移民排斥とピープル概念の分裂?1

トランプ氏のスローガンでは,「移民追い出し」と言うだけで,アメリカ国内工場をどうやって維持するかの展望がありません。
移民を入れない以上はその分国内賃金が高止まりしますので,企業は(国内人材能力引き上げる努力しないで低賃金移民に入れ替えれば良いという意識でやって来た経緯から欧米の場合既存住民のレベルアップは困難ですので)企業は海外展開加速・・国内失業も加速するしかないでしょう。
これまでアメリカでは,企業は儲ければ良いという発想で,工場を海外に出そうが国内に移民を入れようが結果は同じと考えて来ました。
そこで新興国の低賃金攻勢に対する対応策として工場の海外移転と移民受け入れの平行対応して来たのがアメリカ企業であり,アメリカほど露骨ではないにしてもドイツ、イギリスなどの欧米企業でした。
この2方向の内移民受け入れが無理ならば・・海外へとなるのが普通の展開です。
これを防ぐために海外からに輸入への課徴金恫喝・・メキシコに工場を造る予定のフォードを名指しした演説でしょう。
ガバメント・・これを構成する企業家は現にいる人民だけのためではなく今後はいって来る移民を含めたピープルのための統治を期待されて来ただけですから、いくら移民が入ってもその移民を含めたピープルのためになれば良いと考えて来たフシがあります。
移民寛大政策がアメリカの長年の国是でした
この延長で海外展開してどこで儲けようと企業のためになれば良いし,企業のためを考えれば儲けた金をどこの国にプールしておくかも・・企業家にとっての有利不利が判断基準であり,自国民のためになるかどうかなどの基準不要・・自由自在であると考えて来ました。
これに不満を言い出したのがゴローバリズム反対論です。
西欧でもアメリカでも漸く新参古参を問わない・・ガバナーが管理の都合で商品構成や組立てライン設備を入れ替え出来る商品としてのピープルではなく、「既存民衆・先住民・現役従業員のための政治・企業経営をしてくれ」と言う気持ちが起きて来たように見えます。
これがイギリスのEU離脱の国民意思表示ですし、仏独での移民反対運動の高まりであり、「アメリカ第一・・移民追い出し」宣言でしょう。
エンクロージャームーブメントの例で書いて来たように,欧米のpeople・ピープルが人間も元々商品の一種として入れ替え可能概念であったと言うのが私の素人的意見です。
移民排斥のトランプ氏のスローガンを実行して行くには,移民あるいは新参者もピープルに含める従来概念を変更して行くか、移住して来たばかりの者を区別する新しい「仲間」概念の創設が必要になり,建国以来の移民受入れ基本方針の大転換が必要です。
トランプ氏の移民追い出しスローガンは,入れ替わり自由な(移民歓迎社会)ピープルを前提にしたgovernment・・for the peopleから、移民排斥・既存民だけのためのgovernmentへの変更宣言である以上、ピープルに2種類が生じることになります。
二種類にするには概念の変更が必須でしょうが,区別するには,区別するにたる内容実質の違いがあることが正当性・大義名分として必要ですが,これがないまま居住期間だけで区切りをつけるのでしょうか?
11月16日に書いたように日本社会の構成員・・国の民(たみ)とは郷土を同じくする「はらから」であり、ピープル・日本語約=人民とはこう言うハラカラ性を持たないものとすれば、ピープル自身が成長してしっかりした集団に(言語は進化するものです)化けて行くか、新たな集団特性を表すグループ名・・日本の「国民」のような名称が必要になるでしょう。
私の理解する日本の国民概念は、郷土を同じくするものと言う基本です・・ダム工事で村が水没して良いか、墓地移転のテーマでは、何世代にわたって住み続けた郷土を同じくする人だけが決めるべきことで移民や新参者が口出しできるのはおかしいと言う立場です。
アメリかもトランプ氏のスローガンどおりに「古くからいる人と移民や新参者」と区別するには、日本のように功利打算で来たばかり・・いつでも逃げて行く人と古くからいる人で簡単に逃げて行かない「国民」か否かで分けるべきです。
ただアメリカの場合,建国以来郷土を愛する精神教育をして来なかった・・環境無視して環境悪化すればゴーストタウンにして逃げて行く・・ビルが古くなれ爆破してしまう・・東京駅や法隆寺のようにチマチマと修理して行く社会ではありません・・のが新しい生き方のような思想教育して来た結果、(今でも環境保全に対して中国と世界1〜2位を争う無頓着な民族性のように見えます)古くからいる人が新参者に比べて郷土愛が強いとは言えません。
移民反対論を期待しながら,住み難くなっても何が何でも地元に残ってその街の復興に協力するつもりがなく,自分自身は真っ先にその街から逃げ出すつもりの人民が大多数とすれば,矛盾した自分勝手な願望になります。
先住権を保障しろと言うからには・・来たばかりの人たちと差をつけるに足る相応の愛郷心に裏打ちされる必要がありますが,アメリカの愛国心とは「郷土愛ではなく「軍旗である星条旗の元に拳を突き上げて歓声を上げる」敵対的行動を煽るためのに支配層から植え付けられた程度の浅い観念ですから,相手に要求する以上は自分ら自身も変わって行き・・新参者との違いを示して行く必要があるでしょう。
好き勝手に環境や資源を食いつぶして来た結果、残り少なくなったから仲間に入って来るな!と言うだけでは,道義的にも無理があります。
何かを要求するときには、「自分達も◯◯して頑張るから・・」と言うのが、(何か誘致するときにはそれなりの措置を講じたり,地元負担もします)普通ですが,現存ピープル自身が変身努力もしないし,出来ないとすれば,移民排斥論は論理的に無理が出て来ます。
元々功利打算で集まったに過ぎない「ピープル」であるから、そんな程度と言ってしまえばおしまいですが・・。
アメりカのこれまでの歴史を見ると名分など全く問題にしない・正義の基準は「腕力のみ」と言うやり方で来たしずば抜けた資源・経済力・軍事力を背景に無茶がそのまま通って来ましたが,今回もその一事例をつけ加えるだけの積もりでしょうか?
確かに移民排斥は相手が国内弱者ですから一方的決定も可能でしょうが,こういうことを国内外でくり返して来た結果、国力がちょっと陰っただけで世界中が言うことを聞かなくなってたキたのです。
アメリカ第一のスローガンの連呼は・・習近平氏の言う中華の栄華復活と基本心情が同じですが,栄光の復活には正義に基づく行動をすることが先ず第一でしょう。
正義など問題にせずに栄光を復活したいという場合には,相手を暴力で威圧するヤクザのような一時的[栄光」の復活しか出来ませんが,正義観念未発達の人民を抱える習近平氏もプーチン氏もアメリカのトランプ氏も後者を選択したがっているような印象を受けます。
アメリカは世界支配を得た結果、道義に基づく支配の仮面をかぶるしかなかったのですが,この役割を演じるのが重荷になって来たのです。
正義の仮面をかぶった交渉ではいつも結果的にうまくやられているこコトに対する不満・・ストレス発散を腕力によって実現したい願望が国民に渦巻いているように見えます。
中国やロシアの自分勝手・強引なやり方が性に合っているし魅力を感じるようになったのです。
無茶を通すためにプーチンのような無茶をやりたいと言うのがトランプ氏であり,これを支持する国民の願望でしょうか?
無茶ゴリ押しが聞くのは,地域大国が限界・・天下を取るとルールによる支配が必要・・自分も自分の作ったルールに縛られるのは仕方のないことです。
ルール無視をしたいとなればアメリカにとって,世界支配の地位は荷が勝ち過ぎているからその地位を下りて,地域大国に格下げしたいと言うことでしょうか?

共謀概念の蓄積(練馬事件)3

共謀共同正犯理論が出て来た頃にも、反対論者は「近代刑法の理念→実行行為した場合に限り罰する理念」に違反すると言うのが主たる理由で大論争していたと記憶しています。
私の学生時代にはこの論争真っ盛りのころで、共謀共同正犯推進論者の先生が熱弁をふるって講義していたのを懐かしく思い出すだけで、詳しい内容は覚えていません。
先生が折角頑張っていても私のような凡学生にとっては、そんな程度の理解でしたが、先生は若者に熱意を伝えれば良いのです。
近代刑法の精神に反するかどうかは別として、親分が殺人行為を末端組員に命令して殺人行為をさせた場合、親分が実行行為に全く関与しなくとも、命令した親分の方が悪いに決まっています。
これを実際に殺人行為をした末端組員よりも重く処罰出来ないとすれば、近代刑法の精神が間違っているか、近代刑法の精神の解釈がおかしいことになるでしょう。
また個人責任主義に反すると言っても、近代法が家族一族連帯責任主義から個人責任主義に転換したのは、一族どころか中韓の歴史で知られているようにいわゆる九族に及ぶ責任追及のやり方は非合理ですし、果てしない報復合戦になるからです。
この学習から戦争に勝っても負けた相手を非難しないとする、智恵が西洋で生まれていたのですが、(明治維新でも同じです)第二次大戦に限ってアメリカはこの智恵を放棄してナチスが悪いとか日本の軍国主義が悪いと一方的な価値観を押し付けたことが戦後秩序が不安定化している原因です。
犯罪に何の関係を持っていなくても、一族や九族を処罰する前近代思想の復活ではなく、実際に犯罪行為を「共謀」した主犯格だけ処罰するためのものですから、共謀罪は近代法の個人責任主義精神に反するのではなく、逆に合理化したと評価すべきです。
日本を除く先進民主主義国では近代刑法の精神に反すると言う議論・・反対論もなく共謀罪がすんなり制定成立しているのですから、「近代刑法の精神」を我が国の学者が間違って理解して来たのかも知れません。
殺人行為等を実行した末端組員よりも命令した親分を重く処罰しないと社会秩序が保てませんから、「近代刑法の精神に反する」と言う形式的反対論は実務の世界では次第に力を失って行きました。
その結果以下に紹介する最高裁(大法廷)判例で決着ががつき、(いまでも反対している学者がいると思いますが・・)以来実務ではこれを批判する人は皆無と言ってもいい状態で、事例集積が進んでいます。
半世紀以上にわたる共謀概念の絞り込みを下地にして今度は殺人行為等実行前でも、命令したことや計画が分って証拠があれば、実際に犯罪被害が起きる前に検挙して被害発生を未然に抑止しようとするのが共謀罪新設の目的です。
サリン事件や自爆テロ等の実行あるまで、計画が分っても検挙出来ないで見ているしかないのでは間に合わないと言う現在的理由です。
今回、共謀罪新設に対する「近代刑法の精神に反する」と言う主張は、昭和33年最高裁大法廷判決で決着し半世紀以上にわたって実務界でも受入れられて来た決着済みの論争を蒸し返しているような気がします。
ここで念のために共謀共同正犯に関する指導的最高裁(大法廷)判例を紹介しておきます。
以下はウイキペデイアからの引用です。

練馬事件(最高裁1958年(昭和33年)5月28日大法廷判決)
「共謀共同正犯が成立するためには、2人以上の者が、特定の犯罪を行うため、共同意思の下に一体となって互に他人の行為を利用し、各自の意思を実行に移すことを内容とする謀議をなし、よって犯罪を実行した事実が認められなければならない。
他人の行為をいわば自己の手段として犯罪を行ったという意味において、その間刑責の成立に差異が生じると解すべき理由はない。」

この練馬事件に発する判例理論は次のように整理できる。 まず、共同正犯の成立要件は次のとおりである。
共謀
共謀に基づく実行行為
そして、一部の者しか実行行為に出なかった場合が共謀共同正犯であり、その成否には共謀の成否が決定的に重要となる。
ここでいう共謀の内容は、①犯罪を共同して遂行する合意(これのみを「共謀」と呼ぶ用語法もある。)と②正犯意思(自己の犯罪として行う意思)に分けることが可能である。謀議行為は特に①の認定のための重要な間接事実ではあるが、必ずしもその認定が必要なわけではない。①に関しては、犯罪事実の相互認識だとか意思の連絡といった表現もなされるが、これらの関係は必ずしも明らかではない。
狭義の共犯との区別のために特に重要なのは②である(したがって、正犯と共犯の区別における判例の立場は主観説であると評されることが多い。)が、その間接事実としては、実行行為者との関係、動機、意欲、具体的加担行為ないし役割、犯跡隠蔽行為、分け前分与その他の事情が考慮されており、結論において実質的客観説との違いはないとも言われる。なお、近時は正犯意思という言葉(ないしそれに類する言葉)を使わずに説明する裁判例も登場しており、今後の動向が注目される。

スワット事件(最高裁第一小法廷2003年(平成15年)5月1日決定) – 共謀には黙示的意思連絡があれば足りると認めた。
ドラム缶不法投棄事件(最高裁第三小法廷2007年(平成19年)11月14日決定) – 未必の故意による共謀共同正犯を認めた。

共謀概念の蓄積(進化)2

日本に比べてこんなにも幅広いあやふやな概念しかない諸外国で、既に刑事法制化して運用処罰していること自体驚きですが、これらの国は制定後の運用の中で絞って行けば良いと言う思想でさしたる懸念・反対運動もなく法制定しているのではないでしょうか?
(いつも書くことですが、このブログは暇つぶしに書いているだけですから、反対論者が諸外国の条文や運用状況を紹介してくれないと実際の条文や弊害が分かりません・そこまで調べる時間もないので条約の文言を見て驚いている印象で書いているだけです)
米英独仏等の先進民主主義国を含む世界中の多くの国で(条約に署名しながら、国内法を制定しないで10年以上も抵抗しているのは、ごく少数です)日本よりアヤフヤな定義のママで制定運用しているとした場合(上記のとおり私の個人印象です)、世界一厳密に共謀概念を絞り込む実績のある日本に限って共謀法の濫用逮捕を懸念しているのは実態にあっていません。
この道の素人の弁護士にとっては先進国の共謀法はこう言う弊害が起きている・あるいは、日本の法案よりも緻密で乱用の危険が少ないなどの比較論が欲しいところです。
実際には法案を作ることに反対しているのでは、こうしたきちんとした意見を主張するチャンス・・法案作成作業参加の道を自ら閉ざしてしまい・比較論議が出来なくなっているのかも知れません。
秘密保護法の問題で、世界中の先進国で制定運用している秘密保護(スパイ処罰関係)法でどう言う問題が生じているか、日本の条文と先進国の条文とどのように違うかなどの比較議論が全くないまま、「危険だ危険だ」と主張するのでは外野にはよく分らないで困ると今年の3月11日「特定秘密保護法9(実定法の比較2)」前後で書いてきました。
共謀法の議論にもこれが言えます。
諸外国で弊害が生じてはいないが、日本の予定している条文が諸外国より緩いから危険と言うような比較議論があってこそ、国民は健全な判断が出来ます。
こうした比較議論が一切なく、「近代刑法の精神に反する」と言うだけでは国民・・少なくとも海外の条文(を紹介してくれないと)にうとい私は困ってしまいます。
「分らないならば意見を言うな」と言うのも1つの意見ですが、専門家は一般人相手に自己主張の正当性を主張している以上は一般素人(少なくとも市井の弁護士が日常知識で理解出来る程度)の合理的疑問に答えるべきではないでしょうか?
私にはバックに利害関係のある集団がないので、合理的なデータさえ示されて合理的納得さえできれば賛否どちらでもいいのですが、比較論が一切紹介されないままで「危険だ」と言われてもそのまま賛同することが出来ません。
このままでは法案賛否どちらが正しいかさえ分らないままにおかれて、フラストレーション状態におかれていることになります。
文化人は、いつも欧米のやり方や国連決議がどうだと論拠にするのが好きなグループですが、(監視社会・・防犯カメラに関してはドイツではこうだとかイギリスではこう言う規制があると細かな実態を報告しています・・)秘密保護法や共謀罪に限って欧米の運用状態について一切出さない・・マスコミも一切報道しない・・一般国民が知るチャンスがないままにおかれて、ただ危険だと言う宣伝だけ刷り込まれてしまう状態です。
弁護士業務・・特定の立場が先に決まっていて裁判で主張するときには、クライアントに有利な証拠だけ出して、有利な判例学説だけ引用することがあります。
これは相手にも弁護士がついていることを前提にゲームのように相互に有利な主張や証拠を出し合う対等者間の争いを前提にしているからです。
弁論主義と言って、一方当事者の主張していない主張(例えば時効になっているとか)を裁判所が職権で認定判断することはルール違反になっています。
具体的事件弁護ではそれで良いのですが、法案に対する公的意見については、朝日新聞や日弁連は、特定グループ利害の代弁者ではありません。
国民全般の利益のために主張する立場・・国民は世界中に出向いて事実調べやデータ収集能力がないのですから、中立が要請されている機関が、特定グループに有利不利の判断で合理的判断に必須の世界中の状況に関するデータを取捨選択して国民に提示している疑いをもたれると公的発言力が低下してしまう危険があります。

共謀概念の蓄積1

共謀罪の対象が全ての犯罪ではなく一定の凶悪犯だけとすれば、悪事共謀の事実が証拠で認定出来てもこの段階で処罰すべきか放置すべきかは、政治が決めるべきことです。
法律論としてみれば、この段階で処罰したり、検挙して犯罪実行を抑止することが何故人権侵害になるのでしょうか?
逮捕裁判するには厳密に絞られた共謀の事実(あてはめ)と確かな証拠がいるのは自明ですから、反対論者は確かなあてはめと証拠があっても処罰べきではない・・人権侵害のリスクがあると言う矛盾した論理で反対していることになります。
この程度のことは事実と証拠があっても処罰すべきではないという政治論を法律論の如く主張していることになります。
特定犯罪の共謀の事実があってそれを裏付ける「証拠があっても駄目だ」と一生懸命に反対している勢力はもしかして、どう言う人や集団の利益擁護をするために頑張っているのでしょうか?
恨みを晴らすためや保険金殺人のために自分に代わって殺人をしてくれる人をネットで募集するような個人もいます。
大した考えもなく何となく誘拐犯をネット募った結果、初対面同士でグループになって誘拐・殺人行為をしたグループが数年前にいました。
今回の北大生が簡単にテロ組織「イスラム国」に参加しようとしたことのハシリみたいな事件でした。
個人であっても、ネットで公開募集して犯行計画を進めている場合に、(証拠があっても)これを事前検挙抑止出来ないのでは社会が危険過ぎます。
(危険過ぎるかどうか、この程度ならば放置しておいて誘拐・殺人等の実行行為を待って処罰すべきかどうかは、国民・政治の判断事項であって法律家が専門的な意見を持っている訳ではありません)
法律家が懸念すべきは、共謀概念の曖昧さによる恣意的な検挙の危険性防止…思想信条の自由・・・内心仕返しをしたいとかいろんな妄想段階・ちょっとした冗談や世間話まで処罰されるのでは困りますので、この辺の心配を訴えるのは当然です。
法律家としては、共謀事実の定義・境界の緻密な議論と証拠論が重要です。
内心の妄想の域を超えて 具体的な計画を立て第3者を交えて計画するようになれば放置すべきではない・・共謀罪処罰対象の共謀とすべきでしょう。
要は、どの程度の意思の連絡があれば(冗談に相づちを打った程度ではなく)共謀があったと認定すべきかの学説判例の集積による分野です。
この辺は、わが国では、諸外国と違い昭和30年代から共謀共同正犯理論が学説判例上発達して来たことを無視すべきではないでしょう。
この集積の結果、共謀概念の成立要件についてかなり精密に事例が集積されていますので、諸外国よりも共謀の限界事例集積が進んでいる・・言わば共謀定義に関する先進国です。
(高齢化やデフレ現象が諸外国より早く進んでいるのと似ています)
10月22日に紹介した条約では「相談することを犯罪とする」とあるように「相談」となっていて、我が国の法律用語である「共謀」となっていないのは、我々法律家が見れば驚くような幅広い概念です。
諸外国では、日本のように50〜60年以上(後に紹介する最高裁判決が昭和33年ですから、そこまで行くには10年以上の実務があります)に及ぶ共謀概念の事例蓄積がなかったから、こう言う漠然とした用語になったのではないでしょうか?
ちなみに共謀共同正犯論は、これを最初に提唱した草野豹一郎博士の昭和7年論文と言われていますから、その後幾多の学説論争を経て、昭和33年の大法廷判決になっているのです。
当時共謀を処罰するのは近代刑法の個人責任主義や、行為責任主義に反すると主張されていたのですから、反対論の主張によれば日本だけが突出して経験を積んで来たことになります。
我が国では諸外国と違い、(上記のとおり想像に過ぎませんが・・)相談や協議や会談等の漠然としたいろんな概念の中で、このコア(中核)になる「共謀」と言えるまで厳密に絞り込まれたときに限って共謀認定して来た・・長年運用して来た実績があります。
私のように刑事事件をあまりやっていない弁護士でもこれまで共謀共同正犯事件・・どの時点で共謀が成立したと言えるかなど数え切れない程担当して来ています。
実際に殺人事件等が起きてから後追いでやって来た従来の共謀認定とは、殺人行為等実害のまだ存在しない段階での共謀認定とは方向性など違いますが・・少なくとも共謀認定の実績・事例集積がある点では諸外国とは大違いですから、既に法制化している諸外国よりも我が国の方が濫用リスクが少ない筈です。
我が国では普通の「相談」程度では法律用語としての「共謀」にならない・・充分に絞り込まれていることは、争いがないと言い切れる状態です。

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