を正面切って否定しようとしているようですが、上記国際的信用を背景に安倍政権が国際政治上築きあげた日本の国際的地位を理解できない無謀な主張のように見えますが・・。
さて、どこかの政府がゴーン氏の主張に理解を示すことができるのでしょうか?
と書いていたところ、フランス大統領マクロン氏が、ついに〇〇の突き上げに我慢しきれなくなくなったのか?日本の拘留や取り調べについて安倍総理との会談の際に?苦言を述べたことがあるとの言い訳がニュースに出てきました。
今は裁判中で拘留されていないし、取り調べも受けていないので、拘留が長く自白強要の危険があるとしても、それとゴーン氏が自白していないならば、今になって逃亡する必要がないし、拘留中にもしも自白していたとすればその効力を裁判で否定すればいいことで、国外に逃げだす必要がないので国外逃亡の正当化と関係ないことです。
論理関係のないことをマスメデイアは大きく報じていますが、流石に自国と制度が違うからといって日本での裁きを受けなくても良いとまでマクロン氏は言えないようです。

安倍首相に改善要請「何度も」=ゴーン被告処遇めぐり―仏大統領


【パリ時事】フランスのマクロン大統領は15日、レバノンへ逃亡中の日産自動車の前会長カルロス・ゴーン被告に関し、「勾留や取り調べ中の状況は満足できるものではないと思うと安倍(晋三)首相に何度も伝えた」と語り、処遇の改善を要請していたことを明らかにした。新年の記者会見で質問に答えた。
マクロン氏は「全てのフランス国民が、彼らの享受すべき公平さをもって扱われることを願う」と強調。一方でゴーン被告の逃亡については「コメントすることはない」と述べるにとどめた。

大臣・官と公僕思想の両立?

ここで本来のテーマ・公僕と臣・官の関係に戻ります。
現憲法では国家公務員は国民全体の公僕であって天皇の臣や官ではなくなったように思ってきたのですが、憲法に大臣や官名を残した以上、「大臣や官名のある公務員に限っては、戦後も天皇の臣であり官僚は臣下である大臣の任命する官である」と言うDNAを残した印象になります。
国民主権や法の下の平等原理と天皇の存在は一見矛盾するものの、憲法が天皇制度を残した以上は、その限度で憲法違反にならないというのと同じ解釈をすべきでしょうか?
ちなみに大臣とは大和朝廷始まって以来いつの頃からか不明なほど古くから、「おおまえつぎみ」だったかの万葉カナで表記される地位でこれに「大臣」という漢字を当てるようになっていたようで由来がはっきりしないほど古くからの地位です。
神話段階ですが、武内宿禰が初代の大臣でその後ウイキペデイアヤマト王権の大臣によると以下の通りです。

武内宿禰の後裔を称する葛城氏(かつらぎし)、平群氏(へぐりし)、巨勢氏(こせし)、蘇我氏(そがし)などの有力氏族出身者が大臣となった。

と言われます。
(神話)以来、天皇の代変わりごとに天皇によって親任される臣下トップの地位であり続け、代々(よよ)を経て蘇我馬子など蘇我氏の特別な地位に連動して行ったようです。
600年頃に冠位12階を定めた時も蘇我氏は冠位12階の埒外・・誰を冠位(のちの官位?)12階の冠位に就けるかの人事権は大臣である蘇我氏と皇族トップの聖徳太子の連名で行なっていたと言われ、皇族と大臣蘇我氏とは、冠位12階に優越する地位だったと言われています。
大臣は天皇の臣に官位を授ける実質的権限者だったようです。
冠位12階に関するウイキペデイアの解説によれば、以下の通りです。

冠位を与える形式的な授与者は天皇である[11]。誰に冠位を授けるかを決める人事権者は、制定時には厩戸皇子と蘇我馬子の二人であったと考えられている。
学説としては、かつて冠位十二階はもっぱら摂政・皇太子の聖徳太子(厩戸皇子)の業績であるとみなされていたが[12]、後には大臣である蘇我馬子の関与が大きく認められるようになった。学者により厩戸皇子の主導権をどの程度認めるかに違いがあるが、両者の共同とする学者が多い[13]。
馬子とその子で大臣を継いだ蝦夷、さらにその子の入鹿の冠位は伝えられない。
馬子・蝦夷・入鹿は冠位を与える側であって、与えられる側ではなかった。厩戸皇子等の皇族も同じ意味で冠位の対象ではなかった[15]。

ということで、蘇我氏・聖徳太子(実存したとすれば)の時代には、大臣は官吏の任免や格付け等の権限を持つものだったようです。
蘇我氏が専横だったから乙巳の変が起きたかのように習いますが、いつの時代でも・・その後もいわゆる除目は天皇が一人考えて実施したのではなく、太政大臣等の時の実力者の専権事項だったでしょう。
それが今につながりますが、明治憲法以降は平安時代と違い大臣が増えて内閣の仕事が増えたので太政大臣が全て決めるのではなく、国家公務員の採用・任免権者は原則(人事院、会計検査院等の例外がありますが)として各省大臣となり所管事務職限定の任命権となっています。
いずれにせよ人事権は大臣にある点は、蘇我氏や藤原氏が大臣として事実上百官(といっても当時の規模は知れていましたので)の官位を定めていたのと同じです。

国家公務員法(昭和二十二年法律第百二十号)
(任命権者)
第五十五条 任命権は、法律に別段の定めのある場合を除いては、内閣、各大臣(内閣総理大臣及び各省大臣をいう。以下同じ。)、会計検査院長及び人事院総裁並びに宮内庁長官及び各外局の長に属するものとする。これらの機関の長の有する任命権は、その部内の機関に属する官職に限られ、内閣の有する任命権は、その直属する機関(内閣府を除く。)に属する官職に限られる。ただし、外局の長(国家行政組織法第七条第五項に規定する実施庁以外の庁にあつては、外局の幹部職)に対する任命権は、各大臣に属する。

上記の通り、大臣は冠位12階以前の大昔から現在に至るまで官吏の任命権者です。
法制度は政治権力闘争と妥協の結果であることは、国会運営を見ればわかる通りですし、現憲法制定過程も、大戦後の余韻下でのGHQと日本側との政治力学で決まったものですから、あちこちに妥協の産物・矛盾が残っていてもおかしくないでしょう。
国民主権は認めるが、民意によって選ばれる政治家トップは天皇の「大臣」であり、その大臣が官吏任免権を持つという形式的な組織関係だけは残したいという政治交渉が成立したのでしょう。
国民主権国家になっても、それと国民意識は違う・・天皇直属の官僚は天皇の臣であるという意識/誇りを残す狙いがあったのでしょうか。
日本国憲法では、総理は国会での使命に基づくものの、総理と最高裁長官だけは天皇の直接任命制としているのは、明治維新直後の二官八省制度・・神祇官と太政官の二官だけ天皇の直接任命・親任制度と外観が似ています。
太政官は今の総理大臣に該当し、神祇官は、神の裁き=最高裁長官に擬することがこじつけて的・・法律論でなく妄想的推論が可能です。
裁判所はイギリスではキングズベンチと言い、裁判結果は王権・世俗権威の発現ですからその権力を認めない人にとっては弾圧でしかないのですが、日本では「神のみぞ知る」という謙虚な気持ちが今もあり、裁判で決まれば双方不満でも裁判で決まった以上は仕方ないと受け入れる精神土壌です。
福田赳夫元総理が自民党総裁選に敗れた時に「神の声にも変な声がある」という迷言を吐きながらも「神の声」に従ったことがあります。

大臣の各省公務員任命権(忖度)

事務次官党幹部人事は、法的根拠があるか不明ですが、内閣の政治姿勢統一のために?次官〜局長までの幹部については事前閣議了解が必要の慣例?もあるらしく、次官と意見や?ソリが合わなくとも防衛大臣が一存で更迭できないことが、守屋次官と小池大臣との抗争?確執・政治問題に発展したものでした。
ウイキペデイアの記事からです。

新任の小池百合子(防衛大臣)が、守屋の退官と後任に官房長(警察庁出身)を内定した旨の記事が新聞各紙に報道された。これが相談無しに行われたとして、守屋は反発。騒動の際、小池は守屋の対応に対し「夜に二度、携帯電話に電話したが出ず、折り返し電話があったのが翌日朝であり、危機管理上どうなのか」と批判した[8]。守屋は塩崎恭久(内閣官房長官)に根回しをし、塩崎長官が「小池大臣が手順を誤ったやり方をした」と批判した結果、防衛官僚人事が膠着状態となった。最終的に、事態の早期終結を図りたい安倍晋三(総理)が守屋の退官を発表し、小池・守屋双方の推す事務次官候補をそれぞれ退けて、防衛省生え抜きの増田好平(防衛省人事教育局長)を後任に内定した。

数年前の森・加計学園騒動に際してメデイアは事務官僚の忖度を批判していましたが、民間企業であれ公的組織であれ・トップの示す一定の方向性・・トップが基本方針にとどまらず細目まで全部自分で示すのは不可能ですから・・末端はトップの意を体して・・忖度して基本方針に沿うように現場ごとに具体化していくべきものです。
トップの方針が微に入り細に亘って明瞭化していないと意味不明という社員や部下ばかりでは組織が円滑に回りません。
あるいは意見が違うからといちいち反対方向の行動をする・・上司に楯突くような部下が蔓延るようでは、どんな組織でもうまくいくわけがないので、忖度による行動が嫌ならやめるしかないというのが本来でしょう。
トップが職場の整理整頓、お客様に丁寧対応するようにと言っても各店舗でこれをバカにしてまともに掃除をしないとか、ぞんざいな対応であれば直ちに業績に響きます。
このように見ていくと、なぜ官僚だけ上司の意向を忖度することが許されないという批判をするのか合理的説明が必要でしょう。
末端不祥事も末端にとどまらず、トップの政治責任に響き、民間の場合企業業績に響き、トップの経営責任が生じるようになっているのは、忖度を前提としてこそ整合性があります。
忖度があり末端にトップの意向が浸透しているはずだからこそ、直接指示していなくとも結果責任を引き受けるのがトップのありようです。
トップの決意表明と末端社員や官僚が違う行動をした場合、トップの発表は口先だけで本気でないのではないかと国民に批判され、トップの指導力不足が批判されるのもこのせいでしょう。
このように考えると忖度社会が悪いのではなく、忖度によって行われた事務官僚の行為の違法〜不当そのものを論じ、それについて大臣の監督〜忖度的政治責任があるかを論じるべきだった事になります。
メデイアもそれを言いたかったのでしょうが・・。
裁判官のように、組織意思に関係なく裁判官単独で「法と良心」のみに従う仕組みの「官」と違い、行政組織職員の場合、省大臣や長官の最終決断=外部に表明すれば直ちに効力が発生し政治責任が生じるので、発言前に各方面の調査を尽くして補助すべき役割であって自己意見を押し通すべき権能がない黒子の役割です。
末端不祥事があれば担当大臣の政治責任に響き、民間の場合企業業績に響き、トップの経営責任が生じるようになっているのは、忖度を前提としてこそ整合性があります。
忖度があり末端に大臣の意向が浸透しているはず・べきだからこそ、直接指示していなくとも結果責任を引き受けるのがトップのありようです。
トップの決意表明と末端社員や官僚が違う行動をした場合、トップの発表は口先だけで本気でないのではないかと国民に批判され、トップの指導力不足が批判されるのもこのせいでしょう。
各省職員はトップの最終決断に従いその実行役を担う役割の結果、現に実行した場合の進捗具合や実行して初めてわかる制度設計の不具合や大臣決断に対する現場や施策対象となる関連国民の反応等々の情報を整理して(大臣意向関心にとって有利不利双方を)報告するべきですから、そのためには大臣の政策実現に対する本音・意向を知ることが重要です。
とはいえ、直に下位のものが上位者に対して国民の抵抗がどの程度あってもやる気があるのか質問するのは不躾で無礼ですので、高度な政治判断が奈辺にあるかは忖度するのが合理的で望ましいものです。
ちなみに質問とは、上位者が下位者に「問い質す」ことであって、下位者が上位者に質問するものではありません。
上位者の意向を知りたい時には質問ではなく、お伺いをたてるのですが、「伺い」は「窺う」に通じる意味で気配を感じとる意味を含み下位者の職分でしょう。
ご機嫌伺いとも言い、年賀状などで「お元気ですか?」という問いかけが今でもよく使われますが、日本社会では対等者間でも直接的問いかけをしないのが礼儀で、会話の最初は「今日は良い天気で・・」など婉曲的表現から始まるのが普通です。
さらに言うと「臣」とは、目下の者が目を見開いて上を窺うさまの象形文字らしいですが、特に日本の場合椅子形式でなかったので貴人に御目通りするとき臣下は平服して上段の間にいる主君の表情・発言のニュアンス、前後の雰囲気などを必死に「窺う」能力が欠かせません。
部下は上司一人の気配を感じとれば良いのですが、指導者の方は、一度に多くの部下や聴衆を相手にするので大勢の空気を読む能力が庶民の何倍も必要です。
武家社会で言えば主君としては平服している家臣の表情が見えないし、陪席する他の家臣らもむやみに発言しないのでそれらの意向もわかりにくいので、その場の空気を瞬時に読み取る能力が求められます。
忖度、様子を窺うなどによる気配値?感得能力は、組織あるところ情報交換に必須ではないでしょうか?
国家間で首脳会談や企業トップ間の直接対話の重要性・・言語・文字化できる表現に現れない奥深い意味・信頼関係などを構築するために必須とされているのです。
組織内意思疎通も言語化されたものだけでは足りないことは当然です。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。