危険と隣合わせ3(発電所の消費地立地1)

利便性と距離およびコンパクト化の解決策としては電気は多方向(医療機器もすべて電気利用です)で大活躍ですから、電気発明以降の社会では、電気製造・運搬利用技術とその管理をどうするかによって、社会生活のレベル(文明度)が決まって来ます。
以下電力関係に絞って書いて行きます。
電気は普及当初から遠隔地で石炭を燃やすなどして製造出来るので、利用する場所では生産に伴う煙・熱・臭気騒音などに悩まされなくても良い上にオン・オフが簡単・・使う人にとって便利なものでした。
工業地帯と旧市街地を分離することで造る人の作業環境がどんなに劣悪でも、利用者は気にならない・分らない関係になりました。
電気自動車・電気エネルギーにすればクリーンだなどとマスコミは報道しますが、それは、車や事務所・台所等エネルギーを利用する場所ではクリーンであるだけで、電気を造る場所ではどうなのかの議論がありません。
その矛盾が露呈したのが今回の原発事故でしょう。
もしも電気が安全でクリーンであるならば、消費場所に最も近い東京湾岸・お台場辺りりに火力発電所や原発をドンドン造ったらどうかの議論が必要です。
電気は遠隔地から運んでも電気自体の性能は同じです(魚その他の食品のように古くなると味が落ちたり腐りません)ので、つい遠隔化する一方ですが、実は送電ロスがあります。
(距離に正確に比例し電圧にほぼ反比例します)
個人のブログによりますが、(客観性は不明です)送電ロスは平均して約5%(2000年のデータで年間約458.07億kWhの損失・100万キロワット級の原発6基分)らしく、東電に限定すれば、2002年度損益計算書では送電費と変電所維持費に6000億円あまりかかっているそうです。
(本来の送電コストは、ランニングコストだけではなく初期投資・建設費や用地取得費用がかかっています)
平均コストでは分り難いですが、火力は東京湾岸(千葉と神奈川両県)に集中していて遠くても70km前後ですが原発は近くても200km以上ですから、原発の方がロス率が大きく送電コスト(高圧線の維持管理費)が多くかかっていることになります。
火力等を電気に変換する過程で約5割もロスがあって、電池に加工すれば、その加工段階の歩留まり次第で大きなロスが発生します。
節電節電と言いますが、個人の節電も必要ですが、国民は昨年充分に節電して来たのでこれ以上節電できるのは多寡が知れていますし、節電疲れを起こすと(薄暗い駅舎など)国民の活力を弱め、生活水準を落とすことになります。
今後は、節電よりは消費地のビル10〜20棟をまとめた街区ごとの公園地下などでそれぞれの地域利用分を小型発電する工夫・・場合によっては義務づけなどに取り組む方が送電ロスとコストが少なく合理的です。

危険と隣合わせ2(メリット)

生活利便設備は、利便性が求められる以上は身近に・・何時でも利用出来ることが求められますが、一般的にうるさい、汚い、臭い、危険と隣り合わせのものが多いのが難点です。
トイレも、近くに欲しいものですが、その分汚い、臭い、非衛生(御不浄という人もいました)の問題がありました。
料理は出来たてがウマいので台所設備は、食べる場所・客を接待する場所に近いに越したことがありませんが、魚を煮たり焼けば臭いがするし、煙が出て煤けて座敷が汚くなる外、魚の腹わたその他食品残りの腐敗臭があるなど大変です。
火は暖をとり料理し、照明のために必要ですが、むやみに燃やせば危ないし煙たい・・これを何とかするために換気扇や排水設備が工夫されて、コンパクト化した調理場となって利用者との距離が近づきました。
(私の一家は東京大空襲で丸焼けになって疎開先の田舎で育ったのですが、子供の頃には井戸から釣瓶で水を汲んでいて瓶(みずかめ)などに蓄えて使用するし、排水が良くなくてドブが普通で「どぶさらえ」がイヤな仕事の1つでした)
燃料も薪や石炭などが近くにあれば便利ですが、家の中が片付きません。
私の育った地域では、台所部分は居室部分から切り離しているのが普通でした。
燃え盛る火のそばにいれば暖かいが危険です。
召使いも近くにいれば便利で安全ですが、召使いでもいれば気を使う・プライバシーが守れないなど出来ればこちらに用があるトキだけ直ぐ来て欲しいものです。
親しい人と気が向けば直ぐに話したいが、しょっ中自分の声の聴こえるところに親しい人が何十人もいるのもうっとうしいものですし、相手にも都合があります。
このようにすべて便利なものは近くにおきたいけれども、出来れば遠ざけたい矛盾した関係です。
矛盾した欲望があるところにこそ、社会改革・商機・・工夫の余地が大きいのです。
