モラルハザード5(権利の2元性1)

こんな風潮がまかり通っていると、その内せっかく働いたお金を差し引かれるのは納得出来ない・ひどい役人だなどと言い出したらきりがない・・ことになりそうです。
今でも「せっかく働いても引かれてしまうのでは損だから・・」と考えている人が多いのですが、(失業保険受給期間中に働いたら損だと言う発想の人も根が同じ発想です)どこか狂っていないかと思うのは私だけでしょうか?
こうした風潮の結果、失業保険受給期間中に就職すれば奨励金のような一時金が支給されるようになっていますし、生活保護からの脱出を応援するために働いたお金全部を差し引かない運用になっているようにも思いますが、妥協策と言うべきでしょうか?
生活保護費支給は、現在では憲法25条によって認められた生存権という権利の具体化ですが、元はと言えば「可哀想そうだから人並みの生活が出来るよう・・」にと言うことから始まっているものです。
いろんな善意による恩恵・・事柄が権利に昇格する傾向の社会ですが、元々の権利・・不可譲の権利と言うと大げさですが、「貸したら返して貰う権利」、「売れば代金を貰う権利」、「働けば賃金をもらう権利」など、古代から当然存在する権利と、社会が豊かになって障害者保護や生活保護、教育を受ける権利など、元は恩恵だったものが今では権利と称されています。
検査の結果障害者が生まれて来ると分っていても、「私には子供産む権利がある・・」「子供は育つ権利がある」という意見であえて出産を強行する人が出て来ています。
特定の難病と分っていながら出産し、その子のために月何百万という治療費がかかっても母親は当然の権利だという顔で、障害者のために頑張って行きたいとテレビに出て如何にも正義実現のために戦っている闘士のような意気込みです。
権利にも太古からの権利と社会の了解・思いやりで成り立っている擬制的権利の2種類があると思いますが如何でしょうか?
擬制的権利は障害を持って生まれてしまえば仕方がない・みんなで見るしかないという思いやりから始まって、肩身の狭い思いや遠慮することのないように権利にしているだけであって、障害をもって生まれるのを知りながら権利だから・・と出産をあえて強行されると「誰が税の負担をするんだよ・・・」という気になるのではないでしょうか?
生活保護も同じで、勝敗は時の運・・長い人生一敗地にまみれることもあるし、運悪く病気して働けないこともある・・こういうときには助け合うしかないというのが、事の起こりであって、元祖・権利ではありません。
権利とは言っても、給付を受ける基準は窓口の役人のさじ加減やその役人の御陰で給付される訳ではなく、社会みんなの温情で給付を受けるようになっている・・国会で定めた法の基準で決まるのだから、役人の基準の解釈誤り・意地悪の結果、法で定めた基準以下の給付しか受けられなかったら法(あるいは憲法の精神に反しているかどうかを)に違反しているかどうかを裁判所に訴えることが出来るという意味で「権利」になっているのです。
リーデイングケースとなった有名な朝日訴訟の最高裁の判決を紹介しておきましょう。
(最大判昭和42.5.24 民集21.5.1043)
「憲法25条1項はすべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るように国政を運営すべきことを国の責務として宣言したにとどまり、直接個々の国民に具体的権利を賦与したものではない」とし、国民の権利は法律(生活保護法)によって守られれば良く「何が健康で文化的な最低限度の生活であるかの認定判断は、厚生大臣の合目的的な裁量に委されて」いる。

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