先住民権運動の背景3(ロシアの領土欲1)

先住民権運動に戻しますと先住民運動が活発化してきた原因は、単なる善意の愛国心によるのではなく、国政政治関心・・欧米のアメリカ大陸やオーストラリア大陸での先住民に対するジェノサイド等々に対する非難活発化に呼応した動きによるのではないかという関心に戻ります。
現代国際政治的に見れば、北海道を含めた北方領土を狙うロシアと尖閣諸島を手始めに沖縄本島を狙う中国が北海道と沖縄切り放しの口実に、先住民運動を活発化させている印象です。
この意見は印象であって根拠はない憶測・穿ち過ぎ?ですが、この数十年でこの種運動が激しくなってきたのは不思議です。
これに呼応する動きがだいぶ前から国内に浸透し準備されていたことがわかります。
この数千年程度の北海道の気候を前提にすると、いわゆるアイヌ人は「北方民族」であってもともと別民族のようなイメージが定着しています。
ところが9月2日に紹介したとおり九千年前に南方から伝わったはずの漆の利用例が出ていることや青森の三内丸山の巨大遺跡を見てわかるとおり、長い1万年以上も前から始まる縄文時代の間には北の方でもかなり気温が高い時があって北方であることの不利性がこの数千年間よりも少なかった・・今の気候条件で考えるのは間違いの元ではないでしょうか?
気候条件が同じであれば身の回りの環境ひいては生活習慣も似たようなものになります。
長い縄文時代に北海道にいた人たちと本州の人との間で一体感が強かった・同一生活圏・価値観でつながっていた可能性がうかがわれます。
DNA調査により寒冷化によってシベリアから日本列島にきた人種がいると世上言われていますが、流れの順序は逆でしょう。
暖かい時にシベリアまで行っていたグループ(ブリヤート人)が寒くなっても少し生き残っていたとみるのが普通ではないでしょうか?
日本海などが凍って大陸と繋がったので列島に(歩いて)来たと言われていましたが、常識的に無理がある・海が凍るほど寒い時に海を渡る=長距離(女子供など弱者が一緒で)民族移動するには10日〜20日では移動できません・・。
海が凍るほどの寒冷期にようやく海を渡り切ってもすぐの海岸線・・海が歩けるほど凍っていれば宗谷岬周辺にたどりついてもそこも寒いでしょう・・に果物がたわわに実っているはずがありません。
寒冷化によって生命を維持できなくなっての民族移動するということは、元々備蓄食料が底をついている状態での出発です。
中世〜近世〜近代〜現在でも長期間移動となれば、全期間の食料携行は無理があるので行く先々で食料調達しながら移動していくのが普通です。
凍った海を歩いて渡れるどの寒冷期となれば、その間の食料をどうするかという問題一つとっても、無理な想定です。
同様に寒冷期にベーリング海峡〜アリューシャン列島を歩いてアメリカ大陸に渡ったという説も教えられてきましたが、これも非現実的です。
むしろ産物の豊かな暖かい時代に行く先々で魚その他食料を得ながら千年単位で少しずつ北上して行ったグループが寒冷化後もシベリアに居残っているとみるのが本来でしょう。
私のような素人が、ウルシの分布を勉強してきただけで想像するのは飛躍がありますが、もしかすると縄文時代を通してみると北海道を含めて大方は暖かく同一生活環境民族であり寒くなった以降4〜5千年あまりの短期間気候環境が違っていただけ・・元々同一民族とみるべきも知れません・DNA次第ですが・・。
実際にここ数十年で先住民性を言い立てるようになる前には、普通に見られる田舎の人と都会の人の違い程度・・近代化の進度こそ違っても思考形態がまるで違う民族という印象を受けた記憶がありません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8Cで見るとアイヌのDNAが沖縄人と最も近く和人ともはほぼ同じらしく、私の上記思いつき同様同じ縄文人であった.・・和人と同一人種らしいです。