矛盾の多くを解決したのが、電気の発明による電灯・電波(電話やテレビ)に始まり現在のIT機器の活用ですし、あらゆる分野でのコンパクト化でしょう。
(電池の小型化=高性能化と各部品の省エネ化が大きな役割を果たしています)
電気はクリーンエネルギーと言われますが、トータルでは化石燃料を燃やして発電するとき100%電気化出来ないことよるエネルギーロス及び送電ロスが生じるマイナスが大きいでしょう。
クリーンなのは、使う場所において煙(CO2)や熱が出ない意味では正しいでしょう。
公害防止技術の未発達の時代には、工場地帯での石炭火力発電所は大量の煤煙等が集中的に発生していました。
家庭で天ぷらを上げれば臭いし油が飛び散って大変ですが、総菜工場で一日中天ぷらを揚げて配送すれば家庭では綺麗に出来上がったものを食べられる(その分冷えます・・運送時間の短縮や保存の工夫)のと同じです。
石炭の場合黒煙が目立つ割に大した被害がありませんでしたが、石油の場合黒煙ではないので見た目では対したことがないにも拘らず、健康被害が大きくなります。
(放射能の場合、臭いもないしもっとこの関係が大きくなります)
日本では古くから炭火を利用して御殿や座敷で利用することが発達しましたが、これは石炭を燃やして電気に変換するのと化学原理は違いますが、別の場所で別のものに造り直してコンパクト化して運搬して来る考え方は同じです。
炭にすると燃え広がる危険性がなく、管理し易い上にクリーンでした。
枕草子でも「いとつきづきし・・」と表現されているように、平安時代の御所では既に炭火を利用してました。
(ここまでは高校時代に習った古文の記憶ですが、今ネットで調べてみると日本では愛媛県の洞窟から約30万年前の木炭が発見されているようです)
世界中で我が国のように燃える火を屋内で安全に使えるように炭に置き換えて日常的に利用していた国があるでしょうか?
炭火自体は古代からどこの地域でも自然発生的にその存在を知り人工的に造る方法を工夫して行った筈ですが、その後生活面でどのように拘って来たか・文化の発展にどのように寄与したかについては、枕草子に類するような外国の古い文献まで知りませんので分りません。
私が知っている一般的知識では、西洋のストーブはライオンを檻に入れるようなものでしかなく、炭のように別の燃料にしたものではありません。
木造和紙障子や襖の燃え易い構造・・弱点でもあったのですが、この弱点が却って木材を炭火へ変換させた原動力だったことになります。
クリーンエネルギー利用の発達が、わが国固有の和室・茶室等の清潔な固有文化を育てたことになります。
(薪を直に燃やす囲炉裏や西洋式のストーブでは、畳の生活は無理でしょうし、茶道が発達出来たか・・)
電気は配線だけで足りるので、炭火よりもさらに取扱が簡便でしかも場所をとりません。
(大分前からお茶室でも電気炉が幅を利かしています)
芸術家の陶器製造現場でも薪を燃やす登り窯から、管理の簡便性から石油系に移行しているところがいくらもあります。
電気は火のついた炭や料理のように物理的運搬の必要がなく、しかも送電ロスはあるものの遠くでも近くでも品質(料理は時間の経過で味が劣化しますが)は同じです。
電気は照明用として当初は画期的でしたが、その後熱源としても使われるようになり、電波を通したテレビ等の情報伝達、近年ではITの発達で、万能的に多用途化されてきました。
電機系は遠隔操作出来て身近に物を置かなくとも良いメリットとコンパク化に成功したことによって身近におけるようになったことでしょう。
(大きかった電話機がコンパクト化してポケットに入るようになりました)

危険と隣合わせ1(メリット)

生活利便性のあるものは役に立つものであればあるほど、汚かったり危険性が高いものです。
薬のない頃に砂糖水を飲ませる程度と違い今の医薬品は効き目が強い代わりに誤って処方すると危険ですし、また副作用が強いので管理して利用する必要があります。
フグはうまいけれども厳重な調理が必要ですし、車も飛行機の便利な分自転車よりも危険ですし排ガスも多く出します。
昔から必需品でも汚いものや危険なものは、危険性を前提として出来るだけ遠くに追いやって目に触れないようにする・・馬は必要であるが馬糞だらけの馬小屋は殿様の御殿から遠く離れたところに配置する・・便所も必要だが少しでも離れたところ造ってありました。
明治の始め、鉄道の駅も歩ける最大のところまで遠いところに造るものでしたし、飛行場は今でもかなり離れています。
権力中枢の裁判所やお城を基準に見ると東京も大阪(城主のいなかった大阪や甲府は裁判所が基準です)もあるいは小さな町である佐倉でも足利でもみんな歩いて15〜20分前後に駅があります。
(昔の人は歩くのが早かったので10分以内かな?)
鉱工業生産も必要ではあるが汚いし危険だから、貴顯の住居地から遠く離れた場所で営むものでした。
必要なものは身近におきたいものですが、危険や悪臭・騒音等と隣り合わせのために、如何に安全に管理して最大限近づけるかが人類の智恵の見せ所です。
石炭・石油が必要・・それならば近い方が便利ですが、首都の真ん中に「ぼた山」があり、炭坑夫が王宮の隣で生活しているところはないでしょう。
石炭石油は僻地で都会が出来た後に取れるようになったからでもありますが、それならば取れるところに消費地を持って行く・政治の中心が移って行っても良い筈です。
アメリカで言えばボストンやニューヨーク等の中枢部とシカゴ等の大工業地帯は飛行機で移動するくらい離れていますので、工業地帯に住む人と政治の中枢にいる人や企業経営者とは違った世界に住む関係でした。
病院関係も近ければ便利ですが、伝染を恐れて隔離が原則で、都市部で共存するようになったのは、まだ数十年くらいでしょうか。
(元々郊外にあったのが都市の拡大で市中心部近くなった例が多いでしょうが・・・)
我が国の場合も外国に倣って出来るだけ工業地帯をエリート向けの高級住宅街から離すように努力していましたが、一般の工業地帯で言えば、川崎から東京都心までの距離は数十キロメートルしかなく戦後出来た千葉の臨海工業地帯でも東京都心から60km前後です。
原発が一般の工業地帯よりも遠く離れているようでも、福島原発から東京まで僅か約200キロメートルしか離れていません。
これが茨城の原発(東海村の原研)になると僅か100km前後しかありません。
危険な物は遠く離しておくべきだと言う選択自体は正しいのですが、為政者・経営者が安全地帯にいる結果、危険回避に向けた切迫感が薄まることになります。
為政者・経営者が危険と隣り合わせにいないと、慈善事業的発想で労働者(及び工場近くに住む家族)が劣悪な環境で働くのは可哀想だからという上から目線での改革しか出来ません。
チェルノブイリのようにモスクワから遠く離れた場所の場合、指導部の緊迫感が緩くなりがちです。
ロシアでは石棺で覆ったまま放りっぱなしですが、我が国で一日も早い除染や、廃炉に必死なのは近距離にみんな住んでいるからです。
チェルノブイリの放射能汚染図で見ると半径600kメートルまでしか同心円は出ていませんが、その外側にあるモスクワまでの距離は、図上約700キロメートル前後もありそうです。
狭い国土の我が国では、遠く離れたところに工場地帯を造ったつもりでも諸外国とはまるで距離が違います。
上記のように高級住宅街も外国に比べればほぼ隣接地・工業地帯内と言える場所にありますので、上下挙げて公害・大気汚染や水質悪化に対する感度が良かったことが幸いして公害対策が進んだのでしょう。
川崎や千葉からですと一般工場の煤煙でも風向き次第で都心に汚れた空気がマトモに吹き寄せますので、昭和40年代から問題になった公害問題は、公害反対運動・・革新勢力だけの関心事ではなく企業経営者や政権側も(自分の妻子が被害を受けるので)放置出来なくなったのです。
ちなみに千葉川鉄公害訴訟は1975(昭和50)年に提起されたものですが、大気汚染問題は首都圏全体の関心事になっていたのです。
四日市喘息は川鉄に先立つ公害でしたが、首都圏での上記訴訟提起のインパクトは大きかったので、これ以降・政府・企業側は、工場は汚い・うるさい・臭いものという開き直り・・工場の近くに住む方が悪いというような発想を切り替えます。
公害発生は我が国特有ではなく(世界中似たようなレベルの工場が操業していましたので)イギリスのスモッグ例でも明らかなように世界中同じようにあったのですが、工業適地と住居適地が同じ地域にある我が国特有の弱点が却って新たな展開を目指すようになれた原因です。
工業用地を遠くへ持って行く発想を諦めて、工業発展と健康な生活との共存を目指すように・・脱硫技術その他公害防止技術が発達したのが幸いし、我が国は世界に冠たる公害防止・環境技術を発展させられました。
鉱工業の公害対策だけではなく、密集した都会地でのビル取り壊しが多いことから、その方面の工夫も進んでいて今では大した騒音や埃を立てずに歩行者が多く歩いている直ぐそばでも大した危険性なしに行われるようになっています。
(何百万人も毎日利用しながらの東京駅の改築計画の見事さを見て下さい)
今回の原発事故を1つの教訓として原発や大規模化学工場等と共存のための智恵を結集して行くべきでしょうし、そうした努力をしてこそ世界に誇れる技術立国へ再度進んで行けます。
危険だからやめたというだけでは、智恵がないし発展性もありません。
マゼランやコロンブスの大航海もすべて未知の危険に挑戦してこそ成功したものですし、その他新技術の開発はすべてその傾向があります。

原発事故5と放射能1

昨日土曜日で少し時間がありましたので,原発問題を少し書いておきます。
昨日のニュースでは、同日2号機の電気がついてこれで1、2、3号機全部の制御室に電気・照明がつき、3、4号機を除いて真水注入に切り替わったとのことです。
今後は計器類の確認が出来るようになって行き暗闇の作業ではなくなるので大分作業がスムースになります。
明るいニュースの一方で、地下にたまった水の放射性物質で作業員が1昨日被曝した事故がありました。
この中に8日で半減する筈のヨウ素131があったことから、使用すみ燃料貯蔵プールの水ではなく原子炉自体から、放射性物質が流れ出ている・・格納容器自体かその付け根あるいは配管の破損等が心配されるようになりました。
配管破損よりは,格納容器自体・・付け根の破損の場合,高濃度汚染のために容易に近づく方法がなくて,この改修作業が可能かどうかの問題になりそうです。
(機器が作動し中が見えてくると,次々と壊れた部位が明らかになって行くでしょうが・・・)
この先一つ乗り超えれば次の難問出現繰り返しでしょうが、我が国危急存亡の危機ですので,関係者各位の死力を尽くしての努力が最後まで貫徹出来ることを祈っているしかありません。
自主退去の勧告がついに30キロ圏内の居住者にも出ました。
福島県の数値が何故か公表されなかったので事実としての確認は出来ませんが,(ぱらぱらと出る報道によれば)この圏内に居住を続けるのは危険な数値のようですから,退避するのは当然のことですがまだ自主的と言う曖昧な表現です。
ただし,福島県内の各地の放射能数値が官邸のホームページで27日10時に公表されましたのでこの点についてはこの続き・・明日に書きます。
ところで、どのくらいの放射能まで浴びても危険がないかの基準が曖昧な感じで,その都度恣意的に変更される印象ですので,国民は混乱し、不安感を抱いているのではないでしょうか。
分らないから,僅か1日だけ放射性ヨウ素が出たり,野菜に付着しているだけで出荷資制限したりミネラルウオーターを買いに走ったりして慌てふためくのです。
そもそも原爆投下まで知らなかった・・核分裂による自然界にない質量(放射性同位元素)の原子登場で恐怖心ばかりが強くて、具体的な効果が分っていないことが基準を曖昧にし,恐怖心を煽っている根源でしょう。
広島原爆投下直後には,広島には草も生えないとか今後何十年も人も動物も住めないと言われていましたが、実際にはその後何十万の人が住み,爆心地の平和公園には普通に樹木が生長しています。
他の土地に比べて特に平均寿命が低いとも聞きません。
そこでネットで平均寿命を調べてみると広島市は女性が全国1位の長寿市であることが分りました。
(平成23年3月27日広島市ホームページ・平成17年都道府県別生命表による)
原爆による放射能の影響を研究する放影研が広島にあって,ここで色々研究しているようですが,その基本は(科学的因果関係不明なために)疫学調査中心の印象です。
江戸末期に写真機が持ち込まれた時には写真を撮られると魂が抜かれると言うデマが流行していたようですし、電子レンジが出た時にはレンジの前に行くと危険と言われ、パソコンが出た時にも,妊婦には危険と言われていましたが,実際にこれでどうなったと言う具体的な被害事実を聞いたことがありません。
人類はいつも新しい製品や科学に・あるいは思想に対して盲目的反発心を抱いていて、先ずは危険(思想)と言うレッテルを貼りたがるものです。
作業員等の一時的大量被曝を例外として,長期的放射能被曝による効果としてははっきりしているのはヨウ素131の害・・甲状腺がんだけです。
それ以外のセシューム等は「分らないから大変だ」と言う変な論法が中心で、放射能が原因かどうかは具体的に分らないと言いながら、科学的基準を作っているのですから背理です。
妊婦が被曝すると奇形児が生まれる宣伝すると如何にも恐ろしい感じで迫力がありますが,具体的にどうなってるのかの研究発表を聞きません。
有名なチェルノブイリでも小児・甲状腺がんが喧伝されているばかりですが,奇形児に関してもしも疫学調査上顕著な差があればもっとマスコミが報道している筈です。
奇形児だけ調査しないことはあり得ませんから・・・。
結局脅し文句に使っているだけで、そんなことは全くないと言うことでしょう。
むしろ、各種公害病となる多種多様な原因物質の方がずっと因果関係がはっきりしていますが,硫黄酸化物その他がほんの少し空気中にあるくらい誰も問題にしません。
奇形児が生まれると言う宣伝は、相手を悪く言うために子供まで食っているとか極端な表現と同じ種類のデマの一種でしょう。
奇形児が生まれると言えば誰もが恐ろしがる・・しかも証明不能なのを逆手に取った脅迫方法に過ぎないことになります。
多くの新しい機器類に関しては,女性に危機感(感性に訴えるだけであって根拠不要です)を植え付ければ、反対派が勝つので、殆どの場合奇形児に言及するパターンです。
多くの女性はそういわれれば,根拠があろうとなかろうと触らぬ神に祟りなしの行動様式になりますので,それだけで抑制効果としては甚大な社会的威力を発揮します。
短期一時的な高濃度放射能汚染の場合はやけどしますが、これは普通の焚き火でも同じで緩く長くあたれば暖かいだけですが、近づきすぎればやけどするのとそんなに違いはありません。
塩砂糖、チョコレート)でも一度に1〜2kgも胃袋に入れば大変ですが、微量あるいは適度な量ずつ摂取すれば栄養補給等のメリットがあります。
勿論水だって一度に一定量以上摂取すれば危険です。
長期的緩やかな被曝によって,具体的にどのような病気になるのか長期微量摂取の害は,理論としてはまるで分っていないし、疫学的にすら分っているのはヨウ素が幼児の甲状腺がんを誘発確率が高いと言うくらいでしありません。
暴飲暴食しても,数日節制したり徹夜しても翌日よく寝れば回復するように人間には回復力もありますが,これを越えて連日深夜まで働くとか連日の暴飲暴食を続けると回復力を越えて病気になるのが普通です。
自然治癒力を超える高濃度汚染の害は明らかですから、一時的高濃度汚染の害がないとは思ってないのですが、ヨウ素以外の放射性物質を少量ずつ摂取し続けた場合、どういう病気を誘発するのかが実際にはまるで分っていません。
分っていないのにどこまであびると危険かの規準を作る事自体が非論理的ですから、基準があってないようなものになって、風評被害の元になるのです。
怖いものだから大事を取って厳しく制限しておこうと言うだけのことですから、科学ではなく政治的判断で決めるしかなくなって,結果的に不信感を助長します。
絶壁の近くは危険だからと10メートルまで禁止したり,大事を取って100m先まで駄目だと言うような違いです。
これを今後は50メートル付近まで、さらには30mまで許可したら危険かの議論に似ていますが,元々崖崩れの危険がどのくらいかの基準がないとすれば、意味のない議論です。
科学的効果不明にも拘らず,恐怖心を煽った結果非合理な恐怖心に基づいて「触らぬ神に祟りなし」と言うだけですから,その基準は当該国民の非合理な恐怖感の強さにに比例して政治的に決めるべき基準です。
これを科学者と言うものが出て来て,審議会などで如何にも科学的であるかのように装って議論して決めて来たので、今になって政治的にいくらでも好きなように基準を緩める方向へ変更するとおかしな感じがするのです。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC