企業の海外逃避と労働収入の減少

例としていつも書くことですが、借地権その他が保護されすぎると新規貸し主が減ってしまうのと同様に、雇用関係も同じで(昔は海外に簡単に逃げられなかったので、政府のやりたい放題でしたが、)今は雇用関係を保護しすぎると重たさに耐えかねて企業は海外に逃げてしまいます。
こうして最近の政策は企業に対して雇用をやめさせる方向への後押しが顕著ですから、(国内に閉鎖されている時代には人件費負担を重くすると労働者の地位向上と企業は機械化に励んで合理化が進むメリットもあったのですが、今は海外に簡単に逃げられる時代ですから、雇用負担や法人税を重くすれば機械化・合理化努力だけではなく海外逃避に簡単に向かってしまいます。
円高・海外との賃金格差・法人税率が何倍も高い・・・等々企業の追い出し政策が目白押しですから、海外進出が後押しされて正規雇用の場が減る一方・・年金納付者が減る一方になるので、赤字補填のために更に増税又は納付率の引き上げをすれば、海外に逃げる企業が増えることのくり返しで悪循環です。
何かあると企業を非難し労働者は被害者だと言う説が通りやすい・・単にマスコミがそう宣伝するだけですが・・・のが現状で、何かあれば企業から金をとる方向ばかり宣伝しで来たので、結果的に法人実効税率が世界基準の約2倍にもなってしまったのです・・。
企業悪玉説は、国民の生活水準を引き上げる効果がありましたが・・・ここは思い切って方針を切り替えて、企業敵視をやめてまず育てる姿勢が必要です。
年金赤字を次世代に引き継ぐのでは、次世代が損だと言う誤った意見(これもマスコミが宣伝するのでそう思い込んでいるヒトが多いだけですが・・・)が普通ですが、次世代が非正規雇用等で年金を納付する人・納付金額が減っているから赤字になっている面もあるのですから、次世代は何も損をしていません。
むしろ一人っ子等少子化の結果、多人数の子供の家庭で育つより良い思いをして来たのは当然ですから、その分年とれば一人であるいは少数で親を見るようになるのも当たり前です。
団体(大部屋)でサービスを受ければその後の代金支払い段階で安く済むし、少人数で(部屋を借り切って)サービスを受ければその後の一人当たり支払額が増えるのは当然です。
現在の年金等の赤字問題は次世代が親世代から受けたさービスに見合ったお返し・・・(平均の何杯も高いものを食べておいて勘定段階で平均の代金しか払えないと言っているようなものです)を次世代が出来ない所にあるのであって、次世代が損するどころか逆の関係です。
むしろ現在の受給世代はその前の世代のために十分積み立てて来たのに対して、(現在でも年金積立金は膨大ですが、年金赤字問題は将来取り崩して行く心配をしているだけです)今の現役世代が従来通りの積み立てを出来ない・・勤労所得の減少・・甲斐性不足の方こそが問題です。

年金・健康保険赤字と所得構造の変化

(リーマンショックだけではなく)平成に入った頃から我が国企業の逐次海外進出の継続で、国内雇用が減少する一方だった分だけ、総労働力需要量が減少し、その分だけ総勤労所得も減り年金納付額も減って来たことになります。
これまで何回も書いていますが、税で賄う介護や医療関連職場の増加による年金納付者の増加は、その原資が税ですからこの待遇改善で納付者や納付額を増やせば増やすほど介護や医療保険の赤字補填のために税の赤字が増える・・蛸足配当同様で財政赤字になる要因としては同じどころか、これを加速させるもので本質的に意味がありません。
県営・市営住宅の滞納者を減らすために、生活保護受給に誘導しているようなものでいずれにせよ税の投入額は同じです。
(生活保護受給資格査定等その他関連の人件費分がよけいにかかるかな?)
ですから、ここで言う総労賃とは福祉関連の労賃を控除した前向きの製造・生産向け賃金と言うべきです。
成熟国・・債権国では、蓄積した所得で債券や株式の運用で稼ぐ人が増えるものですが、その結果金融資本関連所得の比重が上がり所得構造が変わって来ているのに、年金や保険制度がこれに対応していないのも赤字の一因です。
国民総所得が仮に同じでも、国内製造で稼いでいた分を海外生産で稼ぐ図式に変えると、その分国内労賃所得は減りますが、その代わり海外からの利益や所得送金が増えてきます。
仮に国内勤労所得で年収1000万円稼いでいた人が、今では半分の500万円が給与所得で残り500万円が、利子配当所得になっているとしたら、その人の年収が同じでも年金や保険納付額は半分になってしまいます。
我が国の国際収支は、高度成長期の貿易黒字中心から、平成に入って資本・所得収支黒字の比重が大きくなりつつあることを、05/26/07・・2「キャピタルゲインの時代17(国際収支表2)」で紹介しましたが、金融・資本所得や海外所得の場合その増減は、年金納付額に関係しませんので、所得構造の変化も年金や保険の赤字増大の要因です。
年金制度が勤労所得にだけ頼っている限り、(徴収対象を変えない限り)納付すべき職場・国内支給の総賃金所得が減って来た以上、総納付額が減るのは当然ですから、これの解消策として一定の所得に対する年金納付額・負担率の引き上げが数年ごとに繰り返されています。
(今年も9月頃分から、比率が引き上げられました。)
経営者にとっては、事業主の保険負担額の上昇は支払給与が同じでも実質的増税又は人件費負担増ですから、・・・海外との法人税格差・人件費格差に苦しんで海外進出しているのに保険料率引き上げによる実質的人件費アップ政策をとると正規社員の雇用は重たくなる一方なので、海外立地への逃避又は非正規雇用採用に傾きます。
バスの乗客が減ったからと言って運賃値上げばかりしていると却って客が逃げるような関係です。

高齢者早期引退と若者正規雇用(1)

老人を養うために跡継ぎになるべき唯一の子供すら育てられない極限的択一となれば、種族維持のためには、老人を間引く方が合理的です。
現在社会ではまさか老人の間引きまではしませんが、高齢者の就労支援をしているとその分若年者の職域が狭まる問題点を01/07/10
「終身雇用制2→若者就職難2」以下の連載その他でくり返し書いてきました。
簡単な例で言えば、定年を1年延ばすと60歳の労働人口分が退職しない・・この退職を前提に新卒の採用をしていた分の採用を手控える結果になります。
55歳定年をじりじりと60歳まで伸ばして来た結果、(最近では実質63歳までの残れる企業が殆どです)その分だけこの20年間ほどで若年者の正規雇用が減ってしまったのです。
(派遣制度が出来たのは、正規雇用の総量減少の経済実態が先にあって、この受け皿のために各種非正規雇用が工夫されたのであって、派遣があるから非正規雇用が増えたのではありません。)
高齢者の雇用延長と若年者の就職難については、01/08/03「ゆとり生活 2」のコラムでも紹介しました。
しきりに労働力不足到来を宣伝して、高齢者の再雇用あるいは労働年齢の引き上げ・延長をキャンペインしていますが、雇用の場が一定のままあるいは縮小傾向にあるときに、高齢者の引退を先送りするとその分若者の就職機会を余計奪うことになります。
現在若者の失業率高止まりが大問題になっているときに、高齢者雇用の延長を政府が呼びかけているのは、雇用問題・あるいは次世代の健全育成の視点から言えば意味不明・・矛盾した政策です。
姥捨て山の時代には、高齢者がいくら元気でまだ働けても農地面積が一定である限り、(2世代で働こうと1世代で働こうと)収量がほぼ一定ですから、一家の収入が変わらないので困った結果、(まだ元気で働けるとしても)高齢者にお引き取り願っていたのです。
現在の日本も同じで、高齢者がまだ元気なら働いてもらえば年金財政が良くなるかと思うと、それは間違いです。
高齢者が働く分若年層の失業を招いているのでは、社会保険や年金負担者総量が変わりません。
現在の年金財政の赤字は、生産に必要な国民必要総労働力量が減ってきているからこれに比例して保険料・年金等納付が減っている面が大きいのです。
高齢者がもっと働いたところで、その分若年層の職場を奪い彼らが失業あるいは厚生年金のない不定期雇用で働くしかないのでは、トータルとして健康保険料や年金等納付者・額は同じになります。
年金等納付額は、(金融・資本所得等から、保険料を徴収しない限り)結局は労働者の労賃の総額に比例するしかないからです。

姥捨てか子棄てか?

農業社会では隠居するとその瞬間から手元不如意で食事の時間に呼んで貰って一緒に食べられるだけで、自分独自のお金を使うことも出来ない肩身の狭い状態に陥るので、それだけでも悲惨ですが、その内に体が弱って自分の身の回りのことすら出来なくなってくると元気な次男坊の部屋住みよりは悲惨だった筈です。
古代には宮廷の官女でさえ病気すると川原に打ち捨てられる習慣であったことを書きましたが、姥捨て山は元気なうちに山奥に捨てに行く話です。
低い川でなく高地の山奥が舞台になっているのはどちらかと言えば、山里の話が多いからだと思いますが、まだ元気なうちに捨てに行くのですから人里近くの川に捨ててくる訳に行かなかったからでしょう。
子供の頃に増え過ぎた子猫を捨てに行くことが近所で多かったものですが、この場合帰って来られないほど遠くに捨てに行くのが習わしでした。
江戸時代になると、江戸に流れて来た身元不明の独り者は別として田舎で一戸を構えている農民の場合、病気した場合寝かせておくだけのことなら数日や1週間くらい(その頃は直ぐに死んだのです)は何ともなかったでしょうが、むしろ元気で長生きされる方が大変だったのです。
ところで、西洋での子棄ての話・・ヘンデルとグレーテル・・お菓子の家が有名ですが、我が国では逆に高齢者の姥捨てがあちこちで行われていたようです。
我が国では今でも高齢者対策が社会問題ですが、あちらでは昔から庶民の高齢者がいつまでも生きている社会ではなかったのかもしれません・・・・。
今の日本は世界トップクラスの長寿国ですが、今に始まったことではなく昔から放っておくと長生きし過ぎる傾向のある国だったのかもしれません。
ところで姨捨山と何故言うのでしょうか?
信州にこの名の山があることからこの漢字が有名ですが、一見漢字が似ていますが年取った女性一般と言うならば本来は姥捨山です。
年取った女性がその対象になることが多かったからこの漢字で良いのでしょうが、部落によっては70歳以上の高齢者を(男女を問わずに)一律に捨てる掟もあったようです。
今で言えば、100歳以上生きているような印象だったのでしょう。
赤ちゃん間引きの高齢者版ですが、あまり長生きされると養いきれない現実があったのは今の年金制度の破綻と本質が変わりません。

高齢者介護と外注1

 家庭における男の切り札はサービスが悪ければ、何時でも離婚・・あるいは家に帰らなくなることが出来るとは言っても、2010-9-19「家庭サービスと外注」に書いたように実際には簡単ではない・・儚いものですが、この辺は老人が子供の世話を受けるようになると、老人・・形式的にはその家は老人のもので気に入らなければ子供夫婦を追い出せるとしても、現実には容易でないのと似ています。
通い婚・サービス業の場合、気に入らなければ遊びに行かなければいいので簡単ですが、嫁取り婚の場合に追い出すのは実際大変だったのとも似ています。
リヤ王の悲劇の真実までは知りませんが、老いて自分で身の回りのことが出来なくなれば、気に入らないからと息子や娘を追い出しても、また誰かに頼らねばならないのが難点です。
例えば2人の子がいる場合に、一人とけんかして残りの一人の所に身を寄せるとそこでもう一度けんかになると行く所がなくなる・・おろそかにされる恐怖で、長男(または長女)との間で波風を立てないようにしてじっと我慢していることが多いようです。
「あまりひどいと娘のところへ逃げ出すぞ」と言える状態が花と言うことです。
昔から「女3界に家なし」とか「老いては子に従え」とか言われていましたが、女性は最後は子に看てもらうことが多かったからでしょう。
最近では介護システムが発達して来たので、社会化・客観化されて身内にかかり切りになってもらう必要が減少して来ましたので、この種の遠慮が要らなくなって来ました。
一旦同居すると気に入らないからと言って子供夫婦を追い出すのが無理となれば、(初めっから子供夫婦との同居をしないで)高齢化した場合自宅を処分して介護付のマンションへ入居する老夫婦が増えて来ていることを、2010-9-12前後「介護の社会化1」以下で書きました。
親しき仲にも礼儀ありと言うように、一定の緊張関係のある通い婚関係のように親子もスープの冷めない距離から通う別居が理想ではないでしょうか?
中高年世代では,「今の子供は当てにならないから」と言うのが普通ですが、子世代と同居し身の回りのことも自分で出来なくなると子供の立場が強くなるのは昔から同じです。
特に隠居分を取り置ける程(水戸黄門のように)裕福な家なら別ですが、江戸時代の武家であれ、農家であれ家督を譲ると今度は息子夫婦が家計の経営者で親夫婦は無収入で養って貰う部屋住みの厄介者に格下げです。
今のように年金等の自前の現金収入のない時代に(江戸時代にも商人はいましたが、ホンの一部です)隠居して家督を息子に譲ってしまうと、農業収入・・あるいは武士の家禄は全部息子の懐に入ってしまう状態・・・隠居分を取り置かない限り親夫婦には一銭も現金収入がありません。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。