自由民権運動の系譜1

たとえば、板垣退助に対する批判論では以下に紹介するようなものがあります。
板垣に関するウイキペデイアの中に紹介されている板垣に対する評価です。

小説家の海音寺潮五郎や司馬遼太郎は「板垣は政治家より軍人に向いていて、ただ板垣の功績経歴から軍人にすると西郷隆盛の次で山縣有朋の上ぐらいには置かないといけないが、土佐藩にそこまでの勢力がなかったので政治家にされた」と述べている[22]
尾崎咢堂  「猛烈な感情と透徹せる理性と、ほとんど両立し難い二つの性質を同時に持っていた
谷干城  「板垣という男は困ったもんぢゃ。学問がないから人騒がせしたり大言する。人間は根本の学問が第一ぢゃ。フランス流の自由がなんぢゃ。口を開けばルソオの民約論に何と書いてあるという。実際読みもせずに偉そうにしゃべるとは一体あれや何ぢゃ?俺はあんな演説を聞くと胸糞が悪くなる」[18]

谷干城とは板垣と同郷の士で、儒家の生まれで25歳で藩校の史学助教授となっている外、西南戦争では西郷軍の猛攻に対して寡兵よく熊本城を死守したことで知られている有能な軍人であり学習院長にもなっている教育者であり政治家です。
日本の革新系野党が空理空論に走る傾向があるのは、メデイア受けのよかった板垣の運動体の系譜を引く、企業経験や地方政治等の実務経験がないグループの弱点でしょう。
明治に戻れば板垣と大隈の違いでしょうか?
大隈重信は維新当時佐賀藩内の地方的人材で維新の英傑ではありませんでしたが、幕府崩壊による長崎奉行の仕事を佐賀藩が穴埋め的に担当したことで長崎で外交手腕を発揮し、中央から赴任した井上馨の目に止まり中央での活躍の場が与えられるとその都度外交手腕を発揮していた外、内政においても、何かある都度原則にとらわられず手腕を発揮して中央政界中枢に参画して行った経歴で実務能力に秀でた人材のようでした。
年末の給与支払いに困って旧来の太陰暦から太陽暦系に切り替えた大隈の蛮勇が有名ですが、その他混乱期に特定資金を状況によっては別の資金に振り向けて難局を切り抜けるなど柔軟性に富んだ人材だったようです。
大隈は14年政変での下野をチャンスに政党を結成したことによりその後の政治基盤を確保できて政治力を長続きせる方向に利用するなど(その後下野すると早稲田大学創立するなども含めて)社会変化に対応して生き抜く力の強い人でした。
板垣系・自由民権運動系はその後大隈と連立していわゆる「隈板内閣」として連立政権を組みましたが、利害調性的実務経験がない結果か?利害調整に最も遠い内相担当になって板垣の声望を一気に落としました。
「板垣死すとも自由は死せず」をもじって宮武外骨の『滑稽新聞』は、「自由は死んだのに板垣は生きている」と揶揄したとも書いています。
板垣系の真骨頂は啓蒙「運動」と政府批判することにあって国会開設後は目的を達したので隠居すべきだったと思われます。
最近流行語では発展的解消といって名称変更で組織存続することが多い・・民意実現を見届けるかのように政界に未練を残した・引退した社長が後継社長を監督したがるようなもので、却って恥を晒したことになります。
以後自由民権運動系・・メデイアを含めて各種運動体は実務政治能力がない不満分子の運動体というイメージが定着して行きます。
日露戦争の講和反対の大騒動や戦後のサンフランシスコ講和反対、日米安保反対等々、多くは現実無視の反対論でした。
これを賞賛する現在メデイア〜革新系野党は実務経験より空理空論というか、理念(と言えるかな?)重視傾向・要するに「運動」すること自体に生きがいを求める人たちになっていきます。
自由民権系は、国会で政治を決める民主主義というスローガンが達成された後は、どのような政策が良いかの政治テーマを提供できず、達成後は「民主主義を守れ」と言う運動体でしかなくなったようです。
戦前はまだ民選議会が完全でないと批判していれば良かったのですが、理想とする米国肝いりの現行憲法ができるとこれを守ることが自己目的化していき、平和憲法と民主主義を守るためには改憲反対・情報公開が必要という一点?集中になってきました。
情報公開の必要性も(産業機密を筆頭に)程度問題であることは世界の常識ですし、平和を守るためには一定の自衛力が必須であることも常識ですが、こういう具体論になると口をつぐみ議論に応じません。
政府は総合的に政策実現の責務があるので、情報公開さえすれば、外交や安全保障、経済政策その他万般の重要政策について関心がありませんというのでは責任政党とは言えないでしょう。
結局政権獲得を目的とせずに、反対運動することに意義があるかのように自己目的化していき、どういうデモを組織し、どれだけの人数がデモに参加したかが強調ネタを求める人たちに特化して継承されてきたようです。
自由民権系の弱点は実務・政治力の源泉である調整能力不足ですが、この閉塞打破のためにマイノリティ=社会の少数派・主に弱者に着目して社会の陰に埋もれていくマイノリティーに光をあてることに活路を求めるしかないようです。
マイノリティーに光をあてるのは映画等の芸術のテーマにすることは意味がありますが、政党がそれを主看板にするとマイノリティ支持者中心に限定されていくようになります。
例えば医療全般の予算を増やせという場合と特定疾患者を救済のための運動とでは支持母体の規模が違ってきます。
トマト特化、ワイン用ブドウ農家特化で利権を求めるより野菜・果実全般で政治活動する方が支持母体が大きくなるように、何かに特化すれば利害調整能力不要で一致しやすい代わりに、支持母体が小さく影響力が小さくなる関係です。
大きな組織・・野菜だけでなく農産物業界全部あるいは、食品業界全部と広げれば政治力が大きくなる代わりに今度は内部調整力が必要です。
政治というものは利害プラス同情心.正義感等で動くものとすれば、lGBT運動その他マイノリティ支援に特化すればするほど政党支持率は下がるしかない理屈です。
物事はバランスで成り立っています。
映画や芸術で「弱者を忘れないで!とアッピールする程度で意味がありますが、これに特化した政党が仮に政権政党になった場合、政権運営するには無理があります。
マイノリティー保護・生活保護基準を上げろ、母子家庭保護、保育所増設.最低賃金を引き上げろ式の主張・・バラマキ型の政党が、政権担当するとその資金をどうするか・どこかの予算を削るしかない・総合調整能力の現実にすぐ直面します。