「人類学的には日本列島の縄文人と近く、北海道にあった擦文文化を基礎に、オホーツク文化と本州の文化を摂取して生まれたと考えられている。本州では農耕文化が始まるが、北海道では狩猟採集の文化が継続し、7世紀には擦文文化が始まる[6]。擦文文化やオホーツク文化はアイヌ文化に影響を与えている[6]。13~14世紀になると、農耕も開始され、海を渡った大和民族との交易も行われた[6]。」
遺伝子調査
近年の遺伝子調査では、アイヌとDNA的にもっとも近いのは琉球民族で、次いで大和民族であり、大和民族とアイヌ人の共通性は約30%程である。他の30人類集団のデータとあわせて比較しても、日本人(アイヌ、琉球民族、大和民族)の特異性が示された。これは、現在の東アジア大陸部の主要な集団とは異なる遺伝的構成、おそらく縄文人の系統を日本列島人が濃淡はあるものの受け継いできたことを示している[11]。アイヌ集団にはニヴフなど大和民族以外の集団との遺伝子交流も認められ、これら複数の交流がアイヌ集団の遺伝的特異性をもたらしたとされる[12]。」
アイヌの言語で見ると以下の通り日本語と語順が同じようです。
http://jinbunweb.sgu.ac.jp/~okuda/works/02003-2001-01-03.pdf4
.文法
アイヌ語の文の組み立てかたは、すでに述べたとおり、日本語などとよく似ている。」
素人の私の意見ですが、語順が同じならば、アイヌ語と言っても日本各地の方言同様に単語や発音・・東北弁に限らず多くの方言は単語だけでなく発音方法からして違うのが普通です・・が違う程度に帰するのではないでしょうか。
以上総合すれば沖縄人もアイヌ人も大和朝廷支配下に入った時期が遅かったというだけの違いのように見えますが、何故これをここ数十年で強調するようになったのでしょうか?
今、我が国では北方領土問題といえば、歯舞色丹等の4島だけに何故か限定していますが、ソ連は日本敗戦時に火事場泥棒的に満州侵入・占領作戦→シベリア連行と同列に北海道全域の占領統治を目指していたことを忘れてはなりません。
もともと千島列島全体が、日本とロシアが幕末から明治にかけての交渉の結果、平和的に決めた領土関係でした。
幕末〜明治期には日本はロシアと対等交渉する能力すらありませんでしたが、 漸く平和裡に現状を認めあって、国境確定していたものです。
日本が継戦能力がほぼなくなった敗戦の数日前になって、不可侵条約を突如破棄して連合軍に参加したソ連が戦勝国として平和裏に決まっていた千島列島全体を自国領土に編入すること自体が国際法的に許されないことです
これを連合軍が容認すること自体が、連合軍が日本に仕掛けた戦争は正義でも何でもない・・侵略戦争を仕掛けていたたことになります。
ですから日本はアメリカが正義の戦いであったというならば、北海道の一部である4島だけではなく、千島列島全体の返還要求すべきことがらです。
ソ連は千島列島と北海道全土の占領→自国領土化を目的に参戦していたことは、日本の降伏により防衛意欲低下を見込んだソ連軍が夜陰に紛れて千島列島の守備隊を急襲してきたことがこれを表しています。
この奇襲は北海道全体占領の手順として手をつけたものでしたが、これを首の皮一枚のところで防いだのは、ポツダム宣言受諾・降伏後に急襲してきたソ連軍から千島列島を守るために日本兵が果敢に防衛したことによります。
ソ連としてはその時に、あと一息というところで北海道占領・自国領土に編入しそこなった残念感・逃げた魚は大きい・・未だにこだわっていることを忘れてはなりません。
ソ連による不可侵条約違反によるの満州侵入と暴虐非道な行いは良く知られていますが、実は千島列島でもあったのです。

日本は中国を侵略したか。

蒋介石軍腐敗の具体例を挙げるのは煩雑過ぎるので、アメリカ政府の蒋介石軍に対する評価を紹介しておきます。
以下はhttps://ja.wikipedia.org/wiki/蒋介石からの引用です。
以下のとおり「アメリカは、 腐敗した国民党軍の崩壊を恐れ」ていたと記されています。
