沽券・メンツにこだわる文化(劣等感)2

7月22日に水車を何百年も作れなかった実態を紹介したとおり、社会レベルが数世紀単位で大幅に遅れているのを自覚していたからこそ、自国の現状を必死に隠したくなる心理です。
長年自分国の使いは江戸までゆるゆると往復して日本の実情を観察しているのに、日本側の人間は 釜山の倭館から一歩も出させない厳重な規制をかけていた真の原因と思われます。
あまりにも遅れた社会を見られたくなかったからではないでしょうか。
家の中が散らかっていると見られたくないので、入り口ドアを半開きにして立ちふさがって応対するのと同じ心理です。
ところがいくら内情を隠しても選び抜かれた使節随員が行く先で白昼衆人環視の中で鶏泥棒をして大騒ぎになり馬脚を現している絵が残っていることを22日に紹介しましたが、これを本国では知らないままだったと思われます。
江戸時代には日常的に絵画表現が発達していた(絵画用の関連商品の発達・需要が下地です)珍獣奇獣に関してもあるいは一般的植物図鑑など絵画表現が発達していたし(酒井抱一展などに行くと草花の図鑑.描き方の冊子が出ています)瓦版も多く出ていました。
この事情は以下の国立国会図書館の絵画集に明らかです。
http://www.ndl.go.jp/nature/cha3/
「江戸時代には、清船やオランダ船に乗って、多くの異国の鳥獣が海を渡ってきました。この時代の博物誌には、交易によって舶来した鳥獣のほかに、たまたま日本に迷いこんできた外国の鳥などもいろいろと記録されています。
第3章では、当時の人々の目を驚かせた珍しい鳥獣や魚介類の一部をお目にかけます。
第三章 珍禽奇獣異魚
迷鳥・珍鳥
外国産の鳥類
魚介類
獣類など」
以上に入って行くといろんな絵が見られますのでオススメです。
名古屋にアザラシが現れたと言っては大騒ぎになったなど物見高い・・好奇心の強い民度が出ています。
これを見ると全国各地に事件発生に即応して描写できる相応の絵師がいたことが分かります。
何か事件があると何でも絵画表現できるし、これを求める客がいた社会でした。
中国は改革開放以来、北朝鮮や李氏朝鮮と違い国内混沌をそのまま観光客にさらけ出していますが、グーグルマップなどの映像地図に出ないようにしています。
中華の栄光などといくら威張っていても中国人観光客が行く先々でゴミを散らし行儀が悪いので、お里が知れています。
李氏朝鮮では釜山の倭館で応対して日本人を首都まで行かせなかった自国の現状を知られたくなかった点は、以下の通りです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E9%A4%A8
「近世倭館
1592年に始まる文禄・慶長の役によって日朝の国交は断絶し、戦争直後対馬藩が送った貿易再開を求める使者が帰ってこないことが多かった。しかし朝鮮人捕虜を送還するなど対馬藩の必死の努力によって、1607年最初の朝鮮通信使が来日し、国交回復が決まった。対馬藩は江戸幕府から朝鮮外交担当を命じられ、釜山に新設された倭館における朝鮮交易の独占権も付与された。1609年に締結された己酉約条によって、朝鮮は対馬藩主らに官職を与え、日本国王使としての特権を認めた。しかし日本使節のソウル上京は一度の例外を除き認められなくなった。また日本人が倭館から外出することも禁じられた。」
倭館からの外出禁止状態は、国書の膠着打開に向けた動き・江華島事件端緒に関するウイキペデイアの解説にも明らかです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E8%8F%AF%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
1872年(明治5年)5月には外務省官吏・相良正樹は、交渉が進展しない事にしびれを切らし、それまで外出を禁じられていた草梁倭館(対馬藩の朝鮮駐在事務所)を出て、東莱府へ出向き、府使との会見を求めた(倭館欄出)。」
日本でも長崎出島に限定してオランダ人の出入りを規制していたとはいえ、江戸表までのオランダ商館長による表敬訪問が慣例化していた・・自由に日本国内状況を見せていたのとは大違いです。
幕末有名なシーボルトは、この江戸参府使節随行員として初参加した機会を利用して途中各地で博物資料を収集出来たのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%98%AD%E9%96%A2%E4%BF%82によると以下の通りです。
「オランダ商館長は、歴代、通商免許に対する礼として江戸に上り、将軍に謁見して貿易の御礼を言上して贈り物を献上している。これを「カピタンの江戸参府」といい、毎年、定例として行うようになったのは1633年(寛永10年)からであり、商館が平戸から長崎に移されて以後も継続された。1790年(寛政2年)以降は4年に1度と改められたが、特派使節の東上は1850年(嘉永3年)まで166回を数えた。江戸の長崎屋、京の海老屋は「阿蘭陀宿」として使節の宿泊にあてられた。」
李氏朝鮮は、外見と内情の大きな落差を隠すために沽券にこだわった結果、明治維新当時日本からの通信使再開の国書を素直に受け取れなかったので、天皇その他の表現の端々にこだわって受領拒否していたのでしょう。
痩せ我慢も限界がきて、江華島事件を契機にしてついにこれまでの非礼を謝罪して日朝修好条規締結になって行くのですが、これは仕方なしに締結したに過ぎない・・その後ずっと天皇ではなく王に過ぎないのに・・という不満があったのでしょう。
同じ冊封国家同士であれば自分の方が格上なのに・・という不満が日本統治時代にずっと続いていたように思われます。
それでも沽券こだわる程の実力がないということで、ガマンしてきたのですが、日本敗戦と同時に重しが取れたので早速「日王」という侮辱的表現に戻り、いまでも事あるごとに「日王が・・」と侮辱的表現に終始しています。
日本でインドネシア等の大統領を「酋長が」と新聞が翻訳しているようなものです。
これを喜んで日本の教科書や(文科省)が採用しているような国会議員の報告がありました。
曰く「教科書で聖徳太子の称号をやめて「厩戸皇子」になっている理由を問いただしたところ、生前このような故障で当たっというので、それは違う・・天皇家ではおくり名で書くのがルールではないか?混ぜ聖徳太子だけ無冠の時名称を教えるのだ?と問いただしたところ、「天皇の呼称だって日王」という主張もあるしと・・と言い訳したとのことでした。
この辺はユーチューブでちょっと聞いただけで記憶がはっきりしませんし、発言している議員の方も文科省の役人との応答を正確に記憶しているか不明ですが、文科省では韓国の主張に敏感反応している(日教組の影響の大きい点は仕方がないでしょう)様子です。
朝鮮民族にとっては、「日王」の蔑称こそは、どんなことがあっても取り下げられないということでしょうし、聖徳太子の存在は許せないことになっているようです。

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