北方探索(間宮林蔵)

最上徳内は特定の好奇心あるいは民族的使命感による探検家でしたが、精密な北海道地図作成としては、1800年の伊能忠敬の測量があります。
彼は天文学の興味を満たすための測量でしたので、その後北海道に特別な関心を抱かずに全国地図作成に精出していた点では民族意識を基礎に身を捨ててでも頑張った最上徳内や間宮林蔵とは違います。
彼の日本全国の地図が有名ですが天文学を学んでいた彼が最初に測量したのは、蝦夷地でした。
伊能忠敬に関するウィキペデイアの記述からです。
第一次測量(蝦夷地)
測量の許可
忠敬と至時が地球の大きさについて思いを巡らせていたころ、蝦夷地では帝政ロシアの圧力が強まってきていた。寛政4年(1792年)にロシアの特使アダム・ラクスマンは根室に入港して通商を求め、その後もロシア人による択捉島上陸などの事件が起こった。日本側も最上徳内、近藤重蔵らによって蝦夷地の調査を行った。また、堀田仁助は蝦夷地の地図を作成した[104]。
至時はこうした北方の緊張を踏まえた上で、蝦夷地の正確な地図をつくる計画を立て、幕府に願い出た。蝦夷地を測量することで、地図を作成するかたわら、子午線一度の距離も求めてしまおうという狙いである[105]。そしてこの事業の担当として忠敬があてられた。忠敬は高齢な点が懸念されたが[106]、測量技術や指導力、財力などの点で、この事業にはふさわしい人材であった。
忠敬一行は寛政12年(1800年)閏4月19日、自宅から蝦夷へ向けて出発した。忠敬は当時55歳で、内弟子3人(息子の秀蔵を含む)、下男2人を連れての測量となった[114]。
9月22日に山丹貿易で書いたように、アイヌの交易拠点は樺太南端の集落・白主(しらぬし)会所に移っていました。
日本支配地確定には樺太測量が必須でした。
樺太といえば間宮林蔵です。
間宮林蔵の活躍は(上記伊能忠敬の蝦夷地測量時に現地で出会ったと言われるように)だいぶ時代が下りますが、それでも1840年のアヘン戦争よりはかなり前です。
以下間宮林蔵に関するウイキペデイアの記事を紹介します。
これによるとすでに文化4年・1807年に間宮林蔵が択捉島駐在時にロシア軍の襲撃を受けた記事が出ています。 
こうした事件記録から見ても択捉島がいわゆる北方領土が幕府支配下にあったことが分かります。
有名人の関与した事件であるから、こういう幕府の記録が歴史家の目に留まり引用され残っているのでしょうが、交渉ごとがうまく行かないとすぐ武力を振るう・・この種のロシアとの揉め事がしょっちゅうあったような印象です。
当時からロシアは、平和な話し合いがなりたたないクマを相手にしているような物騒な民族だった一端が記録になっているのです。
その翌年の樺太探検・間宮海峡の発見に繋がります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%93%E5%AE%AE%E6%9E%97%E8%94%B5
常陸国筑波郡上平柳村(後の茨城県つくばみらい市)の小貝川のほとりに、農民の子として生まれる。戦国時代に後北条氏に仕えた宇多源氏佐々木氏分流間宮氏の篠箇城主の間宮康俊の子孫で間宮清右衛門系統の末裔である。
当時幕府は利根川東遷事業を行っており、林蔵の生まれた近くで堰(関東三大堰のひとつ、岡堰)の普請を行っていた。この作業に加わった林蔵は幕臣・村上島之丞に地理や算術の才能を見込まれ、後に幕府の下役人となった。寛政11年(1799年)、国後場所(当時の範囲は国後島、択捉島、得撫島)に派遣され同地に来ていた伊能忠敬に測量技術を学び享和3年(1803年)、西蝦夷地(日本海岸およびオホーツク海岸)を測量し、ウルップ島までの地図を作製した。
