漢字導入時の試行錯誤(縣の消滅)

郡縣、郡国制は後漢以降廃れて行き、我が国に漢字が入って来た5〜6世紀頃には、既に州と縣の制度になっていて郡がなくなっていたように思われます。
それならば何故我が国で國・国司の下に縣(コオリの当て字としての縣)ができず、中国ではなくなっていた郡が我が国で復活採用されたのでしょうか。
元々我が国では何々の國(くに)の下位に「コオリ・コホリ」と呼ばれる下位の行政単位・・地方豪族の治める単位があったのですが、これに縣を当てていた時期もあったのに、縣をこおりと読むのをやめて郡の漢字を当てるようになったいきさつを考えてみたいと思います。
郡縣制や郡国制では、天下・國の次にくるのは郡でしたから、ある程度中国の歴史を勉強して漢字の意味内容が分ってくると、全国をいくつかの國に分類した(州にしなかった)以上は、この段階(大宝律令制定時)で下位の組織として郡が来るべきであって(縣は郡の次に来る組織単位ですから)縣が郡に取って代わられたのは論理的です。
では郡の下に縣(あがた)が何故生き残れなかったかですが、その下となると郷や里ですから単位が小さすぎて元々アガタヌシの領域を当てていた縣を当てることが出来なかったように思います。
広大な中国の制度をそのまま狭い我が国に全部持ち込むのは無理がある筈ですが、加えて州縣制を前提にした制度と郡国制の両立では地方単位が重複してしまいます。
当時世界最先端の唐の制度・・専制君主制の州と縣制にするのは日本の発展段階からして無理があるとして、遣唐使の時代からすれば5〜600年前になくなってしまった国と郡の制度を換骨奪胎して利用することになったものと思われます。
漢字導入以来徐々に中国の真似して取り込んで来た制度のうち、國の規模が違うので何かを省略するしかなかったのす。
州の代わりに國を導入しましたが、(それでも政府の制度採用は別として州を國と読む用法が入っていましたので、九州や関八州などと國を州に当てる用法が副次的に我が国に残っています)既に使用していた縣をどうするかです。
縣が漢字導入の始めの頃にコオリやアガタに当てて使われるようになったのは、漢字が入って来た経緯によるでしょう。
漢字が入って来た当座は、(5〜6世紀)最初から中国の歴史が分りませんから当時中国に存在していた地域的行政単位を國や縣と言うらしい程度の知識から始まった筈です。
(魏晋南北朝・5胡16国の國が乱立していた時期で、既に郡国制や郡縣制は消滅していました)
乱立している我が国のクニに國を当て、次の地方単位である縣に我が国のコオリ・コホリを当てることから始まったのは自然の成り行きです。
魏志倭人伝は、平成23年4月28日に書いたように中国側で我が国の地域名称に魏の国制を当てはめて翻訳して紹介しているのです。
何世紀か過ぎて中国の歴史や制度内容が詳しく分ってくると地方単位でも皇帝や国主の信任する人がその行政を預かるのを縣と言うのが分って来ます。
我が国のアガタヌシの治める地域をこれに当てるようになってある程度の独立性のある地域を國と使い分けるようになってから、縣をアガタと読むようになった可能性があります。
縣を当初はコオリと読む時期があって、その次にアガタに変化した・・時間差があったことになります。
大和朝廷成立前には諸勢力が乱立していて、これら乱立する地域を「くに」と言っていて、これに國の漢字を当てていたのです。
その「くに」が周辺地域を併呑して大きくなって来て、いくつかの部族を統合した大きな「くに」が出来た頃には配下武将支配地域をアガタと言うようになっていたものと思われます。
当時の中国では地名としては、後漢以来の何々州が存在していましたが、勢力範囲としてはこれに一部またがる國名を使っていた複雑な関係でした。
我が国の「くに」はその前に地名らしいものがなかったので、これが原始的地名を兼ねていたので、現在まで古い地名として残ってるのですが、中国の場合、州名が地名として残った上に後から魏晋南北朝の乱世となって勢力範囲・國が州境を越えて来たので、州名と国名がズレて重なった関係になっていました。
我が国の戦国末期の大名が隣国と更に隣の國の一部を併呑しているような関係です。
大和朝廷成立時に半独立国で朝廷の権威に服属した地域を従来通りの國と言い、大和朝廷成立時の支配下の武将をアガタ・アガタヌシと言って使い分けていたのではないかと言うのが、4月30日に書いた推測でした。
郡縣制は秦時代の制度ですし郡国制は私の知っている限り後漢の終わり頃にはなくなっていたので、漢字導入直後ころには郡と言う漢字は自然の交流・・日常会話的には過去の漢字として入って来てたとしても一般的でなかったでしょう。
漢字の入って来た当時の中国の制度として地名などに「どこそこの國」、「どこそこの縣」が頻繁に使われていたので、それぞれ支配下領域をクニに当てて、(やまたい国と言うなど)くにの支配下の地域・・こおりに「縣」の漢字が利用されたと思われます。
国造(くにのみやつこ)に國と言う漢字を当てるようになったころには、大和朝廷成立後のことでしょうから中国で言う國の制度も知られていた筈です。
國のヌシは皇帝の子供が封じられていることが分って、ミヤツ子=宮の子・大王の子を擬制する我が國の風習とも一致したと思われます。
親子さえ擬制すれば世襲制であり半独立性があること、域外の服属国・・朝貢国類似の関係などその他すべてが一致していたのです。
これに対して縣の長官は世襲制ではない・・単なる代官的立場の人が治める地域でしかないらしいと分かるのですが、それならば國をアガタと読めば良いようなものですが、日本古来の「くに」の名称をなくすわけにはいかず、他方で既にアガタは國の一部として定着していたので、今更國をアガタと読み替える訳にはいなかったのでしょう。
また地方の単位ではあっても、國の次の単位は縣ではなく郡であったことも分って来たので、郡に取って代わられたと思われます。
ですから縣をこおりと読んでいた次期があるとしても、郡と同時期に縣もこおりと読んでいたのではなく時間差があることになります。
こんないきさつから縣の漢字の利用がなくなってしまったのではないかと言うのが私の現在の到達点です。
辞書等のない時代にいろんな人・ルート経由で少しずつ入って来た漢字の当てはめに、思考錯誤する期間が長かったのは仕方がないことです。
物品の名前と違い國の制度は微妙に違うので(相手の制度も変わるしこちらも変わるなど)制度が安定するまではくるくる変わっても仕方がないでしょう。
日本では将軍の名称が同じでも、鎌倉・室町初期・室町末期・江戸時代の将軍は、時代・時期によって権力構造はまるで違うことが明らかです。

国造から郡司へ(国郡里制)

律令制以前からあった国造は、みゃつこ=宮の子の意味ですから、中国で王族を国王に封じたのを真似したのかとも言えますが、元々我が国では、降伏した相手の神を祭る習慣があり、我が国古来からの智恵の現れとも言えます。
前回書いたように被征服民族や服属民族を皆殺しに出来ないので、これらを融和することが古代から必要でした。
自分の会社を大きくして行くばかりではなく、M&Aで大きくして行く場合の話です。
今のように地下資源目的の戦争ではないので、征服するのはその土地にいる労働力を入手することが目的だったからです。
造(みやつこ)は大和朝廷の大王の子の扱いですが、事実は地方服属者でしょうし、後世発達する猶子制度の先がけだったかも知れません。
國造と縣・あがた主の並立は、当時の中国の制度をそのまま真似せずに我が国の実情に合わせて漢の郡国制と同様の混合政体を採用したものと思いますが、朝廷は先ずは被征服王朝の代表者を大和朝廷・・大王の子供扱いに優遇して融和を図ったものと思われます。
江戸時代までに確立していた国名・範囲は何時からのものかを知りませんが、『隋書』倭国伝によれば、6世紀末から7世紀初頭頃には約120の国造が置かれていたようですから、(これは論文ではなく思いつきコラムですので原典に当たっていません・・)江戸時代まであった国の大きさ・範囲とは違うようです。
きっちり数えた訳ではないので数字は正確ではありませんが、一般に日本60余州と言われていたことから見ると江戸時代の2倍の数・・面積が半分だったことになります。
(当時と今では朝廷の勢力範囲が違うので面積的には3分のⅠくらいだったでしょうか?)
