訴訟と日本文化批判9(スマートだったGPS訴訟)

GPS判例のときだったか?でちょっと書きましたが、逃走犯人が昔のように空き地を突っ切って逃げたならそのまま追いかければいいのですが、住宅街敷地を突っ切って反対側の路地に出て逃げた場合、追跡中の警官が他人の住宅敷地に侵入できないので、ぐるっと迂回して裏側の路地に行き着くしかないような滑稽な事態になります。
この最たる事例が車社会化の変容です。
例えば15〜20年前に担当した事件では、一晩のうちに夕方はまだ帰宅しない共働き夫婦のいる新興住宅街・・千葉県佐原〜茨城県内で何件か空き巣をして(犯人の説明では日暮れどきに新興住宅街を回って電気のついていない家を狙えばいいので物色する手間がいらないということらしいです・・その後深夜に長野県で、ガソリンスタンドのドアーを破って侵入盗をした事件を担当したことがあります。
今は見張りといってもその家の前で見張っているのではなく、見通しの良いところ(分譲住宅は道路整備されているので割と遠くからその路地に入る車や人を発見できるのと携帯やメールで連絡できるので安全地帯に車を止めて見張っているようです)実行犯は侵入するとまず裏口のドアを開けて、連絡があると一旦裏口から出てこの家の住人が帰ってきたのか窺うようです。
通行人がその家を通り過ぎると侵入し直して金目のものを探して遁走するのを繰り返し、6時半前後になると勤め人が帰ってくるリスクが高くなるので空き巣侵入を切り上げて、今度は夜遅く閉店後の商店を狙うために長野県まで移動して店舗荒らしをしていた事件です。
近隣住宅街で繰り返すと足がつきやすいので、毎回数十キロ離れた住宅街を狙って広域移動する犯罪集団の場合、警察が千葉県や茨城県の被害住宅街付近(自転車圏程度)の素行不良者など聞き込みしているようではとても間に合いません。
佐原署管轄だったか?地元警察だけでの捜査能力を超えています。
GPS事件も窃盗集団の移動把握のために警察が窃盗集団と目星をつけた車にGPSを装着してその運行記録をもとに検挙した事件で捜査の違法性が問題になった事件だった記憶です。
車による長距離移動が一般化すると、犯罪も広域化するので地元素行不良者に目星つける方法や、江戸時代のように尾行や追跡は不可能になっているのですが、GPSがあれば過去どころかリアルタイムで移動経路が一目で判明します。
どこで一定時間停止していたかなど犯行場所との関連づけもおおよその推定可能ですので、連続空き巣犯など犯罪集団の特定絞り込みに有益ですし、一定の場所で停車している場合現行犯逮捕準備としては効力を発揮します。
GPS事件はGPSを無断で取りつけたことが問題になったのですが、あらかじめ捜査目的を説明して取り付け承諾を得るなどは不可能な分野です。
離婚事件等での浮気調査などにGPS利用が一般的に行われているのですが、法理論説明は別として、結果から見ると私益追求のためには問題がなく、(私人間行為なのでそれ自体を問題にする事例に発展しないだけ?のことですが)公益実現の最たる分野である犯罪捜査に使ってはいけないジレンマです。
長年の歴史的慣習で私益実現のためには許されない行為でも、お上がやるときは民間向けのがんじがらめの規則などお構いなしに超法規的にできるかのような無意識的思い込みがまだ強いのが現状でしょう。
この象徴的法諺は、国王の無答責という言葉でしょうか?