文化4年4月25日(1807年6月1日)、択捉場所(寛政12年(1800年)クナシリ場所から分立。択捉島)の紗那会所元に勤務していた際、幕府から通商の要求を断られたニコライ・レザノフが復讐のため部下のニコライ・フヴォストフ(ロシア語版)たちに行わせた同島襲撃(文化露寇)に巻き込まれた。この際、林蔵は徹底抗戦を主張するが受け入れられず、撤退。後に他の幕吏らが撤退の責任を追及され処罰される中、林蔵は抗戦を主張したことが認められて不問に付された。
文化5年(1808年)、幕府の命により松田伝十郎に従って樺太を探索することとなり、樺太南端のシラヌシ(本斗郡好仁村白主)でアイヌの従者を雇い、松田は西岸から、林蔵は東岸から樺太の探索を進めた。林蔵は多来加湾岸のシャクコタン(散江郡散江村)まで北上するが、それ以上進む事が困難であった為、再び南下し、最狭部であるマーヌイ(栄浜郡白縫村真縫)から樺太を横断して、西岸クシュンナイ(久春内郡久春内村)に出て海岸を北上、北樺太西岸ノテトで松田と合流した。
「林蔵はアイヌ語もかなり解したが、樺太北部にはアイヌ語が通じないオロッコと呼ばれる民族がいることを発見、その生活の様子を記録に残した。松田と共に北樺太西岸ラッカに至り、樺太が島であるという推測を得てそこに「大日本国国境」の標柱を建て、文化6年6月(1809年7月)、宗谷に帰着した。調査の報告書を提出した林蔵は翌月、更に奥地への探索を願い出てこれが許されると、単身樺太へ向かった。
林蔵は、現地でアイヌの従者を雇い、再度樺太西岸を北上し、第一回の探索で到達した地よりも更に北に進んで黒竜江河口の対岸に位置する北樺太西岸ナニオーまで到達し、樺太が半島ではなく島である事を確認した。更に林蔵は、樺太北部に居住するギリヤーク人(ニヴフ)から聞いた、清国の役所が存在するという黒竜江(アムール川)下流の町「デレン[2]」の存在、およびロシア帝国の動向を確認すべく、鎖国を破ることは死罪に相当することを知りながらも、ギリヤーク人らと共に海峡を渡ってアムール川下流を調査した。その記録は『東韃地方紀行』として残されており、ロシア帝国が極東地域を必ずしも十分に支配しておらず、清国人が多くいる状況が報告されている。なお、現在ロシア領となっているアムール川流域の外満州はネルチンスク条約により当時は清領であった。
間宮林蔵は樺太が島であることを確認した人物として認められ、シーボルトは後に作成した日本地図で樺太・大陸間の海峡最狭部を「マミアノセト」と命名した。海峡自体は「タタール海峡」と記載している」
一般的に幕末の危機感の盛り上がりはアヘン戦争による清朝の香港割譲に日本がショックを受けたことに始まるような教育が普通ですが、アヘン戦争は1840年ですからそのおよそ7〜80年ほども前から・・西欧の侵略脅威よりもロシアの脅威対応のために幕府財政危機が先に起きていたことが、これまで見て来たことで分かるでしょう。
ロシアのことを江戸時代には「オロシア」という(語源的には中国で「オロス」と言っていたことに由来するらしいですが・・コジツケっぽい感じです)こと自体がロシアに対する恐怖心・・恐ろしや・・に引っ掛けた江戸人の洒落・俗語と見るべきでしょうか。
日本の思想界〜教育界、メデイアでは、ロシアの脅威が幕末危機を引き起こした直接の原因であった事実をできるだけ伏せて置こうとする偏頗な姿勢が顕著です。
これはコミンテルンによる思想界支配(メディアはソ連軍の満州侵入による言語に絶する人道被害をほとんど報道しません・・アメリカによる原爆投下その他空襲攻撃ばかりです)プラス薩長土肥・明治政府に都合が良い歴史教育の合作によるのかもしれません。
西南諸大名は西欧列強対策では身近だったので対応が進みましたが、対ロシア政策では何の功績もないから、明治以降の歴史教育は西欧列強対策に西南雄藩が優れていたか(蒙古襲来の教育もその一種です)ばかりにシフトして来たのです。

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