14年政変→大隈重信下野

14年政変による大隈重信の下野と政権内復帰・・下野=反乱図式がなくなった流れの事例に戻ります。
大隈重信に関するウイキペデイアの記述からです。

立憲改進党の設立[編集]
野に下った大隈は、辞職した河野、小野梓、尾崎行雄、犬養毅、矢野文雄らと協力し、10年後の国会開設に備え、明治15年(1882年)3月には立憲改進党を結成、その党首となった。また10月21日には、小野梓や高田早苗らと「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を謳って東京専門学校(現・早稲田大学)を、北門義塾があった東京郊外(当時)の早稲田に開設した[57]。しかし党首としての大隈は、演説をすることもなく、意見を新聞等で公表することもしなかった[58]。明治17年(1884年)の立憲改進党の解党問題の際に河野敏鎌らとともに改進党を一旦離党している[59]。明治20年(1887年)、伯爵に叙され、12月には正三位にのぼっている[60]
明治20年(1887年)8月、条約改正交渉で行き詰まった井上馨外務大臣は辞意を示し、後任として大隈を推薦した[61]。伊藤は大隈と接触し、外務大臣に復帰するかどうか交渉したが、大隈が外務省員を大隈の要望に沿うよう要求したため、交渉はなかなか進まなかった[59]。明治21年(1888年)2月より大隈は外務大臣に就任した[62]。このとき、外相秘書官に抜擢したのが加藤高明である[62]。 また河野、佐野を枢密顧問官として復帰させ、前島密を逓信次官、北畠治房を東京控訴院検事長に就任させている[6

明治14年「国会開設の詔」に関するウイキペデイア引用です。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
原文(原文では句読点がないため、適宜、句読点を挿入している)

朕祖宗二千五百有餘年ノ鴻緖ヲ嗣キ、中古紐ヲ解クノ乾綱ヲ振張シ、大政ノ統一ヲ總攬シ、又夙ニ立憲ノ政體ヲ建テ、後世子孫繼クヘキノ業ヲ爲サンコトヲ期ス。嚮ニ明治八年ニ、元老院ヲ設ケ、十一年ニ、府縣會ヲ開カシム。此レ皆漸次基ヲ創メ、序ニ循テ步ヲ進ムルノ道ニ由ルニ非サルハ莫シ。爾有衆、亦朕カ心ヲ諒トセン。
顧ミルニ、立國ノ體國各宜キヲ殊ニス。非常ノ事業實ニ輕擧ニ便ナラス。我祖我宗、照臨シテ上ニ在リ、遺烈ヲ揚ケ、洪模ヲ弘メ、古今ヲ變通シ、斷シテ之ヲ行フ、責朕カ躬ニ在リ。將ニ明治二十三年ヲ期シ、議員ヲ召シ、國會ヲ開キ、以テ朕カ初志ヲ成サントス。今在廷臣僚ニ命シ、假スニ時日ヲ以テシ、經畫ノ責ニ當ラシム。其組織權限ニ至テハ、朕親ラ衷ヲ栽シ、時ニ及テ公布スル所アラントス。
朕惟フニ、人心進ムニ偏シテ、時會速ナルヲ競フ。浮言相動カシ、竟ニ大計ヲ遺ル。是レ宜シク今ニ及テ、謨訓ヲ明徴シ、以テ朝野臣民ニ公示スヘシ。若シ仍ホ故サラニ躁急ヲ爭ヒ、事變ヲ煽シ、國安ヲ害スル者アラハ、處スルニ國典ヲ以テスヘシ。特ニ茲ニ言明シ爾有衆ニ諭ス。
奉勅   太政大臣三條實美
明治十四年十月十二日

以上のように地方議会を先に開設して地方から議論の経験を積んでいくなど着実に国会開設の準備が進むにつれて不満があれば言論活動で・という動きが加速していき、実力行動が影を潜めていきます。
こういう面では板垣による自由民権運動の啓蒙的役割が大きかったと思われますし、「有司専制」を排し、庶民に政治参加経験させれば民度が上がるという板垣らの主張を政府を取り入れて板垣の言うようないきなり国会経験でなく地方議会を設立してそこで議論経験から人材を育てるという着実な運用をしてきたことが上記「国会開設の詔」の

「嚮ニ明治八年ニ、元老院ヲ設ケ、十一年ニ、府縣會ヲ開カシム。此レ皆漸次基ヲ創メ、序ニ循テ步ヲ進ムルノ道ニ由ルニ非サルハ莫シ。爾有衆、亦朕カ心ヲ諒トセン。」

によって分かります。
昭和の頃には地元政治経験・現場を経て・市町村〜県会→国会→派閥領袖に成長後国家基本を論じるパターンができていました。
現在の菅官房長官も地方議会出身ですし自民党元幹事長の野中努氏もそうでした。
企業で言えば若手の頃には営業現場や地方(今では海外子会社も含む)経験を積ませその実務経験をもとに本社企画部等に抜擢されて最後は社長になるパターンが多く見られるのと同じです。
地方議会もない社会でいきなり国会だけ作っても空理空論の激突しかないので明治政府は発足直後から廃藩置県に始まり地方制度創設、村〜郡単位の地元民の意思決定経験〜日常決定参加から始めて行ったようです。
こうして着実に国民に政治経験を積ませた上で、明治23年に帝国議会開設になるのですが、自由民権運動は国会開設にこぎつけたことで国民啓蒙的運動としては目的を達したので本来の使命は終わったことになります。
コストカッターとしてのゴーン氏はリストラ成功で役割が終わったことになるのと同じです。
住宅公団が戦後住宅不足対応の役割を終えたのに、都市整備公団という名に変えて生き残ろうとしているものの、都市整備?この数十年何をしているのか不明・・を批判したことがあります。
日本も民選議員が必要という西洋の聞きかじりを吹聴する程度でも明治維新当時はそれでも新知識だったでしょうが、大久保らが数十年も行ってきた啓蒙運動の成果でそういう制度がある程度のことは誰でも知るようになり、具体的にどう運用するかの実用段階に入ると草分けを自慢しても時代遅れになります。
実務運用・「罵り合いではなく対話が必要」という書物の受け売りではなく、自分が対話力があるかは別です。
政治家と評論家とでは能力の方向が違います。