「日本敗戦とともにアメリカは、抗日戦末期に弱体化が著しかった国民党軍に大量の援助を行い、これによって新たに39個師団に武装・訓練をほどこし、アメリカ船をもって在中国日本人の本国送還を急ぎ、空路・海路から約40万の国民党軍兵士とアメリカ海兵隊5万人を華北に派遣・上陸させて北京、天津など重要 都市を占領、かつ国民党軍にかわってアメリカ軍みずから華北の炭坑、鉄道などを接収した。」
(日本の残した施設を共産軍に渡さずに国府軍に引き渡したと言う意味でしょう。・・イナガキ注)
「・・・先述のようなアメリカによる国民党軍の武装・訓練・華北への輸送作戦は12月までにかなりの進展を見せ、アメリカは蒋介石政権崩壊・共産主義拡大防止対策 を行い、トルーマン政権のアジア政策も対中政策を最も重要視し、国共内戦の調停を成立させることによって中国の「大国化」を達成しようとした。」
「・・アメリカは国民党軍に莫大な支援を集中して共産党側を圧倒しつつ、他方でアメリカのさらなる国家資本援助を報償として提示して国民党の譲歩をせまることによって国共両党を統一交渉テーブルにつかせようとしたのである[92]。共産軍の戦闘力の強さを誰よりもよく認識していたアメリカは、 腐敗した国民党軍の崩壊を恐れ、蒋介石に大量の軍事援助を与えつつ、 国民党軍が強化されるまで衝突を先にのばそうとしたのである。」
ところでウイキペデイアの記述で気が付いたのですが、何故か戦後国府軍と言われていた蒋介石軍がいつの間にか「国民党軍」と言う表記になっています・・。
ただし、中華民国政府軍・・国府軍の名称自体いつからかはっきりしません。
孫文自身何回か逃げたり挙兵してはその都度組織の名称を変えています・・いつも中華民国政府と名乗っていた訳ではないので、国府軍と言うのはどの時点の名称を言うのかもの心ついた頃からなんとなく聞き慣れていただけで、私にははっきりとわかっていません。
戦後アメリカが、台湾に追い詰められた蒋介石軍の正統性をアッピールするために過去に孫文が何回か使った名称を引っ張り出して「中華民国政府」と言い出したのかもしません・・最後の頃には、事実上蒋介石の私兵みたいな組織だった可能性があります。
ウイキペデイア自体根拠がはっきりしない記事が多いと言う意見が多いですが、(私のコラムも毎回お断りしているように学問的に研究したものではない・・・あちこちに出ているネット記事をぜんていに思いつきで書いているに過ぎないのでウイキペデアの正確性まで調べる時間も能力もありません)一応こう言う表記・・国府軍の表記から国民党軍の表記に変更されていることが現在では普通になっているらしいことに、初めて気が付いて驚いている次第です。
私の青年の頃・・共産政権承認までは、中華民国政府軍→国府軍と言っていた筈ですが、共産中国を国家承認した頃から、対抗勢力を「〇〇政府軍」と言えないのでこれを私的な「国民党の軍」に格下げして呼ぶことになったのでしょうか?
ウイキペデイアによると「日中国交正常化(にっちゅうこっこうせいじょうか)とは、1972年9月に日中共同声明を発表して、日本国と中華人民共和国が国交を結んだことである」
とあるので私が司法修習生として宇都宮にいたときですから、それまでに常識として身についていたのは国府軍という呼称でした。
日中正常化の前提条件として中華人民共和国を正統政府と認めた以上、台湾にある政府を中華民国と言わないで、台湾と言う1地域の呼称になったとすれば、そういうものかな?と言えないこともありません。
そう言えば広東政府とか南京政府とか従来根拠地名称で呼ぶのが普通だったように思います。
台湾政府をあたかも正統政府のように印象付けるためにアメリカが中華民国政府と日本で言わせていただけかも知れません。
共産党政権を認めた後はそれで、呼称変更するのは一貫するでしょうが、遡った時点の国民政府軍まで正統性を否定して単なる「国民党の軍」・・私的集団の私的兵力として表現するようになると、その頃までに行なわれた国際的約束事は、どのように解釈されることになるのでしょうか?
そうすると日本が侵略したと言うものの、当時現在の中国地域に侵略される政府があったことになるのでしょうか?