律令制によって国郡里制が始まる・・前提として従来の国造支配地を「評」(コオリ・コホリ)とする大化5年の再編行為(国評里制)がありました。
(大宝律令に「郡」が記載されているので、その前から郡制だったような解釈が主流でしたが、あちこちから出土した木簡にこの記載があったので分ったのです)
地域単位を我が国の言葉では「コオリ・コホリ」と表現していて漢字輸入に伴いいろいろな漢字をこれに当てていた時期があったのです。
「評」だって中国からの漢字輸入によるのですが、大宝令まで何故「郡」を使わずに「評」だったのかも不思議です。
それまでは高句麗経由だったのが、思想関係も直輸入になって変更されたのかも知れません。(この辺は私の空想です)
英語の勉強で「ネイテイブの発音は違う」と教えられるようなものです。
国造の支配地を評(コオリ)としていたのですが、この「評」を郡と言う漢字に大宝律令で置き換えたので、これらいくつかの集合体の上に國を作り直せば、国司が郡司の上に位置する監督官の地位を設けるのに無理がなくなりました。
ちなみに國評里制から律令制で国郡里制に変わったときに、国造が郡司さんに横滑り出来たのは上記のとおり元の国造の行政区域を「評」と言い換えて「評」の主に変更していたからです。
このときに領域も少し変えたようですが・・どこをどう代えたのかの詳細は不明ですが、今で言えば中選挙区を小選挙区に変えたようなもので、従来の国造の支配領域はぐっと狭くなりました。
(元国造ではない郡司も新たに出来たことになります)
中国では郡衙も縣衙も中央政府任命による官吏の運営する役所ですが、日本の郡司は国造の改名・横滑りしたものが中心ですから世襲的・半独立終身官が基本です。
律令制で出来た国司こそ中央任命制ですから、中国の郡長官あるいはこの頃には一般化されていた州長官(後漢以降一般的となっていた刺使)と命名すべきでしょうが、郡の上に、州ではない国名を持って来た・・定着していたので州に変えられなかったのでしょう・・関係からか、刺使(長官)でもないし国主でもない中途半端な「国司」(我が国の造語・和製漢語かな?)と言う名称になったように思えます。
ところで、我が国の地方制度は唐の律令制だけではなく中国古代からの郡縣・郡国制を参考にしていたし、地方単位をコオリ・コホリと言いこれを縣にも「評」にも当てていた時期があったのですが、縣だけ古代の制度では何故消滅して行ったか(1200年後の明治で郡縣をひっくり返して復活したか)です。
国造のあった時代には、昨日5月1日に書いたように、服従度が高い意味で並列的にアガタ主の治める地域もありましたが、律令制施行・・中央集権化の強化目的により全国を大和朝廷が直接支配する國に再編し直しました。
半独立地域と直接支配区域に区別する必要がなくなり、全部をアガタ主の治める地域にするか全部からアガタ主を不要にするかしかありません。
古代からの豪族の力を弱めて中国並みの直接統治制度を目指した朝廷では、豪族支配を前提とする県主も邪魔になったのでしょう。
全国統一の国司派遣制度にも反するので、この機会に朝廷成立の功臣・アガタ主の特権を奪ってしまったものと思われます。
ちなみに天武天皇の制定した「8色の姓」ではそれまで存在していたアガタヌシの姓(かばね)「あたい・直」がなくなっています。
ヌシは、大国主のみことの神話でも知られているように神話時代からの由緒ある姓の1つでした。
そしてアガタ主に当てていた漢字「縣」も利用されなくなって、明治維新まで来たと言うのが私の推測です。

国造と縣主2

 

元々我が国では源氏や平氏と言っても武士集団の棟梁として担がれる貴種でしかなく、自前の直轄領地・直轄軍は微々たるものでしたし、頼朝も義経も自前の軍を持っていませんし、足利政権も直属軍事力の少なさで参ってしまったのです。
直属軍事力の増強に努めた戦国大名でも自国領内を直接支配していたのではなく、国人層と言われる小豪族を通じての間接的支配でしかなかったのです。
