江戸時代までの扶養1

都市住民内格差問題に話題がそれていましたが、「明治民法5と扶養義務3」 December 21, 2010 「核家族化の進行と大家族制創設 December 26, 2010」前後まで書いて来た大家族制・・意識崩壊のテーマに戻ります。
その前提として、そもそも江戸時代までは庶民にとっても大家族制であったかどうかの関心です。
ちなみに、現在一般化している「実家」と言う単語自体、明治に出来た家の制度に深く関わって出来た単語ではないでしょうか。
生まれた親の家を「実の家」とし、都会に働きに出て行った先で家を借りて、あるいは家を建てて定着していても、飽くまでそこを仮の家・住まいとする思想が前提で使われるようになった単語です。
「実家」こそ観念的な架空の家(・・具体的な建物ではない)であって、現に生活をしている都会の建物こそ本当の家・・実の家=建物です。
女性にとっては嫁ぎ先は何時追い出されて生まれた家に帰らねばならないかも知れない時代には、生家を実家と思う気持ちがなかったとは言えません。
でも古くは生家と言い習わしていたようで、今でも千葉の在の人はそう表現します。
嫁いだ後も自分の食い扶持を親元から送ってもらっていたのは大名家くらいであって庶民にはそんな余裕はありません。
女性は嫁ぎ先の家や家計を守るのにものすごく熱心で、自分の子が生まれた後は嫁ぎ先こそ実家と意識していた傾向があり家の文化伝統は女性が守って継承して行くものです。
現在の実家意識が普及したのは男まで実家を意識するようになった頃からではないでしょうか?
男が新宅を建ててもらい、農地や領土を分与してもらうと自分の出た家を本家と言うのは昔からありましたし、一族の結束の必要な時代には必要な智恵であったでしょう。
これが親から資金が出ない庶民の男が、東京等で借家に住みあるいはマイホームを持つようになってからは、戦闘や農業の一致協力時代ではなくなったので本家と言う表現が廃れて行きましたが、その代わり意味不明・・実体のない実家と言う表現が生まれて来たようです。
本家の場合、対語としての分家がありますが、実家の場合反対語としては仮住まいくらいしかないからです。
明治民法の大家族制・・家の制度創設は、上記年末26日のコラムまで書いているように大家族共同生活の実情に合わせて出来たものではなく、逆に農業社会を前提とした親族共同体(・・近隣に親族が群がって住む仕組み)の実質的崩壊開始に対する思想的歯止め・緊急弥縫策の必要性から(右翼保守層の反動的要求が強くなって)制度化された面があったでしょう。
同居していない抽象的家の制度は昔からあると思う方が多いでしょうが、これまで書いているように、江戸時代初期の新田開発ブームが止まった中期以降、庶民にとっては少子化(一人っ子政策)の時代でしたので、余った弟妹はいわゆる部屋住みで家に残るしかないと想像する人が多いようです。
しかし、農民の多くはワンルームの掘っ建て小屋に藁を敷いて住んでいましたので、こんな小さな家に成人した弟妹が死ぬまで同居することはあり得なかったと思われます。
戦後農地解放と食糧難の結果、農村には一時的なバブル景気があって貧農の多くが・旧地主層のような大きな家に(長年の夢を叶えて)建て替えたので、今では農家=大きな家と誤解する人が多いですが、この立て替え前の掘っ立て小屋みたいな家を多く見て来た世代に取っては、これは戦後の一時的現象に過ぎないことが分ります。
私は司法修習生として宇都宮で実務修習を受けたので昭和40年代半ば過ぎに1年半の修習期間中宇都宮市に移り住み、宇都宮市郊外の雑木林の中に点在している家に住んだことがあります。
この時期に、休日に周辺を良く散策したものですが、まだその辺には江戸時代の系譜を引くかのようなワンルームの掘っ立て小屋的藁葺き農家の家がかなり残っているのに驚いたことがあります。
私は戦災の結果、関西の田舎で幼児期を過ごしたのですが、関西では早くからこうした掘っ立て小屋は殆ど姿を消していましたが、たまたま私の育ったところは水田地帯だったので戦中戦後の食糧難時代に良い思いをしたから早くから姿を消したのではないでしょうか?
今考えれば昭和20年代末頃の記憶ですが、ともかく当時は私の住んでいた集落付近では、普請(新築)ブームであったことは覚えています。
(当時の上棟式には必ず餅撒きがあって、子供心に楽しかったからです)
こうしたブームにも拘らず時流に乗れない人もいたらしく、私の幼児期の頃にホンの僅かですが建て替えも出来ないままに掘ったて小屋のままに残っていたのが記憶に残っています。
私の現在住んでいる周辺でも、時代に合わせて建て替えが進み少しずつ入れ替わっていますが、それでもまだ昭和30年代や40年代頃に一般的だった外装の家が今でも結構残っています。
このように変化の激しいJR千葉駅周辺でも発展不均衡が普通ですので、高度成長から取り残されていた宇都宮の郊外雑木林の中に点在する農家には、昭和40年代でも掘っ立て小屋風の農家がまだ残っていたのです。
藁葺きの家と言うと大きな屋根を想像する人が多いと思いますが、それは元庄屋などの大きな家が民家園その他で残っていて、写真や絵画などで良く目にするだけの話で圧倒的多数はワンルーム・・今で言えば馬小屋程度の小さな掘っ立て小屋に藁で葺いた物でした。
私だって妻と散歩中に雑木林を背景に立派な農家があると写真に写したくなるものですが、みすぼらしく汚らしく(家の周りも片付いていません)住んでいる掘ったて小屋を写真に写したり絵描きが書いたりしないから残っていないだけの話です。
上記が現実であって庶民にあっては、部屋住みさせる余分な部屋などあり得ません。
以上のとおり、庶民にとっては江戸時代の昔から核家族しかなかったのですが、農業社会では周辺に互助組織として親類縁者が群がって住む必要があったに過ぎません。
部屋住みと言う用語が幅を利かしていますが、それは人口の比率で言えばホンの少数である大名や大身の武家を前提にした話(物語では主人公がこの種豪族系が中心になることが多いからです)でしかありません。
俗にいう300諸候と言っても僅か300人の家族のことです。

核家族化の進行と大家族制創設

クリスマス特番から12月22日のテーマの続きに戻ります。
明治維新による開国・・近代工業社会化への幕開けに応じて都会での就業機会の増加や炭坑・製鉄や造船・繊維工場などの労働力として田舎の家を出てしまった息子や娘が、田舎の親の家・遺産を当てにしなくなったと言えば、明治時代と似たようなことがここ数十年繰り返されました。
以前不動産市場のテーマで05/01/03「プロとは?2」に書いたことがありますが、都会でも我々よりちょっと上の世代はまだ親の家を相続するのを楽しみにしていた時代でしたが、親が長生きするようになってくると、平均的経済力のある人は親の家を相続するまで待てないので郊外に自分のマイホームを買ってしまう人が増えました。
長寿化が、長男夫婦まで別居・核家族化を進行させた原動力でした。
(このためにどこでも宅地需要が一時的に2倍に増えて郊外に市域が広がり活況を呈していたのでは、(宇都宮を再訪したときに僅かな期間に市域が2倍近くに広がっていることを紹介したこともありますが、こうした特需によるものでした)
親が90代になって漸く亡くなっても、息子世代では最早郊外の自宅で根を張ってしまっているので、市中心部の親の古家は売却する方向に行くのが普通です。
この理は、地方から出て来て都会に自宅を保有してしまった人が、60代になって90代の親がなくなっても田舎の家の相続をするために田舎に帰りたい人が少なくなっているのと同じです。
これからは都市中心部の土地放出が増えるので、(市中心部の再開発が中心になり)郊外の宅地開発業・デベロッパーは成り立たなくなると言う意見を、昭和末頃から不動産業者に説明していたことがあります。
男性だけではなく都会に出た女性も、江戸時代と違って都会に出た男性ときちんと結婚出来る時代になったので、姉が死亡したら姉の夫の後添えになれる期待はなくなりました。
次世代が親の遺産を当てにしなくとも自分で稼げるようになった明治以降は着実に実家離れ・・共同体意識の希薄化が進んでいたことになります。
江戸時代には帰りたくとも盆と正月しか親元に帰れなかったのですが、明治以降の所帯持ちは盆と正月しか帰りたくないように意識が逆転し始めたのです。
現在では毎年帰るのはきついと思っている夫婦が大半でしょう。
明治時代(明治31年法律第9号で民法成立)に大家族制の家の制度が法で定められたので、このときが実態として最大の大家族社会だったかと誤解しがちですが、明治も30年代になると逆に親元に頼ることがなくなり始めていたのです。

核家族化と大家族制の創設1

戦国時代までのように多くの子供を産み育てる場合、信長が兄弟で戦ったことが知られていますし、そもそも古きを尋ねれば源平合戦の始まりである保元の乱が藤原氏の兄弟間の争いに端を発し、応仁の乱も畠山兄弟間の争いから起きたことですし、(上杉家の家督争いも有名です・・)兄弟間の相続争いが起きてくる率が高まります。
徳川家の場合家光の相続に関連して春日局の活躍で、長子相続がルール化され、これが各大名の世代交代の承認のルールにもなって行ったので、ひいては大名家家臣・武家の相続にも及んでいましたが、相続の承認制度のない庶民の相続形態は前回書いたとおり、実情に応じて様々のままでした。
明治政府としては、庶民に対して子沢山奨励策をとり、大きな家の制度を構想すると庶民にもその家の財産管理権とその相続のルールを国で決める必要が出て来たのです。
そこで、法(国家権力)で戸主の財産管理権(家督相続)を決めざるを得なくなり、戸主に財産権集中を決めたセットとして構成員に対する扶養義務も法定せざるを得なくなったと言えます。
ところで、明治時代に観念的大家族制が創設されたのは、子だくさんの実情に合わせて実際に大家族家庭が多くあったからではないかと思われ勝ちですが、大家族制・・・兄弟姉妹の家族まで実際に同居する大家族形態がこの時に始まったり、あるいはその前から続いていたのではありません。
むしろこの時に親族共同体が崩壊に向かいつつあったからこそ、(醇風美俗を守るために?)この制度が出来たとも言えます。
江戸時代でも二三男や嫁に行き損ねた女性などが、働きに出るところがないからと言って、全員無宿者として放り出されたのではなく居候としてそのまま居着いていた人が存在した・・親としては可愛い子供を(のたれ死に前提で)放逐するのは耐えられないことですから、養える限度まで努力していた筈です。
厄介については、04/02/05「夫婦別姓21(子沢山と家父長制の矛盾1)厄介者」のコラムで紹介しましたが、これが居候とか厄介者と言う熟語が残っているゆえんです。
この場合でも、ワンルームの掘っ立て小屋では成人した弟妹を抱えるのは無理ですから、一定規模以上の家に限られ、それでもせいぜい一人か二人に過ぎず、しかも彼らは結婚しませんので、1代限りで末広がりに大家族になることはなかった筈です。
厄介者を抱えるのはひと世代で懲り懲りですから、次の世代以降は一人っ子に成功する確率が高くなりますので、厄介者を抱えている所帯は一つのムラで1所帯あるかないかだったでしょう。

核家族化と子育て

ここからは、養育料支払義務の前提となる婚姻費用分担義務制度が生まれて来た時代背景は何かの関心で書いて行きます。
養育料支払義務の法的構成は2010-4-6−1「母子一体感3(養育料3)」前後で書いたように、元々子育ては未熟な期間が長い人類では母親独りの手に終えないことに起源があることが明らかです。
これを人類は女性集団で面倒を見る古代社会から、氏族社会・大家族制での大家族内での女性集団あるいは親族共同体が近接して何世代にもわたって重層的に住む社会を順次構成して、冠婚葬祭・出産・介護その他夫婦あるいは親世代の援助だけでは間に合わないときには女性同士で助け合う(これは古代からの基本的インフラです)社会を経験して来ました。
ところが産業革命後都市への人口移動が始まると当然のことながら、上京した若夫婦には近くに親戚がいない(身寄りや同郷人を頼って行くものでしたが・・・それにしても糸一本わずかに繋がっている感じです)上に核・小家族化の進行ですから、(親世代は田舎に残っているので、都市住民1世は当然核家族になります)親族や親世代の助け合い関係が消滅して行き母親の孤立化が進行します。
社会の近代化=都市生活化に連れて小家族または核家族化が進行し、大家族制あるいは地域社会の崩壊による子育ての外延的枠組み崩壊が進行するのは必然です。
ちなみに、地域社会崩壊が言われて久しいですが、何世代にもわたって同一地域に住んで来たことによって親族関係の入り組んだ関係や仕事での共同関係があってこそ、地域社会が機能するのです。
赤の他人ばかりでしかも遠くに働きに出ていて地域内で共同して働いていない・仕事その他お互いに何ら接点のない人が砂粒のように住んでいるだけで、同じ地域に住んでいると言うだけでは昔のような一体感を期待するのは無理があります。
現在地域活動を担っているのは地域内で営業している業者が中心になっているのは彼らが金儲けのためと言うだけではなく日頃から地元で働いていて共同体意識が育まれているからです。
近くに親族もいないで、隣人同士無関心のママ放っておくと子育ては母親独りに委ねることになってしまいますが、それが無理であるからこそ古代から女性同士の助け合いが発達して来たのですから、その補充のためには社会・政府による責任制度へ移行するしかなかったのです。
近代国家・・流入都市住民の増加が大家族・親族共同体による母子支援を不可能にした以上は、母子の(経済だけではなく子育て支援を含む)生活保障に関する社会制度整備が完成するまでは、その担い手として当面身近にいる父親(血統重視)の責任とする前々近代的手法による思想教育に求めるしかなかったと考えられます。
November 8, 2010「子育ての意味」 のコラムで 里子制度を少し書きましたが、本来血縁に関係なく博愛精神?で社会的に子育てに協力すべき方向へ行くしかないのに、その思想を含めたインフラ準備が間に合わないので、(今のペットブームはその代替・補償作用です)その逆に血縁重視に舵を切っていたと言えます。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC