ジェンダー論3(軍事政権化と男子支配)

超古代・・縄文時代から稲作開始にかけての有史以前の集団生活は、もともとは女性集団が築いた生活基盤であるのにオスが次第に常駐するようになってこれを乗っ取ってしまったのではないかと考えられます。
古代から続く軍事政権・・軍事統制権に基づいて女性集団の支配権を獲得した構造・・これを大は王朝から豪族・地域小権力→小さな武士の集団→庶民の男子が家の諸権利の形式的主宰者になってしまっている後ろめたさ(・・実際に集団を担って働いているのは女性集団なのに)に対する正当化の論理として、「女性が子を産み育てる間働けないから、男子の稼ぎに頼るようなった」と言うフィクションが造られてまことしやかな説明が一般化して来たのだと思われます。
しかし、農村社会では女性グループの助け合いで十分機能するので、一人の女性が一定期間働けなくともどうってことはありません。
このことは集団内で一定期間誰かが病気しても集団(男がいなくとも)で管理している限り農作物を育てることが可能なことから見ても明らかです。
後にグループ生活・ルームシェアーなど書いて行きますが、産院や保育所や幼稚園は女性が主として担っていることから見ても、女性グループだけで維持出来ないことはあり得ません。
 (園長さんや理事長さんだけが男性である意味がないでしょう)
元々男集団が時々狩り(放浪の旅)から帰って来て種付けに来るだけで、その他の期間は女性集団の労働だけでなり立っていたのが漁労採集の時代でした。
出産育児中の生活も(昔も当然女性は子供を産みましたよ!)男が定着する前から女性同士の助け合いで成り立っていたのですから、妊娠出産育児中に身動き出来ないメスのために小鳥のようにオスが餌を運ぶような現在の擬制(フィクション)は誤りです。
その内日本列島も中国の商業社会に組み込まれて行くと縄ばり争いが始まり、稲作適地が減って来るとその分捕りあいが始まりますし、農耕も空き地を利用して始まったうちは良いのですが、(卑弥呼の時代には)集団間の抗争が頻発するようになり、用心棒として臨時的に採用した男がトキの経過で継続的に駐留するようになります。
緊張状態の継続で一種の軍事政権が成立し、継続的にその集団内の指揮命令権を掌握し、ひいては食料その他財物の分配権も掌握し乗っ取ってしまったものと思われます。
国難に際して外敵撃退のために一時的に軍政権を委ねた男が掌握した軍事力を利用して、(古代ローマのカイザルの例や、フランス革命時のナポレオンが有名です)そのまま支配者に居座ってしまったようなことが規模の大小の違いはあれ、小さな集落にも発生していたことになります。
江戸時代の庶民の例で言えば、生産に従事しない(勿論タマに手伝うでしょうが・・・)農村の男はすることがなくてお祭りの準備や博打にうつつを抜かしていて、生産活動の多くは実際には女性が担っていたのが実情でした。
それでも男名義ですべて経営される仕組みでしたが、働き手の女性の地位は実質的に高かったのです。
(これに対して遊牧・長距離交易社会では女性の地位が名実ともに低いのは、生産活動の主役ではなかったからです)
明治以降賃労働(給与所得)に変化すると、農業と違って寝ている間にも稲が育つ関係ではなく、出産前後・子育て期間(農業の場合、野口英世の例にあるように)母親は子供をおんぶして家事労働したり畑の近くに転がしておいて農作業していたものでしたが、賃労働ではそうはいきません・・仕事に出られなければ直ちに収入がなくなります。
今でも自営以外で子供をおんぶしながらできる仕事は、滅多にありません。
賃労働→結婚退職・・子を産んだ女性の恒常的失業状態が一般化してしまったのです。
農業社会では、男が家出してしまっても残った家族の農業収入に殆ど変化がありませんが、給与所得社会では女性が子育て中で失業状態下ですから、給与収入を得ている夫が帰って来なくなるとたちまち家族が飢えてしまいます。

ジェンダー論2

以下ジェンダー論の基礎になっている男子が経済支配権を牛耳るようになった経緯を推論して行きます。
女性だけの古代集落・ドングリなど採集段階では女性だけで間に合っていたのでしょうが、集団間の争いが起きて来ると臨時に用心棒が必要になったものと思われます。
映画「7人の侍」(この場合は男がいたのですが戦闘力がないので武士が雇われたのですが・・・)のように頼んだところ、オスが常駐するようになって居座ってしまった・乗っ取ってしまった結果の正当化論だと言うのが私の推論です。
ドングリを拾って生活する時代から稲作の始まり頃までは女性集団でまにあっていたのですが、その内集団間の争いが起きると戦闘員としての男子が必要になり、戒厳令下に似た軍事緊張状態が続いているうちに軍事支配権・内部統制権を獲得して行きます。
現在のように民主化が進んでも、イザ戦争になれば軍事戦略優先ですから、すべての内政に優先して執行される・・軍事政権化することを防げません。
この期間が50年も100年も続けば、一時的に政権運営を任されていたに過ぎない軍事政権の司令官が、国主のように振る舞うようになるのは洋の東西を問わないところです。
軍政府は本来は一時的なもので平和になれば戒厳令を解除して軍政を返上すべきですが、これが恒常化して幕府政治になってしまったのが鎌倉以来の政治でした。
幕府政治が確立して天皇権力が名目的になって行ったようなことが古代卑弥呼(例えばこの頃という意味で代表名詞に使っているだけです)の時代に起きたように思われます。
象徴的な国家の大事については卑弥呼に伺いをたてるとは言え、実務権力は次第に弟の男子に移って行った流れが見えます。
(地域小集団であるムラでも存亡に拘る重要事項では巫女のお告げが重視されましたし、国難に遭遇した幕末に朝廷に裁可を求めたのは同じ流れです。)
これを小型化した家庭で言えば、奥さんを「おカミさん」と言い・・我が国では重要な決断をしなければならないとき(転勤や「次、君が社長を引き受けてくれないか」と言われたときなど・・)には、「妻と相談して返事します」と応えるのが一般的慣習です)この歴史があるからでしょう。
我が国では「家は女性のもの」という牢固とした観念があって、男が威張っていてもどんなに立派な人物であっても、奥様に家に置いてもらっているような居候的性格をもっているのはこうした歴史・・オスが後からやって来て乗っ取った歴史があるからです。
どこの世界でも王権の樹立・集団統制には軍事力が必要ですし、軍政権を握る男が経済運営権をも牛耳るようになっていた事実の辻褄合わせ・正当化論を庶民に及ぼしているに過ぎないでしょう。
言わば、集団・民族の危機に際して活躍した将軍・軍事政権がいつまでも民主政権(元は女性集団の自治でした・ローマで言えば共和制)に権力を返還しないで来たことの正当化論を、小型化して庶民の夫による家政掌握権に及ぼしたものです。
ちなみに平安朝は軍事政権でないかのように誤解しがちですが、元はと言えば大和王権は軍事力で成立したことについて誰も争わない事実でしょう。
これを取り巻く大貴族も元はと言えば王権成立時に功のあった諸豪族(これも同じくその地域を軍事力で統一していた軍事政権)が後に爵位(これは現在用語であって当時は官位)を貰って貴族(当時は公卿)と言うようになっただけです。
代を重ねて行くうちに自らの武力がなくなって行ったので貴族は軍人ではないかのような印象で語られていますが、これは武門の棟梁であるべき足利氏が北山文化や東山文化を生み出し、戦国大名の勝ち組が徳川将軍家となりこれに功のあった地域軍事政権の子孫の大名や上級武士層が実質武士性を失って貴族化(インテリ化?松平不昧公など)して行き、明治維新は下級武士の活躍に譲ったのと同じです。

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