ロシアの脅威(幕末対馬・不法侵入事件)4

幕末の欧米が通商を求めて次々とやってくる中で、ロシアの海軍が対馬に実力上陸して居座る事件が発生しました。
ウィキペデイアによると以下の通りです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E8%BB%8D%E8%89%A6%E5%AF%BE%E9%A6%AC%E5%8D%A0%E9%A0%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6ロシア軍艦の進出
ニコライ・ビリリョフ
文久元年2月3日(1861年3月14日)、ロシア帝国海軍中尉ニコライ・ビリリョフは軍艦ポサドニック号で対馬に来航し、尾崎浦に投錨し測量、その後浅茅湾内に進航した。
対馬藩内では対応を巡って、武力での排撃を主張する攘夷派と紛争を避けようとする穏健派で論争が起こり藩内は混乱した。宗義和は事を荒立てず穏便に解決しようと接しながらも、問状使をポサドニック号に派遣し、その不法を何度か詰問した。しかしロシア側は無回答を貫き、優勢な武力をもって日本側を脅かしたり、住民を懐柔したりし、木材・牛馬・食糧・薪炭を強奪または買収して滞留の準備を整えた。またロシア水兵は短艇を操って沿岸を測量し、山野を歩き回って野獣を捕獲したり、中には婦女を追跡して脅かす水兵もいたため、住民は激昂し、しばしば紛争が起こった。
ビリリョフ艦長は対馬藩に対し藩主への面会を再三要求し、3月23日には芋崎の租借を求めて来た。ロシア側としては強引に対馬藩に租借を承諾させ、これを既成事実として幕府に認めさせる思惑であった。対馬藩では対応に苦慮し、面会要求を拒否しつつ、長崎と江戸に急使を派遣して幕府の指示を仰いだ。
江戸に戻った小栗は、老中に、対馬を直轄領とすること、今回の事件の折衝は正式の外交形式で行うこと、国際世論に訴えることなどを提言。しかし老中はこの意見を受け入れず、小栗は7月に外国奉行を辞任することになる。
5月26日、交渉に行き詰まった対馬藩では藩主謁見を実現せざるを得なくなり、ビリリョフは軍艦を府中に回航し、部下を従えて藩主宗義和に謁し、短銃、望遠鏡、火薬および家禽数種を献じ、長日滞留の恩を謝した。しかしロシア側は芋崎の永久租借を要求し、見返りとして大砲50門の進献、警備協力などを提案した。対馬藩側では幕府に直接交渉して欲しいと回答して要求をかわした。沿道警備にあたった藩内士民はロシア兵の傲岸な態度に激怒したが、辛うじて事なきを得た。
イギリスの介入
7月9日、イギリス公使ラザフォード・オールコックとイギリス海軍中将ジェームズ・ホープが幕府に対し、イギリス艦隊の圧力によるロシア軍艦退去を提案、老中・安藤信正らと協議する。
7月23日、イギリス東洋艦隊の軍艦2隻(エンカウンター、リンドーブ)が対馬に回航し示威行動を行い、ホープ中将はロシア側に対して厳重抗議した。しかし実はこの時点においてオールコックも、イギリスによる対馬占領を本国政府に提案していた(8月2日付・坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社)。
また老中・安藤信正は再度、箱館奉行・村垣範正に命じてロシア領事に抗議を行わせた。これまでビリリョフの行動をそのままにさせていたロシア領事ゴシケーヴィチは、イギリスの干渉を見て形勢不利と察し、軍艦ヲフルチニックを対馬に急派し、ビリリョフを説得。文久元年8月15日(1861年9月19日)、ポサドニック号は対馬から退去した。
3月から9月までの6ヶ月間も他国に侵入して居座って、何ら根拠もなく租借の要求をしていたのですから、いわば強盗行為です。
強盗に押し入った者が、「家屋敷の一部を寄越せそこに住み着くから・・」と要求しているような事件でした。
上記ロシア軍艦の幕末対馬への実力上陸は、日露の外交交渉が成立して函館を開港場として、ロシアは函館に領事を置いて平穏な付き合いがはじまってからのことですから、対米戦争敗戦時の不可侵条約破っての満州侵入同様の酷い話です。
日露通商条約は以下の通り安政2年1855年締結であり、対馬上陸事件は1861年ですからこんなことが白昼公然と行われるのでは何のための和親条約締結か分かりません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E5%92%8C%E8%A6%AA%E6%9D%A1%E7%B4%84
日露和親条約(にちろわしんじょうやく、露: Симодский трактат)は、安政2年12月21日(1855年2月7日)に伊豆の下田(現・静岡県下田市)長楽寺において、日本とロシア帝国の間で締結された条約。日本(江戸幕府)側全権は大目付格筒井政憲と勘定奉行川路聖謨、ロシア側全権は提督プチャーチン。
本条約によって、千島列島の択捉島と得撫島の間に国境線が引かれた。樺太においては国境を設けず、これまでどおり両国民の混住の地とすると決められた[1]。この条約は1895年(明治28年)に締結された日露通商航海条約によって領事裁判権をはじめ全て無効となった。
以下は函館日ロ交流史研究会の記事からです。
http://hakodate-russia.com/main/web/hakodate-russia/
箱館開港
 ロシアは樺太・千島・蝦夷地に早くから開港を求めていたが、ロシアに先立ちアメリカがペリー提督を日本に遣わし、幕府は1854年(安政元)日米和親条約を結び、箱館・横浜・長崎を開港しアメリカ船に薪炭給水食料の補給を許した。
 1854年(安政元)日露和親条約が締結され、箱館にロシア領事館が置かれることになった。」
上記函館日ロ交流史研究会の記事では安政元年となっていて、1年早くなっています・・どちらが本当か今のところ私には不明ですが、何れにせよ日ロ間では正式に外交条約が結ばれているのに、条約無視で実力行使してくる始末です。
幕府は無断上陸したロシア艦隊・条約無視の違法行為を自力で追い出す軍事力がないので困っていたところでイギリスが動いてくれて追い出してもらったのでことなきを得ました。
この時イギリスの仲介解決がなかったら(その分イギリスに借りができましたが・・)大変でした。
対馬は海路遠く離れている関係で援軍を送って戦端を開いても、当時日本には洋式軍艦ひとつない・・海軍力のない我が国が防衛しきれたか不明の状況でしたから、その内ロシアの要求に妥協するしかなかった可能性がありました。
そうなるとその他列強も「遅れてはならじ」とばかりに我先に各地で占拠〜租借地要求事件が起きたでしょうから、幕府も手がつけられなくなり、清朝末期の中国のように国内は租借地だらけになっていた可能性があり、重大な事件に発展するところでした。
こうしてみると1904年の日露戦争前からの日英同盟の下地・日本の英国頼りの信頼感は、この頃から準備されていたことになります。
最近EU離脱の影響からか英国の日本接近が急ですが、日英同盟復活?気運が出ていることに、(経済面の結びつき・対欧州の経済・貿易関係も日本企業の多くが英国を足場にしてEUへの輸出していることが知られているとおりです)多くの日本人はそれほど悪い気がしないのはこうした歴史があります。
幕末の乱暴な行動を見てもロシアという国は、(韓国もいくら国際合意しても自己都合によって簡単に破る国ですが)せっかく平和条約を締結しても相手が抵抗できないとなれば、何のトラブルもなくとも条約破棄してすぐに侵略してくる国であることは、対米敗戦の時の日ソ不可侵条約破棄の前から分かりきっていたことです。
その上ロシアは未だに北海道全土に対する領土意欲を隠していないし、これに呼応するかのように「もともと日本の領土ではないアイヌの土地だ」という運動体が国内で着々と育成されているのですから、平和条約締結さえすれば済む簡単な話ではありません。
以上がロシア軍による6ヶ月間に及ぶ対馬実力占領行為に対する顛末ですが、ロシアの条約無視・武力万能・・強盗的体質は日本敗戦時の満州侵入の時だけのことでないことを肝に命じておく必要があるでしょう。

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