上杉謙信の映画など見ても分るように、あるいは信長自身が尾張国内で頭角を現して行く様子でも分りますが、小豪族がその都度あちらについたりこちらについたりして(きっちりした主従関係がないのですから当たり前です)それぞれの閉鎖された国内の主導権争いが展開されて行きます。(離合集散)
戦国大名の能力は、物語を見ていると戦上手だけが(この方が面白いので)クローズアップされますが、実際にはその前提たる諸豪族の統合力・・多数派形成・人心収攬・政治力に多くがかかっていたのです。
この延長できたのが、最近まで採用されていた衆議院の中選挙区制と県単位の政治です。
県政は県知事の権力は総理と議会の関係に比較すると大きいのですが、それでも地元政治家の意見を無視しては何も進みません。
古代の国司が地元有力者の郡司達に実権を握られていくのと似ています。
小選挙区制になると政治的熟練・訓練が不要になって、熟練度よりはマスコミ受けが良いかどうかなどイメージ先行になって行きます。
一般に何々チルドレンと揶揄されるようになったのは、こうした未熟練政治家が輩出した現象を言い当てています。
戦国末になってくると一定地域内・国内統一が出来上がり、国境線にいる小豪族以外はまさか他所の國の大名についたり出来ませんから、一定の主従関係類似の安定関係になって行きます。
国境線付近以外の真ん中の小豪族が隣国大名と通じたりしたら、たちまち血祭りに上げられるだけですから、主家・・と言っても域内盟主・・覇者程度・・の関係滅亡を見越した時しか敵につくことはあり得ませんが、国境線の小豪族の場合、逆に先に攻めて来た方になびかないと全滅の憂き目にあってしまいます。
以前下克上について書いたことがありますが、本来の主従関係で家来が主君を裏切って討つなどと言うことは滅多になく、殆どは域内諸豪族間の力関係で不本意ながら主従類似の同盟軍にならざるを得なかった状態下で、敵方に寝返ると言うのが殆どです。
長篠の合戦の引き金になった長篠城は、三河衆の奥平だったかがこの論理で、一時武田方についていたのが信玄没後の落ち目を見て今度は徳川方に着いたことによって、勝頼から報復攻撃を受けたのが始まりです。
話を戻しますと、何十万石の領地を貰って赴任してもその何十万石が全部自分の収入ではなく、在地小豪族の収入の合計でしかないので、そこをうまくやって行かないと戦国大名と言えどもやって行けません。
合戦で勝って大名を滅ぼして、その地域が支配下に入っても、収入面で見ると、滅ぼした相手の直轄領地と一緒に滅んだ有力武将の領地だけが勝った方の支配地になるだけです。、その他の全地元豪族を追い出してしまうことは不可能です。
首をはねた有力武将の内部もいくつかの小豪族をつかねているだけですから、その直轄領地は僅かでしかありません。
12/27/04「農分離3(外様 ・戦国大名の場合)兼業農家の歴史1」以下のコラムで書いたことがありますが、小豪族は地元農業の主体(半農半士)でもあるので、それを根こそぎ追い出すことは不可能だったのです。
この理は、アメリカに負けた日本で、天皇権力がマッカーサーに取って代わられただけで、連合軍司令部は日本の官僚機構をそのまま使うしかなかったのと同様です。
むしろ占領地に残った元敵方の軍事力を(将棋の駒のように)自分に仕官させて有効利用して行くのが普通でした。
肥後の國の一部の領地を貰った佐々成政が、国人層との折り合いに失敗して失脚してしまった例がそうですし(加藤清正や細川家はうまくやりました)、土佐の大守として赴任した山内一豊が、長宗我部の遺臣・・結局は地方豪族・国人層の扱いに苦しんだのも同じです。
山内一豊が関ヶ原の功績で土佐23万石を貰っても、彼ら地元豪族の集合収入ですから、山内家自体の直接収入をどう計るかの悩みで最後まできたのです。
土佐の高知城へ行けば分りますが、23万石の大々名の天守閣と言っても内装はきゃしゃな造りで、(民家園並みです)如何に財政が苦しかったかが分るような印象です。
