ロシアの脅威8(アイヌとは?)

昨日日露和親条約を紹介しましたが、交渉時の経緯を見るとアイヌとは言うものの彼らを日本は異民族とせずに日本人の仲間であるが、せいぜい職業・居住地(会津人と言うように)が違う程度として日露双方が扱って来たし、アイヌもそれを当然と受けとってきたようにみえます。
アイヌ人は元々漁労狩猟等を生業とする生活者で戦闘要員的素質がありません・これが稲作その他農業生産の北上につれて生活圏が縮小していった・・あるは稲作その他農耕生活を取り入れないであくまで狩猟をやめなかった職業人をアイヌというようになったのかも知れません。
今の列島内でも「またぎ」等の狩猟に頼る職業人がなくなっていき、漁民その他居職人関係者が減って行くのと同じす。
私は「アイヌ人」別人種というものはない・狩猟や川魚を取るだけの職業を営む生活圏が関東地方から順次縮小していったただけの日本人の仲間でないかという素人的感想を抱いています。
日本列島がこの地域まで東西に延びているのが、関東から急速に北向きに折れ曲がっているので、縄文・弥生の混在とは言うものの農耕文化の拡大がこの辺の緯度で長年足踏みしていたことがわかります。
元々農耕向きの気候でなかったので遅くまで縄文式生活が残っていたのですが、これが気候変動と品種改良によって徐々に北上するにつれて縄文式生活圏が縮小・徐々に農耕に転職して行く人が増えてきた・旧来縄文式職業人がへってきたということでしょう。
明治以降で言えば、農漁業従事者が徐々に減ってきたのと同じです。
農民や漁民を小数民族という人は誰もいないでしょう。
雑貨屋やホカホカ弁当屋がコンビニに負けて無くなっても先住民保護という人はいません。
日本列島内で昔あった職業がなくなって行く事例はいくらでもあります・それら職業人等を〇〇人ということがいくらでもありますが、それは〇〇地域の住民とか職業集団をいうに過ぎないのであって民族集団ではありません。
ロシア人が知床に来た時に、現地アイヌ人が「大変だ」とまず支配者である松前藩に通報したのは和人と言う異民族に支配されている人たちというよりは、自分を守ってくれるありがたい関係・・例えば本州内の戦国時代に領国沿いの山奥で狩猟採集している職業集団が山向こうの領主が密かに山越えを準備していると知って大急ぎで平野部にいる領主様に通報するような関係に似ています。
北海道防衛に戻しますと北海道の知床〜根室あたりの防衛のために、寒さの経験のない本州の武士団をいきなり送り込んでも・・大勢の戦力を北海道縦断で陸路送り込むのは後続兵士投入路〜食料補給に窮しそれだけでもどうにもならなかったでしょう。
この経験から明治維新後北辺の防備にはまず地元勢力の育成が必須ということで、急速に北海道への屯田兵入植政策が進見ました。
この防衛基本戦略は満州への開拓団送り込み政策にも影響を与えたでしょう。
対ソ満州防衛では日本が、アメリカに降伏した後だったのと対米軍との最前線であった占守等防衛と違い、ソ連とは不可侵条約があったので安心して?精鋭を南方へ転出させていたので、ソ連軍の侵入に対して戦わずして降伏した結果開拓団がいても兵力供給源として貢献できず却って、開拓団の存在が敗戦時に被害を大きくしてしまった・・千島列島のようのスムースに民間人避難ができなかったことになります・・。
対馬上陸事件に戻ります。
ロシアは日露和親条約締結でお互いの国境線確定が終わっていた(樺太に関しては未定のままの条約)のに対馬に無断上陸・侵入したことになります。
そこで日本はロシアの行為は国際ルール違反であると列強に協力要請できた法的根拠があり、当時の覇権国=ルール担保権者である英国が黙っていられなくなったのでしょう。
