原発被害基準5(操業停止が許される場合)

建築基準・・クルマや食品基準等の過大規制があっても、(作れない訳ではないが、コストアップで国際競争に不利な基準)その業界が技術的適応可能な範囲の厳しい基準ですが、努力次第で何とかなります。
チャーチルかイーデン回想録かはっきりしませんが、英米がどんなに理不尽な要求を突きつけて日本人に意地悪しても、日本が反抗せずに努力して最後にはクリアーして来る不思議な国民性だと書いているそうですし、最近ではイタリア料理に修行に行った日本職人が散々にやがらせされても日本人が頑張り抜いたので、結局日本人がいないとイタリア料理が成り立たないとさえ言われるようになっているようです。
日本国内にも先議産業復興を妨害するのが目的かのような意地悪なマスコミが勢力を張っているのですが、(アメリカによる平和憲法強制・・武装解除を利用して日本は軍事費負担を免れて来たし、飛行機製造禁止されると新幹線を作るように)正面から反抗せずに黙って努力する国民ですから、結果的に世界一の低燃費・無公害システムが出来上がってしまいました。
(アメリカで日本車が席巻中なのは、日本車閉め出し目的で規制を厳しくした結果日本車だけがクリア−してしまったことによります)
産業発展の芽が出るたびに危険だと大騒ぎしては一々イチャモンつけて来たグループの功績と言えば言えますが、彼らはただ戦後日本の復興妨害・遅らせるために?アメリカが占領政策継続のために残しておいた反日運動を継承して来たのが思わぬ結果になったようです。
イジメッ子・嫌がらせをしていた結果苛められる方がグレないでまじめに対応して来たから、却って良い方へ(飛行機製造禁止が新幹線技術になったようにあらゆる分野で)日本人の智恵で変身してきました。
安全基準を厳しくする場合、企業に努力するチャンスを与えることにもなるので社会発展の原動力となることもありますが、特定業界に対して業務停止までを命じるようになると,適応努力を許さない・・その産業の存続を許さない国家意思になりますから、違反の連続性や国民一般に対する巨大な権利侵害の緊迫性が要請される・予兆の反復性などの要件が必須です。
原発は何回も安全基準に違反していてこれまで注意や勧告を受けたりしていたのでしょうか?
過去の基準で事故が起きたとしても今回は新たな基準が策定されたばかりでまだ違反していないでしょう。
何の違反もなくとも(世論のムード?を民意に敏感な?裁判所が嗅ぎ取って)今後違反しそうだと言うだけで、違反もないのに予め停止を命じることが許されるのでしょうか?
それとも過去の基準で事故が起きたから、今回の基準そのものが信用出来ないと言う連続性を言うのでしょうか?
これらの批判に耐えられるように、もしも事故が発生したら被害が大き過ぎるから1回も違反がなくとも(何となく怖いと言うムードだけで)停止を命じられると言う世論造り・・伏線が用意されていたように見えます。
違反ががなくとも危険だから許さないとなれば、「日本中の原発を許さない」と同義になってしまい、司法権の行使ではなく政治運動そのものであって、裁判官が司法の名をかりて政治運動をやっていると言う批判になりますがので、そんな乱暴な決定理由にはなっていないと思いますが、「新規制基準自体に対する国民不安を代弁したものだ」と言わんばかりのマスコミ応援もありますので、一応「回復不能な被害」とは何か」・もしかしたらマスコミが国民不安を煽るためにでっち上げたのではないかの関心でこの4〜5日書いています。
マスコミの袋だたきにあって何も言えない単一業界の泣き寝入りで成り立っていた過大規制の習慣が,原発事故を過大に言い立てる応援団となり、今回の仮処分命令正当化の伏線として、「ひとたび事故が起きると大変なことになる」と言う科学根拠のない大合唱の下地になっていた印象です。
具体論に入って行きますと、放射能もれ・汚染・被曝に対する被害想定基準は、大事故発生によって被告席に立ってしまい「そんな過大な基準はおかしい・・」と言う反論さえ許されない状態をマスコミアが作ってしまいました。
何も言えない電力業界の弱みに付け込んで、元々原発反対勢力であった民主党政権が原発産業の息の根を止めるため過大な放射能被害想定基準作成ではなかったかの疑問があります。
民主党政権の設定基準の合理性について・・基準設定が科学的合理性を越えて過大過ぎたのではないか・・と言う視点で、原発事故直後に広島等の原爆被害者に関する戦後70年近くも長年月掛けたデータ等を検討しながら、放射能被害って本当はどうなのか?の疑問で「放射能の危険性2(管理区域)March 28, 2011前後のシリーズで書きました。
当時も今も原発の安全性自体には私も疑問を抱いていて、そのような批判・疑問を繰り返し書いていましたが、それと東電が弱った弱みに付け込んで過大な被害や危険性を強調するのが正しいかは別問題です。
マスコミや人権派は如何にも被害者に寄り添い、手厚い救済を主張するようでいて、活躍の場を作るために?被害の定義拡大が必要・・(マッチポンプ?)→風評被害拡大で実質被害拡大に励んでいる感じです。
私は元々党派性が弱いので,客観的に正しいことを知りたいだけです。
その立場で原発事故当時に広島原爆被害が本当はどういうものだったのかが気になって、約70年に及ぶ追跡調査結果を紹介したのですが、要は被害感情を感情的に強調するばかりで客観的資料からは大した被害が出ていないと言うか、客観的被害資料が一切ないことが分りました。
「放射能、放射能と騒ぐけど大したことないじゃないか」と言うと非国民扱いされてマスコミに干されてしまうので、マスコミに出たい人は反論出来ない状態が続いている印象(私の偏った誤解かも知れませんが・・。)を受けてしまいました。

