江戸時代までのムラと明治の村の違い1(入会地)

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東アジアの地方自治・試論
岡部一明 『東邦学誌』第34巻第2号(2005年12月)

明治の地方制度改革は、1887年の国会開設をはさんで、1888年に「市制・町村制」、「府県・郡制」が制定されてほぼ骨格ができあがる。自由民権運動の敗北の上につくられた官治的性格の強い地方制度であった上、その施行がはじまるとともに大規模な市町村合併が行われた。1888年末に7万1314団体だった市町村が、1年後の1889年末に1万5820と、約5分の1に減少した。その結果、これまでの自然村とは異なる新たな「行政村」ができた。集権化が一挙に進められるが、しかし、地主層を中心とする地方の有力者を中央集権的行政の末端にくみこむには、「自然村」を完全に解体するわけにはいかなかった、と重森暁は分析している。市町村内に、法人格をもたず、議会その他機関や予算制度をもたない行政区と区長を存続させることが認められ、「明治地方自治制度は、近代的地方行政組織と旧来の村落共同体的組織の二重性をもつことになった」65)とする。

従来の自治組織を破壊した町村制がうまくいかないので、現地人望家を何の権限もない名誉職的区長に任命して地元民との潤滑油を期待したものでした。
飛鳥時代の律令制定時に郡とその下位単位の里までは権力的整備したものの、自然発生的集落まで手をつけらなかったのですが、明治の地方制度改革は郡(こおり)以下の原始的共同体破壊まで目指したものでした。
律令性による全国への国司派遣が地元豪族を無視出来ず郡司を置いたのと同じパターンでやむなく「区長」(それまでの同輩の輪番制を否定して上下をはっきりさせる「区長」と名称を改めさせて)というものを並存せざるを得なかったのでしょう。
ただ、律令制の時は国家権力が弱かったので地元豪族の経済基盤を奪うことまでできなかったのですが、明治政府は各地集落運営の経済基盤である里山等の管理運営権の接収に向かいました。
これが我々法律家で有名な戒能通孝氏の研究・・入会権論争です。
中近世の集落は入会地の収益を通じて基礎集落・自治組織の運営経費を賄ってきたのですが、明治政府は、明治民法制定により「個人所有でないものは国有である」という論理でドンドン国有化して自治集団の息の根を止める政策に出たようです。
下記民法294条の適用をめぐる争いでした。
民法

第二節 所有権の取得
(無主物の帰属)
第二百三十九条 所有者のない動産は、所有の意思をもって占有することによって、その所有権を取得する。
2 所有者のない不動産は、国庫に帰属する。
第二百九十四条 共有の性質を有しない入会権については、各地方の慣習に従うほか、この章の規定を準用する。
第七章 留置権

入会権に関するウイキペデイア解説です。

歴史的には、明治に近代法が確立する以前から、村有地や藩有地である山林の薪炭用の間伐材や堆肥用の落葉等を村民が伐採・利用していた慣習に由来し、その利用及び管理に関する規律は各々の村落において成立していた。明治期にいたり、近代所有権概念の下、山林等の所有者が明確に区分され登録された(藩有地の多くは国有地として登録された。)。一方、その上に存在していた入会の取り扱いに関し、民法上の物権「入会権」として認めた。なお、このとき国有地として登録された土地における入会権については、政府は戦前より一貫してその存在を否定していたが、判例はこれを認めるに至っている。

これが現在の町内会に繋がるようで、町内会独自の資金がない・・任意の会費支払いによる状態です。
ウイキペデイア引用続きです

入会収益権は登記することができない。また、一般の権利能力なき社団の所有地の場合と同様に、入会団体の名によって登記することもできない。
しかし、薪拾いや耕作等の入会活動が行われている場合は、信義則の働きによって、登記がなくても第三者に対抗できる。第三者が登記の不備を理由に権利を主張するためには、善意無過失である必要があり、土地を実際に見れば入会権が存在する可能性が予見できる場合は、第三者の善意又は無過失を否定できるのである(登記の欠陥の主張は、悪意者であっても理論上は認められ得るが、悪意者が登記の欠陥を主張することは、原則として信義に反すると判断されるため、信義則に照らして保護されるべき理由がない限り、悪意者は登記の欠陥を主張できる正当な権利者とは判断されない。)。

