衆愚政治2

日本の民主党現政権には権力運用の経験がないので稚拙だと批判されますが、民主党だけに問題があるのではなくその支持者・・最終意思決定者となっている庶民自体が文句を言った経験しかないことが重要です。
自民党政権時代に意外にウマく機能していたのは、(高度成長期で誰がやっても楽だった時代ですがその他に)自民党支持者は旧来型のムラ社会の指導者が多かったところにも一因があります。
都市住民からすれば、自民党は田舎者の支持によって成り立っていると誤解しているでしょうが、伝統的集落では、古代から村落自治の伝統があり、寄り合いによって何でも決めて行く社会でした。
田舎の人の意見はこうした数千年単位(・・縄文時代まで遡ればもっと長いかも・・)の豊かな政治経験に根ざしていますから、その分主義主張としてははっきりしない点がありますが、結論が大人の意見になっていた可能性があります。
草の根の自主的決定・・自治の歴史のない韓国やシンガポールなどでは、政治決定が単純になりがちなのと対比出来るでしょうか?
キャッチアップ型後進国の場合、目標が決まっているのでその目標への到達すべき戦術論さえ議論していれば良いので簡単です。
我が国のように世界最先端の経済現象が起きつつある国では、先進国の事例を参考に出来ないのでもたもたするのは仕方がないでしょう。
経済学者の為替予想・経済予測が殆ど中ったことがないことからも分るように、彼らの意見は無限大に存在する「外部環境(与件)が一定であるならば、こうなる」という御託前ばかりで、「まさかリビヤでああいう事件が起きるとは思わなかった、まさか中国で薄熙来事件が起きるとは思わなかった・・・」「まさかあんな大震災が起きるとは思わなかった」等々言い出したら切りがりません。
このように政治経済の世界では無限大の変数を前提に処理して行かねばならないので、単純な結論の方が危険です。
自民党政治家が言質を取られないように曖昧な発言に終始して来たのは、一寸先が読み切れないリスク下で政治をしている自覚があるからでした。
この点都会人(私も含めてインテリ)は分野別の知識・意見でしかないので、その場の発言は単純明快ですが、政治経験が乏しく多方面の利害調整経験がないことから、その意見を通したら全体としてどうなるかの構想力が不足しています。
(原子力の専門家が、これをやめたら日本のエネルギ−がどうなるかについて意見を言う必要がないのと同様に、専門家というものは元々そう言うものでしょうが・・・)
サラリーマンも企業内での意見集約経験・会議参加が豊富ですが、会議は議事主宰者・・社長や部門会議の長の主導する意見におおむね従うイエスマン的議論が中心ですので、ゼロからどうする式の意見集約には馴れていません。
我々弁護士会や野党政治家も同様で、一定の方向性が決まっていて(弁護士としての立場での主張はこの方向しかない・・社会党や共産党・・あるいは市民活動家としての方向性などが予め決まっている・・派遣労働者の救済)その範囲内での戦術論的な議論経験しかないことになります。
以前研究者に対する批判として、(常温超伝導など)一定の研究方向が決まっていてその先頭争いばかりしているのって「学問の自由」というほどの価値がないのではないかと批判したことがあります。
(こうした意見は10/17/03「教育改革20・・・・・私立を元気にする寄付と税制の直接民主主義1」その他のコラムで書いてきました)
話が変わりますが、都会での町内会・自治会の担い手がなくなりつつある・・・衰退が激しいのですが、これは1つには都会人・・ホワイトカラーや工場労働者は、総合的な結果が必要な政治意思決定メカニズムに参加した経験がないまま、大人になり高齢者になった人が多いことによる側面があります。
子供のころから多様な意見集約訓練がないので、何となく集団の意思決定をして行く伝統的自治会運営の中でどのようにして自己表現して良いのか不明・・居場所がないことにもよるでしょう。
自分で参加して責任を持つ発言に慣れていない都会人が、ネット等・事実上匿名(10数人の顔見知りの集会での発言と違い、ネットでの発言では有名人でない限り氏名を公表しても匿名と左程変わりません)でいろいろ言いますが、この種の無責任な(一波万波を呼ぶ結果の重大さには興味を持っていない)発言に右往左往していては政治が機能しなくなるのは当然です。
地方自治体での震災ガレキ受入れに対する苦情殺到など・・何かあると直ぐに苦情が殺到するようですが・・・苦情者は言いたいことを言ってるだけで、その苦情を通すと全体としてどうなるかまでの関心・責任感がありません・・・。
「それを決めるのは自分の責任ではない、こうした苦情があることを前提に政治責任者が決めれば良い」
という結果無責任な立場での発言となります。
私のこのコラムなどもその一種で、最終結論は総合判断すべき政治家任せで「こう言う視点があるぞ・・」と言う程度の意見に過ぎません。
ギリシャ総選挙でも、もしかしたら、
「自分は緊縮政策への反対を表明したが、同じ意見の人がそんなに多くて緊縮政策が撤回(ひいてはEU離脱の方向)になることまでは予想していなかった」
という人が結構いるとすれば再選挙では緊縮政策反対の票がかなり減るかも知れません。
民主党〜旧社会党支持者には、結果無責任と言うか言いたいこと言っているだけの人が多いし、民主党の政治家自身も野党経験・・要求や反対さえしていれば足りたので、地についた議論の経験が不足していることは確かでしょう。

構造変化と格差36(衆愚政治1)

非正規雇用の待遇改善を国内労働問題として理解して、要求を強めれば強めるほど人権擁護になるという単純な発想は、現在では国際的な経済一体性が強まっていることを理解しない過去の思考形態です。
弱者救済というかけ声ばかりで日本全体の経済をどうするかの視点がなく、目先の痛みを避ける政治ばかりでは国の将来がありません。
弱者の声が小さい時代には、要求出来るだけ多くしていれば少しは聞き入れてもらえる時代が長かったので、庶民や下々は声が大きいことが美徳のような時代が長く何の問題もありませんでした。
労働者の団結権その他労働権は対等に議論出来ない弱者を前提にしている制度です。
本当の弱者が大きな声で、街頭デモをして大きな声で誰それは辞めろと叫んでいても大目に見ていれば良いのですが、強者が誰か個人非難をしてビラなどを貼るのは穏当ではありません。
紅衛兵運動でも分るように中国では官製デモが基本ですが、こういうやり方は陰湿です。
庶民が何かの組織責任者になってみれば分りますが、責任者・・一定の決定権を持つ立場になると自分の要求を控えめにしないとうまく組織を維持出来ない立場になります。
民主化が進むと、庶民は庶民のままで政治決定の主役になりますから、庶民も権力者・責任者になったつもりで要求を控えめにしないと国家運営が成り立ちません。
権力を握ったものが組織のためよりは自分の利益優先では、組織が持たないのはどこの国・社会でも同じでしょう。
企業内でその企業がつぶれても良いような運動をしていたのでは困るように、国民も自分の国がどうなっても自分の給与さえ上げてくれれば良い・生活保護費を上げてくれたら良いと言う意見で政治権力を行使するのでは困ります。
国政運営者としての自覚のない人たちの意見が政治決定を左右するようになると、いわゆる衆愚政治が始まります。
現在の政治の迷走は(ギリシャに限らずどこの国でも・・)国家的視点ではなく弱者と称する人たちの大きな声(税金や公課を負担したくないが保障は充分に求める)に選挙に弱い政治家が右往左往しているところにあります。
言わば庶民が政治の主役になってから年数が浅い(どこの国でも戦後数十年のことでしょう)ので、どのように政治権力を行使して良いかの訓練を受けたことがないのに、個別問題に口出しをするようになれば、民主国家の政治が迷走し始めるのは当然です。
中曽根元総理は「声なき多数」・・サイレントマジョリティーを強調していたことがありましたが、今では、多数が全体に責任を持たない意見を主張する傾向が出て来ました。
我が千葉県弁護士会でも、ここ数年執行部提案がことごとく否決される事態が続いています。
会員が急激に増えたことによる事務量の増加に対応するには、事務室の拡大・・会館の建替えか移転・借りるしかないのですが、ここ数年「ああでもない、こうでもない」という反対論ばかりで毎回否決されています。
私はタマタマ日弁連選管委員のために総会と同時進行の選挙事務立ち会いのために別室での職務があって殆ど議論を聞いていないので議論の詳細は不明ですが、結果として重要なことが決められない状態が何年も続いています。
野球などスポーツの世界で比喩すれば、民主化のためと言って監督経験のない選手が何十人も集まって監督の采配に注文を付けているようなもので、良い結果になりません。
我が国には、「船頭多くして船山に登る」という警句があります。

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