2項対立社会像と日本1

GHQが描いた支配図式・・戦争加害者=軍人超国家主義者VS被害者=人民という分類は日本人の大方には受け入れられていません。
進歩的文化人?に誘導される革新勢力の民族のあり方についての立場は、GHQ・背後の米国政府が軍国主義者と被害人民対立を誘導し、中ソの主張する資本家に搾取される労働者、政府VS人民の対立図式をそのまま迎合して敗戦後影響力を拡大したグループです。
もともとどこの社会や組織にも一定率の不平不満層がいるものですが、それが敗戦→不平を煽る米ソ双方の応援政策によって一時的に力を得たということでしょう。
これが朝鮮戦争開始まで(同床異夢)目的を一にして影響力を拡大してきたのですが、朝鮮戦争以降米国が対ソ競争に協力させる方向に対日方針が変わると支持母体に亀裂が生じ、再軍備反対〜全面講和と部分講和論の対立となり、政治的には左右両系乱立政党の大同合併・・自社2大政党制・55年体制確立→これが支持層の分裂に及んだのが60年安保騒動後の(清水幾太郎に代表されるような)分裂です。
安保騒動を機に、反日運動の戦術論として、従来の真っ向からの共産主義賛美(地上の楽園論)では国民支持を得られなくなったので、米国の民主主義理念に乗っかって(悪用?)手続き重視論・議事妨害戦術に高等戦術・日本の成長阻止に切り替えたように見えます。
一時この戦術の功があって、社会党が国民の支持を得ていたこともありましたが、学者だけでなく庶民が自由に海外に行き生のアメリカを知るようになると、次第に「欧米では・・」という進歩的?意見の御利益が下がってきたのがこの数十年の流れです。
このようなずるい戦術についていけない純粋左翼は極左化して行きますし、選挙の洗礼に晒される政治家は、本音・共産主義化の良さで政策主張をやめて民主主義運動を表看板にして「十分な審議時間がなかった、強行採決は民主主義否定とか、資料不備や失言暴言?を捉えてはこれの責任を取らない限り審議に応じられない」という議事妨害政党化して現在に至っています。
今でも民族内対立を煽る中国の戦略に呼応する日本人は極く少数になってきたので、靖国神社参拝に中韓がこだわり軍国主義復活を煽っても、米軍に日本人共通の先祖を辱めれた古傷をえぐられるようで日本人大方が却って不快感を持つ所以です。
軍国主義者と被害人民という民族分断論は無理になったので、自民党内の分断に力を入れ始めたようで、最近では「安倍政権による憲法改正は許さない」というスローガンが広がっています。
昨年夏頃の総選挙前には(自民党はいいが)安倍政権は良くないという変なスロガーガンが出まわりました。
民族全体を支配被支配に分ける分断政策がうまくいかなくなったので「安倍政権」だけが良くないと焦点を絞った・自民党内の分断を狙ったようですが、やり方が古すぎるように見えます。
明日政党等の支持率を紹介しますが、自民党支持率よりは内閣支持率の方がたかいので無理な主張でしたから、野党は大敗してしまいました。
日本企業はもともと村落共同体の延長意識・・構成員の生活を守るのが第一です。
民族の心構えがイザという時にためらいなく出たものです。
それが行き過ぎて国際標準?から見て株主軽視あるいは社会公共の利益を軽視していないかの批判が起きている状態です。
そうした反省によるメセナ活動も長期的には企業イメージを高め結局は企業存続・従業員を守るためです。
・・全従業員が大事な客とその周りの社会の支持を受ける必要を感じて社会・公益重視に精出しているのが日本企業です。
大震災等があるとコンビニが無料で商品解放したり、食品大量輸送をしたりするのは経営者が従業員を仲間としてみているだけでなく、地域住民をも助け合う仲間として意識しているからでしょう。
欧米の法制度が導入されているので、法制度上会社は株式保有者のもので、社員とは会社設立に参加した者・その後にその株式を譲り受けたもの・・出資者・株主のことを言い、そこで働く者は対象・・資材設備同様のコスト扱いで「被」雇用者あるいは従業員と呼ばれます。
しかし、明治維新以降150年経ても多くの人が「うちの会社」と言い、自分のことを社員という呼称が定着しているのは、「村落共同体は村長の私有ではなく村民みんなのもの」という意識が勤務先は「自分の会社」という意識がそうさせるのです。
また正社員になると「自分の仲間」であり、非正規は「よそ者」が臨時に応援しているだけという意識差別が大きな問題になります。
戦後国民を意図的に「人民」というグループがいますが、この思想背景には「搾取されるもの」という意味が含まれていますがこれが定着しないのは、日本社会に合わない意味を無理に押しつけようとするからです。
戦いにおいては部下が最も危険な最前線で戦いますが、指揮者がいなくなると全体が総崩れになるから指揮系統を守る必要があるからであって、負けが決まれば戦いの指揮者不要なので今度は城主の方が自分の命を捨てても兵の命を守るのが原則です。
城が落ちる時に城兵一同の助命と引き換えに城主が腹を切るルールは上記思考に基づいてます。
天皇が、マッカーサーとの会談で天皇陛下が自分の生命にこだわらないという覚悟を示されたのは日本
一旦法手続きが決まると世の中が変わっても昔の捜査手法しかできない・新たな社会に適応した捜査手法実践のための法改正をしようとすると、まず反対して改正を引き伸ばしを図る・・その間社会が停滞する仕組みです。
泥棒や強盗殺人そのものは昔と同じでも、現場へ向かい、現場からの離脱が高速化・広域化していき、テロ行為の手口が巧妙化し高度科学技術を駆使するようになっている以現在、迅速に捜査し証拠を確保するためには19世紀型の紙媒体の令状主義ではどうにもならない時代が来ていることは明らかでしょう。
社会変化によって法制度が現実に合わなくなってきたならば、「法網をくぐる者を許さない」ように、何とかできるように法制度を工夫をすべきではないでしょうか?
法網をくぐる者に対する対策というより「働き方改革」でも何でも同じですが、世の中はどんどん変わりますので、ルールもそれに合わせて変えて行かないと時代の変化に追いついて行けません。
どんな制度も機械類も運用してみる不具合が出て来るものですが、それを煽って反対ばかりしていては何事も始まりません。
例えば代表的政策でいえば、非武装平和論の理想を言うばかりで現実対応案が全くない・公害反対も同じで対案がなく操業停止を求めるばかり・・沖縄の基地で言えば航空機部品が落ちれば飛行禁止を求めるなど今も同じです・・。
飛行機に限らず車でも医療行為でも電車でも一定率の事故・・不具合が起きるものですが、何か失敗がある都度操業停止を求めていたら何の産業も成り立ちません。
大事故・大規模な食中毒事故が起きた場合には5日〜1週間の営業停止処分がありますが、すべてミスの程度と結果の兼ね合いです。
沖縄基地問題では飛行機部品が落下したとか不時着した程度で(不時着でなくその前段階で安全策として燃料タンクを人気のないのを確認してから水面に事前投棄したということのようですが・・。

民主主義のルール・手続き重視論2と違法収集証拠排除論1

例えば警官がスピード違反して追いかけたり、追跡中に犯人が逃げ込んだ他人の(塀で囲まれて門が開いている)敷地を通過してその裏の路地に逃走するような場合に、警官が(他人の敷地に入るのが違法だからと遠回りしていると逃げられてしまう)一緒に踏み入って庭を横切ってその先の路地で逮捕したからといって逮捕が無効違法になるべきではないでしょう。
それぞれに緊急事態に対応する法令(パトカーでサイレンを鳴らしていれば信号無視できるなど・住居侵入は「正当理由」)があれば済むことですが、新規分野でまだそう言う手当の法令ができていない不備の場合に臨機応変の法令違反行為があれば、そのような検挙が許されないかということです。
福島原発事故では、現地所長が東電首脳部による現状無視の指示を無視して臨機応変の果敢な処置をして過酷事故発生を防いだことが知られていますが、国民は首脳部指示無視の法令違反と日本国滅亡の瀬戸際に瀕するリスクから、救った所長判断のどちらの方に正義があったかを知っています。
まだ例外を認める法令がないのに、現場判断でやったことが仮に違法であるとしても、違法の程度が重大でなければ、その法令違反(パトカーが信号無視できる法令がまだない場合を考えると、逃げる犯人が信号無視で突っ走った場合にパトカーも(横から来る車がないときに)信号無視で追いかけた場合)ですが、そのために事故が起きたか実害が起きていないかだけで処理すればいいのであって、違法な逮捕が許されない・・その後の手続き(逮捕によって得た指紋や自白その他の証拠を裁判に使えないか?)一切を無効にする必要はないでしょう。
(上記で言えば住居侵入で処罰するべきか否か・・この例の場合には、「正当な理由」が認められるでしょうが、庭だけでなく家の中まで無断で入れば行きすぎでしょうがそれでも)その犯罪の成否に関係がない以上その犯人を無罪にする必要までないでしょう。
最近の最高裁判例で言えば、GPS捜査はプライバシー侵害の危険性が高いから捜索差押え令状手続きが必要である→違法捜査と認定され、その捜査によって得た窃盗犯罪実行の証拠が否定されたように記憶しています。(時間がたったので正確な記憶がありません)
https://news.yahoo.co.jp/byline/maedatsunehiko/20170316-00068741/からの引用です。

警察が捜査対象者の車両に密かにGPS端末を取り付け、その位置情報を把握するGPS捜査。最高裁は、その法的論争に決着をつけた。しかも、今後の犯罪捜査に深刻な影響を与える厳しい内容だった。公開されている判決文(詳細はこちら)を踏まえ、その理由を示したい。
捜査対象者に気づかれないように注意しつつ、密かにその生活圏内に近づき、行動を内密に把握する、といった観点からすれば、尾行や張り込みと全く同様だ。
現に警察は、GPS捜査をそれらの延長線上のものと見ており、捜査人員や予算が限られる中、そうした古典的な捜査手法に代わる有効な手段だととらえてきた。
その上で、基本的に路上を走行する車両の位置情報を把握するだけであり、個人のプライバシーの領域に深く踏み込むわけではないとして、尾行や張り込みと同様、裁判官の令状は不要である、という立場を堅持してきた。
検察も同様のスタンスだった。
今回の事件でも、警察は被告人や共犯者らの承諾はもちろん、裁判官の令状も得ない状態で、約6か月半にわたり、被告人らの19台の車やバイクにGPS端末を取り付け、その位置情報を把握していた。
今回の一審、控訴審も、被告人を窃盗罪などで有罪とする結論自体は変わらなかったが、大阪地裁は令状なしのGPS捜査を違法とし、高裁は今回のケースだと重大な違法性なしと判断するなど、全く異なっていた。
これに対し、最高裁は、まず次のとおり、GPS捜査と尾行や張り込みとの関係について、警察・検察の見解を全否定した
「GPS捜査は…その性質上、公道上のもののみならず、個人のプライバシーが強く保護されるべき場所や空間に関わるものも含めて、対象車両及びその使用者の所在と移動状況を逐一把握することを可能にする」
「このような捜査手法は、個人の行動を継続的、網羅的に把握することを必然的に伴うから、個人のプライバシーを侵害し得るものであり、また、そのような侵害を可能とする機器を個人の所持品に秘かに装着することによって行う点において、公道上の所在を肉眼で把握したりカメラで撮影したりするような手法とは異なり、公権力による私的領域への侵入を伴う」
「憲法35条は、『住居、書類及び所持品について、侵入、捜索及び押収を受けることのない権利』を規定しているところ、この規定の保障対象には、『住居、書類及び所持品』に限らずこれらに準ずる私的領域に『侵入』されることのない権利が含まれる」

民主主義のルール(手続き重視論と議事妨害)1

大臣や担当官僚の発言を撤回しないと審議に応じないという審議トップが多いですが、大臣の説明を求めるのは法案趣旨明瞭化のためですから、「その発言であれば法案の趣旨はこういうことになるのでそういう趣旨の法案であればこういう問題点があるので反対」と争点が明確化した点を捉えてその争点化に対する国民支持に自信があるならば国民に提示して国民判断を仰ぐのが民主的です。
大臣が発言を撤回したら法案から大臣発言のような、危険な解釈運用余地がなくなるということでしょうが、その程度の効果ならば、「こういう解釈運用される危険があるが、どうか?」と質問して大臣から「こういう解釈運用を考えているので心配いりません」と答弁を引き出せば足りることで、失言騒動→撤回に追い込んで得意になる必要がありません。
もともと国会で議論をしていってより良い法律に仕上げていく前向きな気持ちがないことを表しています。
失言を引き出したのが成功であれば、「〇〇発言でこういう危険な法律であることがわかった」と国民に宣伝し国民判断を仰げ良いことですが、それをしないで大臣が発言撤回しない限り審議ストップとは意味不明です。
革新系野党は、審議ストップ・議事妨害が自己目的化していて、「こういう乱暴な発言に対する審議ストップならば、国民批判が野党にこないだろう」という視点優先の国会戦術と見られます。
連携しているマスメデイアがこれに呼応して囃し立てる風潮が安保騒動以来続いています。
我々証人尋問で敵失発言があったときに、得意になってそれ以上深追いしないですぐに尋問を切り上げて敵失証言を早く確定させて裁判所の判断に持ち込むみたいのが原則です。
敵失の補正がないうちに結論に持ち込んだ方が有利に決まっているのに、敵失の「発言撤回」や資料補正しない限り審議に応じないというのでは、野党が問題視している大臣発言あるいは資料ミスがあってもその程度絵は国民の支持がひっくり返らない・・逆転するほどの敵失ではないことを自己証明していることになります。
失言と騒いでいるものの多くは「〇〇がそんなことを言って良いのか」と言う問詰型で、実態は揚げ足取りに終始している印象です。
それを理由にしての法案反対では国民支持が得られないが審議ストップ程度は大目に見てもらえるだろうとの読みを前提にしているとすれば、「法案反対だから審議に応じない」ということを言い換えているにすぎません。
ところで意見が合わないから審議に応じないというのは、自分の意見は「自分の国をより良くしたい」意見ではないからではないでしょうか?
目的を共通にする限り、議論を尽くせばより良い結果(正反合の止揚効果)が出てくるし、相手の方が自分よりよく考えているとわかった場合、合理的議論では引きさがるのが普通の結果です。
目的を共通にしない場合、例えば「旅行に行きたくない人」と旅行先についてどこがいいかの議論を尽くしても方向性が違うのですから、良い結果が出るわけがありません。
意見相違を前提にした議論を尽くしてより良い結果を目指す民主政治とは、「自分の住む社会をよくしたい」という共通目的があってこそ成立するものであって、「自分の住む社会よりよくしたくない」人といくら議論しても・・旅行に着たくない人相手に相談しても行きたくないと言わずにケチをつけている相手の本音が分かれば分かるほど対立が深まるばかりです。
話せば分かるどころか、かえって相手の底意が見えてきてしまいます。
審議拒否や議事引き伸ばしを目的にしてできるだけ審議に応じないのは、ちゃんと言えるような独自意見が元々ない・・どうせならば、「日本のためになる政策遂行の意欲がない」という後ろ向き運動でないのかの疑問が生じます。
一般的な各種会議では、会議中に資料ミスが分かっても次回までに整備した「資料を提出してください」ということでその日はその資料なしでも進められる内容について先に議論を進めるのが普通です。
ところが、60年安保以降の国会では、政府提案に対して野党は反対の為の反対・・あら探しをしている印象で国をどうするかの野党の展望を示されたことがありません。
今国会の働き方改革では、厚労省の資料不備があったというだけであって、では「野党がとしてどういう労働政策が良い」の意見が見えてきません。
国会での審議拒否運動と並行して憲法論→刑事訴訟法分野でもデュープロセス論が重視され、内容無視で手続き重視論が主流になっています。
以下の通り昭和35年の安保騒動の翌年・昭和36年(15人中15名)頃から我が国で有力になってきた法理論です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%95%E6%B3%95%E5%8F%8E%E9%9B%86%E8%A8%BC%E6%8B%A0%E6%8E%92%E9%99%A4%E6%B3%95%E5%89%87

違法収集証拠排除法則
排除法則が、日本の最高裁判例 で採用されたのは、昭和53年(1978年)からのことである。
それまでの判例は、押収物は押収手続が違法であったとしても物自体の性質、形状に変異を来すはずがないからその形状等に関する証拠たる価値に変わりはないというものであった (最判昭和24・12・13[1])。
しかし、学説上は、アメリカ法の影響を受け、少なくとも収集手続に重大な違法がある証拠の証拠能力は否定すべきとする見解が有力になっていた。また最高裁昭和36年6月7日大法廷判決では、15人中6名の裁判官が反対意見として、理論的に違法収集証拠排除法則を認めた。下級審においても、違法収集証拠排除法則を肯定する裁判例が増えてきていた。このような状況の下、最高裁は昭和53年9月7日第一小法廷判決において、排除法則を理論的に認めた。

違法収集証拠排除原理も手続き重視論の一つですが、人権擁護・違法捜査根絶の目的のために必要な戦略かもしれませんが、拷問その他悪質な場合はその通りでなるほどと共感したものですが、違法かどうかの判例も決まっていないような境界事例でもで何でもたまたま非合法と後日判定されると違法捜査のレベルに関わらず、一旦違法であると認定すれば証拠能力ゼロにしてしまうとすれば行き過ぎではないでしょうか?

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