朝廷による氏長者決定1(将軍宣下)

氏長者を朝廷が命じる例としては以下に見えます。
綱吉に関するウイキペデイアからです。

官歴

延宝8年(1680年)
5月7日、将軍後継者となり、従二位権大納言。
8月21日、正二位内大臣兼右近衛大将。征夷大将軍・源氏長者宣下。

将軍宣旨に関するウイキペデイア

近世に入ると朝廷の権威が失墜して、代わりに禁中並公家諸法度などによって朝廷にすら支配権を及ぼして「公儀」の体制と「封建王」的な地位を獲得した徳川宗家でさえ、その支配の正統性は天皇による将軍宣下に依存しなければならなかった。
事実、徳川宗家当主が家督相続直後には単に「上様」と呼ばれ、将軍宣下によって初めて清和源氏という権門の長である資格を証明する源氏長者の地位を公認され、同時に国家的授権行為が行われる事によって「公方様」あるいは「将軍様」となりえた事が示している。
そして、実際には「封建王」的存在として朝廷すら支配していた徳川将軍でさえ、将軍宣下と上洛参内の時には天皇を「王」、将軍を「覇者」とする秩序に従っていたのである。
征夷大将軍の辞令(宣旨)の例(徳川家宣)(「月堂見聞集」)
權大納言源朝臣家宣
右中辨兼春宮大進藤原朝臣益光傳宣
權大納言藤原朝臣基勝宣
奉 勅件人宜爲征夷大將軍者
寳永六年四月二日 修理東大寺大佛長官主殿頭兼左大史小槻宿禰章弘奉

(訓読文)
権大納言源朝臣家宣(徳川家宣、正二位)
右中弁兼春宮大進藤原朝臣益光(裏松益光、正五位上)伝へ宣(の)り
権大納言藤原朝臣基勝(園基勝、従二位)宣(の)る
勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく征夷大将軍に為すべし者(てへり)
宝永6年(1709年)4月2日 修理東大寺大仏長官主殿頭兼左大史小槻宿禰章弘(壬生章弘、正五位上)奉(うけたまは)る、

吉宗のウイキペデイアには、宣旨をのり伝えた貴族の記録(日記?)が出ています

徳川吉宗 征夷大将軍の辞令(宣旨)(光栄卿記、享保将軍宣下宣旨奉譲)
權大納言源朝臣吉宗
左少辨藤原朝臣賴胤傳宣、權大納言藤原朝臣俊清宣
奉 勅、件人宜爲征夷大將軍者
享保元年七月十八日
修理東大寺大佛長官主殿頭左大史小槻宿禰章弘 奉
訓読文)
権大納言源朝臣吉宗(徳川吉宗)
左少弁藤原朝臣頼胤(葉室頼胤、正五位上・蔵人兼帯)伝へ宣(の)る、権大納言藤原朝臣俊清(坊城俊清、従二位)宣(の)る
勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく征夷大将軍に為すべし者(てへり)
享保元年(1716年)7月18日
修理東大寺大仏長官主殿頭左大史小槻宿禰章弘(壬生章弘、従四位下)奉(うけたまは)る、

※同日、内大臣に転任し、右近衛大将を兼ね、源氏長者、淳和奨学両院別当、右馬寮御監、牛車乗車宮中出入許可及び随身の各宣旨を賜う。

ただし、ここでいう源氏長者は、武家の棟梁という意味でもなく源氏(皇族から臣籍降下した・・・武家に限らず嵯峨源氏〇〇源氏という貴族を含めた)全体の代表的名誉職みたいなもので、藤原氏の氏長者・私的総資産継承する実利権とは意味が違います。
・・・源氏長者が伝統的(例外がありますが)に「淳和奨学両院別当、右馬寮御監」に任ぜられてきた役職併記がその意味でしょう。
念のため。

応仁の乱以降の天皇家の窮迫1

八条院領がしぶとく生き残り、後醍醐天皇の経済基盤になっていたことを昨日書いたついでに、応仁の乱以降、古代からの荘園システムが壊滅状態になり荘園からの収入が皆無に近づいた戦国末期には天皇みづからがご宸筆等を売って生計を支える極貧状態となっていました。
命脈の尽きかけた朝廷を和睦交渉に利用できる限度で援助していた信長が、利用価値がなくなったと見て?明からさまに侮るようになった信長は、旧勢力(旧価値観)支持による(黒幕は誰かをいまだに歴史学者が説を唱えルコとすら出来ない?不思議な状態ですが・・)光秀に弑逆されました。
天皇家が売文で糊口をしのいでいた状態をどの本に書いてあったか忘れましたので、ネット検索すると以下の通り出ています。
ちょうど私の直感的意見通り応仁の乱以降収入源がなくなったことによるとも書いています。
https://bushoojapan.com/tomorrow/2013/10/26/8278

