原発のコスト20(安全対策と事故処理マニュアル)

8月の夏休み期間中余裕があったので、(私はお盆休みをしないで事務所に出る習慣です)事務所に送って来ていた中央大学発行の中央ジャーナル掲載の論文を読んでいたら、30年前から大地震のないアメリカでさえ、電源喪失に対処する方策について研究が進んでいたと書いてありました。
これについて国会で質問された班目委員長が「それは知っているが、それについては業界できちんと対処するように指示している」(上記本を持ち帰っていないので、うろ覚えの趣旨ですからそっくりそのままの答弁ではありません)と答弁しているそうです。
原子力保安院は、業界に指示して業界が指示に従ってきちんとやったとしても、それで良いかをチェックする役所ですから、業界に対処しろと指示しておきましたと言うだけは存在意義がありません。
また同委員長は、浜岡原発訴訟の証人尋問でも、ジーゼル発電機を常時2台用意しておく必要がないかの質問に対して、
「一々心配して対応していたら採算が取れないので切り捨て行く・・物事には割り切ることが必要なのです」と子供のような質問をするなと言わんばかりの証言をしています。(この文言も記憶に基づくもので一字一句そのままではありません)
今回の大地震の余震(程度)であちこちの発電所が壊れて、あるいは送電網が壊れて青森県の東通原子力発電所でも2〜3系統あった全電源喪失が起き、予定通りジーゼル発電機が動き出したものの、その発電機が直ぐに故障して停まってしまいました。
もう一台の発電機は定期修理中で使えなかったので結果的に冷却装置が動かなくなってアワや福島第一原発同様の事故発生の直前まで行ったのですが、そのギリギリのところで1系統の電源が回復してことなきを得たらしいのです。
冷却装置が3時間半動かないと大事故になることは予めアメリカなどの研究で明らかになっていたらしいのですが、我が国ではそんなことはあり得ないと勝手に無視して、その先の研究・・もしもの電源喪失に対する対処マニュアルさえ用意していなかったので、イザ電源喪失してみると爆発阻止するために弁(ベント?)を開けるにしても手動で動かすマニュアルもなくどのように動かして良いかの検討から始まったようです。
勿論移動式の電源車の準備をしておらず、漸く準備して持って来てもどこに繋いで良いかの手順さえ決まっていなかったし勿論訓練もしたこともない有様です。
津波は想定外だったというのですが、今回程度の津波の高さ自体も地震学者による指摘がその前からあったのに、地震や津波に関して専門外の原子力学者らがこれを無視して、将来の研究課題として先送りしていたことも分ってきました。 
想定外のことだったのではなく、防潮堤のかさ上げや発電機などの高所移動にはコストがかかるので(そんなことを一々気にしていたらやってられないと言う姿勢で)無視していたたことも分ってきました。
また、上記の通り津波を伴わない単なる余震(東通の場合は震度4前後ですから我が国ではどこでもしょっ中ある地震です)だけでもあちこちの発電所が自動停止してしまい、東通原子力発電所に電気が来ない状態が何時間も続いて自家発電装置も止まり、もう少しで福島第一原発並みの大変な事態になる寸前まで行っていたのですから、大津波に関係なく電源喪失=冷却装置の停止リスクはしょっ中あり得る事態だったことも分ってきました。