(天守閣にまで居住部分があるのは大したものだとも言えますが・・・)
現在の大手企業でもそうですが、内部に入ると一人が何百人何千人に直接号令するのではなく、一人が5〜6人に意思表示してこれを受けたものがそれぞれ更に5〜6人に伝えて行く・・・多層な意思伝達段階があって成り立っています。
号令一下形式ではなく重層的支配関係が我が国の民族的特徴です。
このように縣(アガタ)は、古代においても大和政権成立時に既にかなり服従度の高くなっていた地方豪族・地域を意味していた直轄支配地であるものの、中国のように中央集権的に直接支配をすることが出来ず、徳川家のように地元豪族に治めさせる必要があった地域ですから、中国の縣とは本質が違います。
支配構造の比較的強い地域を中国の制度に倣って縣・アガタと言い、支配下の豪族をアガタ主(中国の知事・・刺史と比べて「主」ですから地元定着性が強い)と解釈すれば、同時期に地域別にアガタヌシがいたり、服属したばかりで独立性の高い地域に国造がいたりした並立関係の理解が可能です。

國と縣1

原発や地震で有名になっている福島県の中通りや浜通の呼称、長野県で言えば松本市を中心とする地域と信濃川流域の地域の意識差などを見ても縣制度施行から既に百年前後経ってもいくつかの国が一緒になった殆どの縣で一体感はなかなか出来ない・・今でも張り合っていることが多いものです。
ただし、千葉県の場合、上総下総あるいは安房の國と行っても、間に峻険な山脈がある訳でもなく、いずれも元は房、総(ふさ)の國でそれほど気候風土の違いがないく、はりあう気風は全くありません。
(律令制前の国造の時代には1つの総の國となっていましたが、その後3カ国になったものです)
この状態で各県に政令指定都市が続々と出来てきましたので、行政単位としての県の存在意義が軽くなってきました。
郡単位の行政上の仕事がなくなって行き、生活空間の広がりによって「こおり」の実態がなくなってくると「郡」の漢字を「こおり」と読む人が少なくなって行き、いつの間にか消滅しそうなのと同じ運命が縣にもあります。
村をムラと読まないうちに市に合併してしまった市原市のように、縣制度に関しては日本中で誰も訓読みをしないうちに道州制になると縣の訓読みがいよいよ進まないでしょう。
従来の小集落の名称であったムラに代えて行政組織として出来た「村」でも、時間の経過で一体感が育てばこれもムラと読むようになった例が多いように、県内で生活圏として一体感をもてれば、縣を「くに」あるいは「こおり」と訓読みする人が増えたのでしょうが、殆どの人がそう思わないまま現在に来ています。
今は気候風土よりは鉄道沿線別一体感の時代で、千葉県で言えば、総武・京葉沿線と常磐沿線では日常的交流が少ないので一体感が持ちにくい状態ですし、これは首都圏のどの地域でも同じでしょう。
結果的に各鉄道の合流地域である首都圏・名古屋圏・大阪圏と言うような一体感の方が進んでいる状態です。
その結果、縣の訓読みが定着しないまま現在に至っているのですが、「縣」を古代に使われたアガタと読むのは古文や史書の世界だけであって、今の用語として復活して使う人はいないでしょう。
古代でもアガタ主は日本書記にあるもののその実態が不明なようですが、(書記に書かれている成務天皇自体実在したか否かさえ不明なのですが、)これは神話であって編纂した時の政権に都合良く時期を遡らせたものですから実際の時期は違うとしても、律令制以前に大和朝廷に服属した地域の豪族をアガタ主として支配機構に組み込んで行ったらしいことが分ります。
地方豪族の勢力範囲を縣(アガタとかコホリ)と言うとすれば、当然勢力圏に関係なく気候風土で区域を決めた国の方が大きくなります。
元々神話的部分なので国造とアガタ主の関係がはっきりしないのですが、(ものの本によっては対等だったり、国の下位に県がある筈とする後世の考えの類推でアガタ主を下位に想定するなど)その分布を見ると東国では国造が多く畿内以西ではアガタ主が多くなっているようです。