ロシアの対馬上陸事件に対するイギリスの介入はイギリスの威信を示すチャンスでもあり、日本のためにここで動いておいた方が後々メリットがあると考えて動いてくれたと思われます。
日本では、ソ連発のコミンテルンの影響を受けた思想界支配の結果か?何故かアヘン戦争による西欧列強への危機感の覚醒ばかり強調されています。
本当の日本の危機は、江戸時代中期から幕末にかけて北辺に出没するようになっていたロシアの対日進出意欲でした。
日本では百年ほど早くから恐れられていたロシアの動きを報道したり教育したりあるいはこれを描く文芸作品は滅多に出てきません。
西欧諸国と接触の歴史はロシアよりも早く戦国時代頃から徐々に始まっていましたが、それは東南アジア諸国〜ルソン〜台湾や沖縄の海上ルートあるいは中国を経由しているので事前情報が豊富でした。
仮に戦争になっても相手は海路何万里の彼方からくる関係で、砲撃戦で一時的に負けても持久戦で追い払らえる自信がありました。
これが気楽に薩英戦争や長州の4国連合艦隊との戦争をできた原因ですし、負けても全く何も譲る気持ちがないと頑張りきれた背景です。
西洋列強も上陸敢行しても日本得意の夜襲につぐ夜襲を受ければ橋頭堡を維持できないリスクがあるので、結局なにも得ないで引き下がるしかなかったのです。
対ロシアでは知床付近どころか北海道全域に地元武士団がゼロですから、持久戦・夜襲に持ち込む下地がありません。
ロシアは本拠地から遠いとは言っても地続きですぐ近くまで来ている強み・地続きなので飛び地確保ではなくじわじわと侵食してくる脅威です。
ここが、飛び地確保に頼る西欧列強の脅威とは本質的に違っていました。
日米戦も最後には、この伝統的手法の有効性を沖縄防衛戦で立証した結果、(艦砲射撃の届かない内陸戦になると火力優位の威力がなくなる・・幕末ころにはなおさらでした)米軍が本土上陸作戦実行をためらうことになり、ポツダム宣言受諾を強要するために原爆投下したというのがアメリカの主張です。
対ロシアでは日本の伝統的国土防衛手法が成立しないことを知っていた幕府の対ロシアの脅威は半端ではなかったでしょう。
このマイナスを防ぐには国防面では日本が優勢な相手である欧米との交渉によって、(領土では一切譲らない代わりに貿易で譲る基本・・小笠原その他帰属のはっきりしない島々もアメリカに認めさせてしまいました)ルールを決めてロシアをこれに従わせるしかなかったことにとになります。
私は幕末の日本側の基本戦略は大成功であったと思います。
今後さらに数十年以上かかって明治政府系統の流れが終わり、一方でコミンテルン支配が残る思想界が正常化すれば、日本の近現代史が書き換えられて行くのでしょう。
以下、ロシアの脅威がいつ頃から始まったかについて私なりに見ていきます。
幕末というよりも江戸時代中期以降対ロシアの脅威を前提に海防の必要性が盛んに議論されるようになっていたことは、林子平の海国兵談などの書物が発行されるようになったり、間宮林蔵の樺太探検がおこなわれた事跡により明らかです。
海国兵談や間宮林蔵の樺太探検程度のことは学校でも教えますが、そこから約80年も後のアヘン戦争に何故か歴史教育が直結誘導していくのですが、彼ら国防を憂える人々の活躍は全てロシアの脅威に対するものであって西欧列強の脅威の始まるずっと前・・80年近くも前からだったのです。
80年前と言えば、日本敗戦からまだ70年過ぎたばかりですから、今よりも寿命のずっと短い時代における80年の差の意味が分かるでしょう
江戸時代の人たちは、もっと早くから西欧の動きを知っていましたが、それほど脅威に感じていなかった・・本当はどちらの方が怖いか早くから良く知っていたのです。

先住民権運動の背景3(ロシアの領土欲1)

先住民権運動に戻しますと先住民運動が活発化してきた原因は、単なる善意の愛国心によるのではなく、国政政治関心・・欧米のアメリカ大陸やオーストラリア大陸での先住民に対するジェノサイド等々に対する非難活発化に呼応した動きによるのではないかという関心に戻ります。
現代国際政治的に見れば、北海道を含めた北方領土を狙うロシアと尖閣諸島を手始めに沖縄本島を狙う中国が北海道と沖縄切り放しの口実に、先住民運動を活発化させている印象です。
この意見は印象であって根拠はない憶測・穿ち過ぎ?ですが、この数十年でこの種運動が激しくなってきたのは不思議です。
これに呼応する動きがだいぶ前から国内に浸透し準備されていたことがわかります。
この数千年程度の北海道の気候を前提にすると、いわゆるアイヌ人は「北方民族」であってもともと別民族のようなイメージが定着しています。
ところが9月2日に紹介したとおり九千年前に南方から伝わったはずの漆の利用例が出ていることや青森の三内丸山の巨大遺跡を見てわかるとおり、長い1万年以上も前から始まる縄文時代の間には北の方でもかなり気温が高い時があって北方であることの不利性がこの数千年間よりも少なかった・・今の気候条件で考えるのは間違いの元ではないでしょうか?
気候条件が同じであれば身の回りの環境ひいては生活習慣も似たようなものになります。
長い縄文時代に北海道にいた人たちと本州の人との間で一体感が強かった・同一生活圏・価値観でつながっていた可能性がうかがわれます。
DNA調査により寒冷化によってシベリアから日本列島にきた人種がいると世上言われていますが、流れの順序は逆でしょう。
暖かい時にシベリアまで行っていたグループ(ブリヤート人)が寒くなっても少し生き残っていたとみるのが普通ではないでしょうか?
日本海などが凍って大陸と繋がったので列島に(歩いて)来たと言われていましたが、常識的に無理がある・海が凍るほど寒い時に海を渡る=長距離(女子供など弱者が一緒で)民族移動するには10日〜20日では移動できません・・。
海が凍るほどの寒冷期にようやく海を渡り切ってもすぐの海岸線・・海が歩けるほど凍っていれば宗谷岬周辺にたどりついてもそこも寒いでしょう・・に果物がたわわに実っているはずがありません。
寒冷化によって生命を維持できなくなっての民族移動するということは、元々備蓄食料が底をついている状態での出発です。
中世〜近世〜近代〜現在でも長期間移動となれば、全期間の食料携行は無理があるので行く先々で食料調達しながら移動していくのが普通です。
凍った海を歩いて渡れるどの寒冷期となれば、その間の食料をどうするかという問題一つとっても、無理な想定です。
同様に寒冷期にベーリング海峡〜アリューシャン列島を歩いてアメリカ大陸に渡ったという説も教えられてきましたが、これも非現実的です。
むしろ産物の豊かな暖かい時代に行く先々で魚その他食料を得ながら千年単位で少しずつ北上して行ったグループが寒冷化後もシベリアに居残っているとみるのが本来でしょう。
私のような素人が、ウルシの分布を勉強してきただけで想像するのは飛躍がありますが、もしかすると縄文時代を通してみると北海道を含めて大方は暖かく同一生活環境民族であり寒くなった以降4〜5千年あまりの短期間気候環境が違っていただけ・・元々同一民族とみるべきも知れません・DNA次第ですが・・。
実際にここ数十年で先住民性を言い立てるようになる前には、普通に見られる田舎の人と都会の人の違い程度・・近代化の進度こそ違っても思考形態がまるで違う民族という印象を受けた記憶がありません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8Cで見るとアイヌのDNAが沖縄人と最も近く和人ともはほぼ同じらしく、私の上記思いつき同様同じ縄文人であった.・・和人と同一人種らしいです。
「人類学的には日本列島の縄文人と近く、北海道にあった擦文文化を基礎に、オホーツク文化と本州の文化を摂取して生まれたと考えられている。本州では農耕文化が始まるが、北海道では狩猟採集の文化が継続し、7世紀には擦文文化が始まる[6]。擦文文化やオホーツク文化はアイヌ文化に影響を与えている[6]。13~14世紀になると、農耕も開始され、海を渡った大和民族との交易も行われた[6]。」
遺伝子調査
近年の遺伝子調査では、アイヌとDNA的にもっとも近いのは琉球民族で、次いで大和民族であり、大和民族とアイヌ人の共通性は約30%程である。他の30人類集団のデータとあわせて比較しても、日本人(アイヌ、琉球民族、大和民族)の特異性が示された。これは、現在の東アジア大陸部の主要な集団とは異なる遺伝的構成、おそらく縄文人の系統を日本列島人が濃淡はあるものの受け継いできたことを示している[11]。アイヌ集団にはニヴフなど大和民族以外の集団との遺伝子交流も認められ、これら複数の交流がアイヌ集団の遺伝的特異性をもたらしたとされる[12]。」
アイヌの言語で見ると以下の通り日本語と語順が同じようです。
http://jinbunweb.sgu.ac.jp/~okuda/works/02003-2001-01-03.pdf4
.文法
アイヌ語の文の組み立てかたは、すでに述べたとおり、日本語などとよく似ている。」
素人の私の意見ですが、語順が同じならば、アイヌ語と言っても日本各地の方言同様に単語や発音・・東北弁に限らず多くの方言は単語だけでなく発音方法からして違うのが普通です・・が違う程度に帰するのではないでしょうか。
以上総合すれば沖縄人もアイヌ人も大和朝廷支配下に入った時期が遅かったというだけの違いのように見えますが、何故これをここ数十年で強調するようになったのでしょうか?
今、我が国では北方領土問題といえば、歯舞色丹等の4島だけに何故か限定していますが、ソ連は日本敗戦時に火事場泥棒的に満州侵入・占領作戦→シベリア連行と同列に北海道全域の占領統治を目指していたことを忘れてはなりません。
もともと千島列島全体が、日本とロシアが幕末から明治にかけての交渉の結果、平和的に決めた領土関係でした。
幕末〜明治期には日本はロシアと対等交渉する能力すらありませんでしたが、 漸く平和裡に現状を認めあって、国境確定していたものです。
日本が継戦能力がほぼなくなった敗戦の数日前になって、不可侵条約を突如破棄して連合軍に参加したソ連が戦勝国として平和裏に決まっていた千島列島全体を自国領土に編入すること自体が国際法的に許されないことです
これを連合軍が容認すること自体が、連合軍が日本に仕掛けた戦争は正義でも何でもない・・侵略戦争を仕掛けていたたことになります。
ですから日本はアメリカが正義の戦いであったというならば、北海道の一部である4島だけではなく、千島列島全体の返還要求すべきことがらです。
ソ連は千島列島と北海道全土の占領→自国領土化を目的に参戦していたことは、日本の降伏により防衛意欲低下を見込んだソ連軍が夜陰に紛れて千島列島の守備隊を急襲してきたことがこれを表しています。
この奇襲は北海道全体占領の手順として手をつけたものでしたが、これを首の皮一枚のところで防いだのは、ポツダム宣言受諾・降伏後に急襲してきたソ連軍から千島列島を守るために日本兵が果敢に防衛したことによります。
ソ連としてはその時に、あと一息というところで北海道占領・自国領土に編入しそこなった残念感・逃げた魚は大きい・・未だにこだわっていることを忘れてはなりません。
ソ連による不可侵条約違反によるの満州侵入と暴虐非道な行いは良く知られていますが、実は千島列島でもあったのです。

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