少子化と年金赤字1

若者には少し苦労させて智恵がつくのを待つのは良いのですが、マスコミのように「次世代が損をしている」と世代間対立を煽っていると、若者は肝腎の工夫・自助努力の方に智恵が行かず不満が先行してしまって前向き解決にならないことを私は心配しています。
年金問題でも次世代が少子化の結果如何にも損するかのような報道が充満していますので、余計若年層の納付率が下がって行きます。
年金問題で次世代が損をする論は、以下のとおり誤りです。
年金赤字問題は、納付金額の減少に根源があります。
資金不足は次世代が納付する資金力が高齢者を扶養するのには不足している点に主たる問題があるのであって、(後に書くように想定外に長寿化したための計算違いもありますが、それは政府の責任です)中高齢者は約束通り納付して来た以上は自分が受け取るべき時期が来れば約束通り受け取る権利があって支払い資金不足は高齢者の責任ではありません。
その原因は、少子高齢化・・納付者数の減少になるからとマスコミが主張しているのですが、果たしてそうでしょうか?
先ず少子化の点から入って行きましょう。
途中で病死や戦闘で死亡する確率が高いと大勢生んでおかないと跡継ぎがゼロになるので一人当たり投資が少なくなっても多く生んでおく危険の分散が必要です。
これはあらゆる種に共通の原理であって弱い魚は膨大な卵を生みますし、強くなればなるほど出産数が減少して行きます。
人間の場合も自分が死ぬまで子供が生き残っている確率が高くなると、数でリスク分散するよりは子供を少なくして集中投資による子供の能力アップ・・親世代よりもランクアップを期待する方が合理的になります。
これが戦国時代が終わって平和な時代が来た江戸時代の少子化への流れの基本構造でした。
少子化への流れは、(子供が途中で死亡する確率が減少した時代には)子供が少ない方が自分の子供をより大事に育てられる・一人当たり投資額(時間・手間を含めて)が大きくなるから・・自分の子供にとって有利な環境になることを願う親心・種の本能に原因があります。
一般的に投資額(心配りも含めて)が大きい方が、より大きな効果が見込めるものです。
子沢山で小学校卒程度までしか育てられず、ある程度育つと(これと言った技術も身につけないまま)直ぐに丁稚奉公に出しているよりは、中学(旧制)高校と少しでもランクアップして世に送り出してやった方が子供にとって有利に決まっています。
小額投資した人が儲けられて大口投資した人が失敗することがたまにありますから、(いくら勉強させようとしても頭が悪くて効果の出ない子供も稀にいますがそれは例外です)集中投資の方が良いとは言い切れないと言う人がいるでしょうが、何らかの成果を期待する以上は(どうせ一定の比率で儲けられるならば)成果が大きい方が良いのです。
少子化の選択は次世代に損をさせるための集中投資ではなく、子供・次世代が有利になるためにと願う親世代が子供の将来を考えてやっていることです。
多産多死型の社会では、子供一人一人の幸福を願うよりは子供一人一人を捨て駒として誰が生き残っても良い程度(これと言った教育・訓練をしていないので一人一人大したことがないとしても、ゼロになるよりは良いという親の都合)の時代であったと言えます。
草花や樹木等が種を撒き散らかしっぱなし・・魚が卵を生みっぱなし等に比べれば、哺乳動物は、子育てに時間を掛け多ことによって、哺乳動物が発展進化したことが分ります。
種の維持・存続発展の歴史をみれば、多産多死を前提に次世代に何の訓練もしない、あるいは少ししかしないよりは、少産少死化によって一人当たり養育・訓練時間をより多くかけることによって次世代のレベルアップを図る方が種の発展に効果があることは明らかです。

労働収入の減少2(世代間扶養1)

マスコミによれば次世代は「年金を払った以上に受け取れないから損だ」と頻りに宣伝して年金掛け金の支払意欲をなくす方向・・あるいは世代間対立を煽る方向へ誘導しています。
老親の面倒を見たら自分の受けた恩よりも多い・損だという論法は本当に正しいのでしょうか?
そもそも昔から子世代は生み育ててもらった恩返しに親世代を扶養するのが務めでしたが、(カビ臭い道徳と言われるかも知れませんが・・)それが個々人で出来なくなった(子世代の能力不足・あるいは合理化)から年金や介護保険で見るようになった歴史を前提にすれば、マスコミの立論はこれを忘れた論法です。
今の若者が世代間の財の移転で損をしているどころではありません。
庶民の子育ての歴史を概観すれば、犬猫や鹿のように乳幼児期を過ぎれば面倒見なかったころから、読み書きそろばん程度までは面倒をみた江戸時代、義務教育まで面倒を見た明治から大正期ころまで、昭和に入るとある程度以上では旧制中学や高等女学校まで面倒見るようになり、戦後は中の下クラスでは義務教育の中卒で働きに出るのが普通の時代(昭和30年代前半まで)から昭和30年代後半以降高卒が普通となり、昭和50年代以降は短大・平成以降大卒が普通になっています。
(従来からの大卒階層では大学院まで・・)
大卒どころか大学院まで面倒見たのに(これからは弁護士資格を得ても自立出来ない若者が増えるでしょう)一人前にならずに居候してる若者さえ少なくありません。
漸く結婚して子供産んでも子育て能力が不足しているので、子育て支援センターあるいは保育所その他多額の社会的負担で何とかなっている状態です。
彼ら若者の納税負担は僅かなので、これら膨大なコストを賄うどころではないでしょう・・まだ社会全体から受益を受け続けている状態です。
日常生活で考えても親世代に子供の送り迎えを頼むなど夫婦現役で働いている人は何かと親世代の世話になって漸く育てている状態の人が多いのが現状です。
このように庶民にとっては従来に比べて子育て期間が長くなっただけでも、その分今の若者は過去の子供世代よりも多くの恩を受けているので、以前の子世代よりも多く恩返しするべき関係です。
70歳前後以上の世代では、(年金制度は昭和30年代初めころに始まったものですから、)マトモに年金を積み立てていなかった親世代の面倒をきちんと見た(私の場合長兄夫婦が面倒を見てくれました・・ここでは一般論を書いています)外に、せっかく子供世代に大金を投じても次世代非正規雇用等(オーバードクターもその一種です)で身分が安定しないために彼らに代わって親世代が年金を払っておいてやったり、家を残してやったり、あるいは生前贈与で家を買ってやったりと至れり尽くせりやって来た世代です。
70代前後世代は兄弟も多く、しかも親世代の殆どが戦争で家屋敷が丸焼けになったので何も・・財産らしい財産が残っていない世代でした。
高度成長期に地方から都会への移住が進んだ結果、せっかく空襲に遭わずに残っていた地方の家は利用不能で、都会に移転した我々世代は自前で自宅購入を余儀なくされた人が殆どです。
次世代は、親の多くが既に都会に住み自宅を取得している人が多いことと、少子化の結果、一人一人が親の家を一戸ずつ相続出来る恩恵も受けています。
すなわち、子供二人の標準的家庭で言えば、親世代と人数が同じなので親の取得した家をそっくり受け継げることになっています。
2人の場合、仮に2分の1ずつ相続するとして、結婚した相手も同様に相続していると結局親世代の遺産を100%相続出来ることになります。
(この辺は都会2世と今から都会に出る人との格差問題としてFebruary 5, 2011「都市住民内格差7(相続税重課)」前後で書いたことがあります)
現在は少子化で一人っ子も多いので祖父母世代から集中投資して貰えるので孫は多くのポケットを持っていると言われている所以です。
このように多くの兄弟で育った70歳前後の世代から見れば、次世代は親世代から歴史上最大とも言える多くの受益をしているのに、受益分の恩返しをするには自己資産形成能力が逆に大幅に落ち込んでいるのが現状です。
多くを受ければ多くを返すのが人倫の基本ですが、その能力不足が年金負担能力・・ひいては親世代扶養能力低下をもたらして、将来の年金制度維持に危険信号がともっているに過ぎません。
毎年のように親世代から次世代への贈与税関連(相続時精算課税制度など)の控除制度を延長していることから見ても、親世代から子世代への財の移転が例外でないことが分ります。
年金問題は若者世代の労働収入が伸びない・安定しない(甲斐性がない)ところに基本的な問題があるのであって、次世代の人口が減ることや世代間負担不公平に課題の中心があるのではありません。
子供が少ない分1〜2人で多くの愛情を受けて育ったのですから、親に対するお返しを1〜2人でするのは当然です。
1〜2人だから・子供が多くないので食事や旅行にも連れて行ってもらえたし、大学も行けたのに、お返しの段になって、1〜2人では負担が大きすぎると言うのではバランスが悪いでしょう。
旅館でも4〜5人1室料金は安いのですが、一人で1室にしてもらう以上は高額負担すべきは当然です。

早期引退と年金赤字解消

2010-9-28「高齢者引退と年金」以来デフレ論にそれてしまいましたので、年金赤字の問題に戻しますと必要労働力量が一定とすれば、仮に定年時労働者が100万人の場合定年を1年延長すると100万人分の労働力過剰がおきます。
この過剰分が新卒・新規参入者の就職難に直結します。
一定どころか、ここ数十年は海外進出企業の増加(例えば今年の例で言えば、日産が大衆車マーチ生産を全量タイに移管しました)で国内必要労働力量は減少して行く一方です。
ある報道によれば、リーマンショック以降この秋までの約2年間で製造業の海外進出による雇用減少分が11%あまりとのことですから、定年延長がなくとも若者の就職機会がここ2年で11%も減少しているのです。
この状態のところに、定年延長あるいは高齢者雇用が進むと若者の職場は両側から攻められることになります。
国内必要労働力の減少に合わせて新規参入労働力=人口を減らせて行けば整合しますが、(人口減少政策が必要と言うのが私の基本的立場でこれまで繰り返し書いています)これには30年単位の長期ビジョンが必要ですので、1〜2年単位の不況による職場減少対策や5年前後の短期政策には間に合いません。
そこで、短期的な当面のつじつま合わせとすれば、中高年齢層の早期退場によって、景気変動に合わせて調節するのが合理的です。
従来どおり60歳で引退しているだけでは、上記のように海外進出の加速による国内職場減少分を若者が引き受けるしかないのですから、むしろ職場減少分に合わせて58→57歳と逆に定年を前倒しして行って、高齢者が若者に職場を譲ってくれないと若者の就職するチャンス・場が足りない時代です。
レストランでも美術館でもどこでもそうですが、後がつかえているときには早めに出て行って(回転を早く)もらわなければならないのに、逆にゆっくりしていくように誘導していたのでは、入口で入場者が滞留してしまいます。
若年層の失業率の引き上げ・・職場への入場制限していると、その間、時間つぶしに本を立ち読みしたりパチンコをしているようなもので若者のモラトリアムと言われる現状・フリーターや非正規雇用の増加に繋がっているのです。
思い切って定年を55歳に戻せば、5年分の雇用・・仮に年100万人の労働者としても500万人の労働力不足が起きて失業問題あるいは若者の非正規雇用問題が解決します。

高齢者引退と年金

現役世代が元気なく勤労所得が少ないのは、もしも根性がないのではなく親世代がいつまでも居座っているために職場がないからだとすれば、親世代が早く職場を譲るべき問題に帰ってくるので、世代間で損得を議論するべきテーマではあり得ません。
若年層の年金納付額が減少しているのは、中高年齢層の引退を引き延ばすことによって、若年層の就職難を引き起こし、年金・保険料等納付者や額を減少させていることによる面もあるのですから、(海外進出の加速が職場縮小の大きな原因ですが、そうとすればなおさら、縮小した職場を若者に譲るべきではないかと言うことです)結局は国内で一定の労働需要があるとしたら、若年が担うべきか高齢者が担うべきかの問題を先に解決すべきです。
高度成長期のように増産すればその分だけ売れる時代・・労働者が多ければいくらでも働く場があった時代とは違い、いまは、むしろ中国等の追い上げで・・製品輸入増で現場労働の職場は減る一方の時代では、既存労働力さえ過剰になっているのは明らかです。
・・この過剰になった労働力を高齢者が引退して次世代に譲るべきか次世代を遊ばせて高齢者が働くかの選択の問題です。
赤ちゃんの間引きならぬ高齢者の間引き・・・姥捨ての習慣について9月24日頃に書きましたが、職場が一つしかなくて若者が働くか高齢者が働くべきかの二者択一となれば正解は明らかです。
この明らかな結論を見ないことにして、高齢者の定年延長・高齢者雇用促進と言う馬鹿げたことを歴代政府や現政権が政策目標にしているから、その分だけ若者の職場が失われ、(保険・年金等納付者が減ります)長期的にも若者の職業訓練機会が失われる国力低下リスクに直面しているのです。
高度成長期には旧市街再開発も新市街造成も(国単位で言えば過疎地対策も成長企業への補助も)両方にテコ入れが可能な時代でしたから、政治家は双方に言い顔が出来て楽でした。
成長が止まれば両方へ税金を配ることは出来ず、スクラップ&ビルド択一関係しかありません。
人材も同じで、縮小傾向・・失業者が出るしかないとすれば、高齢者を遊ばせるか若者を遊ばせるかの択一選択しかない筈です。
この厳しい選択を避けて、双方に良い顔をしていると社会的に強い高齢者の方が職を手放さない弊害が生まれて来ます。
ここは政治力を発揮して、高齢者を早期引退させる政治に切り替えるべきです。
同じ500万人が失業するならば、年齢の高い順に失業させた方が社会のためには合理的です。
若者を失業させて、たとえば数百万人フリーターにするよりは高齢者を早く引退させて同じ数だけフリーターに入れ替えた方が将来のために良いのです。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC