憲法と国家8(マルクス経済学者・矢内原総長と大内兵衛)

日本民族思想形成に大きな影響力のある東大総長人事に戻ります。
南原繁総長のあとを継いで東大総長になった矢内原忠雄東大総長は南原総長同様に新渡戸稲造の弟子でありキリスト者として知られた人です。
同じくキリスト者として米国のメガネに叶ったのでしょうか?
長男伊作氏による伝記では以下の通りです。
http://blog.canpan.info/yashinomi/archive/1346

矢内原忠雄伝』矢内原伊作著 [2015年12月20日(Sun)
「矢内原忠雄の植民政策研究の特色は、統治者の側から統治政策を考えるのではなく、社会現象としての植民を科学的に分析し、実証的調査によってその理論を検証し、ヒリファーディング、ローザ•ルクセンブルグ、レーニンといった人々のマルクス主義的方法を駆使しながら、帝国主義論の一部として、あるいはその中心として植民地問題を扱った点にあると言えよう。」(同書381頁)
矢内原伊作氏は哲学者であり、弟の経済学者矢内原勝の下記の記述の方が正確なのではないか、と思う。
この中に出て来る木村健康氏のマルクスと矢内原の限定的な関係(下記引用文に下線をひきました)は「矢内原先生をしのぶ」『教養学部報』1962年1月,『矢内原忠雄- 信仰.学問.生涯 』468、に書かれているようなので後日読みたい。
また、矢内原忠雄が植民論を受け継いだ新渡戸稲造はマルクスを知っていたが講義等で触れなかった事。矢内原忠雄が影響を受けたであろうもう一人の東大教師であった吉野作造が講義で取り上げていた事も書かれているのが興味深い。
「矢内原忠雄はマルクス主義の研究を行なった結果, マルクス主義がただに特定の経済学説もしく は政治学もしくは政治行動たるにとどまらず, これらを網羅しその根抵をなすところの一の世界観 であることを十分認識していた。そして社会科学の学徒とキリスト者であることは両立するかという設問をし,両者いづれか一を棄つぺしとしたならぱ科学を棄てて信仰に生くる, としながらも, 両者に同時に従享できると考えている。
そして社会科学とくに経済学の理論として彼はマルクス経済学を採用した。それは当時の事情を把握し說明するためにこの理論が最も適当とみたからであろう。木村健康氏は,矢内原忠雄がマルクシズムの経済理論の部分を植民政策の研究の用具として使われていたにすぎないことがわかったとし, なぜこれを採用したかという理由として,他の経済理論にくらベてマルクシズムの経済理論が「神秘性」が少ないという答を得ている。」
『矢内原忠雄の植民政策の理論と実証』より
ついでに(キリスト教徒ではなかったからか?)東大総長にはならなかったものの戦後ニッポン経済学に大きな影響を与えた大内兵衛氏についても紹介しておきましょう。
https://blogs.yahoo.co.jp/tokyocityjpn/25545845.html
1938年2月1日に所謂「教授グループ事件」が起こり大内兵衛は経済学部内「革新派」及び当局の謀略により逮捕されました。これは「第二次人民戦線事件」とも呼ばれます。
これは前年1937年における矢内原事件とそれに続く労農派一斉検挙(これが第一次人民戦線事件といわれる)を伏線として民主主義・共産主義を弾圧する為になされた右翼ファシズムによる暴挙でした。
大内兵衛の『私の履歴書』によると、「当時マルクス主義の立場に立つ人々は二つに分かれたのですが、それが労農派と政党派です」っと述べられております。そして「ソ連の指導に無条件に服従するという一派が日本共産党政党派と称し、そうでない人々が労農派といわえるようになった」そうです。つまり、「まず日本の事実について一通り理解して、つまり史的事実を先において、その事実はマルクス主義ではこう解釈されるべきである、というのが労農派の立場だ」ということです。

日本が戦時体制に入った頃、当局は共産党を取り締まる為に治安維持法をつくり、「国体変革」と「私有財産否認」をスローガンに掲げる政治党派を特別に弾圧できる体制を築きましたが、労農派は治安維持法の適用団体であるという容疑で全国で労農派一斉検挙が行われました。当時、「マルクス経済学の権威」と言わていた兵衛は、当局から労農派であるという容疑をかけられ、同じ治安維持法によって摘発されたのです。

ウイキペデアの記事からです。

GHQの占領時には、当時大蔵大臣だった渋沢敬三が、日銀顧問に迎え、東京裁判でも証言台に立った。1949年に東大経済学部を退官後は、1950年より1959年まで法政大学総長。向坂逸郎と共に社会主義協会・社会党左派の理論的指導者の一人として活躍した。
1955年5月から6月にかけて日本学術会議のソ連・中国学術視察団に加わった。門下の美濃部亮吉の東京都知事立候補を強く支持し、美濃部都政を助けるなど、実践面でも社会主義を貫いた。また、鳩山一郎や吉田茂からの大蔵大臣への就任要請を断ってきた[2][3][4]。社会保障制度審議会初代会長を務め、国民皆保険や国民皆年金の創設などを答申した[5]。
ソ連・中国学術視察団を経て、大内は社会主義について、「私も社会主義を勉強すること実に40年であるが、なにぶん進歩がおそく、社会主義がユートピアであるか科学であるかは、今まではっきりわからなかった。しかし、ここへ来て、いろいろの見学をして見て、それが科学であることはしかとわかった」と述べた[6]。また、経済学の分野に関しては「ロシアの経済学は二十世紀の後半において進歩的な特色のある学問として世界の経済学界で相当高い地位を要求するようになるだろう。……こういう歴史の変革のうちに経済学者としていよいよ光彩を加える名はレーニンとスターリンでありましょう」と、ソ連の計画経済を高く評価し、レーニン、スターリンの両名を経済学者として激賞した[7]。しかし、ソ連の社会主義経済はその後30年あまりで崩壊することとなる。
ハンガリー動乱について社会主義擁護の視点から、「ハンガリアは(米・英・日と比べて)政治的訓練が相当低い。そのためハンガリアの民衆の判断自体は自分の小さい立場というものにとらわれて、ハンガリアの政治的地位を理解していなかったと考えていい」、「ハンガリアはあまり着実に進歩している国でない。あるいはデモクラシーが発達している国ではない。元来は百姓国ですからね。」と、ソ連の圧政に対して蜂起したハンガリーの国民を批判的に論じた[8]。

南原氏は、昨日書いた通り、共産主義もナチスも全体主義を否定する立場でしたが、上記の通り総長2代目になるとキリスト者プラスはっきりした親ソ・マルクス経済学者になって行き、東大内でマルクス経済学者が表面に出てくるようになり、地歩を固めて行きます。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC