中ソの領土欲(国際信義を頼れるか?)1

ソ連としては占領している既成事実がない場合に、戦後処理での対日領土割譲要求権が弱いと見たからでしょう。
東欧諸国やドイツ東西分割などの戦後処理の結果を見ても、実力占領しているかどうかの結果に左右されるのが世界政治の現実です。
戦後国連成立により国際社会も無法状態が解消される・日本国内のように警察力によって治安が守られると夢想し平和憲法が制定されましたが、その後の現実は知ってのとおりです。
日本では北方領土が占領されたままの他に、韓国の李承晩ラインの一方的設定によって竹島が事実上韓国支配下に入って無辜の漁民が大量に拉致されその解放と引き換えに日本国内で戦後混乱に乗じて犯した在日凶悪犯罪者の釈放や朝鮮戦争で難民として大量流入した在日の合法居住を保証することが取引にされました。
もちろん竹島の実力支配が戦後七十年以上経過してもそのままです。
北朝鮮に至っては戦後混乱期でもない平和な時期に国家政策として日本人多数を拉致したまま現在に至り、日本政府は彼ら被害者を実力解放する方法がないままです。
アメリカは言いがかりをつけてイラクを占領してフセイン大統領を処刑したことが、この十年来の中東の大混乱のモトです。
ロシアは白昼公然とクリミヤ半島を武力併合したのはまだ数年前のことです。
中国は南シナ海の埋め立てが国際司法裁判所で中国の領土主張が完全否定されても「そんなものは紙くずだ」と公言して埋め立て続行完成しさらに軍事基地造成してしまいました。
尖閣諸島においても日々領海周辺に待機する公船を増強する一方で、日本がハエのように群がってくる領海侵入を追い払うのに疲れてネをあげるのを待つ・・事実上中国公船と動員漁船で埋め尽くす日がくるのを待っている状態・・道義など気にしていません。
日本は何をされても黙っているだけで報復しないので甘く見たのか?軍事力による攻撃だけではなく日本を道義的に貶める方向での攻撃もこの数十年で目立ってきました。
捕鯨妨害活動に始まり、慰安婦攻撃、少売買売春、先住民圧迫論、南京大虐殺など次から次ですが、悪い人はいないという態度で放置しているといくらでもひろがる傾向になっています。
安倍政権になってからようやく毅然と「言論」反撃をするようになりましたが、その気持ちに切り替えるためには戦後七十年も要したことになります。
日本は幕末〜明治維新以降国際社会は日本と違ってならず者社会であるという警戒心でやってきましたが、敗戦時に今後国際社会も日本国内同様に「正義の味方のアメリカが裁いてれる」・・「世の中に悪い人はいない・仮にたまにいても最後には正しいことをしている人が認められる」という日本国内並みの理想社会になるという夢が流布していました。
幕末以降豺狼のような国際社会に乗り出した以上は、豺狼の餌食にならないように必死・・留学した漱石のようにノイローゼ気味の緊張下で生きてきたのが日本人でした。
これがアメリカの懐に入った結果解放されるというのですから、解放されたばかりの国民の熱に浮かされたような開放感・理想願望が憲法前文と象徴天皇制〜9条に凝縮された・古代から江戸時代までの日本社会に戻ったように思われます。
憲法前文
「・・・日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。・・・」
第九条  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
○2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
国の交戦権は、これを認めない。 」
ところが戦後の現実は上記の通りで、ほぼ100%裏切られてしまいました。
未だに非武装平和論を主張している人を国賊呼ばわりする人がいますが、(自分は信じないで中韓やロシアの侵略や攻撃を容易にするために国民を誘導しているならばまさに国賊でしょうが)心から信じているのならば「夢想」を信じて死ぬまで生きていたいロマンチストというだけのことかもしれません。
願望が時代に合わなくともドンキホーテのように死ぬまで実現できぬ願望に美意識を抱いて生きるのは個人の勝手ですが、いわゆる運動家というのはこれを他の国民にも押し付けたい衝動に駆られている(迷惑老人)グループのことでしょう。
私は戦後アメリカのばらまく夢ばかりで育ったのでアメリカによるイラク侵略その他世界中で行ってきた不当な行動を知るにつけてもその反動で幻滅甚だしいのですが、70歳代前後の人がより一層平和活動に精出しているのをみるとその幻滅を認めたくない焦りからでしょうか。
第二次世界大戦に戻りますと、欧州戦線でも米軍が多大な犠牲・死闘の結果得た戦勝の成果を最後の最後に参戦して広大な東欧諸国を火事場泥棒のように大規模占領してそのまま支配下・衛星国にしてしまいました。
一方、この結果を見ている米国はソ連の占領区域が広がってからの終結だと戦後処理が厄介になるという焦り・・「ポツダム宣言受諾を早めるため」というアメリカの原爆投下正当化の一つ・・・意見の基礎になっている面もあります。
原爆投下の是非は別としても、もしもソ連参戦後一ヶ月もたってからの降伏の場合、日本は大変なことになっていました。
日本は正面の敵である米国に対する備えは堅固でも、不可侵条約のあるソ連への備えは手薄な状態でした。
沖縄戦では制空権を握り艦砲射撃の援護の下で圧倒的優勢な火力を駆使する米軍による攻撃下でも、以下紹介する通り1日5〜60メートル進軍程度の激戦でした。
本土上陸戦となればもっと激しい抵抗を予想していましたので、アメリカ軍侵攻が1日100メートルとすれば不意を衝いて急襲するソ連軍は背後から攻めかかるので一日に数十〜百キロのスピードで迫ってきた・・ソ連の方が占領地域が大きくなる可能性があります。
これがドイツ敗戦時に欧州でのソ連の占領地域が馬鹿に大きくなった原因・・・漁夫の利を得た原因です。
もしも本土決戦になっていたら日本列島は朝鮮戦半島のように真っ二つに分割されていた可能性があります。
沖縄の戦いは以下のとおりで、如何に激しかったかが分かります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E6%88%A6#.E9.A6.96.E9.87.8C.E6.88.A6.E7.B7.9A.E5.89.8D.E8.A1.9B.E9.99.A3.E5.9C.B0.E3.81.AE.E6.88.A6.E3.81.84
「・・第1海兵師団は14日に大名高地に達したが、大名高地とそれに隣接する高地は首里直前に位置し、首里防衛線の中核を成しており、その堅牢さはそれまでとは比較にならなかった[179]17日から大名高地に対して攻撃を開始したアメリカ軍は、艦砲や爆撃から野砲・迫撃砲・戦車による火炎放射に至るまであらゆる火器を集中し大名高地の日本軍陣地を攻撃したが、日本軍からの応射も凄まじかった。第1海兵師団はペリリューの戦いの激戦も潜り抜けてきたが、大名の戦いはペリリューとは別次元の激しさだったと海兵隊員らは感じたという[180]。
20日は第1海兵師団は2個大隊により二手から大名高地を攻撃、その内の第3大隊は一つ一つ陣地を「ブロートーチ(溶接バーナー)と栓抜き作戦」で撃破しながら進撃、ナパームで高地を焼き払い、日本兵を炙り出して掃討しつつ一日でようやく60m進んだが、その後丘陵部を25m前進すると、日本軍の猛烈な反撃でまた元の陣地に押し返された[181]。
・・・縦深防御システムは陸軍各師団の進撃路にも構築されており、陸軍も海兵隊と同様にもがき苦しんだ。第77師団は首里へ続く曲がりくねった道を前進したが、数メートルおきに日本軍の陣地があり、同師団の第305歩兵連隊は損害に構わず押し進んだ結果、5月11日〜15日の間に戦力が1/4まで落ち込んでしまった[183]。
アメリカ軍は通常、午前中に進撃して、午後から陣地を構築して、夜間は陣地に籠り日本軍の夜襲を警戒するというスケジュールであったが、第77師団は少しでも前進速度を上げる為に夜間攻撃を強行し、日本軍と激しい白兵戦を演じている[183]。第307歩兵連隊は日本軍の重要拠点石嶺丘陵の陣地に夜襲をかけ、頂上から日本軍の洞窟陣地を攻撃し、就寝していた日本兵多数を殺傷したが、その後日本軍の激しい反撃を浴び、3日間山頂に孤立し、救出された時には夜間攻撃に参加した204名の内156名が死傷していた[184]。」

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