脱原発と即時停止の違い2

海渡氏はどこかで、10万年に1回の地震発生数を基準にすべきと書いていたような記憶ですが・・「脱」という方向性だけならばそのような主張もありかな・・私も10万年に1回でもあるならば脱原発の「方向」(50〜100年の間には画期的技術が発明されるかもしれませんが、現在科学技術を前提にすれば)で努力するのは良いことと思います。
しかし、確定期限を決めて期限が来れば準備ができても出来なくとも禁止すべきとなると「そんな明確な期限を決められるのか?となります。
バリアーフリー化を進めるのが正しいとしても、一定時期まで達成しない公共施設使用禁止にできるでしょうか?
身障者雇用基準に達しない場合に一定の負担をさせるようなペナルテー的な制度を準備する程度でしょうが、原発の場合、代替エネルギーが育たないまま、禁止したらエネルギー不足で失速してしまいます。
代替エネルギーの進捗に関係なく一定期間で全面禁止するのは無茶すぎると思いますが、この点は民意で決めるべきでしょう
どうやって民意を把握するかにかかってきますが・・。
ところで、脱工業化等の脱〇〇論は代替手段の準備を必須の前提としていますが、即時停止論は準備不要論ですから原発訴訟は判決で即時操業禁止を求める(準備の有無を問題にしない)点で、脱原発論と両立しない主張です。
訴訟では原発がなくとも今までやってこられたと主張をしているので準備不要と言っていないとなるのでしょうが、この辺の民意がどうなっているかでしょう。
休止していた老朽火力発電の再稼働・その他施設もフル稼働の状態で定期改修もままならない状態放置で良いのか、火力に頼る状態で電気代が上がれば他産業からの参入も増えますが、要は緊急事態発生で国民生活に迷惑をかけないように必死にしのいでいる緊急状態を恒常化して良いかの議論です。
長期的には脱炭素社会への逆行、家計に響く電気料金アップ(いつまでも補助金を続けられません)等との兼ね合いです。
仮設住宅でなんとかなったから元の住宅街復興など不要でないかという意見はないでしょう。
準備が揃っていると見るべきか否か(緊急事態に合わせてやりくりしているだけかどうか、総合複雑な判断が必要ですから)もエリートが決めるべきではなく民意で決めていくべき分野でしょう。
その上で1000年に1回あるかないかわからない(海渡氏の意見では10万年に1回を主張するようです)ことのために原発を即時停止すべきか、民主党のように30年台までにやめるか、いつまでどうするかこそが、最重要論点ですが、この重要論点についてあっさりと「脱原発を国民大多数が求めている」→原発訴訟支持=即時停止を支持しているかのような印象操作をした上で「裁判官が政治権力から独立して判断すべき」という論理飛躍の結論に繋いでいた印象を受ける文章でした。
別のところでは、「市民の7割」が求めているともあった記憶ですが、政党分布からしてどこにそういう数字があるのか不明ですが「市民」とは、もしかして国民の一部を言うのかもしれませんが、それならば、定義を示してほしいものです。
行政区域言うならば、全国ほとんどが「市」になっていますので、独自の定義があるのでしょう。
「脱原発(方向)論が多いことと、即時廃止論」とが何故=で繋がるかの説明が必要です。
もともと「脱原発」という用語自体に即時廃止を含まないニュアンスがあります。
「脱工業社会」「脱炭素社会」古くは「脱亜入欧」という言葉もありますが、「脱〇〇」というのは徐々に準備して原発や〇〇の不要な社会に変えて行こうという意味の熟語です。
脱炭素社会と言うときは、明日からいきなり炭素系エネルギー生産工場の操業禁止しようと言う意味ではなく、そう言う社会に移行できるように研究して代替エネルギーの開発を進めましょうと言う意味でしょう。
民主党の「30年代まで」と言う意味も、研究開発目標をそのくらいの時間軸で決めて「みんなで代替エネルギー開発に邁進しましょう」と言う意気込みを示したにすぎず、準備が出来なくとも決めた時間が来たら全面停止すると言う意味ではないはずです。
脱原発に限って、準備が整っても整わなくともその時期が来たら問答無用で操業禁止する時期を決めたかのようにすり替えて宣伝してきたのがこの4〜5年の動きです。
「準備次第」を前提にするから明確な期限を定められず(民主党は当時政権担当だったので、無責任なことは言えないので)三十年代というぼかした表現にしたと思われます。
原発事故の大興奮下の民主党政権で(鳩山氏の「少なくとも県外へ」と思考方式が同一・実務経験不足)これといった関連産業分野の周到な調査なく30年台中の目標を掲げたものの、政権担当でありながら、三十年代中の脱原発完成可能性に十分な検討を経なかったらしく18日に紹介した通り、すぐにこれを撤回し参考意見に格下げしています。
福島原発事故時の菅総理の独断傾向が有名ですが、これは個人資質が強く出ただけで・・上から決めて行く革新系の体質による点は同質でしょう。
「国家の責任者になればこうする」と明言する以上は、(子供が大きくなれば、〇〇になりたいと夢を言うのとは性質が違います)その準備を済ましてから言うものと受け止める社会で鳩山氏の独自解釈で(準備なしに言っても)「嘘にならない」と言うのは、「一種の騙し」と国民は受け取りました。
鳩山氏の「少なくとも県外へ」の主張は、「詰めが甘い」というよりは現場重視の精神が基礎にない・エリートが集まって観念論で決める習慣があるからこうなったのです。
観念論者の集まりでも、政権担当中はさすがにすぐに操業停止させると関連業界の倒産等雇用問題〜電力不足で国家が成り立つかその他の影響が出る・・代替エネルギー育成までの準備期間が必要くらいは官僚から具申があって考えたのでしょうが、各産業界からの研究水準等の見通しの積み上げるという実務経験がないので、政府首脳の頭だけで考えて大づかみの年代を決めてしまったように見えます。
もともと地道に考えた目標年次ではないので、政権から離れると観念的体質の地金が出て、代替エネルギーの準備保管状況など重視しない意見が幅を効かし始めて、昨年初め頃に民主党内で三十年「代」では甘い・三十年と限定しようという突き上げが起きてきました。
党の基本政策変更には、事故当時から五年以上経過して代替燃料の開発が想定よりも早く進んでいるという客観状況の主張立証が必要ですが、その主張がほとんど聞こえてきません・・政府・日本国民を困らせようとする意欲ばかりが目立ちました。
海渡氏の主張を読んでも「原発の公共性必要性がない」というだけ(別のところで書いているのか読み落としか記憶がはっきりしませんが)過去5年間ほぼ原発ゼロでやってきたが、なんとか間に合っているという一般論程度のイメージシか伝わってきません。
なんとか間に合うためには緊急事態として国民の協力があるほかに、余裕のない電力事情で改修等にシワ寄せが行っている点をどう見るか、・・ここ数年たまたま原油値下がりで助かりましたが、それまでは貿易赤字どころか経常収支まで単月で赤字が始まるなど大変な事態でした・・こういう見通しも重要です。
代替電力論は、結局コスト問題だからです。
代替電力なしに単純原発停止して、その分電気なしの生活水準に落とす覚悟があれば簡単ですが、生活水準を下げるのではなく、産業界で負担しろとなるのが民主国家の宿命?でしょうか?
太陽光発電の高額補助金も高コスト化分を利用者負担にできない結果です。
自分が負担するのは嫌だが、コストの安い原発をやめて高いコストでも再生エネルギーにしろというのは自己矛盾の主張です。
「上寿司の料金を払いたくないが上寿司を食わせろ!」というような意見です。