これは、早くから大和王権の支配が及んでいた(大和王権成立までには直接戦って勝敗が決していた)畿内・西国方面では地方政治の担い手を王権代理人としてのアガタ主として(直属家臣のような官僚機構類似の関係になり)、まだ充分に支配の行き渡らない東国では服属した地元豪族をそのまま国造にして行ったので、東国に国造が多くなっていると言える(私の独自推測)ようです。
中国の古代制度で言えば、直轄地と外地の服属・朝貢国の関係です。
(豊臣秀吉も天下平定最後の頃には全面征服(叩きつぶ)して行かずに、本領安堵で支配下に組み入れる方式でした・・これに従わない小田原の北条氏が抵抗して消滅したのです。)
また、徳川氏も自分の本拠地近く(現在の関東甲信越)では直属の家臣(譜代大名)中心ですが、本拠地から遠い西国・東北の大名はその殆どを本領安堵しただけの大名で占めています。
ただし、我が国の場合、直轄地と言えども基礎は小集団の連合体ですから、直轄領地内でも中国のように専制君主制で貫徹することは出来ず直臣の大小名に分割統治を委ねざるを得ない点が本質的に違います。
政権樹立時に徳川家が把握していた本来の直轄地の殆どが、服属地域と同じ大名支配形式を基本にしていて、その後も功労者(例えば大岡越前や田沼意次など)を大名に取り立てるたびに幕府が代官支配する直轄収入地は少なくなる一方でした。

国と郡

中国に関する歴史物の本では魯の国などと春秋時代から国名があったかのように書いているのがありますが、後に漢以降地方に封ぜられた王族の領地を「何々国」と言うようになって何々の国の呼称が定着した後に、地方制度として昔から国があるかのように安易に書いているに過ぎないように思います。
あるいは我が国で地方を信濃の国の人と言うのに習って、中国の地方・地域名を表現する翻訳として中国の地方も同じように魯の国などと翻訳している場合もあるでしょう。
何とか通りと言う地名表記の国の表示を、我が国のように何丁目と翻訳しているようなものでしょうか?
西洋の地方制度は日本とは同じではないとしても、似ているような組織を日本の町や村として翻訳しても間違いではないのですが、中国の地名に勝手に「何々国」と翻訳して書くと同じ漢字の国であるから、我が国同様に昔から何々国と言っていたのかと誤解し易いので、こうした場合、翻訳しないで中国で使っている漢字のまま書くべきです。
ところで春秋戦国時代は地方制度がきっちりしていなかったようなので、史記や18史略を見ても斉の桓公とか衛の何々、楚の懐王と書いているだけで国や州等の肩書きがないのが普通です。
官僚派遣の郡縣制は始皇帝が始めたものですし、郡国制は漢になって中央派遣の郡縣だけではなく、王族に封地を与えて半独立的統治を認めた折衷制度して始まった制度です。
外地の服属者に対して国と表現するのが元々の意味ですから半独立国を言う意味だったでしょう。。
春秋時代には地名に肩書きがないのに、我が国の文筆家らは我が国の習慣で当時も我が国のような地方制度があり・・地方は何々の国となっていたかのような思い込みで書いているのです。
魏晋南北朝時代を別名5胡16国時代と言い、我が国で室町時代末期を戦国時代と言うときの「国」とは半独立国が乱立している状態を意味するでしょう。
我が国古代で何故地方の呼称に・・・國と言う漢字を当てたかのテーマに戻ります。
上記の通り漢の頃から南北朝時代まで独立・半独立地域名として主流であった地域の肩書きを我が国の地域名に輸入して「・・國」としたと思われます。
唐の時代に律令制が我が国に導入されたのに大和朝廷直轄のみやこ以外の地域名を州や縣とせずに国としたのは、大和朝廷では唐ほど中央権力が強くなかった現実に合わせたのかも知れません。
しかし、我が国古代の「國」は漢字の成り立ちである四角く囲まれて干戈で守っている地域ではなく、(国ごとに対立している地域ではなく)一定の山川で隔てられた地域・・当時で言えば広域生活圏をさしていたに過ぎません。
その結果、我が国における国とは都に対する地方を意味するようになり、国をくにと訓読みするようになって行き、「くに=国」は故郷・出身地をさすようにもなりました。
我が国の「くに」の本来の意味は、昔も今も自分の生国と言うか生まれた地域・地方を意味していて、それ以外の地域の人と区別するとき・・ひいては・現在では自分の地域の範囲が広がって日本列島全体を「わが」国(くに)とい言い、異民族に対する自国、本邦を意味して使っているのが普通です。
すべて同胞で成り立つ日本列島では、相模の国、伊豆の国、駿河の国と言われても、あるいは河内の国、摂津の国、大和の国と山城の国とでも国ごとの民族的争いがありませんので、現実的ではなかったでしょう。
ただ、大和朝廷の威令がそれほど届かない地域・・服属している地域と言う意味だけで中国の国概念と一致していただだけです。
国の範囲は実際の生活圏と違っていたし、国単位で隣国と争うような必要もなかったので、その下の単位である「コオリ」が一般的生活単位として幅を利かすようになって行き、上位概念の国名や国司は実体がないことから空疎化して行ったのではないでしょうか?
ちなみに「こおり」は我が国固有の発音であり郡(グン)は漢読みですが、国より小さい単位だからと言うことで郡と言う漢字を当てて、これを「こおり」と読んでいたただけのことでしょう。
ところで、この後で書いて行く縣の読みについては古代では「アガタ」と言っていたことが一般に知られています。
しかし、ものの本によると「縣」の発音として「コホリ」と読む場合もあったようです。(どこで見たか忘れましたが・・・)
我が国古代の生活単位としては、先に「コホリ」や「コオリ」が存在し、これを中国伝来の漢字に当てはめて使っていた漢字導入初期の試行錯誤が推測されます。
我が国では大和朝廷が律令制に基づいて押し付けた生活実態に合わない「国」よりも小さい・・現実的生活単位として、「コオリ」乃至「コホリ」が使われていて、これに縣や郡を当てはめていたことになります。
このコオリ単位の行政運営が江戸時代末までコオリ奉行による行政として続いていたのです。
律令制が始まっても国司は郡司さんの意向を前提に政治をするしかなく、郡司が実力者だったと言われる時代が長く続き、江戸時代でも1カ国全部を支配する大大名は全国で何人もなく、郡単位の支配である大名が普通でしたし、江戸時代でもコオリ奉行が現実的行政単位だったのです。
徒歩で移動している時代が続いている限り、古代から明治始めまでコオリ単位が現実的な行政単位でしたが、明治になってその下にいくつもの莊を合わせた村が出来、村役場、村単位の小学校、戸籍整備その他が進んで来たので、中間の郡単位の仕事がなくなり郡役所もなくなりました。
村を合わせた上位の行政単位として明治政府は郡よりも大きな縣を創設しました。
実際交通手段の発達等により、小さな郡単位どころか従来の「くに」単位よりも大きな規模で行政する必要が出て来たのでこ、広域化政策自体は成功でした。
郡よりも大きな経済規模が必要になったと思ったら、古代からの国単位では狭すぎるとなったのですから、我が国では古代から現在まで国単位では何も機能していなかったことになります。
もっと広い県単位の行政が普通になってくると郡は無駄な中2階みたいで具体性を失い・・精々地域名として残るだけになったのでコオリと読む習慣も廃れて行き、今ではグンと漢読みするのが普通になり、コオリと言う人は滅多にいません。
縣の名称も明治政府のイキナリの強制まで日本での日常的使用例がなかったのですから、これは今でも(市原の人に限らず全国的に)音読みしかなく日本語読みが全く定着していません。
漢読みしかないと言うことは、その制度が現実的な意味が根付いていないことになるでしょう。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。