任命の効力4→下野と謀反

立憲政体・憲法制定準備進行過程で、北海道開拓庁汚職?問題で追求し過ぎたこともあって、明治14年の政変で大隈重信が一時野に下りましたが、明治6年当時と違って政権も下野した方もスマートになり、野に下る→謀反人扱いでなく官職辞職した程度の扱いですぐに閣僚に復帰しています。
こうしてみると下野=反乱へ結びついた支持母体の地域は全体に民度が低かったのかな?という憶測につながります。
不平士族の乱が起きたのは主に明治新政府を構成した薩長土肥の主流プラス準主流(佐賀)の地域中心であった点が特徴です。
幕末騒乱で戦勝国=準戦勝国になりながら政権運営で意見相違を理由に下野するとすぐに反乱に転嫁したのは同じ地域出身でも頑迷派と柔軟・進取派が倒幕では一致行動していたものの倒幕成功してみると同床異夢だった違い(廃藩置県等の改革が進むと島津久光が不満だったことが知られています)が出たのでしょう。
昨日から板垣の身の振り方が気になっていますが、出身地の土佐藩はもともと幕末政争で中立的であった分公平な見方が身についていたと思われます。
権力闘争目的で幕末騒乱に参加していたのではなかったのです。
この辺は同じ土佐出身坂本龍馬が、暗殺目的で勝海舟を訪問して逆に説得されて開国派に転じたように板垣も上海に連れて行かれて欧米海軍力を目の当たりに見て、攘夷論の無謀さを知るようになったのと同じです。
要するに政権奪取が目的ではなく日本をどうすべきかの、愛国心だけで動いていたのが土佐藩だったように見えます。
このためには旧来の幕藩体制では対応できない・・下からの民度アップが重要という欧米思想を信じていたように見えます。
この点で旧来型の延長である藩主の大政奉還論・諸侯会議→徳川家主導妥協案には反対していたようですし、この点で薩摩らの倒幕に組みしたことになります。
土佐勤王等の本旨は維新政府の五箇条御誓文の精神だったので「これを守れ」いうことにあったようです。
板垣や土佐出身者の下野は薩長の派閥政治に参加できない不満でなく、「万機公論にて決すべき」という旗印で頑張ったのに薩長の独裁政権になっていくのは約束が違う・・という不満だったので、薩長内の久光的古代発想・守旧派・時代錯誤的・・江戸時代よりもっと前の王朝時代の政治に戻すべきという主張とは方向が真逆だったのです。
板垣ら(後藤象二郎など土佐出身が参加するなど)の政治理念は下野後わずか数ヶ月で提出した明治7年の民選議会設立建白書に明白に出ています。
要は五箇条の御誓文の精神を守れ、有司専制(薩長・大久保の独裁批判)はけしからんというものを骨子とするものです。
だから大阪会議に合意したという意味で請われて参議に復帰しても、自分はあくまで在野にあって民選化の定着を見届けたいという固い意思で・・政争で負けたわけでもないのに自分から辞職して在野を育てるための自由民権運動に特化していきます。
数人で企業を起こして成功して大規模化していく過程で路線違いが大きくなり分裂することが多々あるのと同じです。
建白書原文(要旨)を見ておきます。
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/shukenshi027.pdf/$File/shukenshi027.pdf

【民撰議院設立建白書】(抄) 【前略】
明治七年一月十七日
高知県貫属士族  古 沢 迂 郎
高知県貫属士族  岡 本 健 三 郎
名東県貫属士族  小 室 信 夫
敦賀県貫属士族  由 利 公 正
佐賀県貫属士族  江 藤 新 平
高知県貫属士族  板 垣 退 助
東京府貫属士族  後 藤 象 二 郎
佐賀県貫属士族  副 島 種 臣

