大阪の地盤沈下2

我が国の勤勉革命・手間ひまかけた精巧品にこだわる精神は、12/06/03「千葉の歴史4(千葉県人と海洋史観1)以下のコラムで連載しましたが、家光の鎖国ころから始まったものに過ぎません。
鎖国後200年あまりの間に物造りが精巧化して職人の技術が発達し(からくり時計でも何でも造りました)、この基礎があってこそ我が国の明治維新→近代産業化の成功に繋がったのです。
ところが、大阪は、元々浪速津の干潟であって人口集積地あるいは農業値でもありませんでした。
大阪の都市としての始まりは元々ほぼ無人の地に商都として人が集まって来て都市化が発展して来たもので、この地で連綿と伝わる人種的特性・・蓄積がありません。
江戸時代には上記のように鎖国に伴う勤勉革命が進行し他の大名領地では領国経営のために特産品製造等に精出していたのに対して、大阪は天領であったことから特産品を作り出すモチベーションもないまま、商都としての機能に寄りかかったまま幕末を迎えています。
このために、プラザ合意以降の円高→グローバル化進行によって、大量生産型産業が下火になってもこれに代わる高度部品・精密機械製品製造に向いた人材の蓄積が多くありません。
日本の生産力が車に比重を移した後も、大阪経済圏は車生産の恩恵をあまり受けなかった上に、ここ10〜20年間に進んだ部品高度化の波にも乗り遅れている感じです。
江戸時代には国内経済中心でしたし、信長のころまではまだ北陸と京を結ぶ物流は貴重なものでしたが、秀吉以降になると外洋航海向きの船が発達したので(江戸時代になると日本列島を回遊する廻船網の発達を想起して下さい)それまでの北陸あるいは日本海側諸国から京大阪への物流が琵琶湖を通じる必要性がなくなりました。
その上、徳川政権成立により日本最大の大都会として江戸が誕生しましたので、江戸への物資輸送に関しても北陸から京への物流はマイナーになって行き、船便で大阪へ一旦物資を集中して分散する方式が合理的になっていたのです。
しかし、開国してしまえば、瀬戸内海の水運は地域交通手段に過ぎなくなりますし、アメリカとの交易中心ならば東京が一番近いし、中国、韓国・東南アジアが相手となれば福岡が有利です。
国内物資の集散地としても、鉄道網が発達すると一旦大阪へ船で集めなくとも必要な場所へ直接産地から輸送すればたります。
明治維新以降大阪は物流の要衝でもなくなったし、平成になってからは大量生産型事業が縮小する一方となったのに、江戸時代を通じた物造り技術の蓄積もないとなれば、都市機能・規模を縮小して行くか生活保護ないし補助金を増やしていくしか現状維持出来ません。
炭坑町として山奥に出現した町が炭坑の出炭量の縮小に合わせて寂れて行くのと同じです。
これらの複合効果がジリジリと関西経済圏を蝕んで来たと言えるでしょうが、こうなると徐々に元気な人(外で通用する有能な人)や企業から順に他の経済圏に出て行きます。
出て行けない人や企業の多く・・弱者が大阪に残っているので、生活保護受給者の増加・医療費の上昇・・学力テストの最下位になっているので、これは結果です。
生活保護受給率が高い地域の場合、その予備軍層がもっと高い比率で存在している筈ですし、政治的には、こうした貧困層の比率の高まりが、公明党や社民党等の強固な政治地盤になっていた面があるでしょうが、彼ら政治家がいるから生活保護受給者が多いのではなく、彼らが政治家が当選したのは生活保護受給を必要とする貧困層が多い結果です。
生活困窮世帯の子供の学力水準が悪くなる傾向があるのは否定出来ず、先生だけの責任ではありません。
学力が低いことと日教組を結びつけるのは、間違いです。
大阪の医療費の増加も、医師にかかり過ぎ(府民の心がけが悪い)とか医師の腕が悪いと言う精神論で片付けるのは間違いです。
奈良の医師のように生活保護受給者を食い物にする医師が摘発されたりして、如何にも悪い医師が多いかのようですが、実はその基礎に生活困窮者・保護受給者・・底辺層が増えていることにあり、底辺層が増えれば疾病率が上がります。

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