被害想定基準4

1000回に一回崖から落ちたり、エベレスト滑降スキーで命を失う人がいるとしても、その程度のリスクならばと、冒険を選ぶ人もいます。
個人プレーとはちがう地域安全は個人の勝手とは言えませんが、これを民意を吸収した政治で決めるべきか司法が決めるべきかのテーマです。
世上原発事故が起きると重大事故になるから司法が決めると言う印象が流布していますが、重大事故に対する規制も又巨大なマイナス効果を持ち、判断要素が複雑に絡まりあっているのですから、単線思考に優れた学校秀才・エリートよりは多様な民意吸収や複雑系判断に優れた政治家が決めるべきです。
何よりも国民主権・・民意重視の近代社会の価値観にもあっています。
その地域の人たちが自由意思で決めることであって、その地域外の人がとやかく言うのは本来間違っています。
地域内の少数派が地域外の中央から派遣される国の機関である(民意を受けた政治の支配下にない)裁判所に是非の決定を求めようとしているのが原発停止の仮処分です。
ところで被害想定→規制基準はいつも過大になる傾向があります。
ソモソモ各種規制・・被害想定自体が政治的(運動家の運動によって)決められて来た経緯があり、科学で決まったものではありません。
この辺はフッ素化合物の事件をやった経験でも、2月ころに環境大臣発言問題に関して書きました。
個別化学品等の危険騒動は、対象になる被害業界の声が小さい・・単体の製品業界はマスコミの袋だたき・合唱の対象になるととても太刀打ち出来ませんから・・非合理に厳しい基準になって行く傾向がありました。
自主規制でさえも行き過ぎと言うか、いわゆる賞味期限切れ食品等廃棄の行き過ぎ・・食品や自然そのものは抗議の声を挙げられませんが、万物に神宿る日本人の精神からすれば許されることではない・・あまりにも資源の無駄遣いをすれば環境のしっぺ返しを受けるでしょう・・賞味期限切れ商品を集めて後進国へ寄付する動きすら報道されています・・がこの弊害の現れです。
これまで安全基準は規制される方の声が小さいことを良いことにして「厳しければ厳しい程良い・・はっきりしない場合は多めの基準にする」と言うマスコミの主張がありました。
何事も一定の規制をすれば必ず反対側に規制される側がありますが、この思想は相手方・過剰規制によって発展阻害される方を敢えて見ない偏ったものだったのです。
人権?運動家の多くは、高速道路反対、飛行場反対・・各種操業(ゴミ処分場・工場・葬儀場・ビル建設、高層マンション反対・・環7や環8あるいは圏央道や外郭環状線反対その他大方(今や身の回りになくてはならないほど日常便利に利用していること全て反対でした)反対などに始まって、電子レンジ、防犯カメラ、パソコンの電磁波・・最近では電気自動車は低音だから歩行者には危険だと言う主張もあります・・新しいものが出るとすぐに◯◯が危険と言って反対するなどを見ると・・発展しそうな事柄には何でも反対する傾向で一貫しています。
