ジェンダー解消

 
 

最近では、双方ともに相手に頼らないで生活出来るようになって来たので、子を産まない限り何のために男女一緒になる必要があるのか疑問になる・・(疑問に思っているのは私だけかも知れませんが・・・結果として)独身率が上昇する時代に突入し始めたのです。
男女関係に限らずすべての分野で表面的には打算ばかりで行動する人はいませんが、長期的トレンドとしては功利的利害得失に反した流れは定着しない筈です。
高学歴層女性ほど婚姻・出産率が低いのは、(専門家になると仕事が忙しすぎるなど現象的なことはいろいろありますし、これについてもワークシェアリング等でこれまで書いて来ましたが)功利的下地を考えれば当然の結果が表面化して来たとみることが可能です。
ジェンダーは男女関係が危機的状態になると女性に不利だとすれば、例外現象に対する備えや危機回避・受け皿を補充する方向に行くべきであって、ジェンダー自体を全否定するのは古代から種族存続のために築いて来た人類の智恵を否定することになる危険があると考えます。
女性の自立のためにはジェンダー否定が簡単な方向ですが、その代わりせっかく女性が営々と築いて来たオスの取り込み機能がなくなって行きます。
原始時代には身につけるものは文化どころか裸に近い状態でしたから、食べられれば良い程度だったでしょうが、その水準で満足ですから発情期以外には原則として(例外的協力関係はありますが日常的には)雌雄別に自足出来ていたのです。
繰り返しになりますが、超古代には普段から雌雄一緒にいる状態ではなく発情期に種付けのために遭遇する仕組みだったのですが、女性が子育てのためオスを子育て事業に引き入れるために色々工夫して来た結果ジェンダーが成立したと言うのが私の持論です。
その結果家庭の味を覚えてしまったオスは文化・細やかなサービスの味を覚えてしまい、自立するのは侘しいものと思い込んでいるのが現状です。
最近までのオスはメスに取り込まれて自立出来なくされてしまい、女性のいる家庭に縛り付けられるようになっていたに過ぎないとすれば、男女同方向の能力を持つことが奨励される状態が進行すれば、言わば雌雄別の自給自足社会に戻ります。
高度な文化・文明に相応するサービスすらオスが自足出来るようになれば、双方発情期以外には相手を必要としない超古代の関係に戻るしかなくなります。
ただし、超古代と違うところは、今は精子の凍結保存も出来るし試験管ベビーさえ出来る時代ですから、種族維持継続のためには優秀なオスの精子を多種多様に品揃えすれば足りるようになっているので、雌雄別行動に戻っても人類としては困らない時代が来ているのかも知れませんので、そういう基本思想が底流にあるのであれば、ジェンダー否定も合理的な方向性と言えるでしょう。
子育ては、社会全体で見る方向に向かっていて父親の協力割合が減って行き母親一人の責任ではなくなりつつあるのもそのインフラです。
種付けだけならば、04/15/10「間引き1と男女比」前後やSeptember 8, 2010 「オスの存在意義1」で書いたように今度はオスの方がいらない社会が来てオスが困ると言うか、オス一匹にメス10000匹の割合で足りるので、男はライオンのように持てて良いとなるかと言うことです。

ジェンダー5

 

何事も完璧化し、いろんなことにその考えを及ぼし過ぎると例外に属する分野で不都合な部分が目立ってくるものです。
身分制の場合、養子・猶子制度等でこの不都合をカバーして来ましたが、ジェンダーの場合、女性は男勝りとかの言葉で(褒めているのか女性としてはマイナス評価か不明ですが)カバーするしかありません。
女性的な男子は、今では草食系と言って逆に時流に乗っていますが、これまでは単に柔弱・軟弱とマイナス評価されるだけでした。
ジェンダーが強化されて来た結果、女子は稼ぐことに責任がなくて楽な反面、(今でも社会能力の劣る女性は結婚に逃げてしまう傾向があります)男に逃げられると生きて行けないので(その分男は簡単に逃げられない道徳が成立しましたが・・男の自制心次第です)忍従の日々を送らねばならない(・・ひいては男尊女卑思想が確立しました)のは行き過ぎとして、ジェンダー批判が起きて来たのです。
夫婦がうまく言っている場合には、お互いに自分の至らない(ジェンダー以前にやはり男女の特質の差があることが多いでしょう)点を反省して相手に対する尊敬と弱点を慈しみあって幸せなカップルとなれるとても幸せな制度ですから、それ自体悪い制度はありません。
私などは元々いろんな分野に無能ですが、ジェンダーの御陰で、「男だから仕方がない・・・」と許されて来て得したことが多いように思えます。
その分、何でも器用にこなしてくれる女性は有り難いと心底から感謝し尊敬しているので、比較的男女関係はスムースです。
しかし、うまく行く夫婦ばかりではありませんのでその場合にもこの法則が固く適用されている社会ですと、お互いに自由になれず却って不都合なルールになります。
男は、離婚直後少し不自由でもその内に相手を見つければ良い(経済力さえあれば家政婦も頼めるしどうにかなる)のですが、女性の方は不自由どころか実家がしっかりしない限り死活問題ですから、結果的に大概のことは我慢するしかなくなります。
この役割分担・ジェンダーは女性に損な分業だとして女性の社会進出が盛んになり、更には男性も家庭内の仕事を分担すべきだとする風潮になって来ました。
女性が外で働く以上は男性にも分担してもらわないと時間的に無理があるので当然の結果ですが、この結果女性は経済的に自立出来る人が増え、男性は女性がいなければ何も出来ない状態から、家事能力や女性専売特許だった文化的能力も徐々について来たので、子を生み育てる一点を除いては結婚するメリットが双方で縮小して来たことは確かでしょう。

ジェンダー4

女性には何故経済力がなくなったかですが、これまで書いているように、長期に及ぶ子育てのためにオスを引き込んでいる・・その結果ジェンダーとしてメスは子育てに専念出来る性となり・・その分本来の実力以上に経済力がないようになったのですから、ジェンダー自体女性が男性を家庭に引きつけるために生み出した智恵であって別に異とするに足りません。
ジェンダーについては、05/03/10「ジェンダーの成立1」05/05/10「ジェンダーの成立3」まで書きましたので、今回はその続きNo.4なります。
ジェンダーが確立してくる過程で、子供がいなくとも女性と言うだけで経済・社会的弱者で良いとなってしまったので、子供の有無にかかわらず女性が一人で生きて行く経済力がない(制度的に経済力を持ち難い)社会になってしまっていたのが、問題=行き過ぎです。
女性であっても、子を産みたくない人や生めない人がいるのですから、子を産まない女性向きやカップルが壊れた場合の用意が必要だったと言えます。
大卒と言うだけで高卒より能力がなくとも高給で待遇されるのは不合理であると同じように、(あるいは人種差別その他すべて一定の格付けで決まってしまう社会は不合理を内包しています)その不合理分だけ、大卒あるいは特定人種、家柄相応の能力のない人は得しているのです。
子を産む性を強調して、子を生まなくとも女性であると言うだけで経済力・社会性が不要と言う楽な状態を作り出して来たのは女性自身だったと思われます。
この特別扱いを強制・強化して来た結果、特別な保護がある以上子を産まないで保護を受けるのは狡い→子を産まないのは一人前ではないとする思潮が強くなって、女性に子を産まねばならないような強迫観念が発達し、子供を産まない自由がなくなったと思われます。
ジェンダーは男女どちらが主導したのかは別として、(私は女性の発案により次第に強化されて来たと思っています)女性の社会能力を減じた分、女性の立場を守るために女性は家事や文化力を磨き(独占し)男性の家庭内能力を減じる方向に作用し、(男が台所に入ることすらタブーになるほど)男は男で家庭に女性がいないと何も出来ないように(男は外で稼ぐほかは無能力化)されていました。
ジェンダー制は、完全化しすぎると双方ともに男だけ女だけでは円滑な生活が出来ないように(言うならば男女個体では不完全化を強調)してしまい、それぞれが相手がいなくては成り立たないようにした制度だったのです。
私は子供の頃に「人と言う字は一人では生きて行けない・・支えあって出来ていることを表している」とまことしやかに教えられて育ったものです。
漢字の本来の成り立ちをみると、人の立った姿を描いた象形文字・・単に二本足で立つ動物と言う意味に過ぎず、助け合うような意味はありません。
「人はパンのみにて生きるにあらず」(女性文化力の必須性の強調)とかアダムとイブの話も同じ範疇でしょうが、ジェンダーの成立後に、「男女は一対でこそ一人前」とする思想が成立して行った後の解説だったのでしょう。
千年単位のジェンダー思想刷り込みによって、子を産まない高齢者でもカップルが必要とする本能に近いものが今でも残っているのです。

専業主婦とジェンダーの完成

 

今年の春に離婚が成立した薬剤師夫婦の場合も、夫婦で20万前後の高層マンションのローンを組んでいることもあって(この支払に困るからでしょうか)夫の方が子を産むのに協力しないことが妻の不満の原因でした 。
懐が別と言う結婚が増えてくると結婚率がどうのと言ってもその意味内容が変質して来ます 。
今から25年ほど前に奥さんが日常生活費を負担し、夫が家賃と公共料金の引き落としを負担していた夫婦があって、子供が生まれて奥さんが退職したのに夫が上記以上の負担をしないので奥さんが食うに困って実家からの仕送りで生活をしていたあげく離婚事件になったのを受任したことを紹介したことがあります 。
この頃の私はとんでもない男だと言う考えで受任し、02/23/05「離婚の実態1(夫婦の家は誰のもの?1)」のコラムで紹介しましたが、最近上記のような相談事例が増えてくると15年ほど前のその男は今では、時代の先端を実践していたことになります 。
私たちの世代はいわゆる専業主婦の時代でしたから、(税制・保険・年金制度はすべてこれを基礎に設計されていたことは周知のとおりです)いわば古代から始まった夫婦婚姻制度・ジェンダーの完成期であったと言えるかも知れません。
夫たちは生活の100%を委ねられて(妻に100%頼られて)いる以上は、これに応えて妻の信頼を裏切らないことが美徳であり、夫婦ともに不貞行為をしないところか積極的に一秒も早く家に帰り家庭第一に生きて行く・・楽しみごとは親子で楽しみ、子供が育ち上がれば夫婦中心で楽しむことが理想の姿でした 。
ご記憶の方がいるかも知れませんが、昭和30年代半ば頃にアメリカのホームドラマ「パパは何でも知っている」と言うのが茶の間に紹介されてマイホーム主義の理想的な姿として日本社会に浸透(特に専業主婦層及びその予備軍を魅了)した時代でした 。
ところが、企業社会の方では高度成長から国際競争社会への突入で社員(主として男性)に対しては、滅私奉公・猛烈社員(「24時間戦えますか!」の広告が有名です)を求めている点で、マイホーム主義と猛烈主義との価値観の分裂が生じていました。
外に出ている夫は、妻の不満があっても会社人間にならざるを得ず、夫の交際は会社関係者が中心で終業後も遅くまで帰って来ないのが普通ですから、上記の家庭のあるべき姿の価値観で生きている奥さんは不満ですし、この価値観の分裂が主婦層の不満の蓄積となり熟年離婚に繋がっているのです 。
この二つの価値観の相克では、家庭にいる方が割を食う印象(何時帰るか、夕食を食べるか否かさえも分らない夫に不満を抱いた主婦が大半でしょう)になって主婦層あるいは結婚予備軍の若い女性が「では私も外で働くわ!」となって、男女ともに猛烈型競争に参加する時代・・結局猛烈型の勝利に終わったと言うことでしょうか?

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