左 院 御 中
臣等伏して方今政権の帰する所を察するに、上帝室に在らず、下人民に在らず、而独有司に帰す、夫有司上 帝室を尊ぶと曰はざるには非ず而帝室漸く其尊栄を失ふ、下人民を保つと云はざるにはあらず、而政令百端、朝 出暮改、政刑情実に成り、賞罰愛憎に出づ、言路壅蔽、困苦告るなし。
夫如是にして天下の治安ならん事を欲 す、三尺の童子も猶其不可なるを知る。

困仍改めず、恐くは国家土崩の勢を致さん。臣等愛国の情自ら已む能は ず、即ち之を振救するの道を講求するに、唯天下の公議を張るに在る而已。
天下の公議を張るは、民撰議院を立 るに在る而己。則有司の権限る所あつて、而して上下其安全幸福を受る者あらん。請遂に之を陳ぜん。
夫れ人民政府に対して租税を払ふの義務ある者は、乃其政府の事を与知可否するの権理を有す。是天下の通 論にして、復喋々臣等の之を贅言するを待ざる者なり。
故に臣等竊に願ふ、有司亦是大理に抗抵せざらん事を。
今民撰議院を立るの議を拒む者曰、我民不学無智、未だ開明の域に進まず、故に今日民撰議院を立る尚応さに 早かる可しと。
臣等以為らく、若果して真に其謂ふ所の如き乎、則之をして学且智、而して急に開明の域に進ましむるの道、即民撰議院を立るに在り。
何となれば則、今日我人民をして学且智に、開明の域に進ましめんとす、先 其通義権理を保護せしめ、之をして自尊自重、天下と憂楽を共にするの気象を起さしめんとするは、之をして天下の事に与らしむるに在り。
如是して人民其固陋に安じ、不学無智自から甘んずる者未だ之有らざるなり。
而して今 其自ら学且智にして自其開明の域に入るを待つ、是殆んど百年河清を待つの類なり。
甚しきは則今遽かに議院を 立るは、是れ天下の愚を集むるに過ざる耳と謂ふに至る。噫何自傲るの太甚しく、而して其人民を視るの蔑如たるや。
有司中智功固り人に過ぐる者あらん、然れ共安んぞ学問有識の人、世復諸人に過ぐる者あらざるを知らん や。蓋し天下の人如是く蔑視す可らざる也。
若し将た蔑視す可き者とせば有司亦其中の一人ならずや。然らば則 均しく是れ不学無識なり、僅々有司の専裁と、人民の輿論公議を張ると、其賢愚不肖果して如何ぞや。
臣等謂ふ、有司の智亦、之を維新以前に視る、必ず其進し者ならん、何となれば則、人間に智識なる者は、必ず之を用るに従て進む者なればなり
>故に曰、民撰議院を立つ、是即人民をして学且智に、而して急に開明の域に進ましむるの道なりと。
【略】             (文は縦書、片仮名旧字体)

上記のうち以下の節は「有司専制」批判として有名な部分ですが、今も役に立つ卓見です。
「甚しきは則今遽かに議院を立るは、是れ天下の愚を集むるに過ざる耳と謂ふに至る。噫何自傲るの太甚しく、而して其人民を視るの蔑如たるや。・・何となれば則、人間に智識なる者は、必ず之を用るに従て進む者なればなり」

公務員任命制3(下野=謀反から在野活動へ)

公務員の任命に戻ります。
ある政権の役人に任命されてもこれに応じないのは、その政権不支持→小田原征伐になったのですが、この逆コース・・脱藩の場合もおなじ意味ですので幕末までは原則として(中期以降は建前だけ)死罪扱いでした。
脱藩に関するウイキペデイアの引用です。
戦国時代では、主君を変える行為は一般的に発生していたが、江戸時代に入ると、臣下の身で主を見限るものとして、許されない風潮が高まり、追手が放たれることもあった。これは、脱藩者を通じて軍事機密や御家騒動などが表沙汰になり、藩(藩主:大名)にとっては致命的な改易が頻繁に生じたことも一因であった。
しかし、江戸時代中期以降、泰平の時代に入ると軍事機密の意味はなくなり、慢性的な財政難のため、家臣が禄を離れることは枢要な人物でない限り事実上自由になっていた。もっとも、その場合にも法的な手続をとることが要件となっており、これに反して無断で脱藩した場合には欠落の罪として扱われて、家名は断絶・闕所、本人が捕らえられれば場合によっては死刑にされた。
明治に入っても、6年ころまでの有力者の下野は江戸時代の続き・反抗・危険勢力と見なされる社会だったようです。
下野すると各地の不平士族を糾合し反乱の旗印になることが多かったので・・西郷隆盛の場合は、国に帰ってしまうこと自体が事実上謀反準備行為的評価を受けて政府の圧迫誘導によって蜂起せざるを得なくなった・本当は賊軍ではないかのように歴史漫画等では描かれます。
ただし板垣だけは地元不平士族に取り込まれなかった・・いわゆる武断派だったのに反乱軍に担がれる方向に行かず、言論の自由・・民主化運動に特化していったのを見れば、個性人格面が重要ですが、それだけではなくバック・出身母体土佐藩の軍事力・士族勢力が強かった程度差だったかもしれません。
以上は直感的想像ですが小説家は私のような推論をしているようです。
板垣に関するウイキペデイア記載の人物評の一部です。

尾崎咢堂 「猛烈な感情と透徹せる理性と、ほとんど両立し難い二つの性質を同時に持っていた」
谷流水 「子供の時から習字が嫌い、読書が嫌い、物をしんみり考えることが嫌い。好きなのは鶏の喧嘩、犬の喧嘩、武術、それに大人の喧嘩でもあると飯も食わずに見物するというのだから今日このごろだったら中学校の入学試験は落第だね」
小説家の海音寺潮五郎や司馬遼太郎は「板垣は政治家より軍人に向いていて、ただ板垣の功績経歴から軍人にすると西郷隆盛の次で山縣有朋の上ぐらいには置かないといけないが、土佐藩にそこまでの勢力がなかったので政治家にされた」と述べている[22]。

不平士族の乱に関するウイキペデイアの引用です。

明治六年政変で西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らが下野すると士族層に影響を与え、明治政府に反対する士族は「不平士族」と呼ばれた。
1874年に江藤が故郷の佐賀県で擁立されて反乱(佐賀の乱)し、1876年には熊本県で神風連の乱、呼応して福岡県で秋月藩士宮崎車之助を中心とする秋月の乱、10月には山口県で前原一誠らによる萩の乱など反乱が続き、それぞれ鎮圧された。
1877年には旧薩摩藩の士族が中心になり西郷隆盛を大将に擁立して、日本国内では最大規模の内戦となる西南戦争が勃発。西郷隆盛に呼応する形で福岡でも武部小四郎ら旧福岡藩士族により福岡の変が起こった

こういう不平士族の乱が頻発する中で、板垣や後藤象二郎、副島らのグループは、明治7年民選議院設立建白書を提出します。

いわゆる有司専制(大久保独裁批判)批判に対して、政府は意見対立の都度下野させて反政府運動に追い込むのでは政権が安定しませんので,知恵を絞って?明治 8 年(1875)1月の大阪会議(大久保や木戸と下野した板垣との会議・・板垣は参議に復帰)によって下野組の一人である板垣との協議開催に成功します。
この会議で、木戸孝允の構想する立憲政体案が内定し、(板垣も同意)同年4月に「立憲政体樹立の詔」が発せられました。

http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/shukenshi027.pdf/$File/shukenshi027.pdf

