郡司1と国司

 
律令制施行に合わせて全地域を國にしてしまいました・・京・みやこのある場所さえも大和国としてしまったのですから、直轄支配を原則として半独立地域だけを國にする中国の国郡制そのものではありません。
4月30日〜5月1日に書いたように・・・大和朝廷成立時には各地には半独立国が含まれていたこともあるでしょうが、朝廷所在の本拠地(畿内)を含めて國としたことによって外見上の区別をなくしてしまった・・独立性の有無ではなく、単なる地方組織の名称にしてしまったとも言えます。
これも同一化・融和策の智恵であったでしょう。
徳川期に譜代・外様も親族も万石以上を全部同一の名称・大名にしたのと同様です。
大和朝廷では支配下に半独立国が多かったので直轄地でもアガタ主・豪族が治め(従属制の強い譜代大名のようなもの?)半独立・服属国を国造(外様大名)としていましたが、壬申の乱以降は中央権力が強化されていましたので、大宝律令(700年完成、702年施行)で地方制度として全国画一的に國を持って来ました。
この結果、その下の単位は郡になったのですが、同じくコオリ・コホリと言う音を当てられていた縣は5月3日に書いたようにどこかへ行ってしまいました。
国造制度が律令制施行直前の大化5年に「評」(これも「こおり」と読んでいました)と言う単位に編成替えされ、律令制が施行されると新たに設けられた郡となり國造は郡司と格下げされました。
國造が新たに出来た郡の長官・郡司に横滑り就任した場合、その権限は地域的範囲を縮小するのがやっとで(元々領主ですから)その領域内の権限・・それまでの国造の権限をそれほど大きくは変えられなかったでしょう。
国造の1つの領域を仮に3個のコオリに分けた場合、新たに出来たコオリのオサをまさか朝廷が派遣出来なかったでしょうから、結局は元の国造の一族の推薦によったのでしょう。
郡司の権限は表向き同じままで、その上に監督者が来たくらいが納得させられる範囲だったのではないでしょうか?
この時に1国に統合された造グループの有力者を昇格させて新たに出来たクニの代表者にしたのでは、地方豪族がよけい力を持ってしまうので、朝廷派遣の国司制度にした点・・その代わり監督権限程度にした点が漢の州の始まりに似ています。
5月5日にに紹介した通り当初の監察官・刺使には軍事権がありませんでした。
律令制発足当初は國造から横滑りした郡司は従来の行政機構そのままに郡衙(元々の本拠地の名前が郡衙と変わっただけ)を構え絶大な力(軍事力を含む)を持っていたのですが、10世紀頃までには国司の権限強化が成功して旧地元豪族が没落して行きます。
これは国司権力の法制度上の強化によるのではなく、後記のとおり、新たな勢力の勃興による入れ替わりが激しかったことによる没落の結果だったとも言えます。
国司の権威上昇側面は、漢の州が単なる監察目的から出発したのにいつの間にか州の牧が権力を持ってしまい郡が有名無実化して行くのと似ています。
しかし、州の牧が実力を持って行くのは軍事力を持ったことがその背景であったのに比べて国司は軍事力の主体にならなかった点が大きな違いです。
ここで国司の権力の源泉を見ておきますと、中国の郡大守同様に国司にはこれと言った軍事力を持たせずイザとなれば中央派遣軍が出動する仕組み・・中央の権威頼みでした。
元々国府は元の国造の有する地方軍事力のあるところに上乗せで始まったものですから、権威だけを利用していたのはその性質上当然でした。
山内一豊が土佐に赴任したときには、旧勢力の長宗我部氏は戦争で負けていたのですが、それでも大量の軍事力を持って赴任するのは大変でした。
このような力づくの落下傘部隊だったので、地元に根付いていた国人層・・一領具足との対立が幕末まで300年近くも続いたことになります。
まして古代の国司制度は・・・戦争なしに服属しただけの古代各地豪族の上に制度上いきなり作ったものですから、現地政府を制圧するほどの軍事力を持って赴任するのでは地元勢力との軋轢があってうまく行かなかったでしょう。
それに、朝廷は外敵には征夷大将軍を任命して大軍を派遣してくれますが、日常的地域内小豪族間の紛争(一種のゲリラ戦です)には大軍派遣出来ません。
結局現地従前実力者・・元の国造による警察権的小規模武力が幅を利かすことになります。
古代からの豪族は班田収授法の施行によって次第に経済基盤を失い、平行して武力も失って行きますが、この期間が大分続いた後に私荘園が発達します。
旧豪族・郡司の多くが私荘園主にもなって行ったでしょうが、私荘園間の紛争・警備のために現地武力としての武士団が発達して来ました。
国司は国司の権威を利用して元郡司を含めた地方新興勢力同士のもめ事に介入して(個人的能力によって)存在価値を高めて行ったのです。
権威利用とは国司の仲裁に反して抵抗すると反逆者になってしまうので、今の裁判権を持ったような状態で国司の権威が保たれていたことになります。

国造から郡司へ(国郡里制)

律令制以前からあった国造は、みゃつこ=宮の子の意味ですから、中国で王族を国王に封じたのを真似したのかとも言えますが、元々我が国では、降伏した相手の神を祭る習慣があり、我が国古来からの智恵の現れとも言えます。
前回書いたように被征服民族や服属民族を皆殺しに出来ないので、これらを融和することが古代から必要でした。
自分の会社を大きくして行くばかりではなく、M&Aで大きくして行く場合の話です。
今のように地下資源目的の戦争ではないので、征服するのはその土地にいる労働力を入手することが目的だったからです。
造(みやつこ)は大和朝廷の大王の子の扱いですが、事実は地方服属者でしょうし、後世発達する猶子制度の先がけだったかも知れません。
國造と縣・あがた主の並立は、当時の中国の制度をそのまま真似せずに我が国の実情に合わせて漢の郡国制と同様の混合政体を採用したものと思いますが、朝廷は先ずは被征服王朝の代表者を大和朝廷・・大王の子供扱いに優遇して融和を図ったものと思われます。
江戸時代までに確立していた国名・範囲は何時からのものかを知りませんが、『隋書』倭国伝によれば、6世紀末から7世紀初頭頃には約120の国造が置かれていたようですから、(これは論文ではなく思いつきコラムですので原典に当たっていません・・)江戸時代まであった国の大きさ・範囲とは違うようです。
きっちり数えた訳ではないので数字は正確ではありませんが、一般に日本60余州と言われていたことから見ると江戸時代の2倍の数・・面積が半分だったことになります。
(当時と今では朝廷の勢力範囲が違うので面積的には3分のⅠくらいだったでしょうか?)
律令制によって国郡里制が始まる・・前提として従来の国造支配地を「評」(コオリ・コホリ)とする大化5年の再編行為(国評里制)がありました。
(大宝律令に「郡」が記載されているので、その前から郡制だったような解釈が主流でしたが、あちこちから出土した木簡にこの記載があったので分ったのです)
地域単位を我が国の言葉では「コオリ・コホリ」と表現していて漢字輸入に伴いいろいろな漢字をこれに当てていた時期があったのです。
「評」だって中国からの漢字輸入によるのですが、大宝令まで何故「郡」を使わずに「評」だったのかも不思議です。
それまでは高句麗経由だったのが、思想関係も直輸入になって変更されたのかも知れません。(この辺は私の空想です)
英語の勉強で「ネイテイブの発音は違う」と教えられるようなものです。
国造の支配地を評(コオリ)としていたのですが、この「評」を郡と言う漢字に大宝律令で置き換えたので、これらいくつかの集合体の上に國を作り直せば、国司が郡司の上に位置する監督官の地位を設けるのに無理がなくなりました。
ちなみに國評里制から律令制で国郡里制に変わったときに、国造が郡司さんに横滑り出来たのは上記のとおり元の国造の行政区域を「評」と言い換えて「評」の主に変更していたからです。
このときに領域も少し変えたようですが・・どこをどう代えたのかの詳細は不明ですが、今で言えば中選挙区を小選挙区に変えたようなもので、従来の国造の支配領域はぐっと狭くなりました。
(元国造ではない郡司も新たに出来たことになります)
中国では郡衙も縣衙も中央政府任命による官吏の運営する役所ですが、日本の郡司は国造の改名・横滑りしたものが中心ですから世襲的・半独立終身官が基本です。