直筆の文書を売って生活するほどのド貧乏
このころの皇室は一言でいってド貧乏。後奈良天皇に至っては、直筆の文書を売って生活の足しにしていたほどの貧しさでした。
なぜそこまで生活費がなくなってしまったのかというと、応仁の乱以降に皇室や貴族の直轄領地が戦国大名などに奪われてしまっていたからです。
この頃の税は米がメインですから、米や作物を作っている領地が奪われれば当然収入がなくなってしまいます。
それでもたまに律義な大名もいたので、細々と食いつないでいくことはできました。
最も大切な即位の儀式や、崩御された天皇の葬儀を行うための資金がなかったのです。
どのくらい資金難かというと、亡くなって何十日もご遺体が御所に置かれたままだった方もいるほど。 この状態を何とか改善させようと、正親町天皇は勤皇家な大名や本願寺など、有力者との結びつきを強めていきます。
例えば即位の礼の資金を出してくれた毛利元就には正式な官位と菊・桐の紋を与え、同じく多額の献金を行った本願寺には門跡(皇族や貴族がトップになれる寺院)という特権を与えました。

正親町天皇に関するウイキペデイアにも同様の解説があります。

永正14年(1517年)5月29日、後奈良天皇の第一皇子として生まれる。
弘治3年(1557年)、後奈良天皇の崩御に伴って践祚した。
当時、天皇や公家達は貧窮しており、正親町天皇も即位後約2年もの間即位の礼を挙げられなかったが、永禄2年(1559年)春に安芸国の戦国大名・毛利元就から即位料・御服費用の献納を受けたことにより、永禄3年(1560年)1月27日に即位の礼を挙げることが出来た[1

現在平成天皇退位に関する諸儀式費用について、平成天皇即位時よりも簡素化して費用節減したらしいですが・・・秋篠宮様が大嘗祭は宗教儀式であるから公費支出はおかしいと発言して政治問題?になっています。
国事行為には即位、退位の礼が入っていますが、大嘗祭は宗教儀礼・内廷費から出すべきではないかという疑義です。
疑義は尤もとも言えますが、どの程度の儀式が宗教儀式に当たるかの高度政治判断に皇室が介入することの方に違和感を覚えた人が多いでしょう。
この決定は内閣の議を経て政府予算案となり、最終的には国会の議決により決せられる高度な政治行為です。
意見を言わないと国会で宮廷費から支出する予算案が議決されるのを阻止するための発言とすれば、国会議決に影響を及ぼそうとする政治行為そのものです。
政治の最高テーマである予算案の是非について皇室・・特に天皇退位後の次期皇嗣に事実上決まっている人が口出しすれば文字通り憲法上大問題です。
いまや経済大国なので正親町天皇の時代と違い実際にお金がない訳ではなく、その費用が国家経済にどの程の悪影響を与えるか?疑問の時代ですから、実利の問題ではなく政治的プロパガンダの類と言えるでしょう。
政教分離に関しては神社への玉串料等の奉納やちょっとした便宜供与は国家や市町村財政から見れば金額的には微々たるものですが、繰り返し憲法違反の訴訟が提起されてきたのも自分の利害に絡むからではなくオオカミ少年的?あるいは国民啓蒙目的でしょう。
国民啓蒙をいう人と自己顕示欲の発露との見極めが難しいものです。
予算案反対論が、そのお金支出によって特定産業や階層が圧迫されるなどの政治利害を背景にしているなら別です・・・民主主義政治とは、政治利害調整のためにあるのですから、特定政治利害に基づいて政治発言するのは(一般国民としては)合理的です。
利害がない場合、顕名欲?「皆の知らない正義を教えてやりたい」・・あるいは国の政治方向が間違った方向に行かないようにする公憤に駆られて行うのが普通ですが、天皇家の皇嗣になる予定のお方が特定利害代表して政治活動をしているとは思えないし、そうとすれば公憤発露?自己の政治的立場を宣伝したり、自己の見識を世間に知らしめる必要があるのでしょうか?
いずれにせよ今回の発言は政治影響力目的としか考えられません。
政治に影響力を行使したいならば、皇族の身分を離れて一私人として政治活動すべきように思われます。
秋篠宮が個人能力としてどれだけの政治見識があって、ちょっとした発言が大規模ニュースになったのか不明ですが、宮様の個人能力によって伝播力があるのではなく「皇嗣予定者がこういう公式発言をした」ということだけでニュースになっているとすれば、「皇嗣予定者・・皇室の地位利用の政治発言」と評価すべきではないでしょうか?
まして宮内庁長官が自分の意見を取り入れなかったことを名指しで批判していること自体、私人としての発言でないことが明らかです。
ところで、国事行為・特に儀式をどの程度やるかは幅の広い概念でその境界は微妙ですから、高度な政治決断・折々の国民がどの程度まで皇室儀式の盛大さを期待するかを読み込んで切り分けるしかない分野と思われます。
だからこそ憲法では、国民意識を敏感に感じ取るのに長けている内閣の助言行為になっているのでしょう。
戦国末期・信長台頭前の上杉や毛利が天皇家の儀式にどの程度出費援助するかは上杉や毛利など有力諸大名トップが高度な政治判断できめていたし、信長上洛後は信長の高度な政治判断によっていたのであり天皇家が自分で決めて割当ていたのではありません。
だからこそ国事行為の中に儀式を憲法で明記し、内閣の助言承認を憲法上の要件としているのです。
高度政治判断・・閣議決定まで経ている段階で、この決定に疑義を唱えて記者会見で発言する神経?が異常です。
一見皇室内の宗教儀式費用をを国民に負担させることに苦言を呈するようでいて、皇室が国事行為に口出ししたが、無視された不満を記者会見で公言したような印象です。
そもそも皇室の重要な人物が、高度な政治判断事項に口出していたことを自ら公開したことが驚きです。

壬申の乱前後の武闘時代2

豪族間の武闘中心主義社会の最後を締めくくった蘇我氏が、権力を握ってから専横政治をしたことを理由に中大兄皇子のクーデターによって失脚しましたし、平家も同様でした。
平家物語に始まり現在のいろんな歴史小説を見ても、我が国では古来から専横・独裁政治を嫌う風潮があることが分るでしょう。
以後鎌倉以降武家政権でも、専横を慎み合議を尊重する習慣に戻りました。
戦国時代を勝ち抜いた信長は蘇我氏や平清盛同様に過去の習慣・伝統に反して専横性・独裁性を強くし過ぎて本能寺で倒れました。
勝ち抜いばかりのときにはその延長戦の気持ちもあって、そう言う気持ちがないとやって行けないところがあるのでしょう。
唐の太宗のように「創業と守成いづれが難きか!」と重臣に聞くような区別意識がなかなか身に付かないものです。
どこの国でも長期の戦乱を鎮めた最後の勝者による政権が短命(春秋戦国時代を終わりにした秦の始皇帝、5胡16国(魏晋南北朝)時代をまとめた隋、院政期の騒乱をまとめた平家、応仁の乱以降の戦国時代をまとめた織豊政権など全て短命政権の宿命はこうしたところにあります。
独裁権力・専横政治は長い戦乱を武力統一した勢いのあるうちだけ可能なのであって、それでも直ぐに無理が出るのですが、幕末の井伊大老は(先祖は四天王の一人といて活躍したとしても彼自身)何ら武力面での実績もないのに、幕府という抽象的な権力(権力がガタガタになっているので強気を見せるために独裁権力行使を必要としたのですから、矛盾関係)によって独裁権力を行使しました。
歴史上の経験によれば、実績があっても戦時以外には独裁権力行使は無理が来るのに、なんら実績のない彼が幕府権威喪失著しい状態で役職上の権威のみに頼って独裁的権力を行使するとあっという間に桜田門外で倒れました。
乱世を統一したばかりの高揚期でさえも統一後の強権政治維持が難しくなるのに、政権末期の権威喪失を糊塗するための強権弾圧はかえって政権倒壊の引き金になり易いものです。
武断主義・独裁性の強かった天武天皇は一種の創業者としての強みで強行策の連発をしても生存中の政変がなくて無事病死でしたが、清盛だって混乱の中とは言え病死でした。
清盛の死後清盛の専横政治に対する反感があって(平家物語に出て来る平家批判は「奢れるものは久しからず」の精神だけです)源氏の天下に変わるのですが、もっと独裁制の強かった天武天皇死亡後どうなったのでしょうか?
天武天皇は自分が天智天皇の後継者を武力で倒したように自分の息子も倒されるのではないかと恐れていたらしく、天武天皇は天下をとってから軍事力の整備にはひとかたならぬ力を入れてました。
皇位継承者で日並(ひなみし)の皇子と称された草壁の皇子(こう言う特別な尊称を要求していた行為自体異常でした・・その後の皇太子にはこう言う尊称が私の知る限りですが、全くありません・・他の系列に皇位を行かせないという強固な意志表示だったでしょう)に対しても、必死に軍事訓練をしていました。
柿本人麻呂の「ひむがしの野にカギロイのたつ見えてかえり見すれば月カタブキヌ・・」の歌は、この皇子に対する調練開始の場面を描いたものであることを、09/24/05「独自日本の形成6(万葉集2)柿本人麻呂」のコラムで紹介したことがあります。
彼・皇太子が早死にした御陰で、持統天皇以降女帝が続きました。
中国では劉邦死後の呂后や唐の則天武后・清末の西太后等垂簾政治になるとやり過ぎる弊害がいつも起きるのですが、我が国の場合逆に女帝の連続による宥和政策が大和朝廷を安定期に導いたのではないでしょうか?

壬申の乱前後の武闘時代1

ここから先はどこかで読んだことによるつぎはぎ的知識に私の独断・思いつき意見を展開するものです。
この時期、朝鮮半島支配を始めたツングース族の高句麗との間で、百済を巡る戦争が続いていたことから、対外的必要から軍事能力の有用性が高まっていました。
平和国家・非武装政策こそ平和を守る最善の方法と言って諸国民の道義心に頼って安心していた日本が、中国の侵略的行動開始や、竹島騒動がイキナリ起きたので安閑としていられない・・軍事力の必要性に目覚め始めた現在と似ています。
周辺で武断的行動が頻発すると、自然とこちらも自衛のために武装強化・軍事意識が高まり軍人の地位が上がって行くのは自然です。
江戸時代に泰平の世を謳歌していたところに西洋列強が押し寄せて来た結果、幕末から明治に掛けて軍備増強が進み国民も血気盛んな人材が幅を利かすようになりました。
朝鮮半島では、日本と親交のあった百済がジリ貧になって来たので、百済の滅亡前から、・・亡命貴族や職能集団を受入れていたこと・・この結果多くの技術系渡来人・・◯◯職人集団を「◯◯品」として政権内に取り込んでいました。
(戦前ジリ貧の中国から多数の中国人エリートが日本に留学していたのと同じです)
彼ら職人集団をつかねていたのが蘇我氏で、蘇我氏自身が渡来人だったか否かは別として(渡来人説を読んだことがありますが・・)蘇我氏は渡来人的思考・武断政治に馴染んでいたことは確かでしょう。
縄文時代からの生活様式からすれば、例外に属する武力に頼る騒乱続きに飽き飽きしていた・・困りきっていた日本人の良心の象徴が聖徳太子であり、「和をもって尊しとなす」という思想に結実して行ったと思われます。
敗戦後全ての日本的価値が米軍によって否定されたときでも聖徳太子に対する尊崇の念を全面否定出来なかったのは、占領軍が天皇制を否定出来なかったのと同様に我が国の心そのものの表現だからでしょう。
古代での蘇我対物部の戦いに始まる戦国時代を締めくくった(中世戦国時代を終わりにした信長同様に)大海人皇子は即位後軍制の整備に意を注ぎ・・過去の大豪族らとの合議制を覆して独裁政治(皇族だけ相手にする皇親政治)に邁進しています。
独裁的政治推進に比例して各種大改革が実現し、現在の日本の基礎を築いた大君主に成ったのですが、(皇親政治)それまでオオキミ(大王)の称号であったのに、自分を秦の始皇帝のように自らを「天皇」と称し始める(それまでの国号「倭」を日本と改めたのも彼です)など信長が同様に大自信家でした。
ところで、大海人皇子を渡来人系ではないかという意見をどこかで読んだことがあります。
その根拠は忘れましたが、天智天皇が何歳も離れた弟である筈の大海人皇子に対して腫れ物を触るように気を使っていたのが私には不思議です。
即位後の天武天皇の政治のやり方が旧来の日本人とあまりに違い過ぎることや天智天皇の弟とするには年齢が何故かはっきりしないなどの問題がある(兄の天智天皇より年長だったという説もありそうです)上に、彼自身大男でもあってこれもおかしいと言えるようです。
何故大男と言えるかと言うと、文暦2年(1235年)天武天皇陵は盗掘被害にあって銀で出来た棺桶が盗まれたものの、遺骨はその近くに棄てられていたので、足の骨その他体中の寸法を測った調査記録が残っていて、これによると身長175センチメートルという詳しいことまで分っています。文字による我が国歴史の始まり(彼が日本書紀等の編纂を命じて史書が始まったものです)に位置する最重要人物である大海人皇子=天武天皇自身の出自がよく分らない(彼自身の出自がはっきりしない)ままになっているのはおかしなことです。
その後大和朝廷の実権が失われて行くので、朝廷内の権力争い目的の戦乱はなくなりますが、その後も蝦夷征伐や将門の乱に始まり源平騒乱から戦国時代まで国内戦乱が続いています。
(武家政権への移行期と見ることが可能です)

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