「公権力とは距離を保つ」是枝監督4

是枝監督は、カンヌで受賞し天狗になってしまい、日本人など相手にする必要がないと思ったのか?・・民意を甘くみたら、あっと言う間にネットで反撃される時代です。
日本人と距離を保つために外国で活躍したら!というツッコミが入るのはすぐでしょう。
そのうち(発言には責任が伴うことを知り)彼もうっかり自由な発言できないと思うようになると、日本には言論の自由度が低いと主張する一人になるのでしょうか?
映画の題名を上記で初めてみましたが、例によって、「万引き家族」という(題名だけでストーリーや内容不明ですが)最底辺らしい風景を描いたものが国外受けするらしいです。
そういえば20年ほど前に受賞作「うなぎ」という映画を見たことがありますが、これも千葉県佐原市(2006年から合併で香取市になっています)の茫々たる水郷地帯の外れに社会から落ちこぼれて孤独に生きる人が主人公だったような記憶です。
この頃佐原書に逮捕されている刑事事件があって、何回か佐原警察署に接見に行く事が重なったのも偶然でしたが・・。
北野武監督の「花火」という映画もヤクザっぽい筋で現在日本社会にありえないような筋でしたが、こういう日本社会にありえないような(お前は知らないだけだと言われるでしょうが)暗部を描くと外国受けするようです。
京都の綺麗な庭園を写さずに裏のゴミ捨て場を写して日本は汚いぞ!と発信するような人たちです。
「子供を大事にし助け合い暖かい社会のイメージを誇る日本といっても、実態はこんなもの」と蔑みたい気持ちが外国(特に西欧先進国)にはあるから欧米受けするのでしょう。
カンヌ映画祭などで受賞しなくとも戦後一世を風靡した「青い山脈や「24の瞳」あるいは美空ひばりなどの明るい歌声が、敗戦で打ちひしがれ、住むところも焼かれ、食うに困っていた国民をどれだけ元気付けたかしれません。
三波春夫や三橋美智也の盆踊りの歌の数々・・・私が育った子供の頃を思い出すとカンヌ賞受賞など関係ありません。
日本の海外受賞映画って、国民意識とずれているのが多い・・市場評価を受けられない印象です。
ミスユニバースなど日本ではほとんど誰も問題にしないのと同じで、選考価値基準を疑う人が多いでしょう。
財政赤字を問題視したい勢力が国内で相手にされないと、外資・格付け会社に頼んで?何年か前に日本国債格付けを後進国並みに引き下げたことがありましたが、その直後から日本円が急騰したことがあります。
財政赤字はコップの中のバランスに過ぎず、本当に危機が来るかどうかは国全体の国際収支の長期トレンド・・対外債権債務の帳尻が重要であることは子供にもわかることです。
この4〜5ヶ月の南欧諸国や南米の通貨危機を見て財政赤字率は日本の方が高いので日本も「他人事とは言えない」と頻りにメデイアが主張しますが、財政赤字で国家の危機が来るのではありません。
自己主張が国内で相手にされない一定の困った人がいるのは確かですが、そういう人にとっては「国内言論状況が息苦しい」となり、海外評価に逃げる・自国の悪口を言って褒めてもらうしかないのでしょう。
言論市場を独占していた時には、「バカな事ばかりいって困った人たちだ」と国民の多くが思っても反論せずに黙ってくれていた過去が懐かしいことでしょう。
国民にとっては、メデイアの偏った不合理なことを言われっぱなしで、長いあいだ我慢してきたのです。

※本日9月30日現在、約20日間サーバーの不具合によるメンテナンス中で新規アップできず、日々生起するニュースに触発されて日々コラムを書く習慣が途切れていたので、ここ1週間ほどはウオーミングアップ期間で、9月13日あたりの分から過去に書いていたものをちょっと手直ししてアップする状態が続いています。
日々のニュースと関係なくなるので迫力がなくなりますが、しばらくの間ご容赦ください。
早く現実の日に追いついて、その日の話題に感じたことを書きたいと思っていますのでよろしくお願いします。

