中華(光復)思想3(目的と手段の違い1)

ここで孫文と中華思想の関係を見ておきましょう。
孫文の事績・・http://www.jacar.go.jp/modernjapan/p06.htmlからの一部引用です。
「1905年には、これまで革命活動を行ってきた興中会・華興会・光復会が結集して、東京にて中国同盟会が結成され、孫文は総理となり、革命運動をさらに推進することとなります。」
清朝打倒運動団体には、以上のとおりの3名称の団体がありこれが合体して(町村合併に多いあんちょこな言い方をすれば3団体の文字合わせ?)「中華」+復興思想に結実して行った経過が分ります。
上記共通の復興名称は国名にふさわしくないから消えていったものと推測されますが、復興を願う心情は自明のこととして掲げなくなった可能性もあります。
今でも韓国.台湾(中華民国政府)では「光復節」が大々的に行なわれていますので、中韓民族にとっては今でも「光復」が最大テーマであることがわかります。
https://ja.wikipedia.org/wiki
「光復節(こうふくせつ)は、大韓民国および台湾の祝日。
8月15日。大韓民国の祝日で、朝鮮半島が日本による統治から解放されたとされる日。光復節 (韓国)を参照。」
日韓併合前の日清露3国のヘゲモニー争いの間でどちらに付くかで右往左往していて殆ど自立性のなかった朝鮮の状態をとりもどすのが何故「光復」なのかという突っ込みを入れたくなる人が多いでしょう。
2013/09/08/韓国民の行動様式19(恩を仇で返す国1)のコラム以下で、高宗政府に対するクーデター未遂事件の黒幕として当時政界の大物(王族重鎮です)「大院君」でさえ駐留していた清朝の軍閥・・袁世凱に拘束され中国に連行されてしまう状態・・文字どおり清朝の直接軍事支配下にあったことを紹介したことがあります・・文字どおり清朝による直接の軍事支配下にあったのが李氏朝鮮です。
今のチベットやウイグル自治区の少数民族弾圧の厳しさが世界ニュースになっていますが、自治区と言っても警察から軍事に至るまで、直接支配を受けている今の状態よりももっと厳しい状態を(当時は国際批判など全くありませんので・・)想像すれば、当時の清朝による朝鮮族支配の苛酷さがわかるでしょう。
清朝による過酷支配があったからか?李氏朝鮮による人民支配も過酷を極めていました。
日本支配前に戻る=一般人(ヤンパン支配下の人口は約95%)にとって、文字もまともに読めない奴隷のようなヤンパン支配下の状態に戻るのが何故「光復」か?となります。
1説には、日本によってヤンパン制度が廃止されて平等に教育されてしまったことを恨む旧支配層が元に戻るのを歓迎しているだけともわれますが・・。
パク大統領・・ひいてはこれを支持する韓国人の心情が中国・・元〜明〜清朝と続く従属時代の復活を望むのをいぶかしく思う日本人が多かったのですが、彼らの心情はヤンパン支配復活への郷愁と日本の風下に立つよりも清朝やモンゴル支配下で、日本よりも席次が上だった(勝手に思っているだけですが・・)と言う序列復活の方が嬉しいのです。
上記のとおりとすれば、今後中国の時代が来ると読んで逸早く馳せ参じて、より良い席次を獲得期待に傾いた気持ちが分ります。
中国革命運動家の心情に戻りますと、冒頭紹介の団体名から見ると、孫文ら革命運動家の希望は現在の不名誉・屈辱的な現状打破を求めるスローガンとして過去の(あったかどうか不明の)栄華の復活を主張していた諸団体が革命運動の母体であったことが分ります。
フランス革命などでは過去(アンシャンレジーム)を断罪し、新しい時代の到来を主張する組織を革新系と言うものですが、中国の場合、清朝打倒を言うもののめざすべき心情は「栄華の復活」だったことになります。
中国古代からの王朝崩壊・「易姓革命」が流砂のような民衆の無目的暴動によって起きて来たのに比べれば、「王朝打倒」の目的意識のある運動である点では一歩進んでいましたが、政権打倒するのが目的であって、「光復」が主目的では、新たな近代社会作り出すと言う・・西欧的意味での革新運動家ではありません。
清朝はモンゴルのような世界帝国になったことはない・・大英帝国やアメリカ合衆国を支配下に置いたことがない・・地球規模で言えば、単なる地域大国でしかなかったのですから、欧米諸国相手に取り返すべき栄華はありません・・。
復興すべき栄光・栄華があるとすれば、普通の民族にあるべき主権回復と地域大国の復活しか論理上あり得ないでしょう。
これの表現が、(清朝の版図を少し広げたアジア支配を任せて欲しいと言う)習近平の「太平洋2分論」ではないでしょうか?
栄華の復活がテーマの運動体では、後ろ向き・・新しい国づくりにはなりません。
栄華復活のためには国内政治・産業発展が必要ですが、主目的が生活水準アップにあるのと栄華復活が主目的でその手段として生活水準も引き上げた方が良いと言う程度の意識では格段にちがいが出ます。
しかも栄華の復興運動とは、実は「格下と見なしていた日本」に負けたコトに対する鬱憤が真のモチベーション・エネルギーであったとすれば、元々前向きに始めた運動ではありません。
国民のための政府よりは、日本のハナをアカしたいと言う思い(心情は文字上・あるいは公式にはでません)で運動を始めたのであれば、出来上がった政府も近代的要請である・・国民重視のマトモな政権になる訳がありません。
孫文はいわゆる(農地の分配を含む)三民主義を提唱していてこれを継承した蒋介石が北伐を開始すると当初はこれを歓迎する庶民の支持を受けて破竹の勢いで成功させましたが、一定の支配権樹立後すぐに腐敗してしまう点は歴代中国王朝と同じです。
戦後米軍から膨大な物資や武器援助を受けながら中共に負けてしまったのは主として」「政権腐敗」にあったと言われています。
孫文が世界の制度を勉強してきれいごとの三民主義を発表するのは良いですが、イザ具体的実施となると政治・実務能力が必要です。
専制支配下で来た結果、近代官僚機構も何もないところで、軍事支配してから実際にどうやって農民から土地を取り上げて分配するか分らなかった可能性があります。
この種の仕事を始めると余程清廉な行為をする社会訓練がないと、手心を加える袖の下が横行し勝ちですから大変です。
ましてや中国地域は、古代から有名な賄賂社会ですからすぐに賄賂まみれになってしまいます。
9月19日に王昭君の故事で紹介した漢詩にも、賄賂次第の習慣が描写されていますので、もう一度引用しておきましょう。
 「生乏黃金枉圖畫,死留青冢使人嗟。」
(生ずれば黄金に乏しく枉げて図画せられ、死しては青冢をトドメて人をして嘆かしむ」私流の読み見下し文です)
ちなみに「枉・まげて」とは日本の刑法で言うところの「枉法収賄罪」の「枉法」の「枉・おう」と同じ用法です。
刑法が平成7年に口語に改正されて「加重収賄」罪に変更されましたが、それまでの文語体のときには「枉法収賄」罪と言う熟語になっていたのは、この用例の1つでした。
文語体のときには刑の重さを基準にするのではなく、「法をまげて」運用したから刑が重くなると言う内容による違いを表していました。
賄賂をもらうだけでも単純賄賂罪ですが、その結果実際に不正なことしたときには「枉法」収賄になり結果的に刑が重くなります。
上記漢詩には画工が賄賂をもらわないから実物よりキレイに書かなかっただけではなく、積極的に汚く書いた意味が込められています。
刑法
加重収賄及び事後収賄)
第百九十七条の三  公務員が前二条の罪を犯し、よって不正な行為をし、又は相当の行為をしなかったときは、一年以上の有期懲役に処する。
2  公務員が、その職務上不正な行為をしたこと又は相当の行為をしなかったことに関し、賄賂を収受し、若しくはその要求若しくは約束をし、又は第三者にこれを供与させ、若しくはその供与の要求若しくは約束をしたときも、前項と同様とする。
3  公務員であった者が、その在職中に請託を受けて職務上不正な行為をしたこと又は相当の行為をしなかったことに関し、賄賂を収受し、又はその要求若しくは約束をしたときは、五年以下の懲役に処する。

屈辱と中華(光復)思想2

中華思想・・自己が世界の中心であると言う思想自体は、世界中でどこにもある夜郎自大思想で、中国地域の漢民族特有の自意識ではありません。
個人で言えば赤ちゃんは無限大の能力を持っている自信・これが現実の限界に遭遇して徐々にしぼんで行くのが大人になることであると言うのが心理学の説明です。
青年が天下国家を簡単に論じるのは、その発展途上と言えます。
たとえばhttp://matome.naver.jp/odai/
「赤ちゃんの“万能感”を理解しよう。
乳幼児には「自分は何でもできる」という“万能感”を持っています。
しかし、パパママのように何かをしたいと思っても、思うように手足は動いてくれません。
そのことが泣いたりわめいたりといた事にもつながっているので、まずは、そうした赤ちゃんの「万能感」を前提にすれば、心を落ち着かせて赤ちゃんの観察ができそうですね。」
こう言う乳児的意味の中華思想の萌芽は古くは詩経に出て来るらしい・・古くからあることを自慢しているようですが、文字化していなくともどこにでもある赤ちゃんの万能感ですから、中国特有の思想・・自慢するようなことではありません。
「オラがムラは1番」と言う原始的幼児的自意識はどこの民族・地方にもあり、大人になっても自慢し続けるのは素朴で微笑ましい面がありますが、ちょっと気恥ずかしいことです。
ここで関心を持っているのは心理学で言うところの赤ちゃんの万能感に当たる「中華」の単語使用例がいつから始まったか?です。
れっきとした成人大人が乳幼児的単語を公式用語・・「中華」民国として使用するようになった背景が気になります。
19日に書いたように、現在の中国地域で興亡した王朝の歴史から見て、「中華」の栄光・栄華の歴史自体が存在しないのですから、復活すべき「中華」の意味自体が、全く不明です。
習近平が「中華の栄光・栄華復活」と言い出したのは、対外的こけ脅しをすればするほど国民の実際生活とのギャップが大きくなって来たこととの関係が窺われます。
統計数字を誤摩化してGDP世界2位・・日本を追い越したと言い出してすぐに日本を軍事威嚇を始めたのですが、国内で自慢すればするほど実際生活とのギャップ・・政治不満が高まります。
GDP数字では却って生活実態と合わないことから不満が広がるので「栄華」の復活と言うスローガンで抽象化すると共に民族感情に訴える策に出たものと思われます。
「わが民族は大したものだ」宣伝するのは国威発揚の一種ですから(本当は大したことがないとすれば噓の上塗り?で却ってギャップが広がり)何の解決にもなりません。
政治の本筋で言えば、「自分たちは未だ〇〇の水準に追いついていないのでさらに頑張りましょう」という方が合理的ですがあまりにも早くから無理して虚偽統計で威張り過ぎたので後に引けなくなったのです。
企業が業績不振を隠蔽するために一時のつもりで粉飾に手を染めると実態との誤差が広がるばかりで収拾のつかない事態に陥るのと同じです。
ソ連がこの繰り返し・・・軍事力強化や人工衛星打ち上げ競争やオリンピック選手強化など・国威発揚でごまかしていたのですが遂に崩壊しました。
ソモソモ「中華」民国・人民共和国と言う国名を称するようになったのは、西欧列強に侵蝕された国民のフラストレーション・・反作用として生まれて来た言わば惨めな精神状態を補償する言語でしかありません。
中華思想とは、栄華の復活を夢見る・・栄光の歴史ではなく惨めな現実の裏返し表現です。
いつから「中華」と言う語が使われるようになったかの関心で、清朝崩壊後中華民国を名乗るようになった孫文を見ておきます。
孫文は日本に亡命していて日本で食客生活していたものですが、日本人は優しいので日本を頼って清朝支配下から逃げて来た多くの革命運動家に「自信を持ちなさいよ、元々立派な国なんだから・・」と励まし続けたであろうことは容易に想像されます。
スイス亡命中で元気のないレーニンに対して「アジア人も自信を持つべきだ」と勇気づけてロマノフ王朝打倒をけしかけた?日本人明石元二郎が知られています。
以下は小説による以上は一定の潤色があるでしょうが、そのつもりでお読み下さい。
日本はその頃帝政ロシアが最大の脅威でしたから西欧でもいろんな画策をしていました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E5%85%83%E4%BA%8C%E9%83%8E
「明石の著した『落花流水』や司馬遼太郎が執筆した小説『坂の上の雲』においては、次のような粗筋がベースになっており、明石の工作は成功したものとして描かれ、著名な外国人(日本人から見て)が登場している。」
「明治37年(1904年)、明石はジュネーヴにあったレーニン自宅で会談し、レーニンが率いる社会主義運動に日本政府が資金援助することを申し出た。レーニンは、当初これは祖国を裏切る行為であると言って拒否したが、明石は「タタール人の君がタタールを支配しているロシア人の大首長であるロマノフを倒すのに日本の力を借りたからといって何が裏切りなのだ」といって説き伏せ、レーニンをロシアに送り込むことに成功した。その他にも内務大臣プレーヴェの暗殺、血の日曜日事件、戦艦ポチョムキンの叛乱等に関与した。これらの明石の工作が、後のロシア革命の成功へと繋がっていく。後にレーニンは次のように語っている。「日本の明石大佐には本当に感謝している。感謝状を出したいほどである。」と。
※レーニンは中央アジア系の出自を持っているとのうろ覚えの記憶ですので、ウイキペデイアで履歴を見ると以下のとおりです。「・・曽祖父はモンゴル系カルムイク人(オイラト)であった」
清朝から逃げて来た日本亡命中の多くの若者・・不安の中で生きている以上は時には自信をなくすこともあったでしょう・・こうした場合、優しい日本人の勇気づけに触発されて「そうだ我々も自信を持つべきだ」となって「中華」を使い始めたのかも知れません。

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