観念論の弊3(財政赤字論)

金貨・貨幣が決済用に用いられるようになると材質は問題ではない・・本来は数字の問題でしかない・紙切れ(日銀紙幣)どころか電子記録(フィンテック)でさえも良くなっているのを見れば分ります。
元禄当時平和な時代が続き日本経済が拡張期(元禄文化)にあって,貨幣発行の基礎になる金に見合った金貨だけでは膨張して来た貨幣経済・必要な貨幣供給(折柄金産出量の減少に見舞われていました)が間に合わなくなった・・実態経済の需要に合わせる勘定奉行荻原重秀の政策が合理的だったと思われます。
言わば客が殺到してスーパーのレジ機に客が列をなしているような時代です
レジ機(決裁手段)が足りなければ増設を迷う必要はありません。
この原理が分らずに(今の財政赤字悪政論同様に)古代意識・儒学(とどう言う関係もないでしょう・・古代からの価値観を踏襲しただけ?)道徳だけを適用したのが新井白石の政策でした。
金の含有量を元に戻したので,貨幣量がヘリ,(貨幣の信用が戻ったと言うのですが・・)結果的に大デフレになって大変なことになりました。(ただし私の素人判断です)
金そのものを取引対象・商品としている場合,含有量を偽り、その他各種品の品質をこっそりと落として同じ価格で販売するのは、今でも不道徳です。
貨幣取引の歴史を素人的に遡ると,直截自分が欲しいものとの物々交換から,他の人が共通に価値を認めるものを代わりに受け取ってその後に知人と更に交換する→より多くの不特定多数人が交換に応じそうな金や銀が媒介物としての利用から始まった→原初金貨時代には,金そのものの物質的価値が99%重要であったでしょう。
政治権力が生まれて権力が金貨の価値が保障するようになると取引に当たって,その都度の品質確認作業が不要になって交換経済が円滑化します。
今でも銘柄の信用があると個別に味や品質確認しなくとも良いので円滑です。
こう言う時代には金貨の信用保証が重要なことで政権にとっても死活問題であったことが分ります。
いわば、金が金貨となり純粋決裁手段になる前の未分化時代・・これが貨幣の改鋳(含有量誤摩化し?)を非道徳視する基礎だったでしょう。
取引対象・商品として金と流通決裁手段しての貨幣との未分化状態の古代においては含有率を偽らないことが(秦の始皇帝の時代に権力背景に度量衡制度が始まったように)金貨のブランド維持・・王権による発行権独占に必須であったことは分ります。
現在でも大手企業が商品の品質維持に腐心するのと原理が同じですが、金が貨幣となり決済手段に使われるようになると約束事の世界・・誰でも交換代用に使ってくれれば良い・・紙切れでも良いのですから,金の含有量の程度は公表さえすれば関係がありません。
経済活動が活発化して,貨幣が決裁手段としての比重が高まり純化してくると決裁手段が金でも紙切れでも同じ・・材質に意味がない・・,社会の約束事の象徴でしかありません。
新井白石の時代より前の元禄時代・忠臣蔵・赤穂藩断絶のときに、大石内蔵助は発行済藩札を全部決裁したことが美談として語り継がれていますので、元禄時代にはこの過渡期・大名領地内で藩札が流通していたコトからも分るように、決裁利用の信用さえあれば紙切れでも良い時代が既に来ていたのです。
当時の経済活動の拡大に貨幣発行量がついて行けなかったので,列島・・とくに西国では既に藩札・紙幣の時代が来ていたコトが分ります。
藩札の信用は外貨・・幕府発行貨幣との両替で担保されていました。
今でも外貨準備+国民経済の実力の裏付け=為替相場こそが政府発行紙幣の価値の担保であり,政府単体の赤字とは関係がありません。
消費増税延期直後に官僚の意向を受けた?格付け会社によって,日本国債格付けを下げた途端、日本円が上がり始めた「喜劇?がこれを証明しています。
新井白石と荻原のどちらが時代にあっていたか?当時貨幣の中心機能が決裁機能に移行し,物質としての金取引と関係が少なくなっていた以上・経済取引拡大・必要に合わせて金の含有率を減らして幕府発行貨幣を多く発行した勘定奉行の決断は,実態経済の必要性に見あっていたのです。
何ごとでも(金自体の取引重視とは利用場面が違ってきた)「過去の正義」(鎖国の正義も家光のときと幕末とは国際情勢が違うように)とらわれると大きな間違いを起こす例の1です。