無政府状態であり且つ、いろんな民族が入り乱れている状態の地域に統一政府を作るため軍閥が乱立し、諸外国も疎開地の自国民の保護のために軍を駐屯していた外、それぞれに肩入れしている関係でした。
(当初孫文が広東で挙兵するときに頼った地元軍閥には、連合形態を構想していた人もいるなどいろいろです・軍閥にとっては孫文の思想に共鳴して応援の軍を出しても、自分固有の権益を保持したい人が大半でしょうから、連合形態が望ましかったでしょう)
例えば孫文が拠点とした広東軍閥?内で、自分の軍を擁して参加していた実力者陳炯明を見ておきましょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki蒋介石からの引用です
「北伐は実施されることなく終わった。陸軍部長の陳炯明が兵站や補給を妨害したためである。陳炯明は聯省自治主義者であった。すなわち陳は孫文と異なり、省自治を前提とした、各省の横の連合による地域統合型の国家建設を目指していたのである[31]。陳は武力統一を目指す孫文と激しく対立した。」
4月12日に蒋介石が軍を率いて広東に入ると、陳炯明は孫文に辞表を提出し、配下の部隊を率いて逃亡してしまった。」
ソ連は言うまでもなく共産軍を肩入れしていますし、アメリカは蒋介石軍を、日本は女真族満州国の肩入れしていた外、汪兆銘軍とも同盟していました。
当時のシナ地域の実態を前提とした場合、何故日本だけ侵略軍とされるのか・・アメリカやソ連の支援する軍閥と提携していなかっただけではないかの疑問が起きてきます。
孫文の中国同盟会も広東を拠点に一時期支配地を持ちますが、すぐに周辺軍閥の支持を失って上海に逃げたり蒋介石自身日本へ逃げたりの繰り返しのうちに、漸く広東で再度地元周辺軍閥の支持を受けて地歩を固め直して最初の旗揚げの地武漢を占領して再出発して行くのです。
この武漢でさえ、蒋介石が転戦中に、留守を預かる汪兆銘軍閥に乗っ取られてしまいます。
当時は広東周辺だけでも多数の軍閥が入り乱れていたのであって、今の共産党軍はそうした中の弱小集団の1つに過ぎなかったのです。
最後に負けた方についていた国が侵略軍と言うならばアメリカも最後に負けた蒋介石を応援していただけですので、日本同様に侵略軍となるべきです。
日中正常化まで、アメリカは正統政府の要請で介入していたのに対して日本は傀儡政権の要請で介入していたから侵略だという論理だったように理解していました。
蒋介石軍も満州国同様に一部分の一時的支配勢力にすぎないとすれば日本が同盟していた汪兆銘や満州国とどう違うか問題となります。
傀儡と言っても、蔣介石の方も上記記事に明らかなように、ほとんど米軍に頼っていたことは明白な事実ですから、大した基準にはなりません。
この辺は朝鮮戦争における韓国と米軍、ベトナム戦争の南ベトナムと米軍の関係でも同じです。
イラクアフガン戦争で米軍の占領後の米軍の軍事行動が現地政府の要請によると正当化されていますが、自分の時だけ都合良い解釈がおおすぎませんか?
・・アメリカが蒋介石の奥さんのハニトラによって、国府軍を応援していただけのことと、どう違うのかと言う根本的議論が必要な感じです。
私は専門家ではないので専門家には多角的研究によれば別の意見があるでしょうが、ここでは素人としての疑問を書いています。
中共政権が成立すると、その前の各種勢力・・国府軍を含めて私的な野盗の群れ?「国民党」軍に格下げになると、これを支持していたアメリカ軍も日本同様に中国侵略をして迷惑をかけていた勢力になるのかな?と言う私にような疑問を抱く人が増えるでしょう。
日本では日中戦争と言わずに「支那事変」と読んでいたことの意味を考え直すべきです。
当時中国と言う国はそもそも存在していなかったし、相手にすべき国さえ存在しておらず、国相手の戦争ではなく、泥沼化する「事変」に足をとられていたの実態です。
義和団事件その他欧米列強がこの地域で騒乱の度に自国民保護のために兵を出していますが、これを侵略と言うのでしょうか?