そもそも新しいことが普及するのに反対するのを共通理念・・高度化便利化にすべて反対して来た流れを見ると、産業規制が強ければ強いほど良い・規制が強くて結果的にその産業がなくなれば最高の成果になるのでしょうか?
安全基準は厳しければ厳しい程よいというマスコミ・文化人の誘導が強く・おかしいなと思っても黙っていた国民が多かったのですが、マスコミもさすがに世論(産業を敵視運動は国民自身の職場でもありますので)の一定の支持を受ける(今の民主党支持率は10%以下でしょう)には、企業活動が存続出来る限度と言う縛りがありました。
露骨に国民の職場がなくなっても良いとまで言うのでは、文字どおり外国の回し者か?と疑われてもっと支持率がもっと下がりますので、日本産業壊滅目的を隠して名目上「環境保護」に頼り、その基準を非常識に挙げる努力に特化してきたように思えます。
反日運動家の拠り所はこうして(素人には分らないから専門家に任せろと言う)憲法違反とか、環境基準と言う(学会の通説からはなれた)偏った学者の総動員に振り向けられて来たように見えます。
民意よりは訳の分らない権威を振りかざして黙らせる手法の採用です。
革新系は議員その他支持者に東大卒とかなんとか高学歴者、医師弁護士や文化人?等を重宝する傾向が強いのは、こうした現れです。
朝鮮族ではヤンパン思想の名残で、今でも相手が先ずソウル大卒と自己紹介すると格の劣る学歴の人は人は反論出来なくなる図式が知られていますが、韓国流儀が日本でも通用すると信じ込んでいる様子です。
東大卒も憲法学者も元最高裁判事も作家も一杯いるのに,その中の少数の学者や元判事が一人でも数人でも革新系有利に発言するとその道のプロみんなが主張しているようなマスコミ報道が普通です。
1億以上の人口の中で僅か1000〜2000人が反対デモすると、市民の声を無視するなと言う主張も同じです。
サイレンとマジョリテイーについてこの後で書くつもりですが、マスコミは騒ぐ人の意見に対して何十万倍もの価値を認める傾向があります。

被害想定基準3

マスコミや日弁連「自由と正義」3月号の原発被害特集を見ると地元被害が如何に大きいかを強調して何十年経ってもまだ復興出来ていない・・こんなに被害が大きい・如何に原発被害が大きいかを(原発被害なのか過剰避難命令による被害なのかの検証姿勢がなく)自作自演して(それどころか自主避難者も救済すべきと損害を拡大させて)行く印象が見えます。
高台移転を言っていた古人の業績ばかり強調し、最近これを無視していた咎めが出たかのような報道が圧倒的です。
しかし高台が安全なことを知りながら危険な筈の海岸沿い居住を大多数現地人が何故選択していたかの合理的検証を全くしていません。
これは1000〜800年に1回くらいの被害ならば、そのとき逃げればいい・・ある程度の人が運悪く逃げ損なっても統計的に大した損害ではないと言う庶民多数の自発的に選んで来た智恵ではないでしょうか?
ちなみに「市」とは、5万人以上が基本要件です。
ウイキペデイアでは以下のとおりです。

