税の歴史2

大名や旗本が町奉行や作事奉行に任ぜられると自分の家臣団を動員し市中取り締まりや工事(薩摩島津家で言えば長良川の堤防工事)をする必要がありました・・。
このやり方では徳川家で言えば大身旗本しか役につけないので、足し高の制・・役料制度が発達したことを03/01/04「足高の制4と新井白石の正徳の治(家禄・家臣団の不要性)」前後で連載しました。
中央政府は巨大な領地・圧倒的領地収入を前提に政権を獲得するので、その後も自腹で全国的な運営を担当するのが我が国古来からのやり方でした。
同好会その他弱小組織の場合、会長がかなりの事務量を自腹で賄う・・町内会・商店会・小さな同業組合などでもその中の比較的大きな会社が組合事務局を自社内において組合会費からではなく、自社の事務員に組合の事務を兼務させて間に合わせることが多いものです。
(勿論家賃・パソコン・コピー電話利用料など取りません)
政治家は井戸塀政治家というように、人の上に立つ以上は自腹を切り続けて損ばかりしているうちに井戸と塀しか残らないのが我が国政治の有り様です。
この点パレスチナ解放戦線議長だったアラファト議長とか、リビアのカダフィ大佐あるいは共産主義政権の崩壊したときのルーマニア大統領など世界の政治家は蓄財が得意なのには驚きます。
イザとなれば彼らが海外に何兆円と国民のために?隠し財産を溜め込んでくれているので国民は安心してまかせておけるでしょう。
日本の菅前総理や野田現総理が失脚しても何も貯めてくれていない(と思われる)ので、国民は大して期待(あてに)出来ません。
国民は、増税に反対して自分でせっせと溜め込んでおくしかないでしょう。
自腹で公務を運営する方式に戻りますと、このやり方・世話役方式では政権を取ったばかりは何とかなりますが、政府・公益的仕事が増えて来ると自分の領地からの上がりの持ち出しだけでは中央政府は維持費が賄えなくなって来ます。
同好会や自治会や組合で言えば、事務量が増えて来ると自社の事務員を何人もかかりきりにしていられなくなって、事務局を持ち回りにしようとか、会や組合の費用で事務所を借りよう・専属の事務員を雇おうとなるのが普通です。
政治の場合、単なるサービス精神による世話役ではなく自分の支配欲を満たすための政権取りですから、そのまま自腹で経費を持ち続けることが多いので経済的に参ってしまいます。
中国のように政権を取れば、中間豪族の存在を一切認めずに人民を直接支配する仕組みの国(・・皇太子以外の子供などに一部王国を認めますがそれは例外です)なら却って私腹を肥やせるので、政権は税の取り過ぎで人民が蜂起しない限り盤石です。
(異民族に滅ぼされる以外はいつも農民の流民化で政権の最後が始まるのはこうした結果です)
日本の場合、大和朝廷の始まりから諸候連合ですから、中央政府は自分の直轄領地からの上がりだけで全国支配をしなけれならないので、割が悪い仕組みでした。
日本の政府・指導者はいつも質素倹約で簡素な役所しか持てないのは、こうした違いによるものです。
神社も権威を強調するだけで、建物自体はどんな大社で質素なものです。
中央政府の経済基盤を強化するために、随・唐の律令制導入が(大化の改新)この面で必須だったでしょうが、逆から言えば豪族にとっては自己の地位が危うくなることですから、骨抜きに必死になったのは当然です。
律令制=国家全面所有・人民直接管理制は、わが国には根付かず失敗に終わったので、以来国家直接管理思想は無理がある(トラウマ)となって明治維新まで来たことになります。
律令制失敗後は全国的に荘園制となり荘園制のうえに武士団が誕生してきます。
武士団の最初に天下をとった清盛が政権維持のためには(湯水の用に資金を使ったでしょうから・・)娘盛子の夫藤原基実死亡時に子供が小さかったので、基実の弟が後見になると平家にとって大変な事態になるので、必死のがんばりで何とか摂関家の荘園財産の殆どの管理権を入手します。
清盛は(摂関家資産を多分食いつぶしたでしょう)た上で、その後は資金源を求めて安芸の守以来の瀬戸内の交易による利益だけでは足りなく日宋貿易に頼るようになりました。
(資金源がなくなったことが、平家没落の主たる原因です)
鎌倉政権・頼朝は自前の領地・収入源がなかったのが当然ですが、北条家に実権が移った後は、北条各家は経済基盤確保のために領地拡大に精出して、各自の領地を最大にしていて、執権家構成一族としての経済力が高かったので長く続いたのです。
(蒙古襲来がなければ経済基盤がしっかりしていたので、もっと続けられたかも知れません)
襲来時の北条一族の支配地が大きくなっていたことについては、01/24/04「中世から近世へ(蒙古襲来と北条家)4」で少し触れました。
徳川家もこの歴史を知っていたので直轄領地(公称800万石)にこだわっていたので、幕府財政は苦しいながらも約300年近くも続けられたことになります。
(黒船来航さえなければもっと続いたかも・・・)

税収3(税の歴史1)

助け合いや地域のことを、何もかも税でやらなければならないと思い込んでいる人が多いと思いますが、そんなことは、元々ないのです。
近代国家になって国家権力が強大になったので、政府の入り用は何でも強制的な税に頼るようになっていますが、全く強制力によらず国債を資金力のある人に買ってもらって資金を獲得するのが最もソフトな民間からの資金徴収方法と言えます。
イヤならば国債を買わなきゃ良いのですから、100%自発的拠出に頼ることになります。
何事も強制よりは自発的行為の方がスムースですから、国債による資金徴収方法はソフトな良い制度だと思います。
政府費用や所得再分配資金として「国民からお金を集めるのは税だけだ」と錯覚している人が多いと思いますが、税だけで運営するようになったのは明治維新による近代国家成立以降に限られています。
そもそも中国式の中央集権国家・・政府が直接国民を把握して徴税する仕組み・・・律令制は導入しても、我が国の実情に合わないことから直ぐに破綻してしまったことを01/09/06「律令制の崩壊1(豪族のしたたかさ)」その他関連のコラムで紹介しました。
平安朝以降は荘園や大名小名領地に編成されて行き、次第に中央政府自体が直接徴税出来る仕組みがなくなって行きました。
秀吉が後陽成天皇に寄進したのが僅か3000石であり、家康が関ヶ原後に征夷大将軍に任ぜられたお礼は、秀吉の寄進した旧領安堵でしかなかったのです。
家光の上洛(1634年)の引き出物として後水尾天皇に7000石を寄進して漸く合計1万石の生活費を得たに過ぎません。
(外に5摂家に各1000石していますが・・武士で言えば中級の上の旗本程度です・・高家筆頭の吉良家は4200石程度でした)
徳川時代には公家諸法度で朝廷が政治に口出しさせないように儀式を多くやるように強要していたので、その代わりその経費を見る必要・・・を賄う程度・・今の皇室経費の発想です。
05/22/04「皇室祭祀令 4と雅子妃殿下の苦悩23 (天皇家の独立)」前後で連載しましたが、今の皇室もこの歴史を引きずっているので行事儀式だらけで忙しすぎることを書きました。
徳川政権自体も自分の領地から上がる地代・税によって運営されていて、諸大名には堤防工事や駿河台の石垣積みをやらせたり何かの義務・・たとえば浅野内匠頭に接待供応・・を命じるだけで国税として(大名が自分の領地で取る税は今で言えば地方税に該当するでしょうが・・・)徴収する方法がありませんでした。
大名も支配内で固有の領地を持つ豪族的・・大身家臣の領地内での収入は、その重臣の固有収入であってその何割かを大名家に納める仕組みがなかったことは、徳川家と大名・旗本等の関係と同じです。
元々平安末からの武士団・・鎌倉時代から徳川時代終わりまでの中央・地方の政府組織は、戦闘集団から始まっているので、家臣は命じられれば戦闘だけではなく何でも無償で人的サービスを履行する義務を負うだけで、金品を納付する義務がありませんでした。

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