国王は、何をしてもも刑事責任を問われないという制度で、現在も王制国では、法律上そう運用されていると思います。
我が国でも天皇は無答責と言われ内閣が天皇の行為について責任を負う仕組みです。
こういう意識からすれば、私益実現の為の違法行為は相手さえ事件化しなければ有耶無耶→違法行為責任を滅多に問われないのに、公権力行使の時だけ違法とされりのはおかしいという印象を持つのでしょう。
民主社会になって、警官になれば好きにしょっぴけるのではなく裁判官発行の令状を示してから出ないと逮捕や家宅捜索できないように、私人には許されない行為が公権力の行使としては許されるものの、その行使には厳しい条件がつくようになっています。
GPSや防犯カメラ等の設置には、新しい分野なのでこの種の条件整備が進んでいない・法定権限が整備されていない・・法不備の問題です。
公権力行使のためには一般人が許されない行為ができる場合が多いのは、予め一定の場合に限り許容されることが法定されているからです。
パトカーが赤色灯をつけてサイレンを鳴らして追跡する時には信号やスピード規制等を守らなくとも良いことになっているように、法制化を工夫すれば良いことでしょう。
とは言え、犯罪容疑にかかわらず誰彼なく個人の車にGPS装置を無断で取り付けて良いという法律ができるとは思えませんし、やるとすればGPS装置装着車しか運行してはならないと義務付けるしかないのでしょうか?
文字通り中国の監視社会の一部実現ですが、これも記録保存義務までは何とかなっても事故事件発生前にどういう根拠で「見せろ」と言えるかですし、「リアルタイムで見せろ」となればなおさら無理そうです。
警察が事件後全容解明のために記録の押収をして調査するのはできるでしょうが(飛行機事故ではボイスレコーダーの解明が普通です)このグループが連続亜skいうあっhライ糸井だけで検挙できる証拠がないから追尾して現行犯逮捕の必要があるということはこれから犯行しそうだから、リアルタイムで監視させてくれということですからまだ罪科のない人そこまで監視して良いのか?となります。
ただ、善良な一般人をやみくもにGPSで追尾監視しようというのではなく、今後も実行しそうなグループとして合理的根拠を得て始めるものとすれば、その程度の要件を満たしているか否かの審査機関(裁判所)を設けて一定期間に限っての監視を許可するのも一方法でしょうが、電波傍受と違い取り付け行為許可の法技術は難しいと思われます。
前提制度として車製造基準としてGPS装着を義務付ける制度設計を先行させて、裁判所が一定の要件合致する場合にのみ一定範囲で傍受を許可するのも1方法でしょうか?
訴訟態度のあり方に戻りますと、仮にGPS捜査自体を禁止すべき!とメデイアで大々的政治主張し耳目を集めていた場合に比べれば、上記弁護士が余計な主張をしなかった・法律上の問題提起に徹したのは賢明・スマートだったという限度での評価です。

訴訟外文化批判8(GPS事件との対比)

日本では、自分の意見を主張表現する権利がある代わり、自分の主張による影響を受けるのも引き受けるべきでしょう。
私の職業的価値観で言えば、金銭請求の民事請求は淡々とその根拠を訴訟で主張するだけで良かったのに、特定企業や背後の日本文化攻撃まですれば、攻撃された企業・批判された者の中で、(もしも感情的表現等があったりすれば)批判は批判として受けれ入れたとしても「感情的部分が許せない」となる人も一定数残ります。
ノーベル賞受賞の機会に修復を求めた動機は不明ですが、彼が日本国籍を意図的を捨てたか喪失したかは別として喪失している場合を仮定してみます。
日本国籍を再取得したい場合・あるいは気持ちよく「郷土に錦を飾りたい」場合(日本文化全面否定したことによって傷ついている人の代表?の)「日亜化学との関係修復した方が良いのではないか?」と親しい人からアドバイスされているのかもしれません。
仮りに国籍再取得したい場合を考えると、外国人の国籍取得は一定の要件をクリアーした時に許可できるだけであって法律要件クリアー=自動的許可ではありません。
許可は政治裁量によるので、国民感情として反対が多いと簡単ではありません。
今の韓国に対して、ついにもうダメだという段階になってしまったのと似ています。
韓国国民は日本の怒りの深さに焦っているようですが、(日米から離反して、北朝鮮と中国につく戦略の文政権にとってはその方が好都合でしょうが・・)詫びを入れるどころか開きなおって日本非難を拡大する一方ですので、いよいよ相手にされなくなるでしょう。
中村教授は日亜化学にあっさり袖にされて「さあどうする?」というところです。
パワーゲーム的に勝てそうな時だけの修復提案では心に傷を受けた方は受けられない・修復は無理でしょう。
日本を良くするための日本現状批判は必要ですが、そこに悪意・敵意がこもっていると国民大衆が受け取る・・感じ取ると反日メデイアの烙印が押されてしまいます。
20日にも紹介していますが、朝日の報道姿勢がいつも問題になるのは日本社会を良くするための批判か、日本を解放?したい国の代弁か不明・・疑心を持つ国民が増えてしまったからです。
中村氏は発明報酬が低すぎると思えば低すぎるかどうかの立証・・司法・合理的論争に徹すればよかったでしょう。
メデイアに誘導質問されても日本文化全般批判方向の取材には(私は研究一筋でそう言うことはわかりませんと)ガードを固くすべきだったと思われます。
自分から進んで場外乱闘行為のような言動に出たのは、当初から寄与度が大きいとする主張に根拠がないことを理解していたからでしょうか?
日本企業文化ひいては民族のあり方批判に対して、いわゆる「反日」メデイアが大喜びで飛びついてフィーバーしたのでしょう。
本当に反日目メデイアかどうか不明ですが、反日メデイアと言われるようなメデイアは慰安婦騒動以来国民の信頼を失っているように見えますので、これらの寵児になった人はその分国民感情的(メデイアに紹介されないいわゆるサイレントマジョリテイ)に反感を持たれていたことになります。
メデイア露出は個人の露出癖による発露ではなく、国民支持を得る目的だったとすれば反日的フィーバーを煽るのは合理的ではありません。
20日引用したように、1審判決後和解成立までの間に東京地裁判決批判が一般化されていたらしく、和解成立後になお朝日新聞の高橋真理子氏が司法批判的意見を書いているだけで、報道界全般に支持者が広がらなかったようです。
これまで見てきたように発明にこぎつけること自体に多くの協力が必要な他に、商品化成功までには多くの関与者の協力や各関係者の成功の積み重ねによることも常識になっていたようです。
訴訟提起して半分の貢献度主張をするには相応の業界調査をした結果であるべきでしょうが、業界の実態調査すると期待する高額報酬にならないので「日本の業界慣習が腐っている」という宣伝戦略を展開したのかもしれません。
事件そのものを知りませんが、私の職業的感で言うとわあg国の相場が低すぎると言う場合、米国での報酬基準がどうであって、芽が出た段階でいくらくらいでファンドが買い付けているか・市場評価がどうなっているなど主張すべきであったでしょう。
発明〜創業関連業界や発明や特許を買うファンド相場などの値付けの国際標準を見ても常識に反する寄与度の主張・・結果的に非常識主張になってしまったように外形上見えることからすると、どういういう事前調査をして訴え提起したのか疑問です。
メデイア戦ア採用によって中村氏は特定メデイアの寵児になった結果、その裏側で「声なき大衆」の力を無視する結果になったようですが、その反動が出てきたのがネット社会化の進展です。
ノーベル賞受賞時にはネット社化の効能で、マスメデイアが秘匿する情報・・「国籍を捨てているのに日本人受賞なの!」という批判が飛び出してきた・・こういう声なき声の逆襲があるとは想定外だったでしょう。
ノーベル賞受賞で、もう一度メデイア界の寵児になれたのでポイントを得た!反撃チャンスとみたつもり?勝者気分での修復提案だったとすれば逆効果だったようです。
最近の事件で言えば、若手弁護士がGPS捜査に挑戦して金星を上げましたが、前もってメデイア戦略など一切していなかったように思います。
※ GPS捜査あるいは先端技術駆使の捜査を禁止すべきという政治論として私が評価しているのではなく、既存法令での運用には問題が多い・・法制定技術が科学技術発展に追いついていない問題点を浮き彫りにした功績をここでは書いています。
犯罪を犯す方は「あらかじめ法令で決めた方法以外の犯罪を犯してはならない」という法令がないので最新技術を駆使して、新規犯罪を犯してもそれを処罰する法令が未整備の場合、犯罪とはならないのと同様に逃走手段もいろいろで刑事訴訟法が出来た頃の犯行や逃走手段とは大幅に変わっています。
捜査する方は19世紀型思考で、私権侵害的行為は法令でがんじがらめに決めた方法でしか捜査できません。

発光ダイオード特許事件8(日本文化批判はどうなる?6)

話題が逸れましたが、後先見ずの感情論にひた走るのは気持ちがいいでしょうが、言い足りない点は後でカバーし易いですが、後先見ずに言いすぎた点の取り消し不可能です。
中村氏にとっては、感情に走りすぎた点が大きな失点(立場によっては逆評価?)
だったでしょう。
ところで
「ノーベル賞学者が、日本企業と研究する機会が失われてしまったのも事実だ。」
という意味が不明ですが、日亜化学との真の和解ない限り日本社会が受け入れない・他企業も近づけないということでしょうか?
普通の事件ならば、事件に関係ない人には知らないことですが、自分からメデイア利用したのか利用されたのか不明ですが、少なくとも自分の意思で記者発表をした以上は、全国区の話題になってしまったことは確かです。
全国向けに司法批判、日本企業・文化批判・否定的意見を大量露出した以上は、これに不快感を持つ人も増えますので全国的居場所をなくすリスクを負うべきでしょう。
大久保利通が郷土鹿児島で受け入れられていない不遇を紹介しましたが、彼は薩摩藩という狭い枠を超えて統一した民族国家確立に奔走していたのですから、郷土の不満にあまり配慮しなかったのは理解可能です。
中村教授の批判は日本社会をもっと独創的意見を持つ人が優遇される社会にしたいという前向き批判だったのでしょうが、批判されるほうは全否定されるかのような印象を受けたのでしょう。
古来から何か大きなことをなした人は、他の批判しないで自分の生き方を貫いていくのが多くの日本偉人の生き方でした。
この例外は他宗を非難した日蓮聖人だったので弾圧も受けたし、その反動で不受不施派という極端な主義主張も生まれたのでしょうか。
現在日本では共産党だけが、政治資金を受けないし他政党との共同もしない唯我独尊的政党になっています。
現在でも日本ではヒト・他国の生き方を批判しないで自分の信念に従い黙々と刻苦勉励していつか国際社会でハエある地位を得られれば良いという生き方でやってきました。
中村氏は会社の開発打ち切り方針に反してなお一途に青色発光ダイオードの開発可能性を信じて黙々と?一筋に研究を続け、企業も企業方針に反する研究を続ける中村氏の研究を禁止しないどころか研究開発資金・人材をつぎ込んでくれた結果、遂に偉業を成し遂げたもののようです。
以下に紹介する森の生き物観察と違い、産業系研究を続けるには禁止されないだけではなく積極的に巨額資金人材応援がいります。
ようするに日本精神の統合結果がこの大成果を生み出した原動力です。
米国流の短期成果を求める民族性・ちょっとでも成果が出ないと資金が潮の引くように去ってしまう社会(ファンド市場評価で資金集まる社会は逃げ足も速い)と異なり、「長期間粘れる人が粘る」のを暖かく見守る風土・・研究開発部門で言えば、一つのことに取り組んだら一生涯成果がなくとも粘り続ける根性こそが日本民族の強みではないでしょうか?
9月23日の日経新聞朝刊最終ページ(文化28p)には31歳でテレビ局技術者をやめて北海道の森に住み着いてにシマフクロウの生態観測(生息環境作りしている人の手記が出ていましたが、日本にはこういう人が各地にいますし、周囲も成果の有無にかかわらずそれを立派なことだと応援する人が必ずいるのも強みです。
別に元勤務先のテレビ局が応援してくれないと不満を言わないし、政府に対する不満も言わずと自分ができる限りのことをしているだけの生き方です。
私はここ数十年朝起きるとまずは自宅周辺掃き掃除をするのが日課ですが、公共団体や近所の人も掃除すべきだと不満を持ったこともなく、ただ掃いているだけです。
「ひと様の悪口を言うのは浅ましい」という考えで韓国による長年にわたる反日告げ口外交に直接反論しないでいたところ、ありもしない日本軍による慰安婦強制連行論が国際社会に浸透してしまったのには日本人の多くが驚いたばかりです。
中期的には声の大きい方が勝っているように見えても長期的には「正しい方が認められる」というのが日本民族の価値観です。
日本列島では異民族の侵入がなく数百年以上定住社会でしたから50〜100年程度嘘でごまかせても仕方ないというのが大方の考え方です。
だから、神ならぬ身、何もわからないので自分はこの生き方が良いと思っても周囲に強制しないし、(行基も西行も良寛さんも自分の行き方を貫くだけでしょう)周囲の人もその変わった生き方を黙って見ているだけで嫌がらせもしません。
これが八百万信仰の基礎となる寛容な民族性を形成してきた基本精神と思われます。
こうしてみると、時流に流されず10年でも20年でも根気よくやれる人材豊富なのが日本の強みであり、それで良かったと思うのは私だけはないと思います。
それにしては報酬がすくなすぎるという個人的関心は訴訟限定でよかったのではないでしょうか?
なぜ訴訟外・・場外乱闘的行為をしたのでしょうか?
しかも運動の仕方がメデイアが煽りすぎて過激だったので、却って企業大方・日本人古き価値観に受け入れられなかったのでしょうか?
中村氏は黙って訴訟だけやってればどうだったのでしょうか?
訴訟で勝った内容が公表され、それがじわじわと社会を動かしていく・インパクトは少ないかもしれませんが、社会変悪に対する影響度はメデイアで騒がなとも結果は同じだったように見えるのですが・・.。
メデイアを通じて大騒ぎしたので日本社会に与えたインパクトが大きかった→「捨て石に徹する」気持ちでやったのであれば成功だったのかな・・・。
大方の受容態度は「そこまで言わなくとも良かったのに・・」と言う評価・言い過ぎた責任を取るしかないのでないか?
というのが、コンセンサスではないでしょうか?
江戸時代に直訴や一揆など起こした場合、主張は正しいとして幕府に採用されても、直訴などのルール違反の咎(御政道に楯突いた秩序違反)で処罰される伝統的価値観が現在社会に残っているからでしょうか?
佐倉義民伝や荘内藩転封に関して領民が反対運動を起こしたカゴ訴に対しては江戸町奉行の調べで水野忠邦の不正が背景と断定され、籠訴を企画した佐藤某氏の事件を9月6日に書き初めていましたが途中横道に逸れています。
民主政治社会では「お上に楯突く」のではなく国民こそが主人ですが、個々人が主人ではなく、国民総意が尊重されるのであって個々人の意見がストレートに尊重されることではないということでしょうか?
公務員は国民の公僕である・あるいは消費者は王様という言葉を自分が王様になったかのように誤解する人もいますが、こういう人はクレーマーになりやすいのでしょう。
消費動向に商人は従うしかないのですが、個々の消費者が消費動向を表しているとは限りません。
民意も同様で一人の意見が国民総意を代表することもあればその逆もあります。
そこで集団徒党を組めば目立って「自分一人ではないぞ!と威勢を示せるので集団行動が行われるのですが、命がけの一揆を起こすには、已むに已まれぬ民意が凝縮されていると見るのが普通です。
しかし「俺は王様だ」としょっちゅう威張り散らすようになると物分かりの悪い子供がしょっちゅう駄々を捏ねているのと何が違う?となります。
現在のデモ活動は参加したことで処罰や不利な処遇をされるリスク皆無でしかも特定集団内では「俺は昨日も言ってきたぞ!と自慢できる材料になっています。
いわばあるアイドルの追っかけをしている自慢と変わりません。
政治分野でもデモ参加は安全地帯にいてただ「憂さ晴らし」をいつでも行えるあんちょこな手段になっているでしょう。
現在社会は、じっくり吟味してからの消費では、量が増えないので衝動買いをさせる工夫が溢れていますが、政治主張したい組織では、政治参加の敷居を低くする工夫・如何にあんちょこにでも活動に参加させるの工夫を凝らしてきました。
私が大卒の頃には共産党系民青がの青年層への浸透作戦として、「歌って踊って民青」というフレーズが流行りました。
若者にとっては魅力的フレーズでしたので、いまでも耳に残っています。
こうい状況が続いてでデモの必死さが希釈されて「またやってる」という程度の印象になってきました。
そもそも民主的意見表明手段のない時には、デモや一揆は命がけの抵抗権的意義があったし現在でも中露など専制社会では必要なことでしょう。
赤ちゃんには表現力がないので、お腹がすけば泣いて危急を母に知らせる必要があるのと同じです。
電車など公共空間で大きくなっても駄々をコネ続けると「バカじゃないの!と思われるように、デモや大声を張り上げる行為の価値は必要性との兼ね合いです。

発光ダイオード特許事件7(日本文化批判はどうなる?5)

今の価値観では分が悪いから政治運動して新たな規則ルールに変えてもらおうと言うならば政治の場で決めるべきであって、訴訟の場はは現行ルールで勝敗を決する場です。
政治で勝つには数百マンの支持でも少数政党にすぎませんが、裁判所を取り巻くにはわずか数百人も集まれば大勢力です。
訴訟を、応援団の多い方が勝つ仕組みにしてしまうのは危険です。
国会周辺への動員も同様で、わずか1〜2万人(1億人とすれば0、01〜0、02%の勢力)でも大報道して国会議決に影響を与えようとするかのような報道姿勢が見られます。
代議制民主主義は代議員の討議の結果、多数決で決める制度であって国会周辺に集まる支持者の数で決めるものではありません。
こういう組織動員勢力を過大評価するためにメデイアは、国民大多数の集団であるかのようなすり替え報道しています。
ルールがどうあるべきかの政治問題は政治の場面で民主的に決めることであり、司法は政治問題で決まったルールに原被告どちらが適合しているかを最終決定する機関であって裁判所に集まる支持者の数で決める手続きではありまん。
9月20日日経新聞朝刊では、原発事故に関する東電経営陣の無罪判決が出ていますが、天災等の発生確率に対する判断が結果的に違った場合、(いまにも大雨が降りそうな時に雨具の用意をしないような一見明白な場合に備えを怠ったのとは違い、東北大地震は文字通りの天災です)100年一回の災害でも備えをどの程度すべきかの政治責任や経営責任を問うのは別として、司法で刑事責任まで追求するセンスを疑うの私だけでしょうか?
9月9日午前5時頃に千葉市を襲った台風15号による房総半島ほぼ全域にわたる停電〜水道供給停止〜自家発電装置の燃料切れなどの連鎖による広範な災害をみてもわかりますが、台風情報は前から出ていたし、台風の規模等事前情報がありました。
そういう強力な台風があれば倒木あること等を前提に電車等は計画的に運休して備えていたということは、東電も倒木被害による電線切断や電柱の倒壊なども予想可能であったこととになります。
そうするとこの台風→停電によって人身被害を受けた人に対する犯罪者として「刑事訴追すべき」という世論になるのでしょうか?
15号台風は日本列島全体で見れば、(昨年関空を襲った台風21号より風速が遅い)東北大震災ほど想定外の想定外台風ではありません。
民事責任あるいは補償は別として、刑事責任まで追及すべきという意見は滅多にいないのではないでしょうか?
(この辺は私の根拠なき推測ですが、論理的に言えばもしも民事上の過失責任があるならば、刑事上の過失責任も問うべきという論法では、体育その他全て萎縮してしまうからです。)
崖っぷちの危険道路や丸木橋も必要性との兼ね合いで通行禁止しない・事故が起きたらその限度で対応というのが世の中のあり様ではないでしょうか?
9月20日の日経新聞43pを見ると決まり文句の「検察官役『判決国に忖度と批判』と大きく出ています。
「国に忖度」という批判論(内容を読む気がしませんが、多分中村教授同様の定型的非論理的主観意見でしょう)メデイア界にはこういう主観的意見を持っている人が多いのでこういう具体性のない感情論を報道したくて仕方ないのでしょうか?
反政府運動的訴訟で負ければ「不当判決」などの感情論的決めつけ論が横行していま
す。
合理的批判は社会発展に必要ですが、事実適示のないまま、司法が政府を「忖度」しているとか「腐っている」という感情論を煽るだけでは合理的な批判精神も育ちません。
「何が腐っている」のか忖度の根拠等の具体論がないままでは、国に忖度というのでは、個人訴訟で裁判に負けた方が「裁判官と相手が癒着している」とひがみっぽくいうの同じレベルではないでしょうか?
検察官役と書いているので弁護士・それも腕利きの弁護士でしょうが、プロ中のプロが具体的論証なしにこう言う主観論を堂々と発表するとは驚きです。
発光ダイオード事件では、「司法が腐っている」という発言は弁護士から出たものではありませんでしたが・・。
もしかして具体的論証できる資料があってその説明をしたが、メデイアは長々と引用できないので結論だけを記事にした場合もあります。
とはいえ、「忖度」などという曖昧概念を証拠でどうやって論証できたのか、理解不能です。
「凡庸な弁護士に分かるはずがない」秘術がある点が、「やりて弁護士」という評判をとっている源泉かもしれません。
こんなことを弁護士が大手新聞の前で言うのでは、司法制度の存在を前提とする弁護士自身が司法制度を否定しているようなものです。
現行司法制度を変更したり、否定したいならば、政治の世界(その前提として、司法界の実務家意見が重視されるのでその協議会等で発言すべきもの)で運動をすべきでしょう。
市民感覚が・・(上記同日の日経社説にもこの種の表現がされています)と言う感情論で訴訟をやって来たのでしょうか?
誰が市民感覚を代弁する権利があるのか?民主国家においては代議士の集合体・国会意思ではないでしょうか?
弁護士や報道機関が何の根拠で市民感覚を代表しているつもりになれるのか不思議です。
もしかして、こういう主観論に秀でた人をメデイアで持ち上げているのかな?
市民感覚と言う感情論で刑事罰が決まるのでは恐るべき社会になります。

発光ダイオード特許事件6(日本文化批判はどうなる?4)

彼は韓国のように開き直る気持ちはない・・ノーベル賞もらった子供や親族が地元にいて肩身が狭い?ので不思議な関係になったのかな?・・日亜化学との修復を望んだようですが、日本人は相手が感情論を言い立てでも激しい反論をしない分そうは簡単に行かないのが日本社会です。
最後まで努力して郷里や日本全体に受け入れて貰うか、そこまでやる必要はないとアメリカに帰って日本批判に精出すしか活路がないのではないでしょうか?
今のところ、山崎氏の結論を意訳すれば、「さあどうぞ!気に入らない日本にいつまでも関わっていないで米国で頑張って下さい」と内心思っている人が多いような気がします。
2〜3年ほど前に歴博の企画展で大久保利通関連の展示がありましたが、そこで感じた印象では、大久保一族は今でも地元鹿児島では肩身が?広くないようですが・・。
彼の一族は故郷を捨てるしかなかったのでしょう。
ノーベル賞受賞で郷土の偉人と尊崇されるべき彼が郷土(物心着いてから育った地域)に足も踏み入れられないかのような表現(徳島には日亜の人がいっぱいてどこを歩いてもいきあうからと修復を求めた動機を説明しているようですが・・)というのですから、6億円獲得のために場外批判したのが高くつきすぎたのではないでしょうか?
ただし、生まれ故郷・・小学2年まで過ごした愛媛県伊方町では、顕彰碑が立てられているようです。
その程度で我慢するか?ですが、彼にすれば物心ついてから育った地域や大学や企業でその時の仲間(日本人は誘われれば公然と拒否しませんが、彼と会うのにコソコソ会うのはみんな嫌でしょう)から認めて欲しいのではないでしょうか?
16日紹介した山崎氏の記載では
「和解成立の時に「中村氏自身が、判決後の記者会見で、「100パーセント負けですよ」「日本の裁判制度は腐っていますよ」と興奮気味に怒りをぶちまけている」と言うのですから本当に公言したならば異常です。
https://biz-journal.jp/2014/10/post_6311_3.htmlに、以下のとおり紹介されているので事実だったのでしょう。

中村氏は最高裁まで争い200億円を勝ち取るつもりでいたが、升永英俊弁護士の説得に従い矛を収めた。当時会見で中村氏は「日本の司法は腐っている」と感情を露わにし日本を離れ、米国の市民権を得た。

以下によれば、和解内容が公開されていてこの筆者(個人名が出てこないのでどういう人か不明)自身和解前から寄与度5%くらいでないか・結局は5〜7、5億円の範囲内で地裁判決の200億は幾ら何でも法外すぎるという批判を発表していたようです。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~yamayosi/public_html/memo107.htm

「この和解案をしぶしぶ呑まされた感じの中村氏は「たったの8億円」と失望を隠さなかったと報じられ、低俗的な週刊誌では「日本の司法は腐っている」と言いたい放題の感じです。」
と書いているので、山崎氏のいう司法批判をしているという紹介は大方合っているのでしょう。
(ただし、紹介情報源は同じの場合もあります・・慰安婦問題での朝日の大規模報道により日本中の大手マスコミや世界メデイアが報じる結果、あたかも公知の事実のようになった印象ですが、検証委員会結論では朝日新聞の引用数は少ないと否定的評価をしていることに国民の不満がありましたが、証拠にもとずく判断とすればそうなるしかないでしょうが、上記の意人らは引用元を書いていないからです)
続けて
「中村氏を持ち上げ日亜化学をヒールに仕立てたのは、中村本(これは巧妙な升永弁護士の戦略であるとの見方は外れていない)に洗脳されたマスコミの仕業で、彼らの大いなる反省が求められます。
同じく朝日新聞の1月23日の科学劇場記者席なるコラムで、東京本社科学医療部次長の高橋真理子氏が「青色発光ダオード訴訟 和解額は安すぎる !?との記事を書いているが、感情的な内容で科学記者が書いた内容とは思えず、中村本の呪縛から逃れた様子は見られません。」

とも書いています。
あちこち検索すると当時明発見〜量産成功に至る流れに詳しい?業界常識として1審判決は非常識すぎるというコンセンサスができていたような気配です。
無茶すぎる請求を前提にした陽動戦略に地裁がまんまと乗ってしまったということでしょうか?
地裁の論理が批判的に紹介されているのを見るとこの発明がなければ現時点での売り上げがなかった→だから寄与率5割という論法らしいですが(そんな単純論理ではないと思いますが骨格を言えばそうなるという解説でしょうか?)論理の粗雑に驚きます。
車の場合で言えば、ブレーキやハンドルを構成する特定部品一つでもなかったら走れないから、その部品価値は「車一台の9割の価値がある」というような論法です。
この論法によれば500万の車の各部品1個が450万円となり、全部足したら車一台10〜20億円になり、それから逆算すると部品価値は9億円になる→循環計算を繰り返せば、部品の総合計が上がる一方で車の値段が1兆円〜2兆円と際限なくあがるので結論が永久に出ません。
私は中村氏の弁護士を知りませんが、もしもこういう論法で訴訟提起した弁護士が敏腕・辣腕と賞賛されているとすれば、おかしくないですか?
弁護士の仕事は、正しい利益を相手が侵害しているときに訴訟を通じてどちらの主張が正しいかを裁判所に判定してもらう代理職です。
10の権利を百と主張し実現することではありません。
現行ルールをどちらが守っているかの冷静な判断のために政治から切り離した司法権の必要性を世界中が認めているのですから、訴訟手続に政治圧力をかけるための大衆動員はメデイア動員→政治力圧力の必要がないばかりかそういう行為は憲法の精神を踏みにじる違法行為です。
裁判所前に支持者多数動員したり訴訟内容をメデイアで大規模報道するような法律家がいますが、司法手続きを政治の場に変えようとしている人たちのようです。
彼らの多くが「司法権の独立を守れ」と言う人たちでもあるのですが、何からの独立か?とすれば、政治権力からの独立しかないのですから、自己矛盾行動しているように見えます。

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