朕 即 位 ノ 初 首 ト シ テ 群 臣 ヲ 會 シ 五 事 ヲ 以 テ 神 明 ニ 誓 ヒ 國 是 ヲ 定 メ 萬 民 保 全 ノ 道 ヲ 求 ム 幸 ニ 祖 宗 ノ 靈 ト 群 臣 ノ 力 ト ニ 賴 リ 以 テ 今 日 ノ 小 康 ヲ 得 タ リ 顧 ニ 中 興 日 淺 ク 内 治 ノ 事 當 ニ 振 作 更 張 ス ヘ キ 者 少 ナ シ ト セ ス 朕 今 誓 文 ノ 意 ヲ 擴 充 シ 茲 ニ 元 老 院 ヲ 設 ケ 以 テ 立 法 ノ 源 ヲ 廣 メ 大 審 院 ヲ 置 キ 以 テ 審 判 ノ 權 力 ヲ 鞏 ク シ 又 地 方 官 ヲ 召 集 シ 以 テ 民 情 ヲ 通 シ 公 益 ヲ 圖 リ 漸 次 ニ 國 家 立 憲 ノ 政 體 ヲ 立 テ 汝 衆 民 ト 倶 ニ 其 慶 ニ 賴 ラ ン ト 欲 ス 汝 衆 庶 或 ハ 舊 ニ 泥 ミ 故 ニ 慣 ル ヽコ ト 莫 ク 又 或 ハ 進 ム ニ 輕 ク 爲 ス ニ 急 ナ ル コ ト 莫 ク 其 レ 能 ク 朕 ガ 旨 ヲ 體 シ テ 翼 贊 ス ル 所 アレ
明 治 八 年 四 月 御璽

板垣は征韓論にやぶれて西郷らと一緒に下野したものの、実力行使運動に加担せず、大阪会議を以降参議に復帰して政府に一見取り込まれますが、すぐに辞職して在野での自由民権論で言論戦を展開することになります。

上記引用続きです。

元老院における「國憲編纂」の作業は、明治 9 年(1876)9 月、元老院議 長・ たる 熾 ひと 仁親王(有栖川宮)に対し、憲法草案の起草を命ずる勅語が発せられた  ことによって始められた。
【立憲政体樹立の詔】
熾仁親王に対する勅語
「朕爰ニ我建國ノ體ニ基キ廣ク海外各國ノ成法ヲ斟酌シ以テ國憲ヲ定メントス汝等ソレ宜シク之 ガ草按ヲ起創シ以テ聞セヨ朕將ニ擇ハントス」

任命の効力2(拒否・辞職→反抗認定→小田原征伐)

小田原攻めのきっかけになった真田昌幸は、武田家最盛時には武田24将の一人でしたが、武田家滅亡後武田旧領地を一括支配させるために信長が派遣した滝川一益の与力となって本領安堵し?本能寺変後滝川一益が畿内に逃げ帰って空白地帯かしたあと甲州〜信州一帯が家康と北条の草刈り場になった時に(天正壬午の乱)北条と家康の講和条件として信濃は家康、北関東は後北条の切り取り勝手となった結果に怒って自立したものです。
すなわち、真田家は武田家の信州から上州への進出により獲得した東信濃と上州吾妻郡と利根郡だったかの沼田城を根拠地とするいくつかの枝城の支配を許されていた状態で武田家滅亡後、旧武田家領地一括支配として入った滝川一益から本領安堵されたいわゆる地元豪族・小名でした。
武田家滅亡後滝川一益退却後空白地帯となった東信濃に侵攻した北条氏に一旦従ったものの、家康の信濃侵攻に応じて家康に服属していたのですが、家康と北条との講和で勝手に上野国を北条の切り取り勝手と決められても、上州2郡を家康にもらった領地でないので服属条件・本領安堵の約束違反で飲めるものではありません。
止む無く上州の領地を北条に差し出すか、双方に反旗を翻して双方と敵対して滅びるかの瀬戸際で頼ったのがまずは上杉家であり、豊臣家の惣無事令でした。
徳川から北条への上州の領地・沼田城他の引き渡し勧告を拒否した上で上杉と真田が同盟を結んだので徳川家からの攻撃が始まったのですが、上杉の応援と(第一次上田合戦)昌幸の巧みな戦術で何倍もの徳川軍を撃退して、徳川方が攻めあぐねているうちに昌幸が次男幸村を豊臣政権に送り込み、豊臣家直接臣従に成功します。
それまでは配下武将の更迭と謀反に対する制裁は内部問題のレベルで、惣無事令の対象外でした。
この辺は徳川体制下でも同じで、大名が家臣の領地を取り上げたり切腹を命じたり処分するのは大名家内の自由でしたが、将軍家お目見え→将軍直臣までなると大名の自由処分権が制約されたのと同じです。
これによって大名として自立してしまったので、豊臣政権の惣無事令の対象となりましたので、徳川からの攻撃の心配がなくなり後は豊臣政権への出仕を拒んでいる北条との攻防だけ残る状態になっていました。
後北条は武田家の圧迫が亡くなった後、北関東に勢力を伸ばすチャンスと見てジリジリと勢力を伸ばしていて、関東地場大名連合軍との合戦(沼尻の合戦・1584年(天正12年))を制していよいよ北辺の真田領・沼田城を中心とする地域に触手を伸ばすようになったのですが、この時点ではすでに秀吉の四国〜九州征伐が終了していた点が重要です。
秀吉は西国方面の平定に関心があったのでこれまで関東の戦闘にあまり関心を示さなかったので、甘く見たのでしょう。
しかも直接の臣下になっている真田攻撃を秀吉が放置できるわけがなく、総攻撃の決定となりました。
真田昌幸は武田家滅亡〜本能維持の変後激変する信州〜北関東の政治情勢下でうまく生き延びて大名昇格を果たした類まれな政治感覚と戦巧者でしたが、うまく生き延びられたのは秀吉の厚遇があったことによるのでこの恩義を大事にしたことで歴史に名を残しました。
徳川はこの攻防戦を経て真田家の武勇・戦略の確かさを知り、味方につけて損がないと見て、重臣と真田家の縁組を図り味方に取り込む戦略を採用し、真田家はいわゆる豊臣恩顧の大名であるものの、秀吉死後家康必勝の勢いがわかっていたので家督相続者である長男信之を家康側近の娘を嫁にとって保険をかけるなど双方冷徹なプロ対応を取ります。
幸村と大谷刑部との関係や上記上杉との義理などいろんな経緯を踏まえて、関ヶ原の時には家督相続させた長男を家康軍に派遣し、自分は隠居身分となり次男信繁(通称幸村)が西軍につく義理を尽くしたものでした。
ちなみに講談で知られるように真田幸村の活躍で徳川家に信之家が睨まれていたかというと、長男の家系はその後も幕閣で重用され幕末近くには老中にまで上り詰めています。
現在でも総裁選で争って負けた政治家が組閣時に入閣に応じることは、政権を支える意思表示となり現政権に挑戦する意欲を持っている以上は入閣要請に応じないのが原則です。
反主流あるいは批判的意見を主張していても入閣した以上は、鉾を収めて従う意思表示になります。
倒閣運動あるいは現政権の続投を阻止して次期総裁選を戦う以上は、早めに閣外に出て旗幟鮮明にしておくのが普通です。
内閣にいるときに現政権施策に協賛していたのに、閣外に出た途端に現政権の過去の政策批判するのは論理的に無理があるからです。
北条氏は秀吉が関白太政大臣として上洛を命じても応じなかったのは、秀吉を覇者と認めない・挑戦権を放棄しない意思表示でした。
現在一般企業でも社員が病気でもないのに出社を拒む・・学校の場合生徒の欠席が続くなど・不審に思い、同僚上司を使い何があったのか様子を探るのが普通です。
荒木村重が、信長に伺候しないで居城に篭り度重なる同輩の勧告(秀吉配下の黒田官兵衛が説得に赴いて土牢に監禁されています)など伺候命令に応じなかったので謀反の意思表示として総攻撃を受け一族悲惨な結果に終わったのもその一例です。
その頃はしょっちゅう信長のもとに伺候していないと謀反の疑いを受けるので、諸大名は戦線現場から抜け出してでも中間報告と称してまめに伺候するのが普通でした。
気配りに長けた秀吉の場合、中国方面の支配地拡大戦略を任されていた秀吉が自分の戦功が大きくなりすぎる危険を察知して、信長直々の采配による派手な戦勝演出のため備中高松城などの小さな城を地味に落としていくのではなく、水攻めで時間をかけて毛利本軍おびき出し戦略をとり毛利本軍が出てくると「上様でないと」自分の能力ではとても無理なので・・とおだてて信長本軍の出動を懇願して信長をその気にさせたと(小説の世界です)言われます。
このお願いのために肝心の城ぜめを部下に委ねて安土に舞い戻るなど小まめな行動をしていたことがわかります。

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私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

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このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。