市・町・村の条件[編集]
市は以下の要件を満たさなければならない(8条第1項)。
人口5万人以上。ただし1965年(昭和40年)以降は、市町村の合併の特例に関する法律(平成16年法律第59号の新法では第7条)の規定が適用されれば3万人以上。

昨日紹介したとおり、陸前高田市等特殊被害最大地域でも被害者は人口比11%あまりでしかなく、その次に被害の大きい22市町村では、100人前後の被害とすれば、人口5〜10万人平均として500〜1000分の1しか被害者がいません。
要するに殆どの人が助かっている・・逃げるのに成功していたと言うことです。
殆どの人が助かっていると言うことは、彼らが津波に逆らって勝ったのではなく逃げる判断・ルートさえ適切であれば助かったとおおよそ推定出来るでしょう。
そうとすれば、広報活動や水門を閉じる仕事などをしていて逃げ後れる人を減らす計画や病気等で逃げられなかった人を今後どうするか程度の議論でいいのです。
海抜5〜10メートル前後の大規模人口集中地は全国至る所にあって、工場や商店街も高台しか設置できないとなれば日本列島では生活が成り立ちません。
自然に逆らう巨大堤防を作っても限界がある・そんなことに頼るよりも早く逃げた人は皆助かっている現実を何故報道しないのでしょうか?
早く逃げる・逃げられる設備造り・・ここに防災活動の原点・眼目をおくべきです・・。
イザと言うときに逃げられない病人・高齢者・・病院・老人施設等は高台に作っても日常元々自分で買い物や仕事などしていないから、高台に設置しても実害が少ないし抵抗が少ないでしょうが、日々仕事する漁業施設・仕事場は海辺直近にないと不便です。
これを無視して「高台で魚介類の水揚げ作業しましょう」と言っても無理があり,仮にこれを法で強制すれば生産現場に近いからこそ成り立っている各種漁業系産業が(競争力を失って)壊滅します。
その他近代産業は物流を含めて大量の水を必要としているので,(世界中で内陸国が発展出来ないのはこのせいです)海岸から隔離するマスコミ宣伝によれば各種産業はほぼ壊滅です。
被害の大きい陸前高田市の景色を見れば、近くに小高い丘や山がない地域では徒歩で逃げるのに無理があったことが分ります。
日本中の大都会は全て海岸沿いの平坦地ですから、高台移転論は現実的でないことが分ります。
大都会では、何十万人も一斉に逃げるのは無理があるので、身近な高層の避難場所を中心に準備すべきでしょうし少人数地域では先ず逃げる準備中心であるべきでしょう。
小集落裏の岡へ逃げるのに便利なように至る所に石段を作るとか、ある程度の距離の場合、クルマ等移動手段が発展する一方ですから、(自動運転化技術の進化によって高齢者・弱者も簡単に使える時代がもうすぐ来るでしょう)から、海岸線に平行する道路が多い現状から普段使わなくても海岸から、内陸に向かう道の増設、地震発生と同時に水平移動よりは、上下移動方向優先に信号を切り替えるなどのソフトの工夫・・によって人口の少ない地方都市の場合大方助かるのではないでしょうか?
津波に逆らう巨大堤防を作っても維持コストが膨大で、しかもその間邪魔になるだけで有効利用する方法もありませんが、高台に移動する道路を多めに作っておいても堤防と違って邪魔になりません・・地域の人にとって日常生活が便利になるだけです。
ところで古代から津波被害を知っている地元民の多くが、この教訓を守らずに何故高台移転しなかったかを「バカにしないで」その身になって考えて見ましょう。
最大でも1000年×365日に1回でしかも人口の10分の1しか犠牲にならないとすれば、自分がある日、被害を受ける確率は言わば365万分の1の確率ですし、人口の500分の1の被害ならば、約1800万分の1の確率でしかないのですから、毎日遠くから海岸の漁港まで通っていられるか?と言うことではないでしょうか?
高齢になれば住み慣れた自宅が良いし、80〜90歳になって逃げられなくとも、どうせいつか死ぬし・・「そのときはそのとき・・」と言う達観した考えの人も一杯いるしょう。
私自身に置き換えれば「もう十分に生きたし焦ることはない、日々便利な方が良い」と言う判断に傾きそうです。
今後は高齢者やリタイヤーした人の中で、集団生活するようになった人中心に高台移転・・老人ホーム病院などを作れば良いと言うことではないでしょうか?
まだ命の惜しい人でも、海岸にしか病院や老人ホームがないと自分の意志で高台を選べないことになります。
何万日に1回のリスクよりは毎日海の近くで潮の香を嗅ぎたい人は、本人の意思に任せるべきです。
保育所や小学校などは毎日の通学送迎があるので利便性を考えて居住地付近・・便利な海沿いに作っても、その代わり、避難マニュアルや避難用バスなど充実させれば済むことです。
学校や保育園など被害は、避難判断次第であったことが分っています。
こうしたいろんな選択肢があるのにマスコミが全くこれに触れないで、「大変、大変だ」と騒ぐばかりで結果的に地域の人が元どおりに住む意欲をなくす方向ばかり煽り続けるのは、地域社会の破壊破壊効果があります。

被害想定基準2

一方で被害想定が大き過ぎるのも対象産業に対してマイナス効果になります。
被害者となれば大騒ぎすれば良いと言うマスコミ傾向が強い(韓国の沈没事件被害者横暴やアメリカの空港での着陸ミスがあると、乗客が職員に暴力を振るい放題になるなど驚くばかりですが・・日本マスコミ人材も韓国の影響を受けているのか被害強調が好きなようです)・・大げさ過ぎると関係業界や生活者への規制が必要以上に強まって、社会にとってマイナスですのでこれも気をつけるべきでしょう。
10の被害が予想されるときにこれに比例する規制が妥当ですが、想定が10しかないときに数十倍の100〜200の被害想定を煽って必要以上に厳しい規制基準を設けるのは行き過ぎ・・規制される方にとっては不当な規制・・業務発展阻害地域社会破壊行為です。
津波に対して高台が安全と分っていてもその地域の多くの人が高台に何故住まないか、海産物事業所を設けないかと言えば、1000年に1回家が流され、場合によっては命を失うのですが、・・今回のような津波が来ても必ずしも命を失うとは限らない・・・しかも助かる人の方が多いのと1000年間ずっと毎日(3万6500回)遠くから通う不便とどちらを選ぶかと言う各人の判断です。
今回のような大惨事では死亡者数ばかり強調されて助かった人の数は報道されませんが・・実は助かった人の方が圧倒的に多いと思われます。
もっとも被害率の高かった地域でも以下のとおりです。
28年3月15日現在のウイキペデイアによれば、

地域別の被害状況[編集]
2011年7月14日15時 (JST) 現在、死者・行方不明者数の合計が100人以上の自治体は、岩手県、宮城県、福島県の22市町村に上っている[66]。
「陸前高田市では、市民会館や市民体育館などの指定避難所の多くがほぼ天井まで水没して避難者の大半が死亡し、市街地全域が壊滅的被害を受けた。高田病院で4階まで浸水し27人が亡くなるなど、1,800人弱の犠牲者を出した。市職員も1⁄3弱に当たる113人が犠牲になり、浸水域人口に対する犠牲者率は、宮城県女川町に次いで高く、大槌町と同率の11.72%であった。
大槌町では、役場で災害対策本部の準備をしていた職員60人中、当時の町長である加藤宏暉[67]を含め30人以上が亡くなるなど、1,300人弱が犠牲になった。また、火災も発生した。浸水域人口に対する犠牲者率は、宮城県女川町に次いで高く、陸前高田市と同率の11.72%であった。」

