あいちトリエンナーレ不自由展に関する専門家意見と国民意思乖離1(表現の自由市場論11と世論軽視論の矛盾2)

最近では選挙の都度大手メデイアの事前世論調査と大きな乖離が起きる・しかもいつも一方向の外れである(連日のキャンペインに呼応する世論調査結果と結果が違う)点が、余計信用を落としたように見えます。
世論調査してからキャンペインを張るものではなく、この点を掘り下げれば国民の多くが反応する読みで系統的取材を先行させるものでしょうから、大手メデイアがこのテーマで攻めれば・・と誘導したい方向性が民意(そんなことは国会で議論する問題ではないという意識)とズレていることがはっきりしてきたのではないでしょうか?
もともと大手メデイアの関心が偏っていても、ネットのない時代には誰も声を挙げられないので一人相撲でもなんとか体面を保てていたのではないでしょうか。
民意を無視するな!の大合唱ですが、その前提になる民意をメデイアが決める権利があるかのような宣伝です。
選挙結果を見ればどういう根拠で国民多数が秘密保護法やいわゆる安保法案に反対していると言えるのか不明のまま扇動していたことになります。
放送に関しては電波法で中立を求められていますが、反対派デモがあった事実報道であれば良いことになり賛成派のデモがない限り賛成派の主張は事実上報道されない一方的な関係です。
韓国は日本のメデイア動向が日本世論と誤解する傾向が強い・・中韓では日本メデイア界への影響力浸透に精出して、出来レース的世論をつくるので却って、日本世論を読み違える傾向があるように思われます。
韓国では大手メデイア誘導のままに民意が動く社会なのでしょうか。
大手メデイアが発表すると支配的意見になる→メデイアさえ支配すれば民は意のままという図式を見ると、韓国系芸能人のアルバム等では、「いいね!」の数を稼ぐために機械的に膨大な「いいね」を稼ぐ仕組みを利用しているので信用できないと言われるようになって久しいですが、あるいは、国際的な数学や知能テストなどがあるとその問題集を練習させて受験させるとも言われています。
共産圏で国策のためにオリンピック選手だけ特殊英才教育していたなどのマネでしょう。
こういう国では国際統一テストが上位になっていても、国民平均レベルの基準にはなりません。
民意もマスメデイアさえ押さえれば済むというあんちょこな発想になっているから、朝日新聞等の意見が日本世論と誤解してしまい、日本人の怒りが理解できないのではないでしょうか?
あいちトリエンナーレ「不自由展」騒動に対する専門家?主張と国民意思の関連を見ておきます。
以下平均的紹介記事と思われるウイキペデイアの8月22日現在の記事を紹介しながら逐次私の意見を書いて行きます。
ウイキペデイアでは公平に編集しているつもりでしょうが、あれだけ不満が渦巻いているのにまともな批判意見は産経の主張だけで、あとは批判「的」であるものの基本は擁護意見(表現の自由を重視した上で、説明不足とか運営ミスをいう程度です。)あり、その他膨大な引用記事は擁護論や批判に対する批判で埋め尽くされています。
ウイキペデイア引用始めます。

展示までの経緯
2012年、日本アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会が東京都美術館で開催した「第18回JAALA国際交流展」に『平和の少女像』のミニチュアが出展されたが、東京都美術館から「(政治的表現物であるため美術館の)運営要綱に抵触する」として撤去された。その経緯から「主催者の抗議にもかかわらずいつの間にか展示会場から消えた少女像は、日本の歴史認識と表現をめぐる『不自由な状況』を暴露するもの」(韓国美術研究家の古川美佳)として、2015年の「表現の不自由展」に『平和の少女像』の複製が展示物として採用された[95]

上記経緯を見ると、東京都のように特定政治主張が強い展示は行政の中立性の要請から会場使用許可しない基準があったので、それに抵触する展示ができなかったという経緯のようですが、愛知県の場合具体的使用基準がなかったからフリーパスになったのでしょうか。
具体的基準明記ない自治体でも中立性の要請から露骨な政敵批判集会利用許可しないのが原則的運用・暗黙の価値基準だったのではないでしょうか?
仮にそのような許可すれば、逆に一方勢力肩入れの違法の疑いさえ起きそうですから、東京都で条件付き許可になった団体が憲法違反訴訟や政治運動を起こしたというニュースをみかけません。
発表禁止ではなく公共施設を低価格で利用させたり補助金を出さないと言う消極姿勢にすぎず、左右どちらの勢力にも・ともかく積極的政治主張のための展示には許可しないのであれば公平です。
発表禁止と補助金交付や施設利用不許可は同じではありませんが、以下の議論を見て行くと優遇基準該当性チェックと事前検閲と同視したいようなすり替え議論・・・再軍備=戦争国家という飛躍論法と同じ手法が多い印象です。

表現の自由市場論10と世論軽視の矛盾1

言論の自由市場正面テーマに戻ります。
出版の事前検閲がないけれど、「自費出版は自由です」と言われても大手取次店が取り次いでくれないと全国的書店に置いてもらえませんし、返品自由な慣習ですので、売れないとすぐにも破産です。
戦後社会は自費出版だけでなく大手取次店や週刊誌等に掲載されたり電波利用の洪水的報道に乗れない意見は、勝手に言っても処罰されないと言うだけでは誰も相手にしてくれないのに一人で喋っているようなもので、(このコラムも同様・・)です。
結果的にマスメデイアに採用されないと自由「市場」に参加出来ない仕組みでした。
株式市場上場には上場審査を経なければならないのと同じです。
メデイア好み(振り付けどおり)の意見をいう「文化人」のみがテレビ露出しているのが実態なのに、メデイア受けの良い学者がこれを思想の自由市場と自画自賛していたように思われます。
学会で干され、メデイアが取り上げないと一般国民が知るチャンスがない社会では、どこで自由市場が成立するのか不明です。
しかも「一般人が買わないのは、レベルが低くて理解できないのであるから?公的補助しろ!その基準は学会〜映画界等々その業界内部で決める」というのでは、部外者は蚊帳の外です。
そしてなぜか共産(左翼)系が組織内浸透に巧妙というか、その他諸派は無防備に是是非で議論しているうちにいつの間にか共産系組織に牛耳られる仕組みになっているようです。
革新系組織が共産党との連携や提携を怖がる理由としてメデイアでも取り上げますが、実は共産党近縁の革新系集団ではいつの間にか乗っ取られ続けてきた被害経験が役に立って保守系その他無党派層に比べて組織内浸透が比較優位の得意技になっています。
中韓が世界的に国際組織内浸透が得意なのは、どういう訓練を受けてきた歴史があるかは具体的には不明ですので、以下学問的裏付けなしに思い込み・想像で書いています。
中韓共に長期の専制支配体制下にあったので、個人的には面従腹背が基本的生き残り策であると同時にこの応用形で、捏造疑惑による冤罪で陥いれられないための党派形成活動が盛んになります。
いわゆる「讒諂面諛」(陰口を言い、面前ではおべっかをする)の跋扈する世界です。
孟子に出てくる熟語のようですが、君主が不善を好めばそういう人材が集まるという教訓らしいです。

告子章句下

夫苟不好善、則人將曰訑訑予既已知之矣、訑訑之聲音顔色、距人於千里之外、士止於千里之外、則讒諂面諛之人至矣、與讒諂面諛之人居、國欲治可得乎。

中国の後漢で起きた党錮の争いに始まる歴代王朝ごとに起きた(王朝ごとに当然別名の争いです・・例えば唐朝末期の牛僧孺と李徳裕の抗争を数十年前に読んだ記憶ですが、今見直してもめまぐるしくてじっくり読まないと頭に入りにくい複雑さ・日本で言えば観応の擾乱みたいです。)派閥抗争です。
中国歴代では、陰湿な足に引っ張り合いの歴史ですので、日本社会と違って経験豊富ということでしょう。
専制君主制確立すると、社会が変わりようがない・・変化がない以上新機軸による新製品の劇的売り上げ増もない・アイデアが出る余地もなければ新規芸術も花開かない・・目につく功績をあげるチャンスがないのでイキオイ競争相手を失脚させるマイナス競争になりがちです。
中国歴代王朝概ね300年平均の盛衰で、その間ほとんど社会変化がないまま推移しては同じ体制が繰り返してきたのは、この結果です。
中国地域の人民レベルガ低くて何も生まれないか?とは限りません。
この点は朝鮮民族も同じでしょう。
あまりにも強固な専制支配が確立してしまったので「足の引っ張り合い」以外の方向にエネルギーをそぐ余裕GAなかったというべきでしょうか?
この辺は、共産主義社会ソ連の粛清に次ぐ粛清の恐怖政治も同じです。
現在中国は共産主義政党とは名ばかりで、中国歴代王朝の腐敗官僚制復活そのものですが、「白黒問わずネズミを取るネコは良い猫だ」というキャッチフレーズが効いているので、目先の利く人材には大きなチャンス到来です。
当面先進諸国から産業や文化その他で大きな遅れをとっている分、まずは模倣でもなんでもキャッチアップするのは簡単→目の前で成金が続出するので、我も我もと全国民興奮状態になったということでしょう。
キャッチアップが終わった後どうなるかで民族の真価が問われます。
組織内浸透作戦が開始されると、純朴な思想や各種学会芸術界報道界等が手もなく捻られ浸透されるままになっていった印象です。
組織内浸透に成功すればするほど意見の(内部反対意見が出なくなり)硬直化・教条化が進むので、社会一般意識と乖離が進みます。
それでも大手メデイアを制し、教育界を制し学会思想界を制しているので簡単には揺るぎませんでしたが、2000年に入り、ネットの普及で思想供給ルートに対する大手メデイアの独占が崩れてきたところで、日本大手メデイアの問題提起が、虚偽慰安婦騒動の始まりとわかってくると、大手メデイアの信用ガタ落ち・・世論誘導力が衰えてきたようです。

表現の自由市場論9

韓国の慰安婦像は反日政治プロパガンダ道具そのものと私は思っていますが、それを特定集団が牛耳る団体が芸術品と銘打てば、その「制作費等を日本政府が費用を出すべき 」と言える根拠が意味不明というのが多くの国民の声ではないでしょうか?
私個人意見と国民の声と一致するかは不明ですが、それを決めるのが自由市場ではないでしょうか?
補助金が必要・自由市場で買い手が出ないということは市場評価が低いからではないでしょうか?
現在のように教育界、学会、芸術諸団体の主流派でその集団意見を牽引している支配勢力が、後世のために公費買い取り、あるいは補助対象を決めるということは、結局現在主流派に認められている作品となりますから、主流派の考える作品を市場がさっぱり評価しない思想や作品に過ぎない・・そういう組織は外部批判を無視しているうちに自浄作用が衰え独りよがりになっている傾向がありそうです。
主流派作品が市場で評価されない場合、謙虚な反省が必要です。
自由市場で生き残れないが民族の伝承すべき伝統芸能の場合でも、急激に動員客数が減ってくると補助規模縮小して一定数だけ絶滅危惧種的保存するなどの判断(これもどれだけどの規模で保存すべきか=予算をつけるかを芸術家が決めるのではなく政治判断.民意です)が必要になってきます。
伝統工芸品製作者の継承問題同様で、産業として保護するのではなく継承者保存育成等の分野です。
現代美術界の場合、やはり現在人が自由市場で受け入れない芸術?はそもそもまだ現代美術の仲間入りできていないと見るべきではないでしょうか?
芸術家の卵育成期間超過後まだ未熟な人材を転進させるか、もう少し面倒見るかは身内が考えることではないでしょうか?
〇〇界主流が公認する芸術や主張を社会が認めない→逆切れした場合、より一層独善思想に凝り固まる・・旧社会党が教条主義政党化して行った軌跡ですが、中には社会が認めない不満を暴発する・・テロ等に走る集団と不自由展のようにリベンジ行動に走る柔弱集団に分かれるのでしょうか。
愛知トリエンナーレ展擁護者も批判者もゴッホの例を出すのは、主流派が認めている優秀作品なのに国民が受け入れないのは自由市場構成員・国民の無知蒙昧によるので、市場(消費者)に任せられない・・国民教育の必要があるので公費補助すべきと言う意味が含まれているとすれば「倒錯していますが)論理一貫です。
左翼系団体内では疑問の余地ない正当な意見なのに、国民が認めないのは国民レベルが低いからだ・国連委員会お墨付をもらって、国内街宣活動という動きが盛んでしたが、その一種でしょうか?
「不自由展」とは、何が不自由か?ですが、各種運動家が例外なく出してくる十八番(おはこ)の「自由市場論」を唱えながら(誰も購入してくれないだけでなく、発表の場さえ拒否され食べていけないので)発表の場と制作費補助を与えてやってくれ(与えろ!)という最後のあがきでしょうか?
しかし自由市場論とはそのような状態に追い込まれるものは、市場から退場すべきが基本原理であり、食えないものを援助する必要はありません。
ラーメン屋であれ寿司屋であれ、材料費を買えなければ廃業すれば良いことで国費で支える必要がありません。
必要なのは適正収入を得られる職業(正業)に導く職業訓練分野です。
そこでゴッホの例を出すのでしょうが、これまで書いているように現在成功者が将来自分らより高評価を受ける対象評価審査するのは自己矛盾・・破綻論理です。
将来評価を現在主流派がするのは論理的に無理だし、現在競争力ないものは退場すべき論に対抗できません。
愛知トリエンナーレのように国民が受け入れないだけでなく発表の場もなくなりそうだという危機感から公費で制作補助すべきだ・その対象を決めるのは自分達だという意見は、エリートと国民の格差・自由市場論を心底本音では馬鹿にしていないと成り立たない論理のように見えますが・・・。
もしかして、自由市場でさっぱり評価されず(作品が売れない、音楽でいえば演奏会切符がほとんど売れないような)クリエーターばかりが組織内侵蝕して主流派になっているのでしょうか?
そうであれば理解可能ですが、売れっ子作家や売れっ子ライブ等のプロが仲間内で売れない作家の制作費を公費で行うための救済選考会のようにも見えます。
売れっ子が忸怩たる思いでいるならば、自腹を切って〇〇会で後進育成のための基金積み立てすれば良いように見えますが・・。
あるいはスポンサーを募って〇〇賞のような賞を作れば良いことで公費を求める必要がないでしょう。
入賞内容が低ければスポンサーがすぐ辞退してしまうでしょうが、そこに審査の質に対する自由市場が働きます。
彼らが自分の創作活動が低劣で後世に残らないと自覚していて、芥川賞候補にもならないような作家の方が実はすごい・・院展などに入賞さえできない低評価の絵が、いま自分たち審査員の眼力が低いだけで、将来ゴッホのように高評価受けるはずと心から思っているとすれば喜劇的仕組みです。
自由市場論のまやかし性を愛知トリエンナーレ展を事例にして書いてきましたが、
自由市場論とは何かの解明こそ、プロ思想家が挑戦してじっくり解明すべきテーマではないでしょうか?
「平和を守れ」という決まり切った思想?発表などしている暇があれば、「ちゃんと本業に励んでくれよ!」と国民が不満を抱いているのではないでしょうか?
そういう怠慢系学者が一流大学教授であり続ける・それを守っているのは大学自治という障壁です。

表現の自由市場論8(補助対象審査の矛盾1)

愛知トリエンナーレ「不自由展」の場合、市場評価されない不満を通り越して「公的補助せよ!」というもので、内部自治侵害に対する抗議ではなく市場で評価されないことに対する逆ギレです。
ゴッホだって生前は現在ほど評価が高くないというだけであって、公的支援なくとも現在に作品が残っているのは彼の理解者や友人も盟友もいたからです。
ゴッホの真実については、以下に詳しく紹介されています。
https://www.asuka-g.co.jp/column/1903/010913.html
要は、ゴッホの才能を見抜いた辣腕の画商であった辣腕の弟テオが月極固定額(生活供給)で作品を買い受け、毎月送金していた・弟が面倒見ていたのではないらしいのです。

ゴッホは描いた絵をテオに送る代償に、毎月150フランを受け取り始めました。これは現在のお金で言うと毎月15万~23万円の報酬を得ていたとみることができます。
この援助というには決して少なくはない金額から、もうひとつ深い関係性が見えてきます。兄弟はただの家族愛だけでつながっていたわけではなかったのです。

テオはこのころパリでは名うての画商でした。兄のただならぬ画才を見抜いていました。そして、ゴッホの生活を支援する代わりに、ゴッホの作品を独占的に扱う契約をした‐それが真相だと、この本では説明しています。
以下省略

独占供給契約で名画を囲い込み、名をあげてから、売り出そうとしていた矢先にゴッホが自殺しいざ儲けようとしていた肝心の画商の弟も半年後死んでしまったので生前市場に出るとがなかったに過ぎないようです。
学問の自由とか創作の自由というのは、権力による迫害さえなければ、ベストセラーにならなくとも一部の支援者や気に入って買ってくれる友人がつくものです。
細々とした創作で良いことではないでしょうか。
千葉市美術館関係で言えば、田村一村の作品を収集していますが、見ると千葉在住時の作品には素人の私から見れば普通の絵描き程度のようでしたが、奄美諸島に移住してからは別人のような作品に変化しています。
千葉在住時高く評価されなかったのは、(素人目には)当然のように見えますが、それでもこれを支持する人 (彼の場合千葉在住の姉だったかな?)もいて画家専業で(ある程度売れたのでしょう・個人蔵の作品も出品されている)生きていけたのです。
千葉在住時に自分をもっと高評価しないのはけしからん!と抗議行動したり、補助金を出すべきと政治運動して世論が支持したでしょうか?
日本が民主国家か文化国家かの問題ではないでしょう。
愛知トリエンナーレ「表現の不自由展」は、(市場評価の低い作品制作への現在補助金要求である点で)現時点自由市場評価主義と矛盾し対立するものですが、ゴッホ作品死後の評価を引き合いに出す論評は、(ゴッホの場合約50〜百年後?)時間差ズレを無視した意見です。
すなわち出品審査基準は現役プロ・現在自由市場で高評価を得ている者(審査員)の価値観によるので、現役が時間差を克服できるわけがない以上は、結果的に時間差審査専門家と言えないはずです。
現役売れっ子・時流に乗っている美術界大物・審査委員が将来を見通すプロでないことがゴッホを例にして証明されている以上、ゴッホのような大物が評価されないことがあることから「芸術の分からない素人は黙ってろ」と言う主張が成り立つでしょうか?
自分が特別な「目利き」という証明をしない限り現役界の大物というだけでは、俺たち「現役のプロに任せろ!」という資格がないでしょう。
不自由展で審査委員らが評価しているのは作品の現在評価であり、専門グループ内では高評価しているが自由市場で評価されない不満を社会にぶっつけたものと理解すれば一貫性がありそうです。
ネット報道で知る限りですが、内容を見ると日韓対立の原点ともいうべき慰安婦像の設置や昭和天皇写真の拡大パネル?を燃やすなど過激な?政治主張であり、これが「自由市場」では芸術でないとして評価されないのを専門家が「芸術作品」というのだから「公費負担で行え」という点の根拠としているのは、ゴッホの比喩とは何の関係もない筈です。
芸術家や学者等は思想の自由市場論を基本としながら、内容審査は自分らに任せろという主張は内部序列をどうするかの範囲内なら一理ありますが、公費補助対象を決める基準になると、「審査員の評価の方が市場より確かだ!」という主張にすり替わっているようになります。
この矛盾をぼかすために市場評価されない作品に補助金を出すために生前市場評価されなかったゴッホを持ち出しているように見えます。
ゴッホに関して一般に流布している美談は、ゴッホを美化するために作り上げられた美談・・もしかしたら自由市場評価もトキには間違うから目利きの審査が必要という二重基準を設けるための深謀遠慮と結合した虚構だったのかもしれません。
日本では有能な人材は最後まで埋もれっ放しの事例は考えにくい社会と8月16日に書きましたが、西欧だって本当は自由市場が賢いのですが、その上をいく目の利く商人である弟が独占的巨利を貪るために公開売出し時期を待っていたに過ぎないようです。

表現の自由市場論7(公的補助要求の矛盾2)

我々弁護士会の主流的意見が世間とかなりずれていると見ている人がかなりいるでしょうし、内部的には強制加入団体が多数派の政治観による〇〇反対運動を行うことに対する不満も出てきます。
自治組織だから世間常識を気にする必要がないということでしょうが、弁護士会にに限らず、伝統的に自治権意識の強い組織の場合、(一般人より高みにあるというエリート意識が強いからか?)間違っている時流を正さねばならないという正義感を持つようになる傾向があります。
憲法学者〇〇名の声明など出すのもそうした意識の現れでしょうが、政治を決めるのは人民・・庶民大衆であるべきと日頃いっているにも拘わらず、 庶民はなにもわかっていないから間違いそうになると観ちゃいられない・・しゃしゃり出ていき教えてやるという本音・・後見人意識が出るようです。
言いたいことを言えてる組織ほど世間常識との乖離が進むので、世間が受け入れてくれない不自由感が強くなる面もあるでしょう。
映画その他業界内では警世の立派な作品を作ったのに収支が合わなくで興行に乗せられないのは、社会が間違っているという方向になりやすいのでしょうか。
個人の生き方でいえば、社会でうまくいかないのは全て自己責任と言うのでは、(ゴッホのように)苦しくて生きていけないので社会が悪い・あいつが悪いと責任転嫁するのが生きる知恵でもあるでしょう・・。
そのマグマが溜まって自己(集団)主張を社会が受け入れない「不自由自体が許せない」と言うアッピール展覧会になったのが、「不自由展」だったのでしょうか?
グループの意見が社会で受容されないときに昨日見たように国連人権員会などでいかに日本社会が歪んでいるかアッピールするNGOになり、体力系は過激派になってテロに走るのでしょうが、国内で合法的反日活動に活路を見いだすのは、まだましな方かもしれません。
例えば安保法案反対集会等を弁護士会等が自費で行うのは勝手(内部で不満があるのでそこまでやっていないと思いますが・・)としても、社会のために運動しているのだから反対運動に「公的補助を出せ」となると行き過ぎじゃないの?と言うのが大方の批判的空気ではないでしょうか?
識者はゴッホのように生前報われない例を出して「誰も芸術の評価はできない・・まして素人においてオヤ!」と言うイメージを膨らませた上で、だから不自由展の「展示内容批判は許されない」という結論に持っていきたいようです。
発表時点での自由市場評価が低い点はゴッホと同じですが、ゴッホの場合時間差で自由市場評価された場合が、表現の不自由展の場合には、同時点で自由市場評価されない不利を(市場=素人にはわからない)プロの目で再評価して製作資金補助と発表の場を与えようとする試みが大違いです。
言論自由市場論は商品交換の場の議論を比喩的に流用している以上は、その物ズバリではない・・適用できる限界等を議論しないと不正確のままでないか、というのがこのシリーズテーマですが、ゴッホの例をも同様で、ゴッホの生前評価が低かった点と「不自由展」のどこに関係があるか明らかにしないまま、比喩して不自由展批判シャットアウト・聖域化や「専門家に任せるべき」としてしまうのは、議論の目くらまし効果を狙ったもののように見えます。
思想や表現分野では何かというと「自由市場に委ねよ外部介入を許さない」というのが学者の決まり文句ですが、そういう主張者の多くが、一方で「自由市場に委ねるな!+公的資金投入せよ」「補助対象の決定は専門家が審査する」
「外部者の介入を許さない」と言う二段構えの論理をセットにしています。
企業研究ほど直接的でないにしても理系でいえば、大学や国立研究機構等の研究には巨額資金が必要ですし、巨額公費を使う以上は、多種多様な研究対象の中で、専門家の意見を聞きながらも、国策としてどの分野に(予算制約ある中で時間順を含め)優先的助成するかは、高度な政治判断が必要です。
現在でいえば国防予算やデジタル化促進、失業対策、コロナ対策でもどの分野に優先順位を与えるかなど・・。
経済学分野でも〇〇経済学が台頭している場合、その学派の見解を立証するにはある種統計データが必要とする場合、実態調査が必要になる場合もあります。
どの学派の調査に重点的予算配分するかも民意を受けた政府の判断事項です。
芸術や思想家方面だけ外部審査を許さない、政府はお金だけ出せば良いという自分勝手な主張がいつまで続くのでしょうか?
コロナ禍で乗客激減の航空会社その他企業が、どこの国でも金融支援(補助金や融資)は欲しいが国に株式を持たれる・出資だけは極力阻止したいと言うのが基本姿勢です。
その理由は経営の自由度が下がるからです。
借金は返せば自由に戻れるが、出資を受けるといつ支配が終わるか不明になるからですが、芸術も学問も、首までどっぷりと補助金に浸かっていて自由など自慢できるのか!という批判が聞こえてきそうです。
文楽や歌舞伎、能狂言等々の各分野への補助自体やめるかどの規模にするかは時の民意次第ですので、何が芸術かの基準は自分らで決めると言って天皇の肖像写真を燃やすのが自由というならば、その分野への補助金を絞ることに民意が動きそうです。
あるいはこの展覧会主催する関係者の展覧会企画への補助・協賛企業が増えるか減るかでしょう。
もともと慰安婦像を自己資金で買い取って自宅に飾りたい人がいるか疑問ですが・・。
表現・報道の自由、大学の自治、弁護士会自治等々(映画界ではエログロ映画がはびこっても「映倫」など自分らで決めると言う仕組み)です。
相撲協会やプロ野球界でも芸能界でも本当の意味の自由競争に揉まれている業界は皆、(営利企業でも)不祥事が起きると内部調査→自主処分先行が原則ですが、その対応が世論と食い違うと地盤沈下していくので世論動向に敏感です。
大手で顧客名簿情報漏洩すると法的責任以前に一人500〜1000円補償するなど率先して発表するのはこの表れです。
この数日で言えばモーリシャスで日本船籍タンカーの原油大規模流出事故ニュースが出ていますが、器量側は国際法上の賠償義務を果たすと言えば良いというのではなく、誠意を持って対応する記者会見し、政府も高官派遣対応しているのは国際世論動向が気になるからです。
自主規制とか自治とは言っても大枠は自由市場の支持に根ざしているので、自治を錦の御旗にしているグループでも世論動向無視するとその業種自体衰退しかねませんが、教条的・今風に言えば原理主義系は、せっかく自治(学問の自由)があるのに「世論に阿る必要があるのか?」と「不自由」に対する不満が高まるようです。
この種の意勢力が強い組織では(強気論ばかり横行し、常識論者は居場所をなくす「純化路線」で)世論から浮き上がる一方となり、旧社会党や昭和40年代後半以降の過激派組織になっていくようです。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。