旧理論と現在進行形社会との齟齬は今もあります・・,伝統価値観に従ったIMFや経済官僚・エコノミストを中心とする現在の信仰的とさえも言える財政赤字「悪」論・・にも共通します。
今は政府と国民経済は一体ですから、政府財政赤字と国民経済赤字とは同じではありませんから、経済単位の1つに過ぎない政府財政赤字だけを強調するのは間違いです。
政府保証債は信用が高いように、政府債務は国民経済全体が保障している関係です。
この辺が中世スペイン王室が国民経済と関係なく破産した時代と違います。
実態の変化を無視した過去教養の固まり・緊縮経済を主導したがる秀才の集まるEU官僚支配に多くの市民がノーを言い始めた実体的基盤です・・EU離脱論やトランプが支持を広げる基礎には,実態無視のEU官僚政治にうんざりしている人が増えて来たと言う見方が必要です。
新井白石のこだわった金含有量についてその後の推移を見ますと,大恐慌以来日本その他が早くから金兌換制度をやめていたの(金含有量ゼロ政策)は正解で,アメリカが最後に金交換停止(ニクソンショック)をしましたが,これは「アメリカも遂に金が足りなくなったか!と言う(アメリカの威信低下程度のショックに過ぎず)世界の物価が急上昇にはなりませんでした。
金持ちが無駄に土蔵や長屋門を維持していたのを、遂に取り壊して貸し駐車場にした程度のことです。
取引の決裁道具としては、金の裏付けの必要としない政府信用だけの時代に入って久しかったからです。
政府信用も金非有の裏付けだけはなく、日々の貿易決裁や資本取引等を通じた総合信用・為替変動相場制に移行していますので,紙幣の材質には関係ありません。
今では紙切れの印刷さえ不要・・電子マネー決裁が目前に迫って来ました。
この一事を見ても白石が金の含有量にこだわったのは社会変化の流れを見ない時代錯誤であったことが(今になると)明らかですが,未だに歴史家は,白石の業績を(正徳の治」などと評価し,積極経済政策をした荻原や田沼を批判するのが普通です。
これまで繰り返し書いて来ましたが,金の裏付けがないと・・その代わり中央銀行の節度がないと紙幣大量発行に走り,超インフレになると心配をする人がいますが,インフレは需要に供給が間に合わないときに起きるものであって,供給過剰(需要不足)の現在では貨幣量がいくら多くてもインフレにはなりません。
ドイツ敗戦時の超インフレは敗戦で物資が不足したことによります。
逆から言えば特に現在社会では,紙幣発行を100〜1000倍にしてもそれだけではインフレにはなりません・・。
クルマを投機的に買う人がいるとしても,それは短期的現象であって必要以上にクルマを100台も買う人はいません・・紙幣が増えてあるいは金利が下がって買いたくなるのは需要範囲に留まりますので、必要以上に紙幣を発行しても必要以上のスマホなど買わない・・貯蓄・退蔵・ストックが増えるだけ・・銀行は預金が増えても貸す先がないので,自然に金利が下がりますが、下がっても必要以上に借金してクルマやテレビ・スマホを何台も買いたい人はいません。
だから私は紙幣大量発行→ハイパーインフレ論には組していませんし、現在のゼロ金利政策や紙幣大量発行による・・インフレ目標設定・・景気対策などは,茶番だと言う意見を大分前から何回も書いて来ました。
一国閉鎖経済時代の気候に左右される食糧品中心社会と違い,今の消費材は工業製品中心社会ですし、国際物流の時代です。
家電やクルマ、スマホなどは、需要がある限りいくらでも増産出来ますし,増産が間に合わず値上がりすれば競争相手のクニが黙っていない・・輸入品が直ぐに入ってくるので、国内紙幣発行量や低金利と価格の関連性はありません。
すぐに増産出来ない食料品も外貨さえあれば輸入が簡単です。
今でも新興国が金融危機で超インフレになることがあるのは,・・国民経済の信用毀損=金融危機・貨幣価値暴落で輸入資金(紙幣を10倍刷っても為替相場が20分の1に下がれば,半分しか輸入出来ません・・外貨を勝手に発行出来ませんので)外貨が足りなくなる・・輸入出来なくて供給不足になるからです。
1つの公団の赤字程度はその内政府が面倒を見るだろうと世界が問題にしないのと同様に、国民経済内の一単位に過ぎない政府の財政赤字だけとり出して議論するのは間違い・国全体の外貨準備(対外純資産)や国民の個人資産の総合評価・・結局は外為相場の動向が経済危機の重要指標であるべきです。
ただし,我が国のように敗戦・・民族の危機になると,命がけで国に帰って復興に努める民族とは違い,個人と政府の信頼・一体感のない中国では,クニが危機に直面すると,富裕層から真っ先に資金の国外逃避を始めるので個人金融資産の意味は国情によって違います。
政府赤字にこだわる論者は、中世から近代までの王室財産と国民経済分離時代の恐怖心を未だに引きずっていると思われます。
スペインフィリッペ2世が何回も破産し,次いでイギリス王権が増税失敗で革命になり、フランスも同じ結果でした。
この歴史経験の恐怖が、政府赤字にたいする恐怖感・・非合理で説明のつかない経済官僚の宗教的執念に繋がっているように見えます。
しかし今は,政府は国民財産管理者でしかありませんから管理者が管理している当座のお金がマイナスであろうとプラスであろうと民族の信用に関係がありません。
財政赤字論は,国内政治上どこに資金が配布されるべきか・・資金配分の議論でしかないでしょう。

観念論の弊2(神学論争)

大陸諸国とイギリスの国民性の違いは、大陸の観念論に対してイギリスの経験論として比較されるのが普通ですが,観念論は体系的一貫性を重んじる傾向があります。
先進社会から優れた観念が先に入って来た文化格差の大きい社会や気候変動の画一的な大陸に多い現象だと思われます。
一度圧倒的に進んだ文化の体系が樹立されると、現に起きた事象をその体系内で矛盾なく処理出来るような解釈論の工夫(これを「新説」と言う程度)に傾注するのが普通・矛盾なく説明出来る論理を発明考案?するのが優秀な学者になります。
先進社会から遅れたゲルマン・ガリアの大地に入って来た場合のキリスト教神学もその一種だったでしょうが、十字軍遠征の結果タマタマ、プラトン系(イデア重視)か、アリストテレス系(形相・質量)かの大きな争点が提起されたことが言論活発化の端緒となり救いだったことになります。
(ただし私には文字どおり高邁過ぎる「神学論争」でよく分りません)
ところでプラトン、アリストテレスの議論が入って来たのは(十字軍の結果)アラブ言語で書かれたプラトン等の思想が入って来て、これをラテン語に翻訳したことによって漸く始まったのですから,西欧のギリシャ文化と言っても実は(見落とし勝ちですが)アラブ経由のしかも十字軍以降の理解であったことが重要です。
我々は学校で「ギリシャ・ローマの文化」と習いますので,ローマ滅亡後に同時的に西欧に入ったかのように誤解していますが,ギリシャ文明は十字軍の後に別ルート、アラブルートで入って来たものです。
ギリシャ文明の流入があってこそ多様な価値観の存在を知り、その刺激でルネッサンスが始りひいては新教発生の土壌となり宗教戦争を経て,信教の自由になって行ったことになります。
プラトン哲学などが「アラブ語をラテン語に翻訳することによって広がった」と言う意見をどこで読んだか根拠を探せませんが,ウイキペデイアでトマスの記事を見ると以下のとおりです。
「トマスの生きた時代は、十字軍をきっかけに、アラブ世界との文物を問わない広汎な交流が始まったことにより、東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスの異教活動禁止のため、一度は途絶したギリシア哲学の伝統がアラブ世界から西欧に莫大な勢いで流入し、度重なる禁止令にもかかわず、これをとどめることはできなくなっていた。また、同様に、商業がめざましい勢いで発展し、都市の繁栄による豊かさの中で、イスラム教徒であるとユダヤ教徒であるとキリスト教徒であるとを問わず、大衆が堕落していくという風潮と、これに対する反感が渦巻いていた。」
上記ウイキペディアの通り唯一神のキリスト教の立場では多様な哲学思考に発展しかねない多島海文明のギリシャい思想流入に反対の立場であったことが分かります。
上記のとおり、アラブ世界からそのころにギリシャ哲学が入ってその刺激で神学が飛躍的に?(その前から修道院中心にキリスト教の儀式その他こまごまとした研究発表がありました・・哲学分野で)発達したことになります。
逆から言えば、形而上の論理に関心を持つ人材が漸く育って来たから、需要があって翻訳流入も始まったと言うことでしょうか?
アラブを通じてしかもアラブ語をラテン語に翻訳しないと入らなかった・・ラテン語文献がなかったと言うことは,ローマ帝国ではギリシャ哲学が全く顧みられていなかった・・・・ラテン語への翻訳がない=需要がなかった・・程度のレベルであったことが分ります。
あるいはキリスト教が国教化した結果多様な意見が死滅してしまったのかも知れません。
ちなみに、神学大全と言うとトマス・アクィナスが有名ですが,ウイキペデアによると、彼は途中死亡して,弟子達がその後に完成したものと紹介しています。
完成時期不明ですが1300年以降でしょうか?
「1274年3月7日にトマスが世を去ると、残された弟子たちが師の構想を引き継いで第三部の残りの部分(秘跡と終末)を完成させた。」
『神学大全』(しんがくたいぜん、羅: Summa Theologiae, Summa Theologica, Summa)は、「神学の要綱」「神学の集大成」という意味の題を持つ中世ヨーロッパの神学書。13世紀に中世的なキリスト教神学が体系化されると共に出現した。一般的にはトマス・アクィナスの『神学大全』が最もよく知られているが、他にもヘールズのアレクサンデルやアルベルトゥス・マグヌスの手による『神学大全』も存在する。」
神学論争と言ってもせいぜい13世紀中頃からの始まりでしかない・・西欧社会の形而上の思弁能力発達の遅さが目立ちます。
我が国の発達をウイキペデイアでみると
古くは,空海・弘法大師には多様な著書がありますが,佛教理論書については,「天長7年(830年)、淳和天皇の勅に答え『秘密曼荼羅十住心論』十巻(天長六本宗書の一)を著し、後に本書を要約した『秘蔵宝鑰』三巻を著した。」とあり、
法然の著書『選択本願念仏集』は(『選択集』)建久9年(1198年)で、かなり遅いと思われる『立正安国論』でさえも1260年ですから有名なトマス・アクィナスより早いことが分ります。
その他に最澄や親鸞、栄西、道元等々有名人が一杯いますので,日本社会の思想活動の早さが分ります。
西欧の神学論争に戻りますと,折角ギリシャの有り難い哲学思想が輸入されたのですが,プラトン、アリストテレスの違い(中国で言えば孔孟の教え)だけでは中世終わり頃に実際社会の説明がつかなくなって来た(中国では朱子学による再構成による)ことが,キリスト神学の権威喪失→新教発生→キリスト教の信用低下の原因になっていったと思えます。
中国の場合,儒教にももいろんな学派があったのですが,中世以降朱子学一辺倒になって以降細かな解釈(訓詁)学になってしまい,思想界の停滞を招いたと言えます。
逆から言えば,紀元前の孔孟の教えを中世に朱子学による再構成しただけで社会が20世紀まで間に合っていたのが中国・朝鮮社会であった・・停滞したままであったとも言えます。
・十字軍遠征→イスラムの影響があった・・海で繋がる西欧とは違い,中国は広大な砂漠の西域からの文物流入が基本でササン朝ペルシャ以降外部刺激が少なかったので(眠れる獅子?)居眠りしていて20世紀まで間に合ったのかも知れません。
体系的一貫論に戻りますと,忠臣蔵の事件処理で言えば,儒学が重視する「忠」の理念だけでは社会秩序維持との矛盾相克を処理出来ず儒者の信用が失墜したコトを紹介したことがあります。
綱吉の動物愛護精神もそれ自体立派な考えですが,社会生活との折り合い必要だったのにこれに気がまわらなかったので悪政になったものですし,観念論で貫徹するのは強力な専制支配以外には実務上必ず無理が出て来ます。
忠孝最重視の価値観と社会秩序の相克が綱吉以降の我が国で直面した問題であった・・貨幣改鋳を悪政として批判した新井白石も同じです。
金含有量を減らして改鋳するのは伝統的儒学的価値観からすれば,(「悪貨良貨」の熟語があるほど古くからの基本です)悪政と言えば悪政です。
しかし、悪貨の概念は,金を商品としてとり帰する前提から始まった歴史を見れば含有率を偽るのは、言わば詐欺行為です。
商品・品質を偽ることに非難基礎があるのであって、貨幣経済を前提に社会全体を見る意識のなかった古代の観念を,経済政策の是非の判断に流用するのは間違いです。
新井白石によるい閉会中に対する批判は、今のゼロ金利政策や日銀国債購入性悪説同様に、貨幣改鋳がタマタマ過去の(古代の貨幣経済未発達時代の)価値観にあわなかっただけのことでした。

民度4(朝鮮族2・観念論の弊1)

古代日本は律令制その他多くの制度を導入しながら,思想の均一化をもたらす「科挙制」を頭から採用しなかったのは,やおよろず・多様な意見を尊重し硬直した主張を嫌う民族性→科挙制度の危険な本質を当時から見抜いた先人の優れた智恵です。
日本は徳川家が佛教に代わる学問として儒学を重視したのは,佛教経由の学問では近世社会に適合出来なくなっていたからですが,(04/13/08「佛教から儒教へ1」以下に連載しましたが,儒学も赤穂浪士の処断に当たって限界を露呈したことも紹介しました)家宣父子の中継ぎを経た吉宗が儒学者新井白石を失脚させて以降,自由な学問が花開いたのは古代に科挙制度を採用しなかった賢明な選択に負うところが大きいと思われます。
律令制を取り入れても「(事実上骨抜きにしましたが)、科挙制を当初から採用しなかった点については2005年・・11/26/05「日本に科挙が導入されなかった理由1(地方分権社会1)」その他でいろんな角度から書いています。
ソモソモ,李氏朝鮮の長い統治期間中にこれと言った学問業績の有無については(寡聞にして)聞きませんが,その原因は朱子学採用以降、明朝、清朝及びこれを宗主国とする李氏朝鮮では,明清朝以上にその解釈学に特化してしまったことによると思われます。
解釈ばかりしていると学問研究とは言えない・・思考の範囲が既存権威内での応用に限定され,幅広く思考を巡らせるべき知能も発達しません・・。
まして自民族発祥思想ではなく,宗主国の明や清朝でどのような解釈が主流か?の早耳を競う程度が重視されるようになるとなおさらです。
私の司法試験受験勉強当時には,「今ドイツではこのような考え方が新しい流れだ」とか一方で戦後はアメリカ支配でしたから「アメリカの判例動向がどうの」とか・・アメリカに留学して来たばかりの新進気鋭?学者の意見が注目を集めていました。
憲法や刑事証拠法など人権保障関連は米国発の法理でしたから,米国の判例の動きや解釈論などが幅を利かしますが、ワイマール憲法同様に日本国憲法が理想的理念で作られたことが欠点です。
良く知られているように日本語通訳だった20代女性が抜擢されてイキナリ短期間に空想論で作ったことが,大きな原因になっていると思われます。
法や憲法は政治利害を前提にした妥協で出来上がって行く結果、実態に応じたものに練り上げられますが(綱吉の生類憐みの令は独裁権力の欠点が出た・社会生活者との妥協をしなかった点が問題でした),社会経験もない一介の通訳がイキナリ憲法草案を密室で書き上げた・占領軍独裁制の欠陥がモロに出たもので,ほんとに「交戦権がない」と言うことで良いのかなど無理・・稚拙過ぎる条文・・これが未だに平和憲法論争の原因になっているのです。
ソモソモアメリカ憲法は(判例法主義の伝統を受けて)修正第何条と言う表現が有名なようにしょっ中書き直されて来たもので、運用して都合が悪ければ修正して行く仕組みで「不磨の大典」ではありません。
素人が思いつき的に「戦争のない社会が良いなあ!と言う程度で現実国際社会との折り合いなど考えずに書いた条文・・いつでも修正出来る前提で気楽に書いた条文をその背景を考えずに絶対修正出来ない「平和主義」の理念を守れなどと言う壮大な観念論の柱・金科玉条にしてしまうのは一種のすり替え・詐欺みたいな主張です。
以下は諸外国の憲法改正の回数に関する国会図書館による調査研究からです。
http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8624126_po_0824.pdf?contentNo=1第824号 国立国会図書館
諸外国における戦後の憲法改正【第4版】調査と情報―ISSUE BRIEF― NUMBER 824(2014. 4.24.)
国立国会図書館 調査及び立法考査局憲法課(山岡やまおか規雄のりお・元尾もとお一りゅういち)
●1945年の第二次世界大戦終結から2014年3月に至るまで、アメリカは6回、カナダは1867年憲法法が17回、1982年憲法法が2回、フランスは27回(新憲法制定を含む。)、ドイツは59回、イタリアは15回、オーストラリアは5回、中国は9回(新憲法制定を含む。)、韓国は9回(新憲法制定を含む。)の憲法改正をそれぞれ行った。」
平和憲法その他の信奉者は,アメリカにもその実例がないのでアメリカの判例(解釈)を錦の御旗として利用出来ないので,「近代法の法理を守れ」「憲法違反」などどこの国にも実際にない空理空論・法理を主張するしかない状態のように見えます。
思想家ではなく法律家である以上は、観念的反対ではなく,諸外国・・共謀罪や秘密保護法や憲法停止の非常事態制度(・・フランスが昨年のテロ以来執行中)のある国で、どう言う人権侵害事件が起きているかの例を出して議論すべきだとこのコラムで繰り返し書いていますが,そのような事例を出す気配がなく相変わらず抽象的反対を繰り替えしているだけです。
スパイ防止関連法や個人識別情報制度を人権侵害と騒いでいる先進国がないので,「近代法の法理に反する」と意味不明の原理を持ち出すしかないのでしょう。
現在は近代社会のままではない・・法理も時代に合わせて変わると言う意見をどこかに書きました。(貨幣の正邪も時代によって変わることを明日書きます)
日本の法学者の多くは,近代までの中朝民族の頑迷固陋な観念論の信奉者よりもずっと上を行く、特殊精神傾向の集団ではないでしょうか?、
ついでに書いておきますと,アメリカ式勉強法の導入は我が国発展に大きな意味があったと思われます・・たとえば、勉強の仕方まで変わる・・アメリカではケースメソッド・・事例研究中心であることも知りました。
私自身高尚な議論は不向き・・実務家向き?ですので,事例演習形式の勉強の方が理解し易いので助かりましたが・・。
法科大学院制度創設後の新司法試験問題を見た印象では,徐々に事例を上げてその解決方法を問う事例設問形式中心に変わって行き,今ではこればかりのような印象です。
こうなると大学院での法律相談実習や模擬裁判など実技訓練が必須になって来るので、法科大学院へ行かない独学者には不利になっています。
アメリカ一辺倒の時代になっても英米法は判例法のクニ・・事例に合わせて融通ムゲな解決が出来る(ただしデュープロセス・・手続違背には厳しい判例が多い)ことから,学問の広がりが制約されないのが良いところです。
先に抽象概念があって、その適用を議論するのではなく、事例から思考が始まる良さです。
我が国憲法論者は折角英米法導入による良い側面(思考の柔軟性・・憲法を柔軟に変えて行く)を活かさずに肝腎のアメリカすらも求めていない「憲法を守れ」と言う観念論ばかりに執着しているのは残念です。
現在の天皇陛下生前退位・譲位論も同じで,出来る範囲で先ずお心に沿うように早く変えようとすると,先ず反対,完全・全面改正でないと行けないと言って,内容の議論よりは方法で反対する・・結局修正反対します。
日本独立時の平和条約も全面講和など出来るわけがないのが分っている・・今だにソ連・ロシアと平和条約を結べない状態を見れば分ります・・のに全面講和以外反対・日本独立を遅らせるために運動した社会党と同じです。
沖縄も不可能な無条件返還にこだわっていたし,(アメリカ基地存続反対では変換は無理でした)何事も完全主義?と言う名の反対主義です。
中韓に限らずどこのクニもいつの時代にも,物わかりの悪い原理主義者が一定数いますが,(幕末に国際情勢無視の「(鎖国)の祖法を守れ」と幕府を困らせるために騒いだ勢力もこの一種です)占領軍が実態に合わない憲法を押し付けたのでこれ(悪用するため)に飛びつく困った人材が大学機関の主流派になってしまった弊害です。
幕末に「祖法を守れ」と主張したのと同類の(内容の議論をしないで兎も角)「憲法を守れ」の主張を繰り返しています。

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