藩札処理と富裕層の没落

廃藩になった藩の発行済藩札を政府で責任を持つと言っても、現在の民事再生法による再生計画同様に殆どが棒引きされ、残った僅かの債務を長期年賦で払うようなものでしたので、各大名家に貸し込んでいた幕末の豪商だけではなく・・各藩地元の裕福な人たちは殆ど全部破綻(リーマンショックで持ち株が紙くずになったようなものです)してしまい、新興の三菱などと入れ替わってしまうので、一種の社会革命を引き起こしたことになります。
鴻池や三井家など江戸時代から生き残って現在に連なる事業家も結構いますが、その時代その時代に合わせて儲けていけるフローの事業所得能力のある事業主は生き残れて、過去の蓄積だけを頼りに生きて行く・・新たな時代に適合出来ない事業主は没落して行ったことになります。
これは敗戦後の超インフレで、新円発行による既存有価証券等保有者の権利をほぼ全面的に奪ったのと同じやり方・旧資産家の没落・・能力と乖離している現状変更・・入れ替え戦を容易にしたことになります。
薩長土肥など有力藩の場合デフォルト状態ではなかった・・その領内の豪商はそのまま返済を受けられたのに対し,財政的に行き詰まっていたその他の藩では,デフォルト率・・市場価値が低かったでしょうし,まして朝敵側の領民は殆どがデフォルト状態の藩に貸したり藩札を保有していたのですから,殆どが無一文になってしまった可能性があります。
たとえば戊辰戦争で官軍が攻めてくると言う時に,領内の資産家は返してくれるかどうかの基準ではなく、ともかく求められれば資金供出に応じたでしょう。
明治になって,元朝敵だと言うことで不利だっただけではなく,戦火で家を焼かれ経済的にも困った人が一杯出たときに、領内等しくみんな貧しくなってしまっていて,困った人を世話を出来る裕福な人がいなくなってしまったのです。
デフレは既得権(高齢者は自分の過去の能力・大名など先祖の能力に頼って生活する人=現在の能力以上の生活が出来る)人に有利で、インフレは現役・・現在の適応能力のある人に有利に働くものであることは昔も今も変わりません。
我が国高度成長期のインフレは持てるものに有利に働いたのは、土地価格の高騰による諸物価のインフレだったから、土地所有者・・概ね先祖伝来のものでしたから社会適合能力以前の既得権益層に有利に働いた例外です。
ちなみに大名家発行済の藩札・・正式には当時藩とは言ってなかったので、私発行札と言うべきでしょうが、適当な熟語がないのでここでは便宜藩札と書いていますが、兌換を表面上約束していたようですが、徳川家発行の貨幣と違い金銀の裏付けを実際上持っていなかったので・・小切手や一種の社債みたいなものだったと言えます。
(特定商品引換券的な藩札もあったようです)
今で言えば破産や会社更生法適用申請の場合経営権がなくなりますが、民事再生法による申請の場合旧経営陣は経営を続行出来ますが、大名による版籍奉還はこれの明治版を狙っていたのです。
これに対して、大和朝廷成立時に服属した各地豪族は自分の領地経営に困っていた訳ではなく、中央での大勢が決まってしまったので仕方なしの服属・・豊臣政権成立後の徳川氏その他の戦国大名や関ヶ原後仕方なしに徳川氏に服属した大名と同じでしたから、内容実質が違っていたので中央集権化の貫徹が難しかった違いとなります。
いわゆる徳政令の代わりに、今の民事再生手続きみたいに何十分の一しか支払わないことにすれば、その代わりに経営者責任をとって貰うことになるのは当然です。
大手銀行や日本航空(今後は東京電力もその仲間入りでしょうが,)その他公的資金の注入を受けたり債券カットしてもらう以上は、経営者が責任を取って退陣するのが(法律の有無にかかわらず)普通です。
大名は版籍奉還をして(債務整理の責任を逃れて)も直ぐ知藩事に任命されたのでやれやれと思っていたら、廃藩置県と同時に07/19/05「藩の消滅(廃藩置県2)」で紹介したように突如無能呼ばわり「・・然ルニ数百年因襲ノ久キ或ハ其名アリテ其実挙ラサル者アリ・・・」とされて一斉にクビになってしまいます。
「万国ト対峙セント欲セハ宜ク名実相副ヒ政令一ニ帰セシムヘシ」・・・「政令多岐ノ憂無ラシメントス」と言うのは各地別に自主的な法令が施行されているのではなく全国統一の政令による・・すなわち中央集権国家化への方針の宣言です。
廃藩置県の詔書をもう一度紹介しておきましょう。

   詔書
朕惟フニ更始ノ時ニ際シ内以テ億兆ヲ保安シ外以テ万国ト対峙セント欲セハ宜ク名実相副ヒ政令一ニ帰セシムヘシ朕さきニ諸藩版籍奉還ノ議ヲ聴納シ新ニ知藩事ヲ命シ各其職ヲ奉セシム然ルニ数百年因襲ノ久キ或ハ其名アリテ其実挙ラサル者アリ何ヲ以テ億兆ヲ保安シ万国ト対峙スルヲ得ンヤ朕深ク之ヲ慨ス仍テ今更ニ藩ヲ廃シ県ト為ス是務テ冗ヲ去リ簡ニ就キ有名無実ノ弊ヲ除キ政令多岐ノ憂無ラシメントス汝群臣其レ朕カ意ヲ体セヨ
七月十四日(明治4年太政官布告 第353)

続けて次の太政官布告で07/20/05「藩の消滅(廃藩置県4)」で紹介した通り、大名だけクビになって家老(大参事)以下はそのまま働くことになります。

明治4年7月14日 (太陽暦1871年8月29日)明治4年太政官布告 第354
今般藩ヲ廃シ県ヲ被置候ニ付テハ追テ 御沙汰候迄大参事以下是迄通事務取扱可致事

版籍奉還(明治2年6月17日・太陽暦:1869年7月25日)に応じた大名にとっては、僅か2年後の廃藩置県(明治4年7月14日(1871年8月29日)と同時に失職するとは、思いもよらない青天の霹靂だったようです。
久光が騙されたと怒ったことはよく知られています・・。
九州場所で魁皇が勝つと花火をあげる地元ファンがいるのは有名ですが、ヤケでも花火を上げる事例が明治初年にはあったこととなります。

廃藩置県と藩の負債処理

話を明治までの地方の名称であった国から縣へ変えた意味に戻しますと、半独立性の強い区域を表す国から中間管理職・任命制の地方長官が管理する「縣」の漢字の意味に合わせたことになります。
国のママでは半独立性があって中央集権を貫徹出来ない恐れ・・奈良時代の律令制導入が失敗に終わった経験から国のママでは都合が悪いと思って国を縣に戻したことになります。
我が国では縣を地方制度トップにするのは初めてのことであって旧に戻した訳ではなく、中央集権制で3000年も継続して来た本来の中国の制度に戻したと言うことでしょう。
このとき中国の古い制度を真似するのならば郡が上にくる郡県制であるべきですが、明治時代の中国では既に郡制がとうの昔になくなっていて省府縣制であったことも影響があったかも知れません。
ちなみに、真水康樹 氏の研究によりますと、秦の乾隆帝(乾隆35年といえば1770年頃?)以降の地方制度は省府縣制(直隷州を含む)だったようです。
これは府の下に縣が来る制度ですが、我が国明治以降の府縣制度は府と縣を上下関係ではなく対等にしている(今も上下関係がありません)点が違っています。
省を第1級の行政単位とする清朝の制度が、現在の中華人民共和国の省制度に繋がっているのです。
明治の版籍奉還が成功したのは、江戸時代中期以降には殆どの大名家が財政赤字に苦しんでいたことにあります。
大名家を取りつぶすだけならば、その大名の借金に将軍家は責任がありません。
しかし,版籍をそのまま引き継いだ以上・・会社で言えば吸収合併したようなものです・・引き継いだ政府の方で責任を引き継ぐしかないでしょう。
各大名家では財政改革(上杉鷹山その他が有名な大名家がいくつもあります、佐久間象山など改革で名を挙げた人物もたくさんいます)が行われていたことはご承知の通りです。
徳川家自体では享保、寛政、天保の三大改革がありますし、財政改革にある程度成功していた大名家は少数だったからこそ、彼らは幕末に発言力を持つのです。
大多数の大名家では財政赤字のために元々窮乏の極みにあって、地元商人層からの借金で首が回らなくなっていただけではなく、領内流通の紙幣類似のものを発行していて(当時は藩と言う名称がなかったので藩札と言う概念はありません)これが財政赤字に伴い累増していたのです。
成功していた大名家でも幕末動乱期になると無理して洋式兵器を買いあさったり、戊辰以降の兵役に参加せざるを得なかったりして、緊急の軍資金確保(戦争参加には巨額資金が必要です)のために大量の大名家家発行の紙幣類似のもの・・結局は借用証文みたいな効力ですから、国債や社債に似ているものの、小口ですから小切手みたいなものだったと言えます。
財政改革に成功していた大名家でも、幕末動乱で資金を使いはたしていましたので大量発行の藩札(慶応4年6月の政体書で藩と言う名称が生まれていますので、版籍奉還の頃には藩札と言うのは正しい)を償還することが不能になっていました。
朝敵になったことで有名な長岡藩(河合継之助のいた藩です)その他経済苦境にあった大名家は、一斉の版籍奉還前から独自に領地返納の申し出でをしていたくらいです。
多くの藩では発行済藩札や豪商に対する借金の支払不能状態・破綻状態でしたので経営権の返上を望んでいたことにあります。
今で言えば、経営破綻した銀行や企業を国有化してもらって自分は経営権を維持しようとする虫のいい思い込みです。
財政赤字の責任を明治政府に持って貰って、自分は責任をとらないまま藩知事に残れると言う都合(虫)の良いことを考えていたのです。
政府の方もこれに応えて版籍奉還後元藩主を知藩事に横滑りさせた(古代の国造を郡司に横滑りさせた例もありました)ので大名の方は安心したのでしょう。
政府は藩を承継した形ですから借金の責任を取るのですが、版籍奉還直後から藩札(この時には正式に藩と言っていましたので名称はあっています)回収命令を出し、これを市場価格で査定して回収することにしていました。
幕末混乱期の財政難のために各大名家では幕末から明治にかけて膨大な額の発行をしていたことから、殆どの藩ではデフォルト状態ですから、市場価格での政府負担・償還となれば、藩札保有者・債権者は表面価格の何十分の一に低下した市場価格で政府発行の紙幣を受け取ることになります。
債券が大暴落した時に額面で買い取ってこそ政府保障の意味ですから、市場価格で支払うと言うのでは、政府が責任を持ってやった事にはならないでしょう。
明治政府の紙幣発行制度について、01/16/07「不換紙幣と中央銀行の独立性1」で少し書きましたが、日銀券の発行が1885年に始まり、統一紙幣になったのは1889年のことでした。
廃藩置県(明治4年)の頃には、政府発行紙幣さえ存在しない時代でしたので、実際に政府から紙幣を受け取れたのは何十年後だったようです。

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