民意4(脱原発と即時停止の違い1)

ウイキペデイアによると枝野氏は野田内閣では経産大臣等でした。

野田内閣
2011年9月2日、野田内閣発足に伴い内閣官房長官を退任。当初は「一兵卒として政府を支える」と話していたが、同月12日、福島第一原子力発電所事故をめぐる不適切な言動で辞任した鉢呂吉雄の後任として第16代経済産業大臣に就任し、10日で閣内に戻ることとなった[50]。2011年10月3日、内閣府特命担当大臣(原子力損害賠償支援機構担当)が加わる[51]。

枝野氏は、上記閣議決定に加わっているのです。

海渡氏が言う「多くの国民の世論が脱原発を求めている」というのが単なる「脱原発」ならば、脱原発論には40年台〜50年代を視野に入れ、この間画期的技術革新によって安全性が高まれば、脱原発そのものの見直しもあり得ると言う自民党支持者から30年台廃止論までいろいろあるのですから、「即時停止を求める原発訴訟」に裁判官は「勇気を」出して欲しいということと、どういう関係にあるのか不明な主張になります。
ここには脱原発論=即時停止が国民意思であるかのようにすり替える意図で書いているとよめば理解可能で、上記数々の選挙の結果の現実を見ると、大きなマヤかしがあることになります。
脱原発論と即時停止論には大きな違いがあるのに、脱原発論が国民の大きなうねりであることからいきなり即時廃止論が支持されているかのように飛躍するのは、一種の虚偽主張で読者や裁判官を誤誘導する意図があると言うべきではないでしょうか?
平和を愛するか?と言えばほぼ全員イエスですが、それとどうやって平和を守るかとなれば、非武装論との間にはいろんな意見があるのに平和論=非武装論というのと同じです。
専門誌とはいえ、法律家内で影響力の大きい媒体に即時廃止論が多数を占める事実がないのにあるかのようなすり替え発表するのはフェイク報道というべきではないでしょうか?

海渡氏の論説は地震や火山噴火の予知能力がない点を科学的・訴訟手続き的に論証した経緯を書いているのですが、多くの国民にとって「明日の天気さえ正確にわからないのが現在の科学だ」ということは弁護士が解明してくれなくとも先刻承知のことです。
「いつ地震が来るかを科学論で決められるような単純なことではない」のは裁判しなくとも国民多くが知り尽くしていることですから、訴訟でそれを証明したと言っても国民には不可解でしょう。
何もかも正確にわからない前提で、リスクをとって海外進出したり、選挙に出馬したり解散総選挙に踏み切る先送りするかの決断するしかないし、ABCDの企業から内定をもらった学生がどこに就職を決めたら良いか、何十年先の運命など誰もわからないまま、まずは何かを決めて行くしかないのが普通ですし、いつも瞬時にABCなどの選択肢から一つを選らんで生きていくのが人生の全てであり、企業や社会のあり方です。
いわゆる「万事塞翁が馬」の故事通りです。

科学や学問で一義的にわからない問題では、専門家の優位性はありませんから、文字通り民意で決めて行くべきテーマです。
津波被害の大きかった地域で、海岸線に住まないで高台に住むかの選択でさえ(地震学者を呼んで地元勉強会を開いても・結局よくわからないので)最終決定は地元住民の自己決定に委ねるしかないのが原則です。
地元政府でさえ住民の自己決定を尊重するしかなく、地元政治家がその意向を汲んでせいぜい住居地域や商業地域などの都市計画上の区割りをできる程度であって、裁判所は建築物が条例違反かどうかを認定するだけであって、地元民意による条例を待つしかありません。
海岸部の低地帯に工場を設けて住居地域を高台にした場合、工場や商店ならばなぜ安全と言えるかを論争しても仕方ないでしょう。
自然災害の猛威との付き合いはこの程度で妥協するしかないと言う民意です。
レッセフェール・自由主義社会→民主主義国家の価値観は、机上の空論よりは現場のファジーな意見の集合体が導き出す市場相場や、需要に応じた新産業を最優先し需要に合わない産業の淘汰を正しいと認める社会です。
学校エリートが全部決めるべきというのが計画主義社会ですが、自由主義/民意重視社会では、エリートが社会人なってもそのままエリート・成功者になれるわけではありません。
学校にいる間は良かったが、社会に出ると元気がなくなる人の中には、高校時代から「正解でない限り反対する」と馬鹿げた信念を持っていて「正解でないことを証明して」教師のハナを明かして自慢するイヤな生徒の役割を大人になっても維持して楽しんでいる?あるいは「世の中間違っている」と言う傾向の人が多いように見えます。
そういうことが許されるのは単純論理分野で貫徹する数学周辺分野程度しかないのですが、歴史その他社会問題には数学のような唯一の「正解がない」のに、相手の意見の粗探しばかりして反対する・・・そういうことをしたがるから社会のつまはじきになるので、余計世の中が間違っていると思いたくなるのでしょう。
一般にそう言う人は企業その他で孤立し少数派になって行くので多くは自己修正していくのですが、そう言う現実無視でも生きていける自由な職業につくと修正されるチャンスがないままになっていきます。
こう言う人の溜まり場になるのが「単純主張は若者の特権」と甘やかされる学生時代の全学連であり、(若い時に問題意識を持ち、社会に出て現実との折り合いをつけて成長していくの有意義ですが、折り合いをつけない未熟のままで終わる人もいます)社会人では形式上公僕とはいいながらも事実上優位性を持つ官公労系労組(中でも専門職種?顧客より優位性の高かった教職員が先鋭化しましたが、国民全般学歴がアップするとこの優位性が低下しました)であり、社会で揉まれることの少ない学者や医師弁護士等の専門職集団が折り合いをつけないまま中高年化していく比率が高まります。
同じ労組でも民間系は日常的に顧客に接し民意の影響を受ける関係で、唯我独尊的傾向が弱まるようです。
いわゆる文化人や官公労を支持母体とする社会党が何でも反対に陥った顛末です。
学校秀才が世間に出て適合できなかった場合、不適合という意味の弱者ですが、上記集団内で社会批判している限りは社会のエリート・前衛のつもり・「社会で孤立するのは多数は愚昧だから仕方がない、教えてやるしかない」という自己正当化で生きていることになります。
社会不適合を起こしている一部元エリートは、数学的・決まり切った単純理解能力にたけている反面、いろんな矛盾に満ちた庶民の気持ち・世論というかファジーな気持ちの吸収力が弱いからそうなるのですが、その弱い面を強調して「国民多数の気持ちを無視するな」というような自分らの最も弱い部分を隠蔽するためか?(自分らの主張が世論から孤立しているのに)真逆のスローガンを多用する特徴があるように見えます。
この傾向は、この何年も前からの中韓政府の反日行動に付随する日本批判のスローガンを見ると多くの人が「自分のことをいってらあ!」いう主張がネットで散見されますが・・日本という単語部分を「中韓政府や人民」に置き換えるとぴったりのことが多いのと似ています。

民意3(脱原発論と即時廃止論とは大違い)

政党の掲げる政策は「間接的に民意を反映しているべきもの」とみれば、原発即時停止論を支持する民意を知るには原発即時停止論を掲げる政党とその当選者数・比率が重要です。
民主党でさえ30年台の原発ゼロ政策が公約でしたし、民主党から出た希望の党の公約は30年「台」を縮めた「30年」までに廃止の公約でしたから、即時停止論ではありません。
即時停止(に近い)主張を掲げる政党は共産党や社民党、立憲民主でしょうか?
これも近いというだけで与党にある心配がないから(鳩山氏の少なくとも県外へ同様に)無責任な主張をしているだけで、政権をとったその日に全国原発の一斉廃炉作業に入れるなど考えてもいないでしょう。
物事には順序があり、激変緩和のために5〜10年かけて順次廃炉していくなどの順序なしに一斉廃炉になれば全国で膨大な関連企業の倒産失業(原子力関連学生の進路もなくなります)が起きます。
ところが、福井か大津地裁だったかの操業停止仮処分でわかるように裁判の場合、決定のあったその日から即時完全停止です。
企業側は、まだこの決定が取り消される可能性があるので大量解雇に踏み切りませんが、もしも国策で即日全国一斉となれば早くとも政権交代まで数年もあるとすればそんな危うい期待で人員を抱え切れません)全電力会社あるいは原発関連の重電各社とその納入部品各社は即刻企業対応・生産仕入れ廃止、整理解雇・生産設備廃棄に走るしかないので、国を挙げての大騒動になります。
千載一遇のチャンスとばかりに国を滅ぼすつもりならば別ですが、いくら現実無視の立憲でも共産党でもそのような主張をしているとは思えません。
新潟県知事選で「慎重派」が当選し(最近辞任)ましたが、恒久的廃炉ではなく「いちゃもんをつけて」同意しない・・地元見返りを求める沖縄同様条件闘争での慎重派です。
本気で数十年停止のままならば業界上げて撤退してしまうので地元産業/雇用がどうなるかの大問題に発展します・全面撤退しない程度の脅しに使う意味です。
沖縄の例で分かるように目先の駆け引きに使う小狡い対応が、長期的に地元の信用にどう響くか(こういう地域へは、他産業進出が減るでしょう)の高度な判断が利くか、利かないかは地元民度次第です。
4〜5日後に引用する記事によれば、今年1月現在で上記⒊党合計議席は衆議院議員465議席中68議席ですから、即時停止に「近い」主張政党の議席保有率は1割あまりしかありません。
海渡氏は最終章の「提言」において