律令制で出来た国司こそ中央任命制ですから、中国の郡長官あるいはこの頃には一般化されていた州長官(後漢以降一般的となっていた刺使)と命名すべきでしょうが、郡の上に、州ではない国名を持って来た・・定着していたので州に変えられなかったのでしょう・・関係からか、刺使(長官)でもないし国主でもない中途半端な「国司」(我が国の造語・和製漢語かな?)と言う名称になったように思えます。
ところで、我が国の地方制度は唐の律令制だけではなく中国古代からの郡縣・郡国制を参考にしていたし、地方単位をコオリ・コホリと言いこれを縣にも「評」にも当てていた時期があったのですが、縣だけ古代の制度では何故消滅して行ったか(1200年後の明治で郡縣をひっくり返して復活したか)です。
国造のあった時代には、昨日5月1日に書いたように、服従度が高い意味で並列的にアガタ主の治める地域もありましたが、律令制施行・・中央集権化の強化目的により全国を大和朝廷が直接支配する國に再編し直しました。
半独立地域と直接支配区域に区別する必要がなくなり、全部をアガタ主の治める地域にするか全部からアガタ主を不要にするかしかありません。
古代からの豪族の力を弱めて中国並みの直接統治制度を目指した朝廷では、豪族支配を前提とする県主も邪魔になったのでしょう。
全国統一の国司派遣制度にも反するので、この機会に朝廷成立の功臣・アガタ主の特権を奪ってしまったものと思われます。
ちなみに天武天皇の制定した「8色の姓」ではそれまで存在していたアガタヌシの姓(かばね)「あたい・直」がなくなっています。
ヌシは、大国主のみことの神話でも知られているように神話時代からの由緒ある姓の1つでした。
そしてアガタ主に当てていた漢字「縣」も利用されなくなって、明治維新まで来たと言うのが私の推測です。

国と郡

中国に関する歴史物の本では魯の国などと春秋時代から国名があったかのように書いているのがありますが、後に漢以降地方に封ぜられた王族の領地を「何々国」と言うようになって何々の国の呼称が定着した後に、地方制度として昔から国があるかのように安易に書いているに過ぎないように思います。
あるいは我が国で地方を信濃の国の人と言うのに習って、中国の地方・地域名を表現する翻訳として中国の地方も同じように魯の国などと翻訳している場合もあるでしょう。
何とか通りと言う地名表記の国の表示を、我が国のように何丁目と翻訳しているようなものでしょうか?
西洋の地方制度は日本とは同じではないとしても、似ているような組織を日本の町や村として翻訳しても間違いではないのですが、中国の地名に勝手に「何々国」と翻訳して書くと同じ漢字の国であるから、我が国同様に昔から何々国と言っていたのかと誤解し易いので、こうした場合、翻訳しないで中国で使っている漢字のまま書くべきです。
ところで春秋戦国時代は地方制度がきっちりしていなかったようなので、史記や18史略を見ても斉の桓公とか衛の何々、楚の懐王と書いているだけで国や州等の肩書きがないのが普通です。
官僚派遣の郡縣制は始皇帝が始めたものですし、郡国制は漢になって中央派遣の郡縣だけではなく、王族に封地を与えて半独立的統治を認めた折衷制度して始まった制度です。
外地の服属者に対して国と表現するのが元々の意味ですから半独立国を言う意味だったでしょう。。
春秋時代には地名に肩書きがないのに、我が国の文筆家らは我が国の習慣で当時も我が国のような地方制度があり・・地方は何々の国となっていたかのような思い込みで書いているのです。
魏晋南北朝時代を別名5胡16国時代と言い、我が国で室町時代末期を戦国時代と言うときの「国」とは半独立国が乱立している状態を意味するでしょう。
我が国古代で何故地方の呼称に・・・國と言う漢字を当てたかのテーマに戻ります。
上記の通り漢の頃から南北朝時代まで独立・半独立地域名として主流であった地域の肩書きを我が国の地域名に輸入して「・・國」としたと思われます。
唐の時代に律令制が我が国に導入されたのに大和朝廷直轄のみやこ以外の地域名を州や縣とせずに国としたのは、大和朝廷では唐ほど中央権力が強くなかった現実に合わせたのかも知れません。
しかし、我が国古代の「國」は漢字の成り立ちである四角く囲まれて干戈で守っている地域ではなく、(国ごとに対立している地域ではなく)一定の山川で隔てられた地域・・当時で言えば広域生活圏をさしていたに過ぎません。
その結果、我が国における国とは都に対する地方を意味するようになり、国をくにと訓読みするようになって行き、「くに=国」は故郷・出身地をさすようにもなりました。
我が国の「くに」の本来の意味は、昔も今も自分の生国と言うか生まれた地域・地方を意味していて、それ以外の地域の人と区別するとき・・ひいては・現在では自分の地域の範囲が広がって日本列島全体を「わが」国(くに)とい言い、異民族に対する自国、本邦を意味して使っているのが普通です。
すべて同胞で成り立つ日本列島では、相模の国、伊豆の国、駿河の国と言われても、あるいは河内の国、摂津の国、大和の国と山城の国とでも国ごとの民族的争いがありませんので、現実的ではなかったでしょう。
ただ、大和朝廷の威令がそれほど届かない地域・・服属している地域と言う意味だけで中国の国概念と一致していただだけです。
国の範囲は実際の生活圏と違っていたし、国単位で隣国と争うような必要もなかったので、その下の単位である「コオリ」が一般的生活単位として幅を利かすようになって行き、上位概念の国名や国司は実体がないことから空疎化して行ったのではないでしょうか?
ちなみに「こおり」は我が国固有の発音であり郡(グン)は漢読みですが、国より小さい単位だからと言うことで郡と言う漢字を当てて、これを「こおり」と読んでいたただけのことでしょう。
ところで、この後で書いて行く縣の読みについては古代では「アガタ」と言っていたことが一般に知られています。
しかし、ものの本によると「縣」の発音として「コホリ」と読む場合もあったようです。(どこで見たか忘れましたが・・・)
我が国古代の生活単位としては、先に「コホリ」や「コオリ」が存在し、これを中国伝来の漢字に当てはめて使っていた漢字導入初期の試行錯誤が推測されます。
我が国では大和朝廷が律令制に基づいて押し付けた生活実態に合わない「国」よりも小さい・・現実的生活単位として、「コオリ」乃至「コホリ」が使われていて、これに縣や郡を当てはめていたことになります。
このコオリ単位の行政運営が江戸時代末までコオリ奉行による行政として続いていたのです。
律令制が始まっても国司は郡司さんの意向を前提に政治をするしかなく、郡司が実力者だったと言われる時代が長く続き、江戸時代でも1カ国全部を支配する大大名は全国で何人もなく、郡単位の支配である大名が普通でしたし、江戸時代でもコオリ奉行が現実的行政単位だったのです。
徒歩で移動している時代が続いている限り、古代から明治始めまでコオリ単位が現実的な行政単位でしたが、明治になってその下にいくつもの莊を合わせた村が出来、村役場、村単位の小学校、戸籍整備その他が進んで来たので、中間の郡単位の仕事がなくなり郡役所もなくなりました。
村を合わせた上位の行政単位として明治政府は郡よりも大きな縣を創設しました。
実際交通手段の発達等により、小さな郡単位どころか従来の「くに」単位よりも大きな規模で行政する必要が出て来たのでこ、広域化政策自体は成功でした。
郡よりも大きな経済規模が必要になったと思ったら、古代からの国単位では狭すぎるとなったのですから、我が国では古代から現在まで国単位では何も機能していなかったことになります。
もっと広い県単位の行政が普通になってくると郡は無駄な中2階みたいで具体性を失い・・精々地域名として残るだけになったのでコオリと読む習慣も廃れて行き、今ではグンと漢読みするのが普通になり、コオリと言う人は滅多にいません。
縣の名称も明治政府のイキナリの強制まで日本での日常的使用例がなかったのですから、これは今でも(市原の人に限らず全国的に)音読みしかなく日本語読みが全く定着していません。
漢読みしかないと言うことは、その制度が現実的な意味が根付いていないことになるでしょう。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC