自民族言語表現の重要性5(インドネシアの国語統一)

思想統制の厳しさをメデイア1党独裁を理由にしていますが、民族独自性(守るべきものがあればの話です?)を守るための防波堤・・関税のようなものと見るべきでしょう。
日本のように確たる独自文化があってしかも外来文化が入って来てもこれを受け入れて自国文化に包摂昇華する能力があれば、防波堤など必要がないのですが、確たる独自文化がないから、自由な企業進出を許すと民族企業が壊滅するのが怖いのと同じで、丸ごと西欧文化になってしまうのが怖いということでしょう。
東南アジアに比べての中国韓国の有利さは、日本が明治以来の百年間で大方の重要熟語を日本が漢字翻訳済ませているので英語そのまま利用しなくともこれをただで利用出来ている点です。
この辺が無防備だったからか?旧植民地被支配国のほとんどがせっかく独立しても独自言語表現力さえ構築できないで文化的支配を受けたまま現在に至っている様子です。
これを開き直って、英語を話せるのでこれからの国際化時代に有利だという意見もありますが・・独自文化のない哀れさに気が付かないのです。
もともと多島国家・多種多様言語で成り立っているインドネシアで共通言語になっているのは日本支配中にインドネシア共通語の普及に日本が努めたからです。
・・日本はいく先々で現地人向けの学校をつくって現地人を教育し現地民族固有言語普及に努めた功績が大きいでしょう。
以下を見れば政治的なキャンペインではなく、現地言語事情を自然体で客観事実として解説している記事です。
http://www.atlase.net/column/50/50_column24.html
HOME > コラム >世界の言語 Atlasマンツーマン外国語コースの世界50言語マップ 24、インドネシア語 超多言語国家の共通語
「人の住む島だけでも4000近くあり、250に上る異なった民族が居住している。言語も多様であり、「オーストロネシア語族」という系統に属する諸言語が200以上も話されていると言われる。
それら多様な諸言語の上に君臨するインドネシアの国語は「インドネシア語」と呼ばれるが、実は隣国マレーシアの国語の「マレー語」と同じである。言語的多様性を克服して1つの国家としての統一を実現するために共通語として選ばれたのが、マレー語だったのである。
17世紀に始まるオランダによる支配の時期にオランダ語が強制されることはなく、マレー語を使用しての統治が行なわれた。第2次世界大戦中の日本による支配中にマレー語がインドネシア語と公式に呼ばれるようになり、行政用語とされた。」
上記記事だけでは、350年に及ぶオランダ統治に比べて日本のインドネシアにおける国語統一教育がどの程度貢献したかはっきりしません.
https://www.nipponkaigi.org/opinion/archives/856によると以下のとおり詳細です。(出典がはっきりしないので一つの立場の意見としてお読み下さい)
今回の言語テーマに直接関係しない部分も別のテーマで後日引用する必要性があるときに便利ですので、この機会にまとめて引用しておきます。
「インドネシアにおけるオランダ350年と日本3年半の統治比較」
●オランダ300年の統治
①強制栽培制度=19世紀、耕地面積の5分の1はコーヒー茶などオランダ向けの生産物を強制的に栽培させた。このため、多くの村が崩壊し、食料自給体制は解体、餓死者が続出し平均寿命は35歳にまで低下した。
・・ドゥマックの村は人口が33万6000人から12万にゴロボガン村では人口8万9500人が9000人に減少。
②天然資源の開発のため、インド人、中国人を大量に苦人としてインドネシアに移住させ、この移民民族を経済・流通機構に利用したため、彼らがインドネシア人の上に立ち、インドネシア人を支配する階層が形成され、後の人種対立の原因を作った。
③オランダは大がかりにインドネシア人との混血児を作り、それを間接統治の官吏とした。行政官は混血児と華僑に任せ、インドネシア人の政治参加、行政参加はほとんど禁止した。
④オランダ政府は重税を課した上、華僑が高利貸となり200%の金利にインドネシア人は苦しみぬいた。
⑤分割統治のため、民族間の反目を煽り、部族抗争を激化させた。東チモールは、ポ/レトガルの植民地で住民がキリスト教徒となったため、イスラム教のインドネシア人との対立が生まれた。
⑥愚民政策をとり、教育は基本的に禁止。20世紀になって、世界の批判を受けて初等教育(3年間)だけは実施したが、学校に通えたのは僅か数%。さらに上級学校へ進学する者に対しては、オランダ語を強制した。大学卒業のインドネシア人は年に10人程度。
⑦住民に武力反乱を起こさせないように青年の体育、団体訓練は禁止し、数人の行列行進さえも禁止した。
⑧住民の集会は一切禁止し独立運動家はすべてニューギ
ニアなどの島に流刑、または死刑にした。
⑨国旗掲揚、国歌斉唱はもちろん禁止(注、当時は正式、には国旗・国歌は決定していないが民族旗・歌があった)
⑩インドネシア人のほとんどが信仰しているイスラム教を弾圧し、キリスト教を広めた。
《オランダの戦後の動向≫
⑪1945年8月17日、インドネシアのスカルノは独立宣言を発表したが、オランダはこれを認めず、再進駐。
⑫この結果、1949年12月の停戦までの4年間にわたる戦
争で、80万人の戦死者を出した。これはオランダ軍は豊富な近代的な武器を持ち、イ側は日本軍から渡された小銃などが4万丁に過ぎなかったためで、「独立戦争は竹槍と戦車の戦争であった」と言われている。
●日本3年半の統治
①国旗掲揚・国歌斉唱を許可(これは1カ月後取り消したが、昭和19年独立許容とともに認可)。
②民族運動の指導者(スカルノ・ハッタなど)を釈放し民族統一に向けた全国遊説を許可する。
③6年間の初等教育を実施し、校庭も作り体育を重視。あわせてインドネシア人の教師養成のための師範学校も設置した。
④農業、漁業、造船、工業、医学などの専門、訓練学校を設置し、僅か3年半で当時600人しかいなかった知識人(国家エリート)を最終的に10万人育成した。
⑤ジャワに中央参議院(最高諮問機関)、各地に州参議院を設置し、インドネシア人を積極的に高級官僚に登用、行政能力を培った。
⑥250を越える言語のなかからジャワを中心に使われていたムラユ語を統一一インドネシア語に定め、新聞やラジオ・映画、学校教育などで普及した結果、インドネシア民族の行動の統一、感情の統一一が図られた。
⑦稲作農業の指導に力を入れ、食料自給体制の確立を図つた。
⑧100万人の青年団、150万人の警防団、婦人隊、学徒隊、隣組などを作りインドネシア住民の組織化を図り、インドネシア民族の団結心を涵養した。
⑨祖国防衛義勇軍(PETA)を創設し、インドネシア人に軍事訓練を与え、インドネシア人による初めての軍隊を作った。これは後の連合軍との独立戦争の指導的役割を果たし、又インドネシア国軍創設の立役者となった。
⑲プートラ運動やジャワ奉公会運動で、インドネシアのナショナリズムを高揚させ、独立・敢闘精神を植え付けた。
⑪独立運動を推進するインドネシアの青年団(アンカタン・ムダ)を支援し、その全国大会を開催させ、青年による独立運動を促した。
⑫イスラム教を重視した。とりわけ、当時分裂していたイスラム教の団体を統合(マシュミ)、さらに初等教育や軍隊教育でもイスラム教を重視した。
⑬[敗戦後]連合軍の目を盗みインドネシア側に大量の武器・弾薬を渡し独立運動を支援する。
⑭[敗戦後]約2000名に上る日本兵士がインドネシアに止まり、イギリス・オランダとの独立戦争に参加し戦争指導を行い、約1000名が戦死する。
上記のとおり日本はアメリカの宣伝とは大違いで、東南アジアで日本は植民地支配とは正反対の現地民族の自立を助けるために教育や集団活動の運営等を応援し教育する政治をして来たことがわかります。
英国支配だったインドなどでは、いまだに多言語社会のために共通通言語を英語に頼っている始末になっているのと比較をすれば、結果の違いが明らかでしょう。
日本は朝鮮・台湾でも現地人教育に努めたことについては多くの国民にとって常識ですが、支配期間が僅か3~4年の期間しかなく、文化環境も全く異なる遠く離れたインドネシア等でさえも欧米の植民地支配と日本の現地支配の精神とでは、根本的な違いがあったことがわかります。

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