上記によれば、最大被害を受けた地域でさえも11%台に留まっている・・逃げられた人が約90%もいると言う事実です。
逃げられなかったのは老人等弱者と言うよりは、働き盛りの市職員や広報活動に掛け回っていた人やビルの3〜4fで安全と思っていて駄目だったなどがおおいので、要は判断ミス(個人のミスとして保育園などの被害者が国家賠償請求訴訟をする傾向がありますがいずれも敗訴しています・・事前避難計画ミス)が大部分と思われます。
そうとすれば避難計画をもうちょっと綿密にやればかなりの被害を防げたことが確かで・、そんなに大騒ぎする問題ではありません。
ウイキペデイアによれば、その他の地域は100人を超える被害が東北全体で22市町村でしかなく、その他では何十人単位ですから、実は被害を受けた人の方が圧倒的に少ない・・多くの人が助かっている事実をマスコミが報道していない・・偏った報道をしているのです。
「津波被害が大変だからすぐに応援しましょう」と言う報道は必要ですが、長期政策のあり方を判断するためには、助かった人と被害者双方の客観的事実を報道して国民に冷静合理的判断の資料を提供すべきです。
これに触れずに被害が如何に大変かばかり強調している・・対策を論じる場面では、客観事実の報道が必要ですがマスコミは5年経過しても被害強調ばかりで、冷静報道を未だにしていないのが問題です。
5年経過で折角冷静に考える時期が来ているのに、再びエモーションをかき立てる報道ばかりで埋めつくされていると冷静に見る芽を摘んでしまう・・5周年と称して(戦後何周年と称して毎年今年の政権は中国らに何と政府に謝罪すのか?ばかり関心を集中した報道する奇異なマスコミ習慣についても以前書きました)未だに大々的に感情を煽る方向に誘導する・・・「まだ東北は大変なのだ!」と言うマイナスイメージを呼び起こす方向性です。
あまり一方的報道が酷いと「津波被害感情が薄まると誰が困るのか?」と言う疑問が生じますが、冷静判断をさせずに一定方向へ世論を誘導したい勢力・・マスコミの利害があるからでしょう・・。
株価が下がったり困ったことになると日本中のマスコミ内部で喝采している異様な心理状態が、ネット空間では言われています。
日本の不幸な状態が続いた方が良いと思うのは・・その方が得する勢力があって、それをマスコミが応援しているからでしょう。
日弁連機関誌「自由と正義」3月号かと思っていたら探せないので別の法律雑誌と思いますが、昨日読んだどこかの雑誌に、福島の弁護士の投稿があって、福島と言っても大多数は平穏に生活している点を強調していました。
・・地元復興をさせない・・なるべく報道しないマスコミの勢いに地元弁護士がもの静かに反発しているイメージです。
政治活動するべき組織でないから正式表明していないでしょうが・・概ね社会で理解されている意味で言えば・・マスコミと連動して原発被害特集を組んでいる日弁連の基本姿勢に反していますが・・。

