元旦と喪中

みなさまにとって良いお正月・・輝かしい新年の幕開けになったこととお慶び申し上げます。
先のことは善くも悪くも分らないとしても、ともかく昨年の1年がひとまず終わり、新しい1年が始まるのはめでたいことではないでしょうか?
「めでたい」の語源は多分新たな芽が出ることを言祝ぐ意味でしょうから、旧年から新年への変わり自体・・一陽来復がめでたいと言うことです。
私にとっては、母が昨年秋に亡くなったので昔の基準(今でも陋習?として残っていますが・・・)で言えば喪中ですが、どこかに勤めている訳でもないので、喪中を理由に多くの休みを貰えるメリットもありません。
服喪の習慣は05/24/10「物忌みと隔離4」や06/11/10「服喪期間と禊ぎ」などで書いたように、不浄に触れた近親者が周りに病原菌をまき散らさないようにする謹慎行為に渕源があって、その後宮中への出仕を休める口実になる(当時は公休日の観念がなかったので喪中を理由にするお休みは重要な役割でした)外、会いたくない人に対する面会拒絶などいろんなことに便利なので,多用されて定着して来たに過ぎません。
今は公休日の外に有給休暇も十分にあるので、服喪等と言って断る必要もないし、治療看病が専門家任せの現在では、身内が病原菌に直接接する訳でもないし、実際の必要がなくなって久しいのです。
その上にヒト様のおめでたいことに対して、(例えば結婚式や出産があった場合に)自分だけがめでたくないから「おめでとう」と言いませんと頑張る必要もないでしょう。
いくら高齢でも母親が亡くなればそれなりの感慨はありますが、それは個人的なことであって関係ない他人にその感情を共有してくれと強要するのは行き過ぎです。
と言う訳で私の場合特に喪中ハガキなど出しませんし、(相手がおめでたいと思えば「おめでとう」と言ってくれれば良いし・・わざわざ「私はめでたくないのです」と否定しません)お正月の挨拶も従来どおりで良いと思っています。
いずれにせよ、1年が新しく始まることは地球上の万物に共通ですので、その事実を受け入れることが必要です。
喪中の人が正月に何々をしては行けないなどいろいろ書かれていますが、入学式や結婚式は目出たいからやるのではなく、物事の始まりのケジメとしてやることが結果として目出たい行事と言う評価に繋がっているだけです。
目出たかろうが喪中であろうが朝起きればおはようと言い、顔を洗うのと同じで、ケジメの行事に過ぎない色々な行事に喪中の人が参加しては行けないなどと言うのは言い過ぎでしょう
神社仏閣詣でも同じことで、目出たいから行くのではなく年の始めくらいは普段ご無沙汰しているけれどもケジメとして詣でようかと言うのが本来でしょう。
自宅の神棚も庭の手入れも普段の行為とは別にケジメとして、年末年始くらいは特別に綺麗にしたりするだけの話で目出たいからではありません。
仕事の始めと終わりに仕事場を綺麗にしてから始めたり終わりに整理したりするのを、年末と年始の行事は1年の終わりと初めに大掛かりにしているに過ぎません。
神社には穢れがある身で行ってはといけないと言うのが一般的解説ですが、神社仏閣は元は穢れの集積するところ(今の病院・・病原菌の集まるところ)なので、帰りに身に付いた穢れを祓ってから帰るべきところが神社であったのが、後世逆転したに過ぎないことを05/27/10「(1)神社の機能」以下05/28/10「(2)土葬後の濯ぎと祓い」前後までのコラムで連載しました。
と言う訳で、喪中だからといって新しい年の始め・ケジメとしての行事自体をやめる理由はありません。
とは言うもののあえて初詣をする必要もないので、今年は初詣の代わりに家族そろってデパートの福袋詣でをする予定ですが、これもその内に初売りに行くこと自体遠慮すべきだと言う時代が来るのでしょうか?
商売人とすれば、来るのを拒むよりは「喪中の人ポイント割り増し!」と銘打って客寄せするのが本来でしょう。
前置きはこのくらいにして、新年のコラムに入って行きます。
喪中の人がいようといまいと年が改まった以上は、皆様にとっても私にとってもこの1年は良い年であってほしいし、国民生活に大きな影響を及ぼす政治も漂流をやめて新たな意気込み・スタンスで進んでほしいものです。

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