格差社会・・貧困連鎖論批判2

「不器用でも(素質のある人は)たまには良いことがある」と言うのが昨日紹介した新聞記載の本来の意味でしょうが、大方の人は不器用は不器用のママで人生が終わるのでしょう。
競争社会が進むと不器用な人に構っている余裕がなくなったので、企業もどこも抱え込む余裕がない・・弱者排除論理が徹底して行くのでしょうが、どうして良いか分らずウロウロしていると放っておかないで誰かが声をかけてくれるゆとり・思いやり社会を別建てで作って欲しいものです。
ちなみに不器用な方が良い結果になる(こともある?)と言う有り難い意見を書いてくれる人は「どんな人かな?」と思って肩書きを見ると「詩人」とありました。
なるほど詩人なら、そう言うタイプでもやって行けるかな?と思いましたが、詩人(で新聞第1面のコラム連載をする人となれば、大変な成功者でしょうから)まで行かなくとも不器用なままで終わる凡人以下の人も生き易い世の中にして欲しいものです。
バカで不器用で放っておけないと思って声をかけてくれているにしても、親切にされると嬉しくて生きて行く気力が沸くものです。
男女をとわずに弱者に優しく思いやりのある人もいるでしょうが、生まれつき動物として始まって以来命をかけた競争社会で相手を蹴落とすことに精出して来た男性よりも生命を産み育てることに精出して来た女性の方が、思いやり・気配りなどフォローする能力が高いことは明らかです。
現在の厳しい企業間競争=相手との能力差の選別競争ですが、この結果内部で、「出来る人出来ない人」の厳しい選別が起きる社会です。
能力差を選別して格差を付けて行くのは男性に向いているのであって、今の厳しい能力選別社会に女性が参入するのは不向きな社会です。
これまで不器用で何となく困った状態の私に声をかけてくれたのは女性が多いので、女性が女性としての本来の価値観を発揮し易い社会にして欲しいと言う意見を書いてきました。
女性が男性価値観の仲間入りして競争して行く社会が貫徹すると、折角社会の半分を占めている思いやり・気配りの包容力ある社会を破壊してしまう結果になるのではないかと言う気がします。
女性は男性的価値観競争に参加して男勝りになる必要はありません。
(ジェンダーにこだわっている訳ではありません・・人によっては男性的能力の高い人もいるでしょうが・そう言う人は自己の能力を発揮して良いことは勿論です)
みんながみんな男性的行動能力で競争するのは、間違っています。
男性でもマッチョ系競争で劣っている人は柔弱な?詩人でも良いのと同じで、まして女性が男性と同一方向で能力競争する方が間違っています。
女性でも走るのが速い人もいるでしょう・・宅急便の配送員で男性の8割しか配達出来ないが女性ではトップだと言う競争をして意味があるのか?と言うことです。
男女をとわず自分の得意分野で競争社会に参加したら良いように思います。
女性は男性より優れた分野・・女性価値観トップが女性のトップとして男女平等に尊敬されるべきですし、日本では実際に家庭の中では女性が事実上の主として尊敬されてきました。
西洋から女性蔑視の思想が入って来た結果、おかしくなって来たのですが、我が国の場合天照大神の神話で知られるように万年単位の女性尊敬の歴史があるので、この130年程度の欧米価値観の全盛程度では根絶されることはありません・・幸いなお家庭内の女性の地位は盤石です。
男尊女卑の思想は西洋から入って来た借り物の思想であると言う点については、05/24/03「男の存在価値 1」〜05/28/03「男尊女卑の思想10(明治の思想と実際2)」前後までと、妻の無能力制度がフランス民法の導入で我が国に入って来たに過ぎないことを2年後の03/29/05「夫婦別姓14(上流の家と庶民の家2)妻の無能力と持参金の処分権」〜03/31/05「夫婦別姓18(夫の無能力と家事代理権)民法134」あたりまでに書いています。
女性的価値観を否定し、男性向け競争社会に参加させるために政府や文化人マスコミが必死ですが、みんなが女性的価値観に意味がないと言わんかのように、男性社会に参加させて、男性より劣ったもの・・2番煎じの性を演出しているように見えます。
日本のフェミニストは、女性の地位低下を目指して社会参加を主張しているように見えますが・・・?欧米では日本と違って女性は無能力としてバカにされて来た歴史があって、漸く女性も人の仲間だと気が付いたのは、せいぜい20世紀に入ったころからです。
アメリカでは黒人奴隷制度が知られていますが、女性も同様に何らの権利主体ですらなく、選挙権が与えられたのも日本よりも欧米の方が遅いのです。
欧米のような遅れた社会ではフェミニストは男性の真似をする権利から始めるしかなかったのですが、我が国は、昔から家の経営を女性が握って来た・男は外で殺し合いする程度しか仕事・権限がなかったのですから、今さら欧米の真似をしても仕方がないことです。

