異次元緩和の先例・・金兌換の停止→紙幣の変化

もともと政治というものは、過去の踏襲だけでは社会変化に対応できないので、新たな方法を切り開いてこそ成功するものです。
日本では保守主義とは伝統を大事にしながら時代に即応して修正していく政党やその支持者のことであり、革新とか進歩主義者とは過去の理論にこだわり、現実即応を敵視・軽視する政党支持者のことであると書いてきました。
数百年続く老舗企業は概ね上記保守思想によって柔軟経営をしてきた企業です。
アメリカのGEが代表的ですが、祖業でさえ果敢に入れ替えていく方式が知られています・・これこそが企業を守る=保守の本領発揮というべきでしょう。
戦前の大恐慌に際して金交換停止したのは、既存の枠を乗り越える勇気ある行動の一つです。
昨日紹介した通り、アメリカFRBもリーマンショック後の金融市場の下支え・需要喚起策に取り組んだし、EUのECBもリーマンショックに遅れて顕在化した欧州危機の打開策として、伝統的な金利下げにとどまらず債権や株式の相場下支え目的で「異次元」量的緩和をして市場介入して来た点は同じです。
「大機小機」が異次元緩和の副作用を批判したいならば、リーマンショック後約10年もの実験期間を経ているのですから、この間の異次元緩和・市場介入が具体的にどのような悪い結果を引き起こしたかの具体的議論をすべきでしょう。
伝統理論に合わないことに対する反感から?「国内実体経済を反映していない」という結論だけを書いて、公的資金投入批判論に移行して行くのでは、「社会変化は何事でも良くない」という感情論と区別がつきにくくなります。
伝統的価値.慣行にはこれを裏付ける(キリスト教神学のような)確固とした理論があり、インテリ・専門家はせっかく習得した自己の優越的地位を守るために伝統解釈に反する行為に反感をいだきがちです。
私は、中国の政府による市場介入に関してMay 19, 2017「社会保障や国債と世代間損得論3」のコラムで先進国の異次元緩和とどこが違うかという疑問を呈して置いたことがあるのは、中国贔屓で書いているのではなく、同様の疑問によります。
「大機小機」が批判するならば、現在公的資金が市場にどのよう悪影響を及ぼしているかを具体的に論じれば分かり良いでしょうが、株式相場が「国内」実体経済と乖離している」ことに結びつけるから、ややこしくなるように思います。
もともと財政金融政策というものが発達したのは、国内実体経済の流れに委ねておけばスパイラル状に悪化して行くからこれを緩和しさらには逆転させるために行う・・あるいはバブル化していく場合、早めに引き締めて抑制するなど逆の場合もあります・・ものですから、もともと国内実体の方向性と違うものです。
金融政策は国内実体と逆方向を向くことは、あたり前過ぎる行為です。
昨日紹介したウイキペデイアによるFRB異次元緩和の説明は、「効果がないならやめる」べきという伝統理論を前提にした「必要悪論を前提にした出口戦略」の立場で解説(解説者=伝統理論を習得したものが中心)したものと思われます。
多分欧米や日本識者の見解は、こういう前提に立っているからでしょう。
戦前の金兌換停止が大恐慌による特殊臨時のものとして一刻も早く兌換制に戻るベキという原則論が底流にあり、一時金兌換制度を復活した国もありましたが、当時は金兌換の裏付けのない紙幣など信用される訳がないという天動説のような考えを忠実に守っていたのです。
兌換制廃止の国々は金がない(狐の発行した落ち葉のような)いつまでたっても本来の金交換ができないで紙切れで経済を運営している気持ちになっている可哀想な国だ・・というスタンス・・アメリカだけが金本位でやっていける国というスタンスでした。
戦後の通貨制度は、金本位制ではなく、「金為替本位制」と言われドル以外は擬似通貨・・江戸時代の藩札扱いでした。
「各国通貨は一定率(日本が1ドル360円であったように当時固定相場でした)でアメリカドルに替えて貰える→USドルはいつでも一定率で金に替えてくれる」ということで信用を保つ・・これがアメリカが基軸通貨國と言われた所以でしたが、ニクソンショックによるアメリカドルの金交換を廃止後は、理論上アメリカドルはその他諸国通貨と同じ地位になったので、本来の基軸通貨の地位を論理的に喪失したはずです。
幕末の大政奉還によって、対朝廷関係では将軍家が諸大名と同列になったのと同じです。
幕府は事実上政局に対する発言力が空洞化してからの政権投げ出しでしたから、想定どおりでショックもなくその後(直後の小御所会議のクーデターで)名実ともに発言力を失いましたが、アメリカの場合まだ十分な余力・実力を残しての投げ出しでしたので、世界にニクソン「ショック」を与えたのとの違いです。
為替の交換比率がUSドルとの交換中心で戦後約30年間発達してきた結果、その他の国同士の直接為替市場が育っていない結果、事実上「円を一旦ドルに替えてそのドルとさらにマルクやバーツ、フラン、ポンドに変えて行く」しかない状態・・一種の惰性が続いているにすぎません。
時の経過で円と人民元の直接取引き市場が育ってきたように、徐々にUSドル表示での世界取引比重が下がってきています。
いわば、メデイアがUSドルが基軸通貨の強みとしょっちゅう表現しますが、これは比喩的な表現でしかなく(だから分かりにくいのです)、国際ハブ空港が地域にないのでハブ空港まで行って乗り換えるしかない程度の意味です。
金本位制に関するウイキペデイアの記事からです。
https://docs.google.com/document/d/1B_k-2lcstvNhZWWRqkWpEo0Evf1mJlU7NLjlDEZOEak/edit
その後1919年にアメリカ合衆国が金本位制に復帰したのを皮切りに、再び各国が金本位制に復帰したが、1929年の世界大恐慌により再び機能しなくなり、1937年6月のフランスを最後にすべての国が金本位制を離脱した。 日本では、戦後に金本位制の機会をうかがうも関東大震災などの影響で時期を逸し、1930年(昭和5年)に濱口雄幸内閣が「金解禁(金輸出解禁)」を実施したが、翌年犬養毅内閣が金輸出を再禁止した[7]。FRB議長のベン・バーナンキは、金本位制から早く離脱した国ほど経済パフォーマンスがいいことを証明した[8]。」
ニクソンショック以降、世界中が不換紙幣になりアンカーを失った結果、紙幣の信用維持のために発行主体の中銀の自己抑制が以前より強く要請されるようになったと思われますが、これは精神論であって紙幣価値の本質に関係がない・・金(または国際商品価値)の直接的裏付け・実体がない点は同じです。
今でも通貨発行体は国家・中央銀行だけであり、紙幣価値は発行体・国家の国際市場上の信用・実力・購買力平価や国際収支の動向によって市場で決まって行くことになっています。
実際それ以降の不兌換紙幣・通貨の信認は、為替相場・市場取引によって決まる・・文字どおり金融「商品」の一つになったのに、自制心という呪縛で発行を抑制した結果これを狙った格好の投機対象になっていったのです。
その後ポンド防衛で知られるように通貨の売買が国際的投機商品になったこと自体が、単なる商品の一種に過ぎなくなったことを示しています。
これがさらに進んで紙幣が金融商品の一つという一般認識が定着すれば、発行体を政府・中央銀行に限定する合理的理由がありません。
紙幣が何のためにあるか?商品交換媒体としての効能・・商品に純化していけば、誰が発行したかではなく製品利便性が勝敗を分ける時代が来ます。
老舗企業の製品の場合は当初の宣伝があまりいらない・当初の優位性でしかなく、時間が経てば老舗企業が作らなくとも、製品利便性・商品性能の優れたものが多く売れるようになるのと同じです。
その内ビットコインなどの仮想貨幣も含めて利用価値=使い勝手の良さの競争によって、世界通貨が決まって行く時代が来るかも知れません。
今の通貨は、その背景にある民族国家の経済力を背景にしている点で純粋な商品交換媒体としては不純な要素が混入しています。
金交換制は背景の国力を問題にしていない点・・どこの国の紙幣でも世界共通商品の金と一定率で交換してくれるので合理的でしたが、(この場合もある日突然デフォルトするリスクは防げません)不換紙幣になると紙幣相場は日々変動する・・このために約半年前までの先物引が発達しましたが、リスク管理に限界があります。
国際的商品交換手段である以上背景の民族集団の信用と結びつける必然性がないのですから、民族や国家集団から切り離すのが合理的でしょう。
日銀を紙幣という商品生産業者とすれば、日銀が紙幣発行して国債や株をどんどん買うのは、企業が自己の生産品を何と交換するかはその企業の勝手なのと同様に日銀の勝手と言えます。
将来的に日銀・中央銀行発行の紙幣の利便・信用性が落ちる時が来るとしたら、それに変わるもの・・ビットコインまたはそれに変わる新たな商品に競り負けた時ですから、世界は困りません。
よく地域から売り店がなくなったらこまるという議論がありますが、地域住民がその町内の小売店より遠くのコンビニを選んでいるならばその地域の自己選択です。

