小池氏の都知事選で手足となった両都議の略歴

上田都議に関するウィキペデアの略歴です
2005年、東京都議会議員選挙に千代田区選挙区から出馬したが、現職の内田茂自由民主党東京都連幹事長に敗れ、落選した。2007年、江戸川区議会議員選挙に無所属で出馬し、初当選した(44人中6位)。2009年、みんなの党の結党に参加し、2011年の江戸川区議選ではみんなの党公認で出馬してトップ当選を果たした[7]。2012年、江戸川区議を2期目の任期途中で辞職し、第46回衆議院議員総選挙にみんなの党公認で東京16区から出馬したが、自民党新人の大西英男、日本維新の会前職の中津川博郷の後塵を拝し、得票数3位で落選した[8]。
2013年、東京都議会議員選挙に江戸川区選挙区(定数5)からみんなの党公認で出馬し、得票数4位で当選した[9]。当選後間もなく、東京都議会のみんなの党会派の幹事長をめぐり、上田、両角穣、音喜多駿、塩村文夏の4人の都議の会派異動届が野上ゆきえ都議により提出されたため、会派は分裂し、上田を含む4人が新会派「みんなの党」を結成した[10][11]。2014年、みんなの党が解党し[12]、都議会会派の名称が「かがやけTokyo」に変更された後は、同会派幹事長を務める。翌2015年3月7日、地域政党「自由を守る会」を設立し、代表に就任した[13]。同年、地域創生型の地方分権改革による議会改革を全国で実現をするため、全国各地の地域政党の連絡協議会である地域政党サミット(全国地域政党連絡協議会)を設立し、副代表に就任した[14]。
2016年7月、音喜多駿に代わり都議会会派「かがやけTokyo」政策調査会長に就任した[15]
2017年1月23日、所属する会派「かがやけTokyo」は「都民ファーストの会 東京都議団」に名称変更し、同時に2017年夏に予定される都議会議員選挙における地域政党「都民ファーストの会」の1次公認候補となった。同時に、自身が代表を務めていた地域政党「自由を守る会」の代表を退任した[4]。

音喜多議員に関するウィキペデアによる略歴です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3%E5%96%9C%E5%A4%9A%E9%A7%BF
2013年、東京都議会議員選挙に北区選挙区(定数4)からみんなの党公認で出馬し、得票数は最下位の4位ながら、初当選を果たした[5]。当選後間もなく、東京都議会のみんなの党会派の幹事長をめぐり、音喜多駿、両角穣、上田令子、塩村文夏の4人の都議の会派異動届が野上ゆきえ都議により提出されたため、会派は分裂し、音喜多を含む4人が新会派「みんなの党」を結成した[6][7]。2013年9月、会派「みんなの党」政策調査会長に就任した[8]。2014年11月、みんなの党の解党が決定され[9]、会派が「かがやけTokyo」に改称された後も引き続き政調会長を務めた(2016年7月で退任[10])。
2015年1月、みんなの党所属の参議院議員だった松田公太を党首に結党した日本を元気にする会に参加した[11]。同年11月23日、シングルマザーだった江東区議会議員の三次由梨香と入籍し、三次の7歳の長女との養子縁組を行った[2][3]。2016年1月、「日本を元気にする会」に離党届を提出し、以後は無所属で活動する意向を表明した[12]。2017年1月23日に所属する会派「かがやけTokyo」は「都民ファーストの会 東京都議団」に名称を変更し、その幹事長に就任。同時に、夏の都議会議員選挙における地域政党「都民ファーストの会」の1次公認候補となった[13]。地元の北区選挙区は東京都議会自由民主党の幹事長を務める高木啓が盤石な地盤を持っていたが、前回より大幅に得票数を伸ばしてトップ当選した[14][15]。同年7月22日、選挙後の役員人事を受け都民ファーストの会 東京都議団の幹事長を退任[16]。
2017年10月3日、小池百合子東京都知事(希望の党代表)の国政関与は政治姿勢として疑問がある、という理由で、上田令子とともに都民ファーストの会を離党することを表明し、10月5日に記者会見を行った。その後、会派「かがやけTokyo」を上田都議と2人で設立した[17][18]。

上田/音喜多両名の経歴を見ると素人野心家が小池フィーバーに乗って出てきたのではなく、その前から相応の政治経歴を有していて、都政に関する政治意見・理念を持っていたように見えますし、小池氏を盛り立てることによる理想の政治実現を夢見て、小池氏を応援してきたイメージが伝わります。
政治の現場では希望の党の設立につれて多様な政治的立場の政治家が参加するようになあると、当初理念が薄まって行くのは避けられません。
多種多様な意見の人がどっと入ってくると、当初の数人〜10数人規模のグループで作り上げた理念・カラーを守るのは不可能になります。
規模急拡大組織にはつきもののジレンマですが、こうした場合総大将自身は急拡大に比例 して対外交渉が拡大して多忙を極める結果、草創時の仲間に自分で目配りする暇はありません。
古来大成した政治家にはこれをフォローする役割・・秀吉の場合で言えば弟秀長や妻などが穴埋め役をやって行くのですが、小池氏周辺にはそのような役割を担う人材がいなかったのでしょう。
先日司馬遼太郎原作の「関ヶ原」という映画を見てきましたが、映画では若い三成が老練な家康に手もなく捻られていく様子が出ていましたが、私は周辺人材の厚さの違いが大きかったような印象を抱きつつ見てきました。
家康には手足となって政治工作をしてしてくれる老練な家臣が多数いたのに対して、新興の石田三成には先祖からの家臣がいない・・臨時召しかかえの島左近一人しかいなかった点が大きな違いでしょう。
今回の小池フィーバーの失速は、政治判断としては合流計画失敗が国民の支持を受けなかった点にありますが、人材面で見れば、(根拠不明ですが・・)世上いわれていた「人望がない」と言われる弱点がソノまま出てしまった印象です。

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