「公権力とは距離を保つ」是枝監督3

反日的行動というか自己集団帰属意識を否定するのに熱心な集団・・(たまたま今年7月6日頃と7月26日頃の2回に分けて全員一斉死刑執行されましたが・・)オーム真理教のように社会全体レベルから見れば高学歴の医師や科学者等が参加していましたが、個々人で見ればその職種の社会・東大卒や医師、学者弁護士その他の集団内では落ちこぼれの疎外感があったのかもしれません。
共産党その他革新系野党では高学歴者を揃えるのが基本志向ですが、(具体的に誰がどうというようには知りませんが・・・子供の頃によく見た映画で言えば、剣道や柔道で腕がいいが心根が悪くひねくれてしまった人物が悪役で出てきます)いずれもその分野では5〜6流ということではないでしょうか?
ついでに、ここで偶然のことですが、死刑について少しばかり考えが変わりましたので、ここまでのテーマと関係がないのですが、ここで少しだけ書いておきます。
たまたま送られてきて事務所の机上にあった中央ロージャーナルを7月20日頃に何気なく読んでいたら、貴族院での死刑廃止論の議事録が掲載紹介されていました。
今回の執行とは関係なく読んでみたら、明治時代の刑法改正に際してせっかく改正するならば、世界先端思想で行こうという意気込みがエネルギーになっている感じ・今でも、先進国で死刑が残っているのは少ししかないとか似たような議論が主流ですが・・)ですが、それだけではなく、結構論理的な議論が行われていて、現在の教条的決まり文句と違って、意外に説得力があったので驚いたばかりです。
死刑廃止論に対する認識を新たにしましたので、(「少しまともな議論を読んだな」というだけで今でも死刑廃止には賛同できません)取り敢えず報告です。
ここで是枝監督の「公権力とは潔く距離を保つ」(7月9〜10日に書き始めたシリーズの続きです)のテーマに戻ります。
ついでに→公権力=地域や所属社会と距離を保つ是枝発言に対するネット反応を見ておきましょう。
ネット反応は、今風の解釈下で育った年代らしく「自国公権力に距離を保つ」点を問題にしないで、世界の「公権力一般からの距離」を前提にフランス公権力の賞を受けたり日本政府から助成金をもらっている矛盾だけをついています。
http://freezzaa.com/archives/3248には以下の意見が出ているようです。

第一に、「公権力とは潔く距離を保つ」と言うが、カンヌ映画祭はフランス政府という公権力が主催するイベントではないのか。
第二に、『万引き家族』の制作に際して、文化庁の助成金を貰っているではないか。文化庁は文部科学省の外局であり、日本政府という公権力の一部ではないか。
第三に、それでいながら、ニュースにあるように、林芳正文科大臣の正式な祝意と招待を拒否するのは、もっと矛盾していないか。
要は、是枝監督は、公権力の日本政府から支援を受けて、公権力の外国政府の主催する賞を貰っているわけです。
よって、是枝監督は口では「潔く距離を保つ」と言うが、公権力とその政治的意図から独立や中立を保っていることを「行動」で示しているとは、とても言えない。
だいたい、助成は数千万円とも言われている(正確な額を監督自身の口から公表してほしい)。政府からそんな「掛け捨て金」を貰った人が言うセリフだろうか。
しかも、フランスの公権力の祝意は受けて、なんで日本政府の祝意は拒否するのか。
さらに、文科省から映画制作の資金を貰っておきながら、当の文科大臣からの正式な祝意と招待を拒否するとは、どういうことなのか。公権力に対する政治姿勢云々以前に、それが金をくれた――「借りた」ではない――相手に対してとる態度なのだろうか?
それだったら、最初から文化庁から金を貰うべきじゃない。

上記によれば「外国政府からの受賞は嬉しいが、日本政府からは受けたくないと宣言しているのがおかしい」と言うだけで反日性を非難していません・・・思想表現の自由は反日思想かどうかを問題にしない点を理解している?偉い!
是枝氏は、国益に協力したくない思想→自己中心主義・・共同体利益を無視したい精神でしょうか?
人は一人で生きられないから、何かの集団に属して生きるしかないものですから、自国公権力の目指すもの=国益とは距離を保つという意味は?どこの集団利益のために生きると言うのでしょうか?
日本国内のどの集団?もみな日本国の構成単位です。
どの集団も孤立しては存在し得ないので、どこかのさらに大きな集団に属しています。
日本国内にある集団は、日本国益に(補助金を得ていることが報道されていますが、直接的援助だけでなく間接的にも)依存している筈ですが、そう言う恩恵・・国益などなんとも思わない自己利益中心の集団があって、そこに属していると言うことでしょうか?
会社員が、会社の恩恵で生きていながら、いつも会社の不平不満ばかりを社外に言いふらしているようなものです。
結局はどこのため?→外国のための活動とすれば、日本政府からの勲章や栄誉はいらないが、外国政府からの勲章ならば喜んで受けるのは当然というか彼の言葉からいえば「潔い」ことです。
私は映画内容も助成金も知りませんでしたが、(ネット時代は便利です)親の援助で成功した人間が親とは距離を置くと言って格好つけている青い人間のように見えます。
社会を歪んで見る意見もひとつの立場ですが、国民多数の支持を受ける意見ではあり得ません。
反日的?発言は憲法で「自己実現」と保証されているし格好いい・・これがメデイア界の主流なのでしょう。
「自由な発想や発言は結果的に国益に資する」と習ってきた私のような古い世代から見れば、国益に役立たず敵国のため役立っても「自己実現すれば良い」という?「歪んだ?」見方は、わさびや香辛料程度の役割ですから、これを有難がる立憲民主党などの革新系が国民多くの支持を受けられない原因です。
こういう歪んだ考えでは、ネットの発達した国内ではすぐに批判されるので、言論の自由がないと思うのでしょう。