「これまで裁判所は、・・・国策に追随する判断を重ねて来た。しかし・・「多くの国民の世論が脱原発を求めている今日」・・市民は勇気ある裁判官を必ず支えることを信頼して「良心を貫いてほしい」
「再稼働を認めなかったいくつかの判決・決定は・・司法の良識をしめした」・・この良識に続く、勇気ある裁判所が次々と現れることを心から期待する」

と言うのですが、海渡氏は「国策」を民意に反する何か邪悪なものという前提を置いているように思われます。
いつも書くことですが、特定思想集団は中国やソ連の恐怖政治を理想としているからでしょうか?政府というのは民衆の敵だという信念が固いようです。
ところが民主国家における「国策」とは長期的な議論を経た民意によって決まって行くものであり、議論を戦わせるまでは民主国家で必要ですが、長期的(しょっちゅう変わる交通法規や補助金等の決定と違い、国の基本方針は何年もの議論をおこなって民意の動向を見定めてから行うのが一般的です・実際原子力政策に関しても東北大震災後すでに何回も選挙をおこなっています)かつ公正な議論を競い何回もの選挙を経て民意の方向性が決まった結果の国策に議論に負けた方が、あくまで反対し妨害するのはルール違反です。
彼の言う「国策」に反する決断をするべき「裁判官の良心」と何を意味するのでしょうか?
「勇気」を強調していますが、文字通り民主国家の原理を踏みにじる蛮勇・・権限乱用の自己陶酔の期待でしょうか?
裁判官は「法と良心のみに従うべき」ですが、良心とは形式的な文言に明記していなくとも、偏った一派に肩入れするような権限乱用しない・合理的民意を知る方法のない古代は「神威」民主国家においては良心のありかは「民意がどこにあるかを見る」良心ではないでしょうか?
今の時代民意以外に置くべき良心の基準は考えにくいことです。
「裁判官の良心」についてApril 3, 2016「司法権の限界9(法と良心とは?1)で書いていますので、これはその再論です。
裁判官が個人信条に従って民意による国策に反する判決を書くのは権利の濫用ですが、その「勇気を出せ」というのでしょうか?
ところで「国策」といっても原子力政策でいえば、すでに紹介した通り平成11年大地震以降の基本政策検討期間ではすでに7年経過していますが、民主党政権の30年代までの廃止、希望の党の党30年までの廃止、自民党のさらなる長期政策、原発訴訟団の即時廃止主張まで時間軸で大きな隔たりがあり、これが争点になっているのですす。
この間多くの国政選挙〜都知事戦その他各地方選を経て民意の方向性が徐々に出始めています。
現時点で即時廃止に「近い」を主張する政党は冒頭に紹介した通り、わずかに10数%の支持・議席しか得ていません。
上記の即時廃止は政党のうち54名を占める立憲民主の創立者で党首枝野氏は、上記30年台での廃止目標の基本政策を決めた時・・責任政党の閣議決定には、30年台目標の長期ビジョンに賛成していたのに、下野すると即時廃止論という無責任?な主張に変わるのって政治家に対する信用がどうなるのという気がしませんか?
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/post-c030.html

2012年9月14日、野田政権の時代です。
野田政権は、14日のエネルギー・環境会議で、「革新的エネルギー・環境戦略」として、「2030年代に原発ゼロを可能とする」との目標を政府方針に初めて盛り込み、原発の新増設をしないことや、運転期間を40年とすることも明記しました。
そして同時期に行なわれていたIAEA年次総会で、山根外務副大臣が、新たな原発建設をゼロにし、2030年代にまですべての原発を廃止する方針を公表する手はずを整えていました。
これを私は興味津々で眺めていました。政府方針で国際公約とする以上、その実現性はきわめて高いし、もし自民党に戻ったとしても、国際公約の歯止めが効くからです。
そして当然のこととして、ここまで踏み切った以上、エネルギー専門家を交えた工程表もあるだろうし、諸外国、特に米国との根回しも完了していると思っていたからです。
ところが、この政府の決定は、わずか2日後の9月19日にひっくり返ってしまいます。
野田政権は、30年代原発ゼロを閣議決定から、「参考」にまで格下げして、「柔軟性をもって不断の検証と見直しを行なう」という意味不明の文言で、事実上破棄してしまったのです。
そして、「受け入れ地域住民との対話」を強調して、もうしばらく後には、野田首相自ら大飯の再稼働を認めます。

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