米占領政治と韓国の労働運動1

11月2日紹介する韓国労働運動に関する論文の構成が、米国占領政治開始時の政策宣言から始まっていて、当初の基本姿勢が労働者意識・国民意識に大きな影響を与えたという認識を前提にしているようで、私の関心同様です。
これによって米軍の朝鮮「信託統治」は対日誹謗・反日意識洗脳目的で始まっていたことが裏付けられます。
10月29日紹介したカイロ宣言は戦争中の敵愾心もあり、戦略戦の一種でしょうからある程度の言い過ぎ・フェイクもあるでしょうが、(日本でも「鬼畜米英」と言っていました)戦争終了後の民政段階でもこの程度のことを公式表明するとは米國民度・・政治経験の底の浅さをあらわしたものです。
戦後70年もアメリカの譲れない戦後秩序は、日本がいかに酷い植民地支配をし、東南アジア諸国の人権侵害してきたかを宣伝し、これの批判を許さない姿勢でした。
米国流の単純政治に反応した朝鮮人は言うまでもなく同類レベルですが、米国の日本批判に安易に同調したことが朝鮮人の不幸拡大・・自殺増加や火病に象徴される精神の葛藤し深刻化の原因だったのではないでしょうか?
韓国民は米国宣伝のお先棒を担げば、米国や韓国政府の覚えがめでたいから率先実行してきました。
アメリカが自分の政治に自信があれば、日本的価値観からすれば「黙って良い政治をすれば良い」のであって前政権の政治を露骨に誹謗するようなやり方で・・政治がうまく行く訳がありません。
日本の場合、総理や社長交代でも全てそうですが前任者をたたえながら、やり残したしごとを発展させていくと抱負を語るのが普通で前任者批判から始める人はいないでしょう。
中国何千年の歴史といいますが、王朝崩壊の都度前王朝を全否定し全王朝の優れた文物を百%破壊す尽くし何も残っていない(日本に唐宋の文物が残っている状態です)と言われる行動原理・拙劣政治が中朝の歴史です。
我が国ではちょっとした民俗行事でも各地村落で何百年単位でそのまま引き継いで子孫に残していくのが我が国の伝統で、その代表格が正倉院御物であり法隆寺の宝物でしょう。
先日正倉院展で5弦の琵琶を(法隆寺宝物は、東博の法隆寺館に・・入れ替えがありますが常設されているので日頃見慣れておりますが)拝観してきましたが、螺鈿細工のきらびやかさには驚嘆したばかりです。
信長が切り取ったことで有名な蘭奢待実物を拝観して、信長が目の前にいるような気持ちになりました。
(もちろん信長が自分で正倉院へ行って切り取るわけがないので時代雰囲気を書いています)
明治天皇が切り取ったのを見ると、5〜6百年〜千年に一人の傑物しか許されない行為という私の勝手な価値観からすると自己評価が甘いお方だったか?と明治天皇の評価が内心グット下がった印象で帰ってきました。
(明治維新は歴史上の一大エポックですが、「王政復古クーデター」と言われる小御所会議は、慶応3年12月9日(1868年1月3日)で、1852年11月3日生まれの明治天皇(在位:1867年2月13日〈慶応3年1月9日〉- 1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日)は当時まだ15歳で天皇に即位したばかりです)
韓国も中国同様で前時代の良かった点を残すという考え方がないらしく、李氏朝鮮時代の統治が良くて日本支配が悪かったならば日本がいなくなれば、李氏王朝を復活させれば良いのにそれもしないで、ただ日本支配がひどかったと言うだけです。
日本では李氏朝鮮王族は日本の華族様より上の皇室に次ぐ格式を与えられて厚遇されて存続していましたのでいつでも再興出来明日紹介する韓国労働運動に関する論文のたのです。
李王家に関するウイキペデイアの解説です。

1910年(明治43年)の韓国併合ニ関スル条約は、その第3条で「日本国皇帝陛下は韓国皇帝陛下太皇帝陛下皇太子殿下並其の后妃及後裔をして各其の地位に応し相当なる尊称威厳及名誉を享有せしめ且之を保持するに十分なる歳費を供給すへきことを約す」(片仮名を平仮名に改める)として、韓国皇帝以下韓国皇族に対し、相応の待遇や称号付与をすることを定めていた。
また第4条ではそれ以外の韓国皇族についての類似の規定をしていた。この条約に基づき、王公族として李王家が立てられ、日本の皇族に準じる待遇を受けた[1]。「王」「王世子」「公」等の身位と、殿下の敬称が与えられた。

自国民の意思で(フランコ政権によって)廃されたスペイン王室でさえフランコ政権終了後復活しているのに、仇敵のごとく忌み嫌う?はずの日本によって廃止された旧王朝復活運動が起きたともきかないところを見ると、日韓併合によって朝鮮王朝がなくなったことを国民の多くが良かったと思っていると言うことでしょう。
ちなみに敗戦後李承晩政権が李王家の帰国を拒んだために帰国できなかった・朝廷の復活を求めるどころではなかったことも上記に出ています。
ウィキペデイアの続きです。

李垠(イ・ウン、り・ぎん)は、1897年に高宗と純献貴妃厳氏との間に生まれた。純宗の異母弟。英親王に冊封される。1907年(明治40年)の純宗即位と同時に韓国最後の皇太子となったが、幼少時より日本で教育を受けた。韓国併合と同時に日本の王公族として「王世子」に封じられた。
1917年(大正6年)に日本の陸軍士官学校を卒業(第29期)、翌年日本の皇族梨本宮守正王の第一女子である方子女王と婚約、1920年(大正9年)に結婚した。純宗が薨去した1926年(大正15年)には李王家当主を正式に継承し、「王」(李王)となった。李垠は日本の軍人として宇都宮連隊長などを経て、終戦時には中将にまで昇進した。
日本の敗戦後、1947年(昭和22年)の日本国憲法制定により李垠夫妻は王公族の身分と日本国籍も喪失した。しかし、李承晩政権時代には彼らの大韓民国への帰国は許されず、夫妻が帰国できたのは朴正煕政権が成立した1963年(昭和38年)のことだった。1970年(昭和45年)に死去。

弊履のごとく捨て去るという言葉がありますが、朝鮮人にとっては権力を失った以上なんの価値も認めないということでしょう。
任期制大統領制度は、議院内閣制と違いその間の身分保障があるのでその間民意を気にしないで法の範囲内で好きな政治をできる・一種の期間限定独裁制という後進国向けの制度だと説明をしてきましたが、任期で守られている分に比例して蓄積された不満が頂点に達した時点での退任となります。

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