表現の自由と組織内意見

話題が報道の質にずれましたが、表現の自由・・海外で日本人が日本批判する自由に戻ります。
August 17, 2018「表現の自由と国外での自国批判(NGO2)」の続きです。
政党であれば思想信条の一致で参加しているはずですから、対外的意見が違えば内部で意見を言うべきでしょうし、意見が合わなければ離党自由ですから党内に留まりながら外部に不満を言うのはルール違反です。
企業人その他組織構成員もみなそうです。
December 19, 2017に紹介した共産党の袴田事件はこれをいうものでした。
しかし日弁連は思想信条の一致共鳴で組織ができているのではなく、各都道府県に(都だけ3個)一つの強制加入組織ですから(千葉県に事務所がある限り、千葉県弁護士会から離脱自由がありませんし、弁護士をやめない限り日弁連から出られません)いわば地方公共団体のような組織・千葉市に居住する限り千葉市住民になるのと同じです。
同じ千葉市住民だからといって、皆同じ意見でなければならない道理はありませんし、千葉市長や県知事がどこかの政党を支持していても、市民や県民がそれに従う義務はありません。
市議会や県議会がいくら民主的に運営された結果であろうとも出来上がった条例等を批判するのは自由でしょう。
・・民主的に選任された市長の行動について、居住地でない東京や大阪で批判意見を発表するのは、文字通り言論の自由です。
労働法関連意見発表について、一般会員に対するアンケート調査があったかどうかすら覚えていないのですが、日弁連は政治的意見に関しては会内アンケート調査しない不文律でもあるかのような印象を受けますので、一切やっていないのではないでしょうか?
私が不勉強なだけか知りませんが、日弁連が19年12月13日に紹介した意見書発表にあたってどうやって会内意見集約しているかすら全く知りませんし(関連委員会意見・労働関連委員会の積み上げだけか?)、一般会員に対するアンケートが仮に来ていてもその当時関心のない時には答えないことが多いし、私の記憶を素通りしているのでしょう。
市民が民主的に構成されている市議会で決議したことに(条例等の効力を受けますが)固有の意見を言えるように、日弁連が民主的手続き・・関連委員会議論を経て決めていることは有効な決議であることと、会の外で反対の意見を言う権利がなくなるものではないでしょう。
日弁連やや千葉県弁護士会の意見は発表されている通り「会の意見であることを認めるが、自分の個人意見はこう言う意見だ」と言う表明権がなくなるとは思えません。
ところで、千葉市をよくするために県内の他市長と連携したり、国内での応援も必要かもしれませんが、それを国外に広げることが許されるのか?
千葉県を良くするために、国外で政治運動することが許されるのか?が今の所私にはよく分かっていません。
文化活動では、国内で評価されない発表が国外で先に評価されて、そのうち国内でも評価されるようになることがあります。
それとどう違うかでしょう。
政治的な利害関係のある国で、そのテーマで自国批判をしてその国で喝采を受けるのではおかしなことになりますが、文化相違の場合、直接的利害のないことがその違いでしょうか?
人権意識のレベル・・どの程度の男女格差が許容範囲かも、文化意識の一態様ですが、その気になれば政治に絡めるのは簡単です。
最近ユネスコのあり方が政治問題化し始めたのは、これを中韓等が露骨に利用するようになったからです。
先進国は文化で後進国に批判されるようになるとは、当初想定しなかったでしょうが、
中韓が自国の人権侵害を棚に上げてシャープパワーを駆使した結果事実上ユネスコを牛耳ってしまっているような印象になってきました。
中国のシャープパワーについては、December 22, 2017,表現の自由と外国の影響(中国シャープパワー)2」まで紹介しました。

表現の自由と国外での自国批判(NGO2)