格差社会・・貧困連鎖論批判1

学校時代なんとかなっていた子供・・大卒・就職時までなんとか一定の枠内にいた人材でも落とし穴が待っています。
1流企業に運良く就職出来たものの、実力がついて行けないことが分った場合、4〜50台まで来てしまうと、簡単に職種変更出来ないのと、まだ将来展望(子育て中でローンも抱えているのが普通ですから)があるので、脱落したり脱落しそうになるとストレスが大きいので、達観し切れずに精神科医に通う人が増えてきます。
ここ数年格差拡大を問題視し、貧困連鎖をなくすための底上げ・子ども手当を増やせ・高校授業料無償化などの提言がマスコミを中心に相次いでいますが、日本の若者のしらけ・厭世気分は子ども手当をくれたり高校に行けたら解決するのではなく、自分の能力に応じた方向へ進めないことにあるのではないでしょうか?
能力差があってこの結果待遇に差が生じることは誰でも受入れることが可能ですが、この結果別の選択肢が用意されていないことに将来展望・生き甲斐を失っていることあると思います。
この本質的な問題点から目をそらして、欧米の格差問題や移民問題を勉強して来て、そのまま日本で高校無償化などを論じても意味がないように思います。
西洋では、まだお城を持っている人がいることを象徴的ですが、革命前の身分が固定されていますし、移民に至っては、からだ1つで来ている結果、経済格差が半端ではありません。
こう言う場合、教育を受ければ立ち上がれる素質があってもなお貧困に喘ぐ層が一定数いるのは確かですから経済援助に意味があります。
欧米の格差は移民問題を筆頭に日本と違って親の経済力の格差そのまま次世代能力格差に関係している実態があるのですから、遅れた・不公正な社会の問題点を勉強して来て、そのまま日本に当てはめようとするのは間違いです。
今でも昔でも、日本は公平な社会ですから、(幕末でも優秀な人材は養子制度など利用して抜擢されています・・)貧困所帯の子が優秀なら問題がないのです。
偏差値だけの単線価値社会化=能力差別化を進める以上は、単線が延び切る一方で、格差が広がるのは理の当然です。
新春箱根駅伝を見ていましたが、最初は団子状態ですが、時間経過で列が長く伸びる一方です。
能力差をより細かく見るのは当面合理的ですから、顕微鏡で見るように拡大して行くのを非難するのは時代錯誤の主張と言うべきです。
格差社会・差別化を非難するだけでは解決になる訳がない・偏差値基準の単線が太くなり過ぎているので、もっと多様な生き方で競争出来るような提案をすべきはないでしょうか?
12月30日から書いて来たように古代から公平な日本社会では、重要なのは能力相応の待遇を受けているかこそ調査すべきでしょう。
この数日書いているように教育界の画一基準によらず日本古来の基準・・「万物に神宿る」基準から言えば、教育界の画一基準・・抽象的に言えば知育偏重が幅を利かし過ぎている点を問題視べきです。
この路線で駄目な人も尊敬されるか、大事にされる社会です。
1月8日日経夕刊,1面の「明日への話題」では、愚直と言うか不器用な生き方を大切にする必要を書いています。
不器用に落ち葉掃除をする例を挙げていますが、正に私が毎日自宅周辺の落ち葉を不器用に掃除している様子を見られているような事例でした。
私の場合、愚直を絵に描いたような子供時代を過ごし、今もそのまま続けているので、不器用な人の仕事の方が結果が良いことがあると書かれると嬉しくなります。
ただ私の場合不器用なままで現在に至り、結果的に不器用な仕事の方が良い結果になったと言うようなメリットを感じた記憶がありません。
夕刊の記事に書いてるとおりに「下手な絵の方が良いのよ!と何回も周りに励まされたことがありますが、だからと言って最後まで下手なままで無茶苦茶です。
素質のない正真正銘の(絵に限らず筆跡も何もかも)下手と言うかめちゃくちゃですから、(大方は周辺がフォローしてくれています)文字どおり駄目なままの人生で今に至りました。
私の場合、この歳になるまで「不器用な方が良い成果を出せる」と言う結果を出せず、周りに助けられて頼りないままこの歳になってしまったことになります。