要は当地政権が外国人を保護する国際法上の義務履行能力を欠いていたから、自衛のために列強が兵を駐屯させ、自衛のために検挙や鎮圧するしかなかったと言う関係です。
今で言えば国連平和維持軍と言う形で合理化されていますが、当時はそう言う国際組織がなかったので各自自衛するしかなかったのが現実です。
日本も通州事件その他の被害が重なったので次第に駐屯兵が増えて行った・・泥沼化して行ったに過ぎません。
日本人が何故標的にされたかと言えば、アメリカ的戦後秩序・左翼系は日本が強引な要求したからと言いますが、欧米こぞって日本標的の工作を仕掛けていて金次第で動く中国人軍閥が乗せられていたに過ぎないと言う見方が可能です。
日本は欧米のアジア支配をやめさせるために「欧米各列強の租界地(香港の小型版)が中国各地にあるのはおかしいから返却すべきだ」と主張していたサナカに日本人を標的にした惨殺事件が立て続けに起きているのです。
欧米の指導の元に中国現地勢力が次から次へと事件を起こし、ドンドン残虐さをエスカレートして行き、穏便に収めようとしている日本を盛んに挑発して行き、これでは日本は反撃するしかないように仕向けられて行きました。
今の尖閣諸島での挑発のエスカレートを見れば分るでしょう。
いつかは衝突事故が起きると日本が挑発したと言う宣伝になるのかな?
これが後になると、日本が事件をでっち上げて侵略して行ったと歴史改ざんになるのですから、国際世論・・勝った方が歴史を作る怖さです。

三民主義・目的と手段の違い2

昨日、漢詩の1節を引いて紀元前の前漢初期から賄賂社会であったことを紹介しましたが、「漢民族の特性」と言えばそれでおしまいですが、何故こう言う民族性になったかの原因が重要です。
繰り返し書いていますが、秦の始皇帝以来専制支配体制が確立したこと・・と関係があるように思えます。
民の工夫努力・自由な発想よりも、上司の気に入るか否かが最重要社会・・権力者の気に触るといつクビが飛び、一族皆殺し・族滅の危機に遭うかもしれない社会が2000年も続いてきましたので、漢民族はいつもびくびくして目上のご機嫌を窺うしかない状態・・勢い上司・強いものに取り入ることが最大の行動基準社会になります。
派生的に取り入るべき派閥が出来、(漢時代に党錮の禁が始まり、各王朝で党派の争いがいつもあります)今でも上海閥やダンパあるいは太子党などの派閥がありますが、その下位集団として習近平や李克強の過去の勤務地別の派閥もあり複雑です)相手派閥を蹴落とすべく権謀術数工作も盛んになります。
中韓政治家が、国際社会でのロビー活動などでは、権謀術数の経験に乏しい、日本などはモノの数ではないと豪語して来た所以ですし、実際に中韓のロビー活動により、国連での日本非難決議に向けた下工作が横行しています。
国際機関やスポーツ組織にいつの間にか韓国系が浸透しているのがこれです。
中国の派閥とは、透明性の全くない私的集団・マフィア的人的つながりを言うものであって、政策研修・勉強会などしている政策集団の日本の派閥・・東京弁護士会の派閥でさえ勉強集団です)とは本質が違っていますので、日本の派閥をイメージする翻訳は意図的すり替えの疑いがあります。
石油閥などが報道されるので、利権集団的側面もあるように思う方が多いでしょうが、人脈形成の主目的がイキナリ失脚するリスクを減らし出世するためにある・・その結果として利権集団化しているに過ぎない・・手段と目的の関係が違っています。
専制や独裁の場合、出世あるいは牢獄に繋がれるかの基準が社会のために良いことをしているか正しいコトをしているかよりも自分の親分が主流派になれるかで決まる社会です。
政敵失脚させるためには表向き何かの失敗を取り上げられるのですが、取り上げられるかどうかの大もとの選別基準は政敵かどうかによります。
現在の腐敗撲滅運動を見れば分るように習近平周辺には及ばず政敵粛清目的で賄賂を取り締まっていると言われているのは正にこれで、政敵粛清が目的であって、汚職摘発はその手段になっている・・主目的がどこにあるかで大きな違いが生じる例です。
権謀術数は相手を蹴落とす目的であって、陰で讒言するのが基本的攻撃手段で正義の基準は不要ですがこれが長年有効だったのは、専制社会では1回勝負の社会だったからです。
政治抗争に勝てば相手一族皆殺しですから1回勝てば「勝負あり」になる・・どんな卑怯な手段でも何をしてでも勝つことが最重要基準で・・勝ってしまえば、相手を皆殺しに出来るので、後に道義的非難などあり得ない社会を前提にしています。
日本は縄文の時代から争いがあってもトコトンやらない社会ですから、卑怯な勝ち方をすると時間の経過でいつかは真実が出て来る・・数百年単位での評価・・手段が卑怯かだけはなく結果もやり過ぎかどうかを含めて批判される・・後で社会全体の批判を受けるのが怖い・・名誉重んじる社会がこうして出来上がっています。
讒言などするとあとでバレル・・陥れたとなると結果的に「損」と言う社会ですから、パク大統領の讒言外交には唖然としてしまったのです。
専制社会で負けた方が皆殺しされる制度で、負けた方はどんなに正しい意見であっても一族関係者が皆殺しに合うので何も言えない言うべき人が残らない仕組みです。
勝った方が抗争の歴史を書き換えて行く社会では、どんな非道な手段を弄しても勝つことが先決の社会になります。
アメリカ日本を戦争に引きずり込み原爆まで投下したのは、そう言う基準・・勝った方が歴史を塗り替えれば良いと言う方針があったことはそのご戦犯裁判や中韓を使っての「歴史修正主義者のレッテル貼り」に精出して来たことから見ても明らかです。
現在の中韓両国の経済活動を見ても、1回勝負のやり方は変わっていません・・。
目先の受注量を競うために採算割れの無茶な受注あるいは自国技術で出来そうもない無謀な受注競争を仕掛け、怒濤の勢いで規模拡大をする・・購買力誇示のために続く訳もない爆買いで札ビラを誇示する・・みな同じです。
目先にこだわるのは、一時的に相手を失脚・倒産させれば、永久に自分が支配出来る社会が2000年も続いたことにより、先ず受注競争に勝って競争相手を潰してしまえば、後は独占企業としてスキなように契約変更も出来ると言う思想によります。
中韓の一時的な反日攻勢が効を奏さずジリ貧になって来たのは、閉鎖された専制社会とは異なり国際社会ではロビー活動で如何に噓八百を言って勝っても、毎回相手を奴隷化することが出来ない・・精々一時的に多数派形成し、ありもしない慰安婦決議慰安婦像を建てたり南京虐殺を世界遺産に登録する程度がやっとですから、長期的には真実・正義を主張している方が勢力を回復して行きます。
時間をかければ中韓の噓がバレて信用をなくして行く・・時間の経過でグランデール市のように「慰安婦像があるだけ韓国にとって惨め・恥の歴史」を世界に残して行くことになるでしょう。
勿論この像建設を推進した市議などもその内恥をかいて行くと思います。
一時的にアフリカやオーストラリアなどを資金力や資源その他の爆買いで捩じ伏せていても、こう言うやり方は先が続かない・・一過性でしかないので、その間にこのときとばかりに目一杯威張ってしまうことも愚かで浅ましい限りです。
一過性の爆買いや投資が減少すれば威張られた方は直ちに愛想を尽かしますので、中国が投資して来たアジア(ベトナムやミャンマー・カンボジアなど)アフリカ諸国では、元々親切な日本に足下を掘り崩されつつあるのがその例です。
権謀術数で言えば、日米戦争の始まりは、(その前から非白人国家日本を壊滅させるアメリカの基本政策があってのことですが・・)蒋介石夫人宋美齢がルーズベルトに対する工作が成功して蒋介石軍の応援を始めたことが日本を敗北に追いつめた切っ掛けです。
ですから、一度で大損害の生じる戦争に関しては、権謀術数の重要性は変わりません。

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