高浜原発仮処分と原発被害想定基準1

話を戻しますと、事故発生率と予防接種によってすくわれるメリットとの兼ね合いで、その事業をやめるか・鉄道を緊急停止するか、その地域での居住をやめるかを決めるのは、民意を吸収した政治判断で行なわれます。
司法がこれに介入して事故発生率が100%ないと言えないことを理由に予防接種禁止命令を出したり、鉄道運行停止、居住禁止命令を出すのは行き過ぎ・・越権です。
飛行機やロケットの歴史を見れば分りますが、科学技術に限らず、(どんな仕事・スポーツでも最初は失敗しながら改良して行くものです)ものごとの最初は失敗リスク率が高いのが普通です。
失敗はつきものですから、実害が生じてからの損害賠償請求は、これを人類発展のために予定されたリスク分担として補償や保険と言うか名称の問題は別として、(・・ロケットが民家に落ちれば被害弁償すべきでしょう)何らかの被害補填すべきである点は争いがありません。
他方でまだ何の損害も発生していないのにリスクがあることを理由に、実験や操業停止を命じられるのではどんな既存の商売も・・ましてドローン利用や仮想通貨など新規商品はリスク一杯ですからやって行けません。
日本一の名医と言われている人でも、回想録などによると年何百回の手術例の中で何割かの失敗があると書いています。
長島,王などの名選手(たとえが古いかな?)でも空振り3振が一定率あるのと同じです。
100%の安全性を事前に要求するのは、「空振りする可能性があるならばバッターになるな」と言うようなものですが、空振り3振は実害が少ないから同じ問題ではないと言えますが、そうなると仮処分の成否は実害の想定次第になるでしょうか?
実害と言えば、監督や選手にとっては9回裏ツーアウトの場面で一打逆転するかどうかと言う意味ではその「一打」がどうなるかの損得は「命がけ」です。
小は小なりに必死・・重要性は、同じではないでしょうか?
被害想定の大きさに比例して停止の影響の大きさも甚大ですから、「ものごとの禁止や推進には、大は大なりに、小は小なりに」対の比例関係にある点は同じです。
政治運動には必ず利益を受ける層と損する層があると書いてきました。
被害の大きさを主張する勢力は、操業停止による産業発展その他に波及する国民的被害を見ないことにしているし、操業停止の被害を言う場合事故被害を過小に見ている関係があります。
私の子供の小さい頃に親子劇場の鑑賞を楽しんでいたところ、専用ホール建設運動の署名を求められたことがあります。
商業的に成り立つならば結構だが、税で作るとその税負担が将来どうなるの!と言う疑問を言うと、運動家は怪訝な顔をするだけでした。
対になる税負担を見ないことにしているのです。
大方「運動家」と言うのは自分の懐を痛めない税で負担させようとする自己中心の運動が大多数です。
税になると一般人にとって、直截自分が損をしない・・拡散するので反対するほどの損ではないとなり勝ちで自分の損が目に見えないので署名活動に反対し難いし、稀に議論まで行くと大企業からもっと税を取れば良いと言う方向へ話題が行くの(消費税で言えば、軽減税率など自分だけ良ければという発想)が普通です。
以前には自衛隊戦闘機1機でこれだけ作れると言う言い方がはやっていました。
弁護士会でも何かと言えば、「会」で主宰して欲しいと言う要望が出るのはこの一種です。
年初以来保険財政赤字原因として連載しましたが、高度医療の「保険適用が漸く◯◯から認められるようになって良かった」と言う一方的朗報としてマスコミ報道されるのが普通です。
トクテイ難病者にとっては、朗報ですが国民は難病者だけではありません・・・資金負担するだけの国民の方が圧倒的に多いのが原則です。
本来少数者の利益・・多数の損になることを、マスコミはあたかも国民多くのメリットのような報道をしています。
可哀相な人を救う気持ちは尊いことですが、それは国民がはっきりと利害を開示された上でそのように思ってこそ尊いのであって、特定高度医療に保険適用すると年間どのくらいのコスト増になり、一人いくらの負担になるかの試算をその都度発表すべきです・・。
コスト負担を紹介しないで、マスコミが国民意思を勝手に代弁して「目出たい」ことになったと言う方向ばかり誘導するのは・・一方に偏った報道です。
我田引鉄・・有力政治家がコストを無視して自分の政治地盤に国鉄を誘致した結果巨大赤字になったのも同じでした。
何事も目出たいことの対になるコストを考えておかないと際限なく赤字が膨らんで行くし、あるいは安全のために規制さえすれば厳しくすれば良いと言う一方的意見ばかりだと産業基盤をぶちこわしてしまいます。

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