外国人労働力と貧困化

外国人労働者を入れることによって、平均賃金コストを下げるのは、国内労働者の平均所得を下げて日本やアジア勢に対抗していただけのことですから、結果的に一人当たり国内総所得を低下させる・・国民・あるいは(国民ではないとしても)居住者を貧しくさせる政策になります。
導入した外国人労働者は、時間の経過で自国に居着いた低所得者層となり・・彼らは低所得なので納税者としては頼りにならないのに対して、社会補償・教育関係給付は逆に増加する傾向があって、これらの施策に追われてしまい・公共投資・・インフラに手が回らなくなりがちです。
個人に置き換えれば、転職の結果低賃金になりその日暮らしの生活になれば、家や庭の手入れがおろそかになるのと同じです。
グーグル映像・ストリートビユウで見ると西洋諸国の諸都市が古すぎる印象になっているのは、外国人労働者の受け入れを始めて結果的に低所得層を増やして行った結果、インフラ・公共物への再投資する資金が足りなくなってしまった結果と見るべきでしょう。
ギリシャ危機が起きたことで、ドイツ等黒字国は儲けていた黒字の蓄積である債権をカットしなければならなくなった・・実質は1つの経済圏の内部タコ配当的だったことが分り、ユーロの価値・為替相場が下がっています。
国債市場で日本に負けていたのは安い人件費に有るのではなく技術革新力の差にあったのですから、アフリカ系やトルコ人等の安い労働力を入れた結果、平均賃金コストが下がって少しは得したでしょうが、日本と互角に競争していた訳でもありません。
日本企業もつい賃金の安い中国や韓国には叶わないと言い訳しがちですが、自戒すべきことです。
ユーロ創設以降これまでの為替相場のじり高は、南欧東欧諸国を内庭として囲い込んだことによって貿易上有利になるだろうという思惑と国際通貨としてはじり貧の(巨額赤字連続で信用を落としている)アメリカドルに変わる受け皿としての(期待値で)ユーロ誕生後円やドルに対してユーロが高値を付けていたに過ぎません。
そのときの私の記憶では、1ドル=1ユーロで始めたのですが、今でもアメリカドルに対しては2〜3割値上がりしたままです。
ここのところの円の対ドル相場は77円台ですが、ユーロは100円台ですから、発足時よりは25%前後対ドル相場でまだ高いのですが、これはこの間にユーロ圏がアメリカよりも2〜3割経済力がアップしたのではなく、各国の準備通貨としてのタンス預金分の恩恵を受けていると見るべきでしょう。
ドイツの貿易黒字が巨大であると報道されますが、日本で言えば東京・大阪等の大都会と青森や沖縄の関係と同じで1つの経済圏にした以上は、首都圏から青森や沖縄に対する売り越しは貿易黒字と言わないように、独仏等の南欧・中欧諸国への売り越しは本来の意味での貿易黒字ではなかったことになります。
EUを1つの経済圏としてみる以上は、ドイツ、フランス、オランダ等の貿易黒字から対南欧諸国に対する黒字を引いたらどれだけ残るかがEUの正味の価値です。
EU盟主国・創設諸国が貿易黒字国だったので、ユーロ圏での財政赤字比率を厳格に定めることができた基礎でしたが、今回ギリシャ危機を切っ掛けにドイツの黒字は1つの経済圏内の蛸足配当的な黒字だったことが、白日の下に曝されました。

貧困と格差社会

最貧国ほど貧富格差が激しくなる傾向があるのは、有力者が利権収入を得た場合、全体の嵩上げまで出来ずに街全体が貧民街のように貧しくみすぼらしい中に自分の館だけ外国からの輸入品で完成させて一点豪華主義にする傾向が有るからでしょう。
街全体のかさ上げが出来ないので、自分だけで自家用ジェットを持ったりプール付きの邸宅を持つくらいしか出来なかったことが、国内格差の象徴みたいになってしまったように思われます。
30年ほど前まではインフラ全体を輸入することができなかった制約の結果、後進国と先進国とでは町のたたずまいが格段に違っていたのが、海外旅行の楽しみでもありました。
・・中国の改革解放後10年ほど経過した頃に北京へ行ったときは、まだロバが藁を満載した荷車を引いて歩いている風景が有りましたし、昔からの四合院もあちこちに残っていました。
走っているトラックは、我が国で言えば戦争前の古い型のごついものばかりでした。
南方の広州郊外を旅したときには、水路に突き出した厠(まさにかわやです)があちこちに有り、水たまりにはアヒルが泳ぎ水牛中心の水田でした。
その数年前にタイへ旅行したときには、ホテル前の船着き場から船便であちこちを巡るのが普通で、大きな建物と言えば、ホテルや日系デパート、王宮や有名寺院が中心でした。
・・・ここ数十年では中国(上海や北京など)もタイのバンコク・アラブ首長国も皆同じような高層ビルの林立した街・・世界中が似たような市街風景になっています。
それにしても日本の場合、何故支配者が庶民と隔絶した豪奢な生活をしたことがないのでしょうか?
武家政権になってからのことは、質素倹約・質実剛健を旨とする武士の精神が長年日本の精神構造を形作って来たと説明することが可能ですが、質素、簡潔さに美意識を見いだす傾向はそれ以前からの精神構造のようですから(だから武士のモラルにもなれたのです)それは何故か?ということです。
欧米や中国の美意識を足し算の美学とすれば、我が国は俳句に象徴されるように引き算の美学です。
京都の紅葉を見に行くと、京都の庭園の美しさは白砂と白い塀があって、庭園の一隅に一本だけ枝を張っている真っ赤の紅葉の枝振りの決まり方に有って、量に価値が有るのではありません。
和食も量が有ると言えば有りますが、それぞれ一点一点は厳選された逸品を少しずつ出されるのが特徴です。
量にこだわるのは田舎者・田舎料理というランク付けです。
(この点、東福寺は紅葉は量で勝負してるキライ・・決まった枝ブリを愛でるのではなく、量を楽しむだけならばどこの山でも植林すれば出来ます)
カステラでも何でも外国から入って来た嗜好品でも原産地よりも立派なものになっていますし、明治に入って来たに過ぎない歴史の浅い肉食でも、今や日本産の和牛が世界の名品になっています。
日本人は今でも量よりは質の良いものが好きで良いもの・ブランドものには金をかける習慣ですが、長年の歴史がこうした国民性を作り出し、「舶来もの」と言えば超高級品を意味していたのです。
グローバル化によって汎用品を外国で生産して逆輸入するようになると、千年単位で馴染んで来た舶来品の意味が変わってしまいました。
この20年くらい前からは、生活用品に限っては「国産」が品質保証の代名詞になっています。

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