せっかく判例で認められても法制度上の鬼っ子ですから、国有地として所有権登記されるとその登記抹消も認められない・上記条文の通り地役権でしかないので使っても良いという程度です。
政府は関連法令を整備しないで放置したまま現在にいたり、この数十年では里山に経済価値がないので地元民も薪をとり薪炭を焼く経済効用もないし荒れるに任せている状態です。
登記制度もないので登記できないし、裁判するにしても部落民権利者全員でないと出来ない?
村から出ていった人の権利はどうなる・次男以下の新宅がある場合長男の家だけ一票なのかなど調査も複雑で(鉄道用地買収の相手方として弁護士実務でやったことがありますが、被告としてどこまで把握すべきかもはっきりしない)、誰の名で裁判できるかもはっきりしないなど、権利行使阻害要因がいっぱいありました。

 「さと」(郷と里)2(村)

明治維新で小集落を大量に集めて現代の郡市町村制が布かれましたが、「村」や町に吸収された多くの旧集落(古代から続く「むら」)は、大字小字として名を残したのと同じです。
里部に関するウイキペデイアでは以下の通りです。

『周礼』によれば、五家を隣、五隣を里とするので、25戸であったとする。また距離の単位として300歩あるいは360歩(唐以降)を意味した(漢代頃400メートル強で唐代550メートル強)。なお現代では日本の尺貫法において4キロメートル、中国の市制において500メートルとされる。

上記の通り、中国の里は25戸ですし、日本の「さと」は50戸単位で規模が違うし、距離単位でも現在日本の1里は四キロメーターに対して現在中国の1里はわずか5百メーターです。
300歩四方といえば、日本の1町歩の面積(千坪=千歩・・1反歩=300歩・1畝30歩)に大方合いそうで・千葉市内の現在小学校の面積が大方この基準のようです。
日本では古代からムラが集落の基本単位のように理解しているのですが律令制では村の制度をそのまま取り入れず、明治の地方制度改革で初めて公式に「村」の名称が公認されたように見えるのは何故でしょうか?
村に関するウイキペデイアです。

近代化以前の「村」は自然村(しぜんそん)ともいわれ、生活の場となる共同体の単位だった。江戸時代には百姓身分の自治結集の単位であり、中世の惣村を継承していた。
江戸時代にはこのような自然村が、約6万以上存在した。また、中世初期の領主が荘園公領とその下部単位である名田を領地の単位としていたのに対し、戦国時代や江戸時代の領主の領地は村や町(ちょう)を単位としていた。
近現代の大字(おおあざ)といわれる行政区域は、ほぼかつての自然村を継承しており、自治会(地区会・町内会)や消防団の地域分団の編成単位として、地域自治の最小単位としての命脈を保っている面がある。
明治時代に入ると、中央集権化のため、自然村の合併が推進された。こうして、かつての村がいくつか集まって新たな「村」ができたが、これを「自然村」と対比して行政村(ぎょうせいそん)ともいう。

私は明治以降の村と区別するむら意識は古代からも群がる群れる・という和語から来ているので明治以降取り入れた漢字の村とは成り立ちが違うと思っていましたが、ウイキペデイアの解説では、行政村と自然村という区分けをしているようです。
古代のムラを現在用語である村と表現しているのは納得し難いですが、現在の行政単位としての村制度の中で生き残っている大字小字の原型という点は私の個人的的理解と同じです。
さらに自然村は、中世の惣村に始まるという学会?の傾向には直感的に納得し兼ねます。
それまでは散在していたが戦乱等で自衛のために?(映画7人の侍の学問的説明・・)地域共同体が強まったというのですが、古代から鎌倉時代まで人類が一匹のトラのようにバラバラに住んでいたかのような説明はいかにも不自然です。
短期的に見れば、荘園制度が発達して庶民がその下人として働く(自作農皆無?)時代には、自然発生的集落は衰亡していたかもしれない・この説明は江戸時代の商人の住み込み丁稚小僧らは自分の家を持てなかったのと同じイメージで説明されてもっともらしいのですが、安寿と厨子王の設定もそのようばイメージです・・仮にその意見が、実証研究に裏づけられているとしても、それは長い人類の発展過程では(日本の場合何千年という縄文時代の存在から考えても)荘園全盛期は一時的例外に過ぎない事象に過ぎないのではないでしょうか?
惣村に関するウイキペデイアの記事です。

中世初期(平安時代後期〜鎌倉時代中期)までの荘園公領制においては、郡司郷司保司などの資格を持つ公領領主、公領領主ともしばしば重複する荘官、一部の有力な名主百姓(むしろ初期においては彼らこそが正式な百姓身分保持者)が管理する「」(みょう)がモザイク状に混在し、百姓、あるいはその身分すら持たない一般の農業などの零細な産業従事者らはそれぞれの領主、名主(みょうしゅ)に家人、下人などとして従属していた。百姓らの生活・経済活動はモザイク状の名を中心としていたため、彼らの住居はまばらに散在しており、住居が密集する村落という形態は出現していなかった。

漢字になる前の集落・村に関心がない・・何でも漢字にしないと落ち着かない人が書いているのでしょうか?

https://kotobank.jp/word/%E6%9D%91-140799

むら【村】
〈むら〉とは農林水産業,すなわち第1次産業を主たる生業とするものの集落単位の総称であり,商工業者を主とする〈まち〉に対応する概念である。したがってそれは人類の歴史とともに古く,地球上どこにでも存在する普遍的かつ基本的な社会集団であるといえるが,〈むら〉のしくみや経済的機能は,民族により,また同じ民族であっても地域により,時代によって,きわめてまちまちである。ましてやその人口の多寡,村境域の構造,集落の形態,耕地のあり方,さらにはその法的な性格などということになると,〈むら〉とはこういうものだということを一律に規定することは,はなはだ困難である。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について