モラール破壊5(拝金主義1)

我が国では強者のアメリカによる不当な圧迫を70年以上(宣戦布告せざるを得ないように巧妙に仕向けらた圧迫から計算すれば90年くらいになるでしょう)に渡って受けているにもかかわらず、国民の道義心は微動だにしません。
我が国では縄文以来のなが〜い長い歴史を知っているので「不正・不当なものは、いつか神に罰せられる」と信じているから仕返しなどしなくとも良いし、自分もそのような悪どいことをしなければ損だという発想にならないからです。
一所懸命の熟語があるように、我が国では一カ所に半永久的に住み続ける思想ですので、郷土を愛し、ひいては公徳心も強くなる・・不正なことをして短期間で逃げることを予定していない・・いつかはバレルからアコギなことは出来ないと言う思想の民族です。
縄文の昔から定着性の高い民族であることが、子孫に先祖の恥を残さない・モラールの高い民族を形成して来たことを、2012/12/09「信義を守る世界7(名誉の重要性1)」前後のコラムで書いたことがあります。
テロなどで仕返しをしないだけではなく、回りがいくら悪かろうと自分はその仲間にならないという信念で大方の人は(物事には例外がありますが、犯罪率の低さ町の綺麗さが証明しています)生きて来たのですが、漸くこの我慢の結果が報われるような時代が巡ってき始めた印象です。
しかし悪人で鳴らして来た人はそれだけのことがある、米英の歴史を見ればその狡猾さは半端ではありませんから、彼らも旧悪が暴かれそうになるのに対して必死ですから、うっかりすると返り討ちに合って、また百年単位で隷従を余儀なくされるのかも知れません。
リスクが大きいので、米英批判の動きはここは慎重にする必要があるでしょう。
ところで道義の衰退した民族の特徴は、守銭奴的傾向・・何事も金次第と言う点で共通していると言えるでしょうか?
中国では金儲けにさえなれば、アカチャンの飲むミルクに毒になることが分っていてもその材料を混ぜるほどの道義なき社会犯罪多発社会になってしまっているのは、強者の論理をそのまま適用して来た論理帰結・・理の当然です。
(「バカ」の語源について、06/23/03「裁判所は独立しているか?3(馬と鹿の区別)」のコラムで詳しく書きましたが、秦の始皇帝死後権勢を振るった宦官の趙高が、権勢を示して皇帝に恥をかかせるために子どもじみたことをした故事が有名です。
趙高が皇帝が群臣居並ぶ前で「馬でございます」と鹿を献上したので、「バカな・・鹿であろうが」と皇帝が居並ぶ群臣に問いかけると、殆どの高官が「そのとおりです」(趙高が間違っています)と答えられなかった・・皇帝に合わせて本当の意見を述べたものは処罰されてしまった(敵をあぶり出した)という故事によると言い伝えられています。
紀元前数百年前から権力者の意向に反して真実を言えば,文字どおりにクビが飛ぶような社会が続いて来ました。
中国では紀元前から何千年も専制君主制で来ましたし、共産党政権になっても言論の自由のない独裁政治のママですから、思想表現の自由のない社会=自分の利益になれば嘘で塗り固めた主張をする・生き方が生活の知恵になる点では同じママです。
専制君主制の続いた国では、正義の基準は日本人が考えるような「正しいか否か」ではなく権力者・強いものの意向に合うかどうかしかない状態で来ました。
2000年以上にわたって、正義感がなくなっているので、権力者の意向に関係ないときには、(金さえあれば権力に取り入ることも可能ですから)「金儲けになるかどうか」が重要な基準になっている点は、アメリカ同様です。
アメリカでは金儲けをするには市場経済という名分のルールがあるものの、結果的に資金を持っているものが勝者の社会・資本主義社会である点は、中国現在社会と全く同じです。
むしろ中国と違ってルールによってお金持ちになるのが正当化されている分、市場経済の勝ち組になって何が悪い?と言う態度で、金儲けをするのに遠慮がなく、その結果成功すれば桁外れの豪奢な生活をするにも何の悪びれるところもありません。
(中国のように賄賂で私腹を肥やしたのではなく)「自由競争の結果だから・・」というお墨付きを得ているからです。
国際政治で言えば極東軍事裁判以降の政治・・でっち上げでも何でも公正な?多数決の手続きや裁判手続きあるいは国際会議・条約締結手続きを踏んでいるから、これが正しい・・今更文句言う方が不公正だと決め付けているのと同じです。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC