本籍4(地から地番へ)

 

ちなみに、本籍「地「と言う言葉が出て来たので戸籍簿の特定の仕方について考えて行きますと、元は戸籍筆頭者の人別に編成して行くことが可能で、・・これが江戸時代までの宗門「人別帳」と言われるゆえんです。
人別帳や戸籍簿は村(当時は何々の庄とか何々の郷と言っていました)別に造っていたので、どこの村(郷・庄)の誰それの戸籍と言えばそれで特定としては十分だったのでしょう。
しかも姓自体が。橋詰とか宮本・宮前などその集落内の場所を現すことが多かったのですからなおさらです。
地番が出来上がるまでは、「どこそこ国の何郡何郷の誰それ」と言う特定で済ましていたと思われます。
ご存知のように現在では戸籍謄本取り寄せには戸籍筆頭者名と本籍地番を書いて申請するシステムです・・22日紹介した本では、本籍地は索引機能しかないと書かれていました。
ただし、市街地では人家が密集しているので宮ノ前と言っても何十軒もある場合どこの家か分りませんから、自ずから市街地では現在の住居表示に類似する屋敷地番が発達していたようで、これが戸籍に記載されていたようです。
他方で、戸籍制度整備の目的とは別に土地に地番を振る作業が明治10年以降進んでいたことを、08/27/09「土地売買の自由化3(地番の誕生と境界)」のコラムで紹介しました。
(実際には日本中の土地に地番を振って行く作業が完了するには何十年もかかります)
平行して廃藩置県後地方制度整備が進み、いわゆる郡県市町村制が決まりその中の大字小字の区分け、その字中の地番まで特定出来るようになったのは、何十年もかかった後のことです。
屋敷地番から土地の地番に戸籍が変わったのは、明治19年式戸籍からだったとどこかで読んだような気がします。
土地に地番を振って行く作業の進捗にあわせて戸籍簿の特定も屋敷地番から土地の地番に移行して行ったのでしょう・・。
もしも本籍「地」の「地」とは現在のように策引き出来る地番のことであれば、それまでは地番自体がなかったのですから、本籍「地」と言う言葉自体がなかった筈ですから、本籍「地」と言うようになったのは地番特定が普及して以降でしょうか?
ただし、法律上の「地」とは最小単位の行政区域を指称することが多く、(例えば手形小切手法の支払地など)地番とはその「地」の中で順番に付した番号と言う意味であって、その結果、最小単位・子字(あざ)ごとに1番から始まるルールです。
参考までに手形法の第1条を紹介しますが、手形要件の中で支払地、振出地の記載がそれで、地番ではなく最小行政区域を言います。
この支払「地」や振出地は東京で言えば港区や中央区まで書かないと無効になりますが、その中で麻布や銀座・築地など下位の地名まで書く必要はありません。
手形法
(昭和七年七月十五日法律第二十号)

最終改正:平成一八年六月二一日法律第七八号

  第一編 為替手形
   第一章 為替手形ノ振出及方式
第一条  為替手形ニハ左ノ事項ヲ記載スベシ
一  証券ノ文言中ニ其ノ証券ノ作成ニ用フル語ヲ以テ記載スル為替手形ナルコトヲ示ス文字
二  一定ノ金額ヲ支払フベキ旨ノ単純ナル委託
三  支払ヲ為スベキ者(支払人)ノ名称
四  満期ノ表示
五  支払ヲ為スベキ地ノ表示
六  支払ヲ受ケ又ハ之ヲ受クル者ヲ指図スル者ノ名称
七  手形ヲ振出ス日及地ノ表示
八  手形ヲ振出ス者(振出人)ノ署名

もしもこの法律上の慣用表現が明治の初めからあったとすれば、今の最小単位は市町村(東京では区)ですが、当時は最小単位である◯◯の庄、◯◯郷まで書いてあれば、当初から本籍「地」を表記していたことになります。
「本籍地はどこか?」「はい、何々の国何々郡◯◯の庄です」と言えば、地番まで言わなくともそれで正答だったことになります。
ちなみに、郷や庄に代わって大字(あざ)小字(あざ)の単位が出来たのは、明治になって江戸時代までの小集落を併合して大きな単位の村が出来上がって元の集落名を「字」に格下げして以来のことです。
言わば第一回目の併合で格下げになったのが今の小字で、その次の合併で更に大きくなった村の一部になったのが大字であろうと思います。
昭和30年代の全国規模の大合併で更に村の規模が1kメートル四方程度の大きさになりましたが、この時更に村の下位になってしまった地域は大字とも言わずに旧何とか地域と言われることが多いようです。
大きな市では元の△村や△町はそのまま◯◯市△町として残っていました。
都市化したところでは◯◯何丁目の◯◯の地名で残っています。
最近の例で言えば、仙台と合併した和泉市が泉区になり、浦和や大宮市が合併して浦和区や大宮区になったようなものと言えば良いでしょうか?
何故大字小字と言うようになったかについてですが、私の素人推測では、上記のように併合を繰り返しているうちに大小の区別がついたものですが、他方明治の初め頃には毛筆で書いていたので、太字で書くか細字で書くかの区別もできて簡単だったことで始まったものと思います。
大字小字に関しては後にムラと邑の違い、集落の単位などで、もう一度書きます。
地と地番の関係に戻りますと、もしかしたら、法律上の慣用的表現は、地番などない時代が長かったので「地」概念が先に発達したものを、今でも使っているだけかもしれません。

寄留簿1と本籍3

戸籍制度が始まった当初における人の居場所による特定は、安定した住所の場合にはそこで戸籍を作り、(先祖まで辿って行くとどこまで辿るのかの議論になってしまうので現住所で作成したことを、February 17, 2011「宗門人別帳から戸籍へ」のブログで書きましたし、22日のブログで紹介した本でも、戸籍簿は住所登録台帳であった趣旨が書かれています。)戸籍を作るに足るほど住関係が安定していない場合には寄留簿として登録する二本立て制度として始まったものと思われます。
この頃には、まだ法制度自体がなく西洋法で議論されていた「住所」と言う概念を論じる必要もなかったし、まだ知らなかったからでしょう。
23日に書きましたが西洋では国際管轄の基準として住所が古くから論じられて来たのですが、我が国ではそんな必要はありませんでした。
後に紹介しますが、寄留に関する太政官布告が壬申戸籍の布告の直後・・同年に出ています。
2本立ての場合、寄留地(仮住まい)は本来の住所ではないので、親の戸籍のある場所・本来の籍のある場所(あるいは帰省地)の記載が当初から寄留簿に決められていた可能性があります。
人別帳を発展させた戸籍簿にはそこがまさに自分が登録した、周囲が認めた場所ですから、そこ以外に本来の籍を書く余地がなかった(22日に「戸籍基本先例解説」の本を引用したように明治31年から本籍記載が始まった)のに対して、寄留簿が出来た最初から寄留簿には親元の戸籍のある場所が、本来の籍=住所のあるところ=本籍として、書かれていたと見るのが合理的です。
江戸時代末までは都会に追い出された子供は結婚しないで死んで行くのが普通でしたし、だからこそ人別帳から除籍しておいても行った先で子孫が増える訳ではなく、大きな間違いではなかったのです。
(行った先で棟梁になったり俳諧の宗匠・剣道場の主になるなどして成功していれば、そこで所帯を構えるのでそこで人別登録の対象にされます)
仮に妻帯出来て一家を構えられるほど成功して根を張っていれば、明治の初めにそこで戸籍が編成された筈です・・そこまで行かないで除籍されっぱなしでフラフラしている単身の息子が故郷の親の戸籍に入ったのですから、最初は出て行った子を戸籍に残すようになっても大したことがなかったのです。
(今の核家族とほぼ同じで・・子供が成人して出て行ってもまだ不安定な場合、住民票を親元に残したままの人が多いのと同じです。)
元々江戸時代まで経験では子孫が際限なく増えて行くことを想定していなかったので、戸籍制度を始めた時に出て行った子まで記載していると、子々孫々まで増えて行った場合にどの段階で分離するかの自動分離システムが制度内に用意されていなかったことが、戸籍制度を機能不全になってしまったと言えます。
明治になってから近代産業が興り正業に就ける人が増えて来て、そのほとんどが妻帯してあるいは女性は結婚出来て、その子までもうけるようになって来ると弟らの嫁や子供まで戸籍に書き込むようになって来るので、(明治も20年前後になってくると)親が死亡して長男の世代になると甥姪まで戸籍に残ってしまうので戸籍簿の規模が大きくなる一方となります。
本来は、子世代が結婚までして更にその子の世代まで擁するようになれば、そこでの生活が安定している・寄留とは言えないと見るべきですから、実態に合わせるならば本来はその時点で子世代戸籍の分離・・新戸籍編成をして行くシステムに改正すべきだったでしょう。(戦後一般化された3代戸籍の禁)
戸籍制度を始めて見ると構成員が増える一方になったのですから、どういう場合に分離するかの戸籍制度の改正・検討が必要となって行ったのですが、ちょうど住民移動が激しくなって来たのと軌を一にして、伝統的価値観・集落共同体意識崩壊が進んで来たので、これに対する守旧派の危機感が強まって行きます。
これが「民法出でて忠孝滅ぶ」の大論争に発展し、旧民法施行延期のエネルギーに発展するのです。
反動として大きな家の制度を強調する運動が強まって来た状態下で、それに油を注ぐような3世以降分離するための改正が出来なくなってしまったのではないでしょうか?
その結果、戸籍簿を際限なく膨らませて行き重たくなった転籍行為に変えて寄留簿の方を膨張させて行く・・本来の住所変更まで寄留として受け付けて行ったので、本来・国民の住所把握を目的としていた戸籍機能が寄留簿に取ってく代わられてしまったのです。
寄留者用にできた本来の住所・籍のある場所=本籍・・親のいる場所の意味から、住所の安定している戸籍筆頭者がその後移動したことによって元々戸籍のあった場所・・本(もと)の籍=「本籍」と言う観念的な場所が必要となって行ったと考えられます。
(この場合、本籍には誰もいないことが想定されるので、観念的な場所になります。)
本籍と言うと何か有り難い本物のあるところのイメージですが、実は本物というより元「もと」を現すのに「本(もと)」と言う漢字を流用していたに過ぎません。
今でも神戸には元町が存在しますが、殆どの都市では元町と書かずに本町と書いていますが、(千葉にも本町とか本千葉がありますが、嘘の町などあるべくもありません)元々からの町というよりは、本町と言った方が何となく有り難く格式が上がるような気がするのでこれが流行しているに過ぎません。
「本」と言う字は苗字で見れば分るようにほとんどが「もと」と読むのですから、(橋本、宮本、坂本、松本、榎本あるいは旗本などなど・・枚挙にいとまがありません)ホンとして多く(昔からないと言うのではなくあったとしても例外的で)使うようになったのは最近のことだと分ります。
昔からの用例は本当の旗とか、本当の宮だと言う意味ではなくその根本(もと)と言う意味であったことは、その熟語から明らかです。
話を戻しますと、本籍概念は元々寄留地から見れば本来の戸籍のある場所と言う意味から始まった外に、戸籍がカラになってくるに従い元・本(もと)の登録地=本籍地と言う記載が一般化して行ったものと私は推測しています。
この結果、今では本籍と言うと意味のない・・実用性がないものであることから却って何か意味不明な有り難いもの・・先祖のルーツでもあるかと漠然と思っている方が多くなったと思いますが、最高に遡っても明治初年に先祖が住んでいたことが分るだけのことで、それ以上のことは分りません。

戸籍と住所の分離4

戸籍と本当の住所の乖離が進行する状態・運用がどの程度進行していたかに戻りますと、明治29年民法制定時には、この実態が進行していて先行していて実態に合わせるだけになったから、民法と同時施行になった明治31年式戸籍法では戸籍から住所記載をイキナリ全面的にやめることが簡単に出来たように思えます。
その直前の旧民法(明治23年公布)ではどうなっていたかについては、有斐閣の注釈民法(昭和48年初版の「住所」の総説や新版注釈民法(昭和63年初版)の「住所」の総説に少し紹介されています。
これを読むと、旧民法はフランス方式のインスチチュート方式で編纂されていて住所に関しては、
 旧民法人事編226で「民法上ノ住所ハ本籍地ニ在ルモノトス」
 同第266に「本籍地ガ生計ノ主要ナル地ト異ナルトキハ主要地ヲ以テ住所ト為ス」
とあったようです。(新版注釈民法334ページ)
住所の定義について、旧民法では「本籍地」と第一義的に決められる方式ですので、これを形式主義だったと上記注釈では書いているのですが、「生計の主要地をもって住所とす」と言う修正条文もあるので、言わば折衷主義だったと思われます。
上記の通り旧民法でも住所は第一義的に本籍を住所とし生計の主要なところが別になっている時にはそこを住所とすると言うのですから、旧民法編纂作業の頃(明治10年代以降)には、戸籍のある場所から便宜寄留名目で実際には住所移転している人がかなり増えて来て、戸籍のある本籍だけ住所とする画一処理が出来なくなった状態・・実情を無視出来なくなって来た・・過渡期の状態を表しています。
これが、現行民法(明治29年成立)になると19日に紹介したように「生活の本拠」として実質主義に変化しています。
これは、この頃(現行民法編纂作業は明治26年から始まり29年には国会通過です)には戸籍と本当の住所と一致する人が殆どいなくなってしまい、本籍を基準とする形式主義が折衷的にも維持出来なくなって来たことを現しています。
ところで住所は人の属性の問題として旧民法では人事編にあったのですが、現行民法では折柄発表されていたドイツ民法第1草案・・概念法学のパンデクテン方式です)を基本的参考にしたために、(この結果我が国ではドイツ法学が隆盛を極めることになります)住所が人事編だけの定義ではなく、明治29年成立の現行民法では総則に入って全体の基本概念に昇格したように思われます。
ところで、住所の定義が現行民法では「人」の次に配置されたのは、我が国は農耕・定住社会が長かったので、人の特定には「どこそこの誰それ」と言う名乗りが普通でしたし、政府も国民の特定には氏名・年齢・職業・親兄弟の氏名などの外に、住所を重視していた面もあって国民の特定には住所が最重要要素だった歴史によるところが大きかったかもしれません。
現在でも刑事事件の開始にあたっての被告人に対する人定手続きは、本籍、住所・氏名生年月日・職業の質問で行っています。
後に書いて行きますが、アメリカなど保険番号などによる特定で足りるので戸籍制度はありませんし、5〜6年前から韓国でも戸籍制度を廃止しています。
移動の盛んな現在では住所や親の住所による特定自体が意味をなさなくなって来たからでしょう。
業務上初対面の相手を知るのには、親兄弟が誰か出身地などはまるで意味がありません。
現在の名刺に企業名や役職を書いているのは、これこそが真に必要な情報であるからです。
(名刺の住所電話番号を見るのは何か連絡したいときだけですし、その時必要に応じて見ながら書き写すだけですので一々記憶している人は皆無に近いでしょう。)
明治民法の大家族制度・・観念的な家の制度がその他の諸制度との矛盾をはらみながらも一応概念上だけでも成り立ったのは、このような観念的・・現実に何ら関係のない本籍と言う概念が事実上生まれていたところを有効利用・・観念と観念の組み合わせだったからこそお互いに有効利用できたとも言えますし、この時に家の制度が出来なければ、国民の管理は住民登録制の完備だけで済むので戸籍制度は不要・・この時点でなくなっていたかもしれません。
実際、今でも何のために本籍があり住民登録の外に戸籍簿が必要か、理解に苦しみます。(その関心でこのシリーズは書いています)
もしも、明治31年以降の戸籍制度が家の制度を支える物理的骨組みであったとすれば、戦後家の制度を廃止した時に、本籍を中核とする戸籍制度も廃止すべきだったのではないでしょうか?
戸籍制度は、国民の管理把握のためには当初必要な制度でしたが、その内寄留簿に集約されて行って国民管理の機能としては戸籍の役割がなくなっていたのです。
今では本籍地を届けるには、自分の住所でもない親のいる場所でもない、何らの関連性も問われない・好きなところを届ければ何の根拠も不要で、受け付けてもらえる仕組みです。
それでも婚姻による新本籍地の届出に際しては、親の戸籍所在地をそのまま届ける人と婚姻時住所で届ける人が多い・・全く関係のない千代田区霞が関何丁目・・番地と届ける人は皆無に近いでしょう・・のは、前者は明治の初めに一般的であった新所帯では寄留簿登録していた時代の名残であり、後者は今更寄留(仮住まい)ではない、自分たちの住むところが生活の本拠であるとする自信のある人がそこで戸籍を作った名残です。
生活の本拠=住所を本籍とする明治の戸籍制度開始当初の意識が今でも強いことが分りますが、婚姻時の新居・現住所を本籍として届けるだけではなく、転居の度に本籍も移動する人がいますが、こうなってくると問題の所在が明らかになってきます。
同時に二つの届け出が何故いるのか?と言う疑問です。
逆説的ですが、戸籍を作った当初は一種の核家族直系だけの記録だったのが、時間の経過で傍系まで記録するようになって行き記載が複雑すぎて・・太らせ過ぎて戸籍の移動には手間ひまがかかり過ぎるようになった結果、(転居の都度戸籍新編成が難しくなった)移動に不便になってそのまま残されてしまうことになりました。
移動から取り残された結果、本籍地とは何を意味するのか・・先祖代々の本拠地と言えるかと言うと、せいぜい明治維新当初の住所地(今では婚姻届け出を出した時点の住所?)を現すに過ぎないのですから、存在意義が不明になってしまいました。
本籍地には親類縁者が一人もそこにいないなど本籍の意味が空虚になり過ぎたので、却って何のために本籍・・ひいては戸籍制度が必要かの疑問を持つ人が(私だけかも知れませんが・・元々その疑問があったのでこのシリーズを書いています)になって来たのです。

戸籍と住所の分離3

 明治4年の2つの太政官布告で戸籍簿と寄留簿の二本立てで始まった国民管理制度の内、時代の流れに合致していた寄留簿の方が発達して肥大化して行き、戸籍簿の方は逆説的ですが肥大化し過ぎた結果空洞化が進み、その結果が明治31年式戸籍だったことになります。
前回紹介した本では「社会経済の発達とともに国民の本籍と必ずしも一致しなくなった・・」と書かれていますが、私が21日まで推測を逞しくして書いて来たように、律令制下で農地配給のために生まれた戸籍制度は国民の頻繁な移動に適応出来ない制度であったのに、明治維新以降近代化が進み住所移動が激しくなったことから、制度に内包する無理が生じて来たからです。
農民が数年あるいは五年に一回移住していたのでは耕地の前提たる土造りも出来ないので農民にとっては定住が原則です。
しょっ中移動していたのでは食べて行けないので移動する人は農民以外の商人等稀な事例(商人も安定して店を構えないと信用されない社会)になりますが、近代化進行=経済活動の活発化・農業から商工業社会への変化ですから、人の移動が激しくなる一方・・未だに地方から大都会への移動が現在進行中です。
戸籍の空洞化が何時頃から進み始めて何時完成したかですが、大正3年成立の寄留法では既に住所寄留と言う区分が出来ていることから見れば、そのずっと前からこうした運用に変わっていたことになります。
前回紹介した本の意見によれば、明治31年式戸籍法(明治31年民法施行による家の制度にあわせて改正されたものです)では、住所記載がそぎ落とされて身分登録だけに純化していますので、この時点までに、戸籍と住所が切り離されている運用・・寄留届けが一般化し・寄留簿が事実上住民登録簿に変わっていたことが分ります。
ではそのどのくらい前から戸籍が(現住所を現さなくなって)空洞化していたかと言う疑問ですが、前回紹介した本では明治19年式戸籍では、まだ戸籍には住所を記載していて、本籍記載欄がなかったのですから、大分普及していたとしてもまだまだ戸籍制度に反映するまでは行ってなかったのでしょう。
明治20年代には普通になっていたとすれば、いわゆる旧民法成立(明治23年)の前後ではどうだったでしょう?
旧民法は、保守反動層の猛反対で施行されないうちに、明治25年に施行延期決議が議決されて明治29年に新たな(現行)民法が成立してしまうのですが、この時に新たになったのは主として親族相続編でした。
19日にも少し書きましたが「住所」は、フランス法やドイツ、スイス法などの学説を参照して作ったものであって、我が国の保守革新の抗争・・醇風美俗論争とは関係がありませんでした。
ただし隣国との往来の盛んな欧州諸国では、住所概念は対外的な裁判管轄を決める・・主に国際私法上必要な概念であって、民法と言う基本法に書くものではなかったようですから、我が国だけが突如民法の、しかも総則に書いたのは戸籍関係で、特に住所の意味が重要になっていた事情があったからかもしれません。
後にも書きますが、民法の実質主義によりながらも選挙権では選挙法で、税は税法でそれぞれの住所概念が必要・・民法で一律に決めるのではなく、と言うのが現在の通説のようです。
最近では武富士創業者の息子の住所が香港にあったのか日本にあるのかに関する最高裁の判断によって、2000億円前後の税還付が決まったことが報道されています。
民法の総則で住所一般の原則を書いたのは、古代から定住民族の我が国では人の定義として住所による特定の意義が重視されていて、これに基づき戸籍を整備したものの、戸籍の記載場所と本当に住んでいる場所とが乖離し始めたので住所=本籍とする形式理解ではすまなくなりました。
そこで「住所とは何か」を決める必要性の意識が高まっていたので、民法に定義規定が置かれたと思われます。
壬申戸籍では戸籍と寄留しかなく住所概念がなかったのですが、戸籍をそのままにした移住が多くなると住所とは何かが問題になって来るのが必然で、戸籍記載場所と(本来の)住所・寄留(居所)の3カ所の概念が出来て来たのです。

戸籍と住所の分離2

住所の不安定な人・寄留者だけが(今で言う「実家・帰省先がどこそこです」と言うのと同様に)本来の籍=「本籍」と使っている時には、本籍は普通の言葉だったのですが、戸籍地にいる筈の実家自体が移動・本来の住所自体が移動した後も方便として新たに移動した住所を・・仮の場所に過ぎないとして届ける習慣が一般化してくると、新住所地と戸籍記載場所の不一致が多くなって来ます。
この段階で住所と本籍の分離が始まったと思われます。
住所不安定な寄留者のごとく、本来一家を構えている人まで「ここは本当の籍ではない」・・ひいては本来の籍はどこそこにあると言う言い方・・観念が発達したのではないでしょうか?
憶測をたくましくすると戸籍変更届があると、「寄留にしておいてくれませんか」(・・そうすれば戸籍の作り直しがいらないので・・・)と言う役人の都合による方便が一般化して来て、安定した住所のある人全員にまで、(本来は郷里を出た寄留者だけだったのが)本籍を記載するようになった始まりのような気がします。
住所変更の場合でも、住所寄留として届ければ戸籍を作り直さないで良いとなった段階から、住所の外に別に寄留者同様にどこに本籍があるかを書く・・(寄留者だけではなく)国民全部に本籍が存在するのが原則とするようになったと思われます。
ところで戸籍簿に本籍が記載されるようになったのはいつからかまでは、文献では調べきれないので、以下は憶測によるしかないと19日のブログで書いて以来、推測に基づいてこうなって行った筈式の文章を書いて来ましたが、2月21日、月曜日に少し時間があったので事務所の本で調べてみました。
いろいろ見ているうちに日本加除出版昭和54年発行、村上惺著「戸籍基本先例解説」を見ていましたら、50ページに
「戸籍の様式中に本籍欄が設けられたのは明治31年式戸籍からであり、それ以前は戸籍簿には住所を記載し住民登録としての性格をもたせ、人の身分に関する事項のみならず宗教、刑罰に関する事項等行政施策に供しうるものを登載していた」
とあり、同48ページには、
「本籍の概念は壬申戸籍以来存在していたわけであるが、壬申戸籍及び明治19年式戸籍は住民基本台帳としての機能を果たしていた。ところが社会経済の発達とともに国民の本籍と必ずしも一致しなくなったことから、明治31年に施行された戸籍法は、国民の身分登録簿としての性格に変革して来た。その後大正3年戸籍法の施行(大正4、Ⅰ、Ⅰ)されたのを機会に寄留法(大正3・3・31法27号)が新たに設けられ、本籍と住所との関係が名実ともに分離された。
従って、大正3年戸籍法施行以後は戸籍の索引機能として本籍を営むに過ぎないものとなったわけである。」
と書かれています。
ま、これまで推理に付き合っていただきましたが、推理を楽しんで来た結果とこの著作の意見とはほぼ100%一致していまることが分りました。
上記に書いてある壬申戸籍当時から本籍があったと言う点は、同時に始まった寄留簿には、帰省先・本籍を書くようになったであろうと言う推測に一致しますし、他方で戸籍簿自体に本籍を書くようになったのは、明治31年式戸籍からであると言うことは、この頃までに戸籍移動をやめて寄留届けが流行するようになっていた結果とする推測に一致します。
ただし、この引用部分は著者の意見であって、そこに条文まで引用されていないので事実か否かまでは分りませんが、戸籍の専門家が書いているので、ま正しいと見ていいでしょう。
今でも何代か続いた田舎の家が本籍地と一致していることが多いのですが、これが今や例外扱いのように思われていますが、元は住所地で編成していた名残です。
戸籍編成が始まったときは住所地で戸籍を作ったので戸籍記載場所と住所が一致し、不一致は寄留だけだったのが、明治31年時点では戸籍記載場所と住所とが分離するのが普通になって行ったことになります。
本来の住所変更を寄留として届ける習慣が根付いて行くと本来の寄留と住所変更による寄留の区別をして受付しないと、国民の実態把握が出来なくなるので、何時の頃からか実情をふまえて住所寄留と本来の寄留に区分した受付簿が出来て来たのでしょう。