上記が一般的な理解でしょう。

村の哲学

ところでわが国行政基礎単位となっている(市町村と言うように最小単位として想定されています)村は、明治政府になって初めて採用された行政対象としての区域概念ですが、(それまではご存知のように「何とかの庄」や「何々郷」の名称で、その関連でムラの庄屋や名主・郷士がいたのです)明治になって何故使い慣れていない漢字「村」をイキナリ持って来たか不明です。
私の家族は東京大空襲で焼け出されて母の実家に帰ったのですが、私の育った田舎は、約1kメートル四方程度の大きさの水田地帯◯◯村でしたが、(当然一つの生活単位としては大きすぎるので、10個前後の集落・・大字に分かれていました)この行政単位を◯◯むらと表現していました。
千葉で弁護士をしていると、例えば市原市の在の人がもとの隣の集落のことを言うのに「何々そん」の人と言う漢字読みをする人が多いのに驚いたことがありました。
市原市の場合、昭和30年代の大合併で市原郡が全部一つの市になってしまった(ちなみに君津郡も同じく君津市1つになっていますので、意外に思い切った県民性です・・千葉県と言っても旧上総、下総、安房の三国が1つになっているので、かなり気風が違うのでしょう。)ので、元の隣近所の村の人を表現するのに「◯◯そんの人」と言うのでした。
(今ではこうした古い人も少なくなってしまったでしょうが・・・。)
私の場合◯◯村(むら)で育ち、自分の住所を書くのにも何時も何々村(むら)大字何々何番地と書き慣れていたので、「むら」と言う表現に既に馴染んでいましたが、多分市原市内の農村地帯の場合「村」と言う漢字の訓読み・・「ムラ」が定着していないうちに全部合併してしまって1つの市になってしまい近くに◯◯村がなくなってしまったからでしょう。
我が国では一般日常用語としては殆ど利用されていなかった漢字で誰もその(訓の)読み方を知らなかった「村」を、明治政府がイキナリ導入したから、馴染みのない漢字読みがそのまま戦後まで市原郡方面では定着していた可能性があります。
実生活範囲と関係のない観念的な行政区域だからそれでいいだろうと言う考え方もあたったでしょう。
現在での道州制論を主張している人が「道」や「州」を訓読みしている(・・意味なんかどうでも良いじゃないかと言うことでしょう)人を見かけないのと同じです。
「村」は従来の集落であるムラよりも規模が大きく、生活共同体的一体感もないので、日本語の何に当てはめて良いのか迷う人が多かったので、訓の読み方が直ぐには普及しなかったので、何々「ソン」と漢読みのママの地域が多かったのではないでしょうか?
「村」(そん)って何だろうねと言っていて十分馴染まないうちに市原郡の場合、戦後更に町村合併で1つの市になってしまい村がなくなってしまったのでそのまま「ソン」と言う言い方が残ってしまった印象です。
明治政府の方針は、従来のムラあるいは郷・庄等の自然発生的集落(水田農耕に必要な最低単位)を大字(おおあざ)小字(こあざ)と命名し、その上の行政単位として「村」を作りその読み方を放置していた可能性があります。
生活圏とかけ離れた観念的行政区域だったのがその後生活圏が広域化していき、あるいは行政区域に合わせた一体感が出来て来た場合、広域生活圏を村をあらたな「ムラ」と読む人が増えて来て、村の訓読み・・ムラが普及し始めたかもしれません。
従来ムラとは生活に必要な生活集団の単位・ムレでしたから、国民意識では政府の強制する字(あざ)こそがムラのつもりでしたので、広域化・一体化が進まなかった地域では、これを「ソン」と読んだままだった可能性があります。
私の育った農村は平らな水田地域でしたので、広域生活圏が意外に早く一体化して行った可能性があり、市原の場合、小規模な丘陵の繰り返しでその間に小規模な水田が湖のように点在している風土ですから、丘陵を隔てた各地域は行政だけ一体化しても生活圏としてはいつまでも一体感が育たなかった可能性があります。
ちなみに村の漢字の成り立ちを見ると、木の所に人が立ち止まって思案すると言う意味らしいです(寸は胸に手を当てて考える意味)が、その後どういう発展・事情によるか(私には)不明ですが、いつの間にか田舎のことをあらわすようになって行ったようです。
明治まで我が国では一般的使用例のない漢字が、これが行政単位として明治政府にイキナリ何故採用されたのか意味不明(私が今のところ知らないと言う意味)です。
漢字の数は膨大にあって日本ではほとんど使われていない漢字が今でも大量にありますが、村もその一つで・・明治までは普通には知られていなかった漢字です。
元々「木の下で胸に手を当てて考える」などと言う漢字を使うのは、よほど物好きの教養人しかいなかった筈です。
例えば、幕末の松下村塾が有名ですが、これは地方組織としての「ソン」ではなく、上記の意味・松の木の下で思索する・・それも「立ち止まって」と言うところが、時代の転換期に吉田松陰が主宰した塾として解釈すればオツなものです。
松蔭は杉家で生まれ吉田氏の養子となっただけで、氏としては松には特別関係がなく、一般的には寛政3奇人の高山彦九郎のおくり名にちなんで松蔭を名乗るようになったとも言われています。
伯父のやっていた塾名が元々松下村塾だったので、これに合わして松蔭と号したのか不明ですが、いろんな意味を合わせてこの号を名乗るようになった時には、既に樹下で立ち止まって思索することの意味を掛けていたのではないでしょうか。
松下村塾の命名自体は伯父の玉木文之進だそうですが、彼自身幼少時から松蔭を鍛え上げた逸材ですから、塾名を考えるときに当時一般的名称ではなかった「ソン」をつけるにはそれなりに深い意味を考えていた可能性があります。
ちなみに松蔭が生まれたのはいろんな解説では旧松本村とあるので、如何にも生まれた江戸時代当時から松本村があったかのようですが、これは萩市に合併される前の名称・・明治以降の市町村制の名称で書いているのか、江戸時代から松本村が存在していたのかまでは分りません。
地元の古い記録を見る必要があります。
(と言っても地元に行けばそれほど難しい事ではありませんから、まじめに解説する気ならば、そこまでちょっとした手間をかけるべきです。)
松蔭が生まれ育った場所としては「団子岩」と言われる高台とされていますので、私の想像では当時から松本村があったのではなく、前者・・明治以降の地方制度でその地域をまとめて松本村となっていたのが、戦後の市町村合併で現在の萩市になった程度の意味で、「旧松本村で生まれた」と観光案内や解説書に書いているのではないかと思います。
ちなみに萩焼は萩城下の松本で開窯されたとも言われますので、松本と言う地域名は古くからあった可能性があります。
宮本「村」の武蔵と言う表現も実は誰かが、(いろんな人がいろんな説を書いているので「宮本村の武蔵」と誰が言い出したか知りませんが・・)本を書いた当時最小単位であった村が昔からある行政組織のように誤解して広めたものかもしれませんし・・。
松下村塾の名を知っている人は無数にいるでしょうが、「村塾とは」立ち止まって考えるための塾だなどとは、殆どの人が思いつかない哲学的にひねった名称ですが、(私一人の独自解釈です・・)「村」と言う漢字にはこうした深い哲学的意味の使用例しか日本にはなかった筈です。
明治政府が(吉田松陰先生を贔屓にしていたのは分るとしても・・)意味の難しい「村」をイキナリ末端地方行政組織の名称に何故したのか政治的意図が不明です。

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