「公権力とは距離を保つ」2(是枝監督)

日露講和条約時の7博士意見書以来書いてきたように、メデイアが対露強硬論を煽ってこれに共鳴した庶民による焼き討ち騒動を起こしましたが、その当時はまだ民意による政治の建前が弱かったので、政府は無視できたので無事講和条約成立しました。
April 10, 2018,「7博士意見書と学問の自由1」で詳細を書きましたが、空理空論に対して当時の政府は
「伊藤博文は「我々は諸先生の卓見ではなく、大砲の数と相談しているのだ」と冷淡だったという。」
と相手にしないで済んだのです。
その後普通選挙実施等による選挙制度拡充に伴いメデイアによる扇動効果が大きくなり、政治家はメデイアのあおりを無視できなくなっていきます。
アメリカは日露戦争で日本を極端に応援して、満州からロシアを追い出し、続く第一次世界大戦で日本に対して相応の権益取得を認めたのは、日本の応援をしておけばその後の満州進出にアメリカが一枚噛める思惑があってのことでした。
日本もその辺は知っていたのですが、「尊い血を流して獲得した満州死守」のメデイアの大合唱で、政治家はアメリカの逆鱗を買う「満州独占支配」しか選択肢がなくなったのです。
この辺はApril 15, 2018,「メデイアと学者の煽り8(軍国主義肥大化へ2)」にも書きました。
ここからアメリカの対日オレンジ作戦→日本の孤立が始まり、ひいては軍事突破戦略しか無くなっていきます。
国内政治ではメデイアは政府のあら探しばかりで、これに呼応する野党が国会審議妨害ばかりでまともな政策論争ができなくしてしまったことにより、国民が政治家に愛想をつかしてしまった・・これが純粋に国の将来を憂うる清廉イメージのある軍部(未熟な若手将校)への期待感を高めてしまった原因です。
天皇機関説事件に始まってメデイア界が根拠のないあら探しばかりをして、(今の森かけ問題集中・官僚のセクハラ暴露も「政治家や官僚に任せて置けない」という国民意識を醸成するのがメデイアの主目的である点は戦前同様です。
メデイア界は・・戦前政治に及ぼした自分らの悪行を棚上げして被害者イメージばかり広めて自己反省をしない結果、戦前のあら探し報道に回帰している流れです。
せっかく始まったばかりの議会政治を政策討論よりは揚げ足取りの不健全な方へメデイア界が引きずり込んでしまったことが日本の政治を窒息させていった反省がありません。
戦前の戦争責任論としては、上記のように、世論を戦争方向へ誘導していった(3・15〜2・26事件等では違法行為は許されないが、「政治のあり方を反省する必要がある」かのようなメデイアお得意の事実上の応援論調が大きかった)これに反する政治家や学者を葬るのに大きな役割を果たしてきました。
メデイア界は対外強硬論に協力させられた被害者のような主張ですが、むしろ帝大7博士による強硬論以来何かと言うと対外強硬論の煽り中心で、国際孤立を避けるために日米和平を模索していた政府を袋小路に追い込む役割を果たしてきたのが他ならぬメデイア界です。
戦前の政治家も今の政治家も、政治家はメデイアの煽る世論動向に左右される役者の立ち位置でしかなく、権力=政策決定の方向を決めてきたのが映画監督に当たるメデイア界であったという厳然たる事実認識・・反省こそがメデイア界には求められています。
「公権力と距離を保つ」是枝発言は、戦争方向へ誘導していた第四の権力とまで言われるメデイアの責任にほっかむりして、「権力」という意味不明の主体に責任転嫁して映画界が(権力に協力」させられた被害者のごとく責任転嫁して「事足れり」としているメデイア界の開き直り・すり替え姿勢そのままです。
無色透明の権力が勝手に方向を決めるのではなく、権力=政策方向づけに当たってメデイアが大きな役割を果たしてきた点の理解が足りないか、あえて知らんぷりしているのではないでしょうか?
戦前「抑圧」国家体制が出来上がって行った原因と戦後の変化をみない・・戦後70年以上の経過で社会が大きく変わっている現実を見る目がない・・・見たくない人が日本の(戦前でもありえない環境設定)暗部を「創作・(捏造して)?」映画にして海外で日本の暗部だと宣伝する。
これが格好いい文化人?の仕事だと信じているのでしょうか?
NHKテレビ小説「おしん」は戦前の貧しい農村部の生活を描いたもので現在日本社会の状況として描いていませんが、是枝監督は(映画を見ていないで不明ですが題名等から察するに)、現在日本という時代設定で映画を制作しているように見えます。
これが後世に残ると当時の日本はこんな社会ではこうだった例として利用されるモデルになっていくのでしょうか?
映画が本当に日本社会の現実を描写したものか?仮に、本当に存在する核心を描いたとしても日本の現実には滅多にない変な・醜悪な部分を拡大して描くと国を代表する監督として国外で表彰されるのでしょうか?
「万引き家族などあるわけがない」という批判が起きれば、慰安婦騒動の「吉田調書」同様に「フィクションで何が悪い?」となるのでしょう。
幕末から明治にかけて浮世絵などがジャポニズムとして西欧文化に大きな影響を与えましたが、日本の醜悪な部分(仮にあるとしても)を日本国民が国外宣伝する意味が日本のためにも国際的にもあるでしょうか?
国内で発表してみんな豊かになったわけではないから浮かれないで、こう言う人もいると警鐘を鳴らすのは意味がありますが、海外発表して国内に持ち込む意味があるのでしょうか?
中韓等で日本の悪口を言いふらして喝采を受けて表彰された場合、帰国して日本政府から「よくやった表彰する」と言われると居心地が悪い人が多いでしょう。
こう言う人が、日本政府の表彰を辞退したい気持ちになるとすれば潔いことです。
『国益』や『国策』と一体化し、大きな不幸を招いた過去の反省に・・」というのですが、国益や国策に反することが映画の使命であるかのように公言するとは驚くべき主張です。
国益とは国民の利益であるべきでしょうし、国益に資する政策を国策とすれば、民主国家における国益に資する方策決定=民意そのものです。
民意にも誤りがあるでしょうが、「民意と一体化すれば(常に)大きな不幸を招く」かのような言い回しには飛躍があります。
誤りが後に分かるコトがあるとしても民意で決まった政策→法律をみんなが守る義務があるし、法で強制されなくとも一定の方向が決まれば(お祭りその他の行事など)率先して協力するのが良き共同体員の生き方でしょう。
彼の論法によれば、是々非々ではなく常に「民意」・地域共同体や地方自治体=公権力との一体化を拒み「距離を保つ」べしと言うかのようです。
国策=政府方針と常に距離を置く=何でも否定的反応→反対しかないのでしょうが、こののちに紹介するように、カンヌ映画祭出品作品は政府補助金を得て製作していると言うネット批判が早速出ています。
国策の内容に関わらず常に距離を置くと言うからには、国の補助金だけ貰えるものは貰う/困った時には救急隊や警察の助けを借りるのって矛盾していませんか?
個別に救援されたり補助金をもらうから目立つだけで、個別の援助がなくとも一定の集団に属する場合には、その組織の運営による恩恵・・我々弁護士会でいえば、良い仕事をする弁護士のおかげでその他弁護士も信用されるが悪い弁護士がいると他の弁護士の評価が下がる関係.自治体や国でいえば、共用施設・・公的空間や街路樹や街灯ガス水道・医療施設その他治安の良さなど・・税で運営されている恩恵を受けて生きているのが普通です。
いわば属する組織や集団と関係がないことなどあり得ないのに、自分の都合の良いトキだけ「距離を置いたり縮めたり」が許されるか?という常識の問題です。

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