政治意見があれば憲法・人権学者が金科玉条にしている国内「思想の自由市場」に発表し、国内世論形成に努力しないで、(こっそり?・英語にとっつきにくい日本人多くが、アクセスしないだけのことですが・・)国外で日本の道義退廃を流布する必要性が私にはわかりません。
上記2件だけ(過去の活動までは見る暇がなかったので・・)見ても賠償金、あるいは教科書のテーマと内容を変えていながら、毎回「日本軍のセックス奴隷」と言う表現を多用して「セックス スレイブ」の印象づけを狙っているようなイメージを受けます。
ただし、巧妙に?「歴史事実を否定している日本政府」という修飾語をかましていますが、これを繰り返すことによってイメージ戦略としては国際的には「Japan’s Military Sexual Slavery・日本軍性奴隷」と言う印象づけに精出している印象を受けます。
以下NGOヒューマンライツナウが15年11月当時削除しないで残していた原文(・・この数日間で同NGOに入って見た限りではもはや見つかりません)を紹介しましょう。

(以下日本語訳は私の誤訳?です)
「Human Rights Now is gravely concerned about the government’s sustained denials of historical facts with regards to Japan’s military sexual slavery during World War II, as well as the continuing violations of survivors’ human rights.
(日本軍性奴隷Japan’s military sexual slavery・・の歴史事実を否定する日本政府denials of historical factsHuman

  Rights Nowは、・・に重大な関心を持っていると言うのですから、文書作成者は韓国の主張している歴史認識が正しいと言う立場でしょうか?)
この前提事実によれば、以下のように日本の教科書検定が正しい歴史認識を否定し人権侵害という主張になってるようです。
英文に弱いので読み違いがあれば、ご容赦ください。
(ご自分で翻訳し直してください)

・・・・Minister Abe said “Now unjust slander is being circulated in the world portraying Japan as a nation that forced them into sex slaves,” which he complained jeopardizedJapan’s reputation.・・・・・。

日本は 「sex slaves」を強いた国として今や不正な中傷が流布され ・・、日本の評判を貶めていると安倍は不満を言った。
Moreover, (しかしながら)Japan has failed to follow the UNrecommendations to educate the・・・・Instead, increasing censorship of the issue has been observed in schoolbooks.・・・・。(国連の勧告にも関わらず教科書検閲を強化している)
・・・・We urge the Japanese government to stop abusing survivors’ human rights and dignity through its attempts to rewrite history (歴史書き換えの試みによって人権と尊厳を脅かす行為をストップするよう日本政府に要求 ・urgeする)and to immediately take action to ensure their rights to justice and reparation. In addition, we strongly recommend (強くstrongly要請する)all relevant mandate holders to conduct a joint fact finding mission to Japan (適切な権限のある事実調査団の派遣を?)and to make joint recommendations in this regard.
15年11月3日に紹介した池田氏の以下の記事は、ここに想像の根拠を有していたようです。

「池田信夫 @ikedanob 2015-10-30 16:34:22
国連に「性奴隷」を売り込んだ弁護士が、今度は「日本の女子学生の30%が援助交際」などのネタを売り込んでいる。 twitter.com/KazukoIto_Law/」

裁判となれば、「日本政府が否定している性奴隷」と毎回書いているので、日本の立場を紹介しているので日本を貶める運動ではないと言う論理になるのでしょうか。
そういうことが通用するならば、同弁護士を「国連に性奴隷を売り込んだことはないと否定している◯◯ベンゴシが・・」と毎回書けば名誉毀損にならないのでしょうか?
何となく、中国古代の「白馬非馬論」のような詭弁を弄しているように見えますが、如何でしょうか?
こんなことを言って自己満足していると法律家がみんな(司法権全体)「詭弁家」か?と思われる・社会の信用をなくして行く心配があります。
私は、法律家が屁理屈に走りすぎて世間の信用を失わないかを心配しています。
名誉毀損訴訟の結果伊藤弁護士の勝訴で終わったようですが、伊藤弁護士が国連調査者に述べた証拠を出して、公正に争った結果、同弁護士がこれといった誇張表現をしていなかったという認定になったのであれば同じ弁護士として同慶の至りです。
あるいは性奴隷を流布していた事実はあるが、児童売買春を誇張して流布していたという点だけ真実性証明が足りないとして名誉毀損になったのかもしれません。
あるいは性奴隷を流布していた事実はあるが、児童売買春を誇張して流布していたという点だけ真実性証明が足りないとして名誉毀損になったのかもしれません。
僅か57万円の損害賠償(1審→2審では倍増になったようです)になったのは、児童売買春の点もかなり自己吹聴していたので、同弁護士がガンバった点について証拠こそ出せないものの信じた点は過失に過ぎないという減点?があったかもしれません。
訴訟自体を知らないので部外者は憶測ばかりで合理的批判しようがないのですが、政治問題が訴訟になった事件では、それで良いのかの疑問で書いています。
BPOのように判決概要くらい公開すべきではないでしょうか?
私の実務経験では、裁判所はどんな事件でも事案をよく見ていて、公平な運用をしているのが普通です。
だからと言って、「知らないもの(・・部外者)は黙っているべし」というだけでは、個人的(工事代金や売掛金請求など一般民事、離婚事件)民事訴訟と違って、もともと政治的論争への政治効果を狙った事件・・政治色のある事件では、司法界は(左右両翼から)偏っていると言う思いこみ批判が起きるばかりで国民の司法への信任が進まないでしょう。
左翼系が負ければほとんどの場合「不当判決」の横断幕が掲示されますが、こういう不毛な批判を止めるには、プライバシー部分を除いた判決概要・争点と判断過程をネット公開した方が、国民の司法への理解・信頼が進むのではないでしょうか?
(公開によって裁判所は概ね公平な運用をしていることが良く分かって、国民の信頼が高まるはずです)
裁判は公開の法廷で行うことが憲法上の要請になっているのは、国民の理解・納得によって司法が維持できることをあらわしています。
この意を体すれば、ネット公開には費用がかからないのであるから、判決があった時にはすべからく(性犯罪その他特殊事件や固有名詞等判断の合理性理解に関係ない部分を除いて)、判決書をネット公開し国民批判=納得を得る方法でもあります・に晒すべきと思われます。
我々弁護士会でも平成の初め頃から懲戒処分があったときには決定要旨だけですが、公開する仕組みになっています。
その点、BPOは概要の他に決定内容をネット公開しているようですから合理的です。
ただし、私の方は個人的事情(暇がないだけ)で概要しか読んでいない・・全文を読む暇がないと言うだけですから、BPOの責任ではありません・・見たい場合には、誰でも全部見られるようにすべきでしょう。
各種公文書公開制度は、公開していても滅多に見る人がいないとしても、いざとなれば誰でも見られる点に公開制度の意味があります。
わざわざ役所等へ出向いて申請して費用を払ってまでみるには、よほどの具体的利害関係や事前情報をあらかじめ得ていないとできませんが、ネット公開してくれれば、自宅にいながら気になった時点で念のためちょっとみることが可能です。

表現の自由と国外での自国批判(NGO1)

そこで15年10月末頃にコピペしておいた英文PDFを読むと題名が日本語の活動記録では「慰安婦」となっていたのに英文では

「Japan’s Military Sexual Slavery・日本軍性奴隷」

となっているのにはまず驚きます。
性奴隷だったか否かの事実については、朝日新聞の検証以来「解決済み」と考えている人が多いと思われますが、(一ヶ月に2回も発言している頻度に驚きます)国外・国連では、なお執拗に日本政府批判活動が日本のNGOによって続けられていたことがわかりました。
日本国内の人権改善のための運動としても、国内で主張しないで何故国連で主張しなければならないのか疑問です。
・・1ヶ月に2回も「性奴隷」問題を取り上げているのを見ると慰安婦問題に異常なエネルギーを傾注している印象を受けます。
日本では例えば「児童売買春を抑圧しよう」「教科書検定に反対」のキャンペインをしても、投獄される心配は皆無でしょう。
日本は人権運動すると投獄されるな国ではない・・表現自由が保障されているのですから、日本の人権状況をよりよくしたいならば、まず国内で堂々と意見を発表し自由論争の結果、政治を変えていくようにすればいいのではないでしょうか?
特に児童売買春、フェイクニュース根絶や貧困撲滅やギャンブル依存症対策、売春を公認するか?等の仕組み作りは、理念さえ唱えれば解決するものではなく、総合的施策があってのことですから、優れて国内政治向きのテーマです。
国内自由市場で支持されれば、政策に採用されるので国外宣伝する必要がない→支持されないから場外闘争・・国内運動を諦めて海外運動に精出しているのかと多く人が思うのでないでしょうか?
日本人の目の届かないところ・・・国連・公開の場で日本の道義頽廃を主張しても、多くの日本人は国連の特別委員会の発言をいちいちチェックする暇はないし、もともと英語理解は苦手ですからいきなり国連勧告などもらっても日本人の多くには寝耳の水です。
国連の人権委員を説得して回り、成功するとそんな人権侵害がひどいならと、現地調査派遣が決まるのでしょうが、訪日調査と言っても児童売買春で言えばまともな統計すらないので、「意識の高い?」関係者から聞いて回って報告書作成となったのが、国内騒動の顛末ではないでしょうか?
たまたま補導された児童に聞く機会があっても自己正当化もあって、彼女らの言い分は「皆やってる」というのがほとんどです。
事件相談でも数十年前には依頼者の主張根拠を聞くと「みんな言ってる」「皆がやってる」というたぐいの説明が多かったのですが、自己の(相手の言い分を言わずに自分の都合の良い)言い分を強調すれば、大抵の人は論争に参加する必要がないので、強調する人の言い分に同調するふりをするか、「大変だったね」と慰めたり「そりゃひどいよ、すぐに弁護士さんに相談しな!」となるのが普通で「あんたの方が悪いよ!」という人は稀です。
ですから補導した児童に「友達でどのくらいやっているか」を聞いてもそのまま鵜呑みには出来ません。
15年10月末の大騒ぎがなければ報告→委員会決議→国連勧告を得てしまえば、国内議論不要・・「これが国際標準だ」として国内で内容議論抜きの国際標準である「国連勧告を受け入れろ」という政治運動になっていくような印象を受けた人が多かったでしょう。
革新系の「近代法の法理を守れ」とか「憲法を守れ」と同様、政治内容の具体的議論抜きに、思考停止させる戦略の一種です。
国内議論でほとんど相手にされないグループが、国民不知の間に国連特別報告者派遣に成功する・これが成功すると上記の通り結論が前もって決まっている儀式のために調査者が来日するみたいなものですから、(満州のリットン調査団や最近のロヒンギャ同様に)現地調査団が現地調査に行ったが、「人権侵害がなかった」という結果になった事例があるでしょうか?
日経土曜版で連載中の歴史学者本郷和人氏の「日本史ひと模様」に籤引き将軍の決定には事前に結果が決まっていた」という推測論が最近紹介されていましたが、(そこに書いてあったか私の思い込みか不明ですが)弓削道鏡失脚になっ宇佐八幡のご神託も湯起請も皆、筋書きが決まってからの儀式だったことが多いのです。
人権侵害調査の特異性は、双方から聞き取り形式ですが、政府等の言い分を形式的に聞くだけで信用しない・被害者の言い分を聞いてそちらを信用するという結果になるのが普通です。
しかも、事件の性質上匿名秘密聴取で「誰が何を言ったか」も秘密・ベールに包まれたままです。
そしてその人の言い分すら公開されないまま、「一方のその聴取結果を信用した」ということで、そのまま特別報告の内容になる仕組みです。
1〜2年前に表現の自由が侵害されているという国連調査報告が問題になりましたが、匿名の事情聴取を採用して政府主張を採用しないということでした。
このような偏頗な調査の結果、「香港の民主主義を守れ」という運動をすると簡単に中国に拉致されしまう香港よりも、日本の表現自由度の方が低いという結果だったようにおぼろげですが記憶しています。
児童売買春の場合、たまたま離日前に記者会見で数字発表したことから、客観性が必要になって撤回に追い込まれましたが、「表現の自由が不自由になっている・憂慮すべき状態」という抽象論の場合、(「誰がそんなこと言ってるのだ」というと「ニュースソースは秘密です」となり)客観性がいらないので、日本に対して問答無用で、「是正勧告」を言い切れば終わりです。
いわば特別報告者の腹づもり次第と言う仕組みです。
訪日調査者の多くは招請運動していたグループの推薦する各地地域団体代表者等から、実情聴取して帰る・・国連報告→国連委員会承認→国連で認定された既成事実・・慰安婦騒動同様に「すでに決まったことだ」という論で押し切る方式を感じ取った評論家等が非難したのが15年10月末の児童売買春騒動だったと思われます。
伊藤弁護士がその運動をし、過大報告したかどうかは別ですが、評論家が同弁護士の行為のように断定したからでしょうか?表現に行き過ぎがあったとしても、批判者の言いたいことを国民多くが理解したのではないでしょうか?
例えばヒューマンライツナウのホームページをこの時点で見ると以下のような運動が掲げられています。

私たちの活動

日本国内の人権状況
ヒューマンライツ・ナウは、日本に住む人々の人権が充分に保障されるように求める活動も展開、国連人権機関からの勧告を実施するよう政府に働きかけ、国際スタンダードの人権保障を実現するために活動しています。

成人の売春禁止制度がどうあるべきかを含めいろんな制度のありようは、民族の歴史を踏まえ海外の圧力で強制するのではなく主権国家→国内論争による民意によって決めていくべき問題です。
ちょうど今朝の日経新聞6p(フィナンシャルタイムズの引用)には、米中対決の本質・米企業の対中投資も安全保障上の観点から禁止されるようになっていく・・従来米国では大企業の海外進出は「企業が儲ければ国民も潤う」という観点しかなかったが、結果は、国民に還元されず国民は貧困化して来たので、グローバル展開が国民に良いことかどうかが問題視される時代に入ったという論文が掲載されています。
日本ではトヨタが海外展開しながらも、民族精神重視できたことがよくしられているとおりで、元々民族無視のグローバル化を国民多くが支持してきませんでした。
炭素繊維成功で新時代対応成功・・希望の星であったトーレが(経団連会長企業になったので、一定の政治的立場もあったでしょうが・・)慰安婦騒動の最中に韓国への新規投資発表など肩入れ鮮明化以降、問題になっているなど結果的に日本の方がトランプ氏より進んでいたのです。
最近の報道では以下の通りです。
https://ameblo.jp/ishinsya/entry-12321465394.html

許されるのか?東レが韓国に技術移転!
2017年10月21日(土)

表現の自由(自己実現・自己統治)とは2

表現の自由は、自己実現・自己統治のためにあると言うだけで、社会との折り合いをどうつけるかは、各自別に考えなさい・制約原理は別に考える・・ここは「権利だけ」考えていると言うことでしょうか。
しかし基本的人権といっても相手のあることが多いので、好きなように主張していると喧嘩が絶えません。
制約原理と合体して同時に考えるようにしないと間違って「自己実現の権利は憲法以前の基本的人権であって法律でも制限できない」から「何を言っても自由だ」と誤解する人も出てきます。
「腹ふくるるワザ」になるのは、相手があって「言いたいことも言えない」前提で兼好法師が書いているのです。
昔から、言いたいことを言う権利があったでしょうが、相手が嫌な顔をするようなことを言うと楽しくないし相応の返礼があるから、セーブして会話を楽しむようにしているのが生きる知恵です。
宮沢憲法のように「国家以前の自然権」「天賦不可譲の人権」というだけでも「戦前と違う」という戦後の大変革時のスローガン的にはインパクトがあったでしょうが、世相が落ち着いてくると素朴すぎるので次世代学者がもうちょっと捻ったようです。
憲法以前に存在する自然権というキャッチフレーズとしては敗戦時に「なんでも国家が悪い」という占領政策の宣伝と合わせて相応のインパクトがありましたが、敗戦ショックが終わり社会が落ち着いてくるとスローガン的学問では納得できない人が増えてきます。
「人権」・自然権という「権利」とは、国家社会が公認して初めて言える概念でないかというあたり前の批判(私の個人的思いつきですが、この程の批判は起きるでしょう)が起きてきたのではないでしょうか。
素人的思いつきですが、「人権」という概念自体が、国法で認められて初めて「権利」に昇格するのですから人「権」という点で国家社会成立前の自然「権」という言語自体に言語的矛盾をはらんでいます。
例えばベンサム(1748-1832)の理論がそうです。
https://plaza.umin.ac.jp/kodama/rights/kanrin_presentation.htmlによれば以下の通りです

ベンタムの自然権論批判
–法実証主義者としてのベンタム– 京都大学 児玉聡

具体的には自然権論のどのような点が誤りなのでしょうか。第一に、ベ ンタムの考えでは、「人はかくかくしかじかする自然権を持つ」という主張は、 事実命題として考えた場合、意味を持ちません。というのは、「ある人がかく かくしかじかする法的権利を持つ」と言われた場合は、政府がその権利を保護 する措置を事実とっているかどうかを確かめることによって真偽を判断するこ とができますが、「自然権と称されるものの場合、そうした事実は存在しない– また、そのような自然権が存在していないと仮定したときにも存在するであろう事実しか存在していない」(III, p. 218)からです。そこで、進んで、ベン タムは、法的な権利に先立ち、政府による立法を拘束するとされる自然権は、 空想の産物でしかないと主張します。フランス人権宣言第二条にある「あらゆ る政治的団結の目的は、人の消滅することのない自然権を保全することである」 という主張に対して、ベンタムは次のようにはっきりと述べています。「自然権などというものはない。政府の設立に先行する権利などというものはない。 法的権利と対立し、対比される自然権などというものはない」(p. 500)。
3.3 したがって、自然権は合理的な議論の基礎になりえない
今述べたように、「人はかくかくしかじかする自然権を持つ」という主張は法 的権利の場合と同じように事実命題として考えるならば、無意味な命題になり ます。そして、このような性格を持つ自然権を根拠にした現行の法を批判した り立法の是非を論じたりすると、合理的な議論ができなくなるとベンタムは考 えました。

そこで天賦不可譲論・自然権論に代えて 「自己実現」「自己統治」と言われるようになった(私個人的推測です)のでしょうが、一見何かありがたいような意味ですが、(いつも書きますが「近代法の法理を守れ」とか意味不明言語を用いて思考停止を求めるのが戦後学問の特徴です)単なる言い換えの宿命で?もうひとつピンときません。
自己実現とは本来芸術家が内面を表現する行為としては、最も適した熟語のようなイメージですが、これとても(数世紀後でもいつか)社会が受け入れてこそ、芸術として評価されるものですし、どちらかといえば心理学にその本籍があるものでしょう。
これを社会(人間と人間の)関係をどう律するべきかの学問である法律学者がなぜ使うようになったのか意味不明ですが、法律学は相手のある学問・・人間と人間の関係を規定する学問であって、周囲の迷惑お構いなしに自己実現するのをどうやって規制するのが合理的かを模索することこそが法学ではないでしょうか。
「法」とは社会の人間関係のあり方を規定するための道具ですから、芸術家のように自己実現さえできれば、相手がどう思おうとどうでも良い関係ではありません。
会議や友人との食事でも言いたいことを言う権利があるからと話題の流れと噛み合わない場違いなことを言うと話が噛み合わなかったり相手を不愉快にさせるので次第に会議や食事会等からはずされるようになります。
衣装アクセサリーだって自己実現するのは勝手とはいえ、制服以外にも、レジャー用と事務職用の別があるなど相応のドレスコードがあります。
自己実現は自由としても相手のあることである結果、自由市場で弾かれるのを容認するというのが自由市場論でしょう。
その社会のためになる意見でもその社会を悪くする意見でもどんな意見であっても、政治参加することによって「自己統治できる」?という変な論理(私にはわかったようで分からない熟語?)ですが、憲法学者に言わせれば結果がどうであれ、意見をいう自由が先ずは必要・結果的に社会のためになることが多い(社会や周囲の人の嫌がることを言う人はおのづから遠ざけられる)だけという評価のようです。
表現の自由は自己の幸福追求の権利である以上、「所属する社会・集団をよりよくしたい」か「悪くしたい」かの価値評価を含めてはならない・・・その意見の結果社会がどうなろうと、「個人が政治意見を言いたいなら自由に言わせるべき」だ。
その意見が「国家・社会のためにする意図」あるいは「利敵行為目的」であろうがなかろうが「言いたいことを言える権利」・・国家の介入を禁止したいことに重点があるようです。
人権問題は国家と個人との決まり事であり、国家は思想に価値介入できないが、個々人は自分と意見の合わない人と無理に付き合う必要がないのですから、個々人がノーと言えないことまで言いだすと行き過ぎです。
(利敵目的・勤務先や所属組織の損失目的を仮に明らかにしても)「それを理由にして言論が制限されない」・・・それが支持されるかどうかは、言論の自由市場論で解決する・・別次元で考えるようです。
国連特別報告は、国家が直接検閲し禁止しているのではなく番組から降ろされる事例を書いていましたが、(反日を言えば支持されないので)結果的に「言いたいことが言えない社会」は表現の自由度が低いとなるのでしょうか。
表現の自由は、思想の自由市場が機能していることが前提ですから、言論の自由市場が寡占支配になったり、国家が介入したのでは、市場で売れないのは自由競争の結果ではなくなりますから、寡占の弊害除去と国家権力の介入を厳重に監視する必要があります。
従来国家からの距離だけに関心があって、寡占支配に意図的に目をつぶってきた弊害が出てきたように思われます。

表現の自由(自己実現・自己統治)とは1

民意による公権力=社会秩序と「距離を保つ」価値観であれば、いわゆる吉田調書のような「反日フィクション創造」に喜びを見い出して大喜びで大々的報道したい人が多いのもわかります。
メデイア界でこのような主張を英雄視する風潮・空気を読んで「公権力とは距離を保つ」と言えば格好いいとして、発言したのでしょうか?
「公権力とは距離を保つ」というのですが、全ての権力と距離を保つのではなく「公権力とは」と限定して距離を保つとしている意味が不気味です。
公に対する対語は私ですから「私権力」には「距離を保たない」と言う反語的意思表示でしょうか?
「公権力」とは、民意による正当性を付与された権力とすれば、「私権力」とは、民意による正当性を付与されていない・・・山賊やギャングが、民家に押し入って事実支配している状態・・マフィア的アウトロー権力を言うのでしょうか?
中国の共産党政権は民意による洗礼を受けていない・山賊(共産党私兵・人民軍は国家の兵ではなく共産党の私兵です)が国家を乗っ取った状態と言われていますが、「民意による「日本の政府・公権力とは距離を保つ」が、中国共産党政権には近づきたいと言う意味を含むのでしょうか?
7月9日に
「日本をより良くしたいと思うならば、国内の言論市場で先ずは勝負すべきです。」
と書き、その後カンヌ映画際に話題がそれましたが、元に戻ります。
私はいわゆる宮沢憲法で勉強した世代ですが、蒙昧な私は、自分に都合の良いように
「言論の自由、思想表現の自由が結果的に「その」社会発展に貢献するから重要」
という意味で理解してきましたが、最近そういう意見が(なくなった訳ではなさそうですが)背景に退いているようです。
旧ソ連に限らず中国その他の(人権無視の)独裁社会では、自由主義社会に遅れてしまうはず・・とメデイアでも一般的に言われている大方の刷り込みは、上記理解のもとで語られてきたと思います。
今朝の日経朝刊24pにもフランスの元文化相ラング氏との対談記事で、文化を大事にすると結果的にその国社会の発展に資するという添え言葉がありました。
「文化に投資するのは窓から金を投げ捨てるのではありません。それは大変に還元性の高い「投資」であり、世界にはすでに多くの実証例があります。」
と書いています。
文化に力を入れているフランスの元文化相らしい意見です。
我々個人も同じで、18年7月7日に上野東博の縄文展を見てきて感動し(後期も見に行く予定)ましたが、何千年も前の古代に高度・・・現代的に見て最先端センスでしかも精巧な器や櫛、土器等々がすでに製作されていたのを見ると「日本人は古代から手の込んだ「ものづくり」の好きな民族なのだなあ」と感動せずにいられませんでしたが、その背景にあるのはわが列島人(今の民族)が、かくも素晴らしい「ものづくり」続けていたのか?という感動であり民族の誇りです。
我々一人一人が一人で育ったのではなく「海よりも深い山よりも高いちちははの恩」というと古臭すぎるかもしれませんが、物心つく前から周囲の風のそよぎに始まって一言で言えば、民族の中で生きているのではないでしょうか?
芸術こそ他者無視でも「自己実現」に最適の分野ですが、それだけでは庶民に訴えるものがないからでしょうが、フランス文化相が「社会のために良いのだと付け足す」必要を感じたのでしょう。
いろんな基本的人権の中でも表現の自由は、とりわけ「受け手」があるものですから、聞いたら意見相違・・不満な不愉快になる人の存在が避けられません。
これに対して「言いたいことを言うのは勝手でしょう」と言うだけでは現実社会の支持を受けられないからではないでしょうか?
言いたいこというのは必要だがそれは「時と場所を選らんで言うものだ」という程度は子供だって知っています。
ところがいつの間にか?学問の世界では、表現の自由は「自己実現」のためにあるという意味が中心化して、ひいては国家社会の発展に資するという意味合いは否定されないようですが、副次効果的扱いに変わっているようです・・。
この扱いは昔から同じだったのにレベルの低い私は副次効果ばかりに印象が強く残っていたのかも知れません。
現在の主流的学説・・表現の自由で検索すると以下の通りで、社会のためになるのは二の次で、先ずは個人人格の発展に資するという主張が前面に出ています。
http://kenpou-jp.norio-de.com/hyogen/

ひとつは自己実現の価値。
自己実現の価値とは、
表現活動を通じて個人の人格を発展させるという個人的な価値といわれていますが、人間的成長のために表現活動が大事であるという価値観であるといえます。
もうひとつは自己統治の価値。
表現活動によって国民が政治的意思決定に関与するという民主主義と密接不可分な、社会的な価値をいいます。
このような価値を支えるためには、
「思想・言論の自由市場」の形成が不可欠であるといわれています。

ネットに出ている憲法の解説では、表現の自由は個人の幸福追求權の一種?誰でもいいたいことを言えるのが(ストレスがなく?・・兼好法師流に言えば言いたいことも言えないのでは「腹ふくるるわざ」)であり、「自己統治」に必要で人間として生きていくための基本的権利であり、最重要だと言うようになっているようです。
政治参加権のことを「社会の一員として当然発言権がある」という私流の粗雑な理解?いわば社会参加論ではなく、「自己統治」と言うようです。
ちらっと説明を読むと、「政治参加するには、多様な情報を知る必要がある・だから表現の自由が必要」というような説明ですが、その程度の説明をするのに難解な「自己統治」というのか不明です。
要は、「表現の自由は社会発展に資する」とは言いたくない・・「何事も個人のためにある」という強調のために言い出してこれが格好いいということで定着してきたようです。
そう言いながらも社会のためになると憲法の解説者はつい口を滑らせるようです。
https://blog.goo.ne.jp/kodomogenki/e/7ddf217e3a7af1c482364e1eb34d335d

「自己統治ですが、これは、私たちの社会の大切な仕組みである、民主主義を支えるとても大切な価値です。
自己実現でも述べましたが、ひとりひとりが、社会に起きている事柄について、情報を集め、分析することで、社会がどうあるべきかについての意見を自己決定することができます。
政治家を選び、その政治家が、私たちの未来の社会を決めるのですから、その判断材料となる情報は、とても大切であることが分かりますよね。
表現の自由の中でも、この政治にかかわる情報は、一番手厚い保護を与えて行かねばならないと考えられています。」

「自己統治」とは、国家・民族のためになるからではなく、政治参加する個人の「権利」を尊重しようという側面強調のために考え出された・・いかに共同体利益を消し去るかの工夫のためにできた概念のようです。
何が何でも共同体・社会と個人は対立するべきものだという戦後の風潮がここに現れています。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC