「さと」(郷と里)4

法人実在説論争に深入りしましたが、地方単位・・20年2月19日「江戸時代までのムラと明治の村制度の違い(入会地)2」の続きです。
「おさとが知れる」という時は(家風の文化水準)同族集団的古代集落単位を指し、「おさとはどちら?」という時・・故郷・・どちらかといえば江戸時代までの旧国名を主に指します。
お上から強制的な漢字の当てはめが通達されるとみな従うので文献上一挙に借り物の漢字「評」は完全抹殺されますが、発音としての和語がいわゆるオーバーラップして残るので、元の「こおり」と新たな郡とは少し範囲がズレるのでそっくり同じではありません。
国の造(みやつこ)に関するウイキペデイアによれば、国造が廃止されて国になったときの国と評の関係が表になって出ています。
大和の国に元3名の国造、山城国に元2名などの表が出ていますが、制度変更には領域や権限に変更を伴うことが多いことがわかります。
名称が変わるにはそれなりの理由があります。
我々の仕事分野・法の改正・禁治産制度が被後見制度に変わっても一見元の後見業務と似ていますが、制度目的が変わったので、運用の方向性が変わった・・資産保護の目的から被後見人の人間保護(資産保護はその1部)に変わったのと同じです。
郷里制に戻しますと、自己紹介で長野県出身というより木曽ですという方がイメージが伝わりやすいでしょう。
都道府県単位になってまだ約100年あまりでしかないので、民族的な一体性・特徴の紹介では旧国名の方がわかり良いからです。
今は大都市住民の多くが地方から出てきた2〜3世の時代ですので、東京ですというより多くの人が親の出身地をいうのも聞いている方の気持ちに応じる結果でしょう。
日本の「むら」がいくつか集まった「さと」やこれがさらに大きな単位になった「こおり」を朝鮮半島では評というらしいのでこれにするか!となって日本では「評の」漢字をあてていた可能性があります。
そもそも、朝鮮では原始集落に「評」の漢字を何故当てていたか不明ですが、ネット上でその原義まで書いたものが見当たりません。
朝鮮語の発音が漢字の「評」の発音と似ていたから?というの普通の推測ですが、私の素人憶測です。
「こおり」と言い習わしていたものを漢字導入初期に朝鮮では「評」と表記されていたものを借用していたものの、大宝律令制定を機に郡に変わったのではないでしょうか。
もともと借り物の漢字表記なので中央の命令で「今後こおりの表記を郡とする」と指示があればこれに従うのに何の抵抗もなかったでしょう。
律令制導入時に各地のいくつかの「こおり」=権力単位を集めて一つの国に編成し直したときに地域実力者数人が?郡司に任命され、中央から派遣国司との両立体制になったのだと思われます。
ちなみに日本では明治維新まで中国の地方制度・郡県制を導入しながら、県だけ採用しなかったのは、中国のような末端まで行き渡る中央集権体制・・社会が明治まで成立しなかったからです。
千年以上にわたって地方体制がいろいろ変わっても、もしかして縄文の昔・・紀元前何千年前から庶民は雑草のごとく踏まれても踏まれても、庶民・原始集落はその場にしがみついて縄文時あぢのDNAのまま変わることなく生き抜いてきたように見えます。
戦国時代から見れば、足腰になる地元国人層が(古代豪族から武家層に入れ替わって)戦国時代に信長や秀吉〜家康に攻められて支配トップが追い払われても、地元民はしぶとく生き残りますし、地元武士団.国人層の多くも本領安堵が原則でした。
武田家が滅んでも配下武将・・真田昌幸はその機に自立しましたし・叡山焼き討ちや根来攻めがあったと習っても、現在まで延暦寺や根来寺が残っています。
古くは、各地の神々(氏神様)がそのまま残っているのもその一態様です。
中国古代の郡県制はウイキペデイアによれば以下の通りです。

先秦の郡県制[編集]
春秋時代末期から戦国時代に、晋や秦・楚で施行された。初めは直轄地を県、辺境地域を郡としたようであり、中央から王の任命する官吏を派遣して統治した。
秦代の郡県制
秦の国内では、紀元前4世紀の孝公の時代に郡県制が実施されていた。始皇帝は全国を36郡(のち48郡)に分け、郡の下に県を置き、皇帝任命の官吏を派遣した。郡の長官は郡守と呼ばれ、警察担当として郡尉、監察担当として郡監が置かれた。県の長官は大県は令、小県は長と呼ばれた。県の警察担当として県尉、県令の補佐役として県丞が置かれた。
漢代以降[編集]
前漢は郡国制を採用したが、中央直轄の郡県においては、秦の制度を踏襲した。紀元前148年に郡守を郡太守、郡尉を郡都尉と改称した。紀元前106年、武帝は全国を13州(11州と2郡)に分け、各州に刺史を設置した。これにより郡県は州・郡・県3段階の地方制度に改まった。
魏晋南北朝時代を通じて、州・郡・県の数は増大しつづけ、南北朝末期には1州に1郡しかない地方も現れて、行政上の非効率も問題化してきた。
583年に隋が郡を廃止し、州・県2段階の地方制度に改められた(州県制)。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、郡県制が復活した。
618年に唐が隋を滅ぼすと、郡を州に改め、再び州県制が採用された。627年に全国が10道に分けられると、道・州・県3段階の地方制度となる。742年に州が郡に改められて、一時的に郡県が復活したが、758年に郡が州に改められて、郡は姿を消した。

中国での郡県制の内容はしょっちゅう変わっていますが、共通項は中央政府の官僚が派遣されて地方を直接統治する仕組みだったことになります。
明治維新以降日本の歴史始まって以来の郡県制採用ですが、日本の場合県が上位で郡がその下部機構になっています。
現在の県域は、大方の場合旧国名を数カ国(千葉の場合下総、上総、安房の3国)まとめた大きさになっていますが、律令体制下での国は、その前にあった国造を数名集めて1カ国にしていたことを冒頭紹介しました。
国造の支配地域と「こおり」の範囲の関係がはっきりしませんが、もしかするとほぼ同一だった可能性があります。
古代の地域単位としての「こおり」をいくつか合わせて律令制下の旧国名となっていたのですが、前漢の郡国制を見ると直轄地は秦同様の郡県制であり、遠隔地で直接支配困難地域を国として王として半独立的支配をさせていました。
郡国制に関するウイキペデイアの記事です。

帝都長安の周辺は中央直轄地として郡県制を、地方には一族・功臣を諸侯王、諸侯として封じる封建制を併用したためこれを郡国制と称した。

「さと」(郷と里)3

律令制では日本の自然発生的集落を漢字の村にする・・中国の邑の制度を取り入れなかったようですが、邑は訓読みでムラとなりますが、元々は原始的氏族共同体だったようですが、次第に家父長的支配関係〜専制支配構造を有するものになっていったので、700年頃の邑は日本の原始的ムラ社会(原始共同体)と実態が合わないので採用しなかったのでしょう。
この辺は郡県制のうち官僚支配の明確な「県」の制度を採用しなかったのと同様でしょう。
中国戦国時代の改革派商鞅(公孫鞅)の故事では彼が賜った領地を商邑と読んだ記憶です。
商鞅に関するウイキペデイアの記事からです

公孫鞅は商・於という土地の15邑に封ぜられた。これより商鞅と呼ばれる
漢字邑に関するウイキペデイアです

漢字の邑は区画や囲壁をあらわす「囗(くにがまえ)」にひざまずいた人をあらわす「巴(卩)」をあわせた会意文字で、この全体を略した部首が「阝(おおざと)」である。邑の社会は同姓の一族による氏族共同体で大抵は土塁よりなる囲壁をめぐらし、周囲に氏族民共有の耕作地が展開した。 [1] [2]
やがて大邑が小邑を従えるようになり、また邑どうしを結ぶネットワーク状の社会が形成されるようになる。またその中から特定の大邑の君主は殷や周の様に王および天子を称して諸々の大邑を従え、邑社会に盟主として臨むようになる。ここで殷王や周王の権威に服した大邑の君主が「諸侯」、王や諸侯の君臨する大邑が「國(コク)」である。
戦国時代の領域国家の時代から秦漢帝国の統一王朝の時期に出現した県、郷、聚、亭と称せられるものは邑の発展によって規模や性格が分化して成立したものである。こうした邑の後身の都市的集住地のなかでも県の雅称として邑を用いることが多くなっていく。[1] 領域国家への発展とは邑の氏族共同体の解体による家父長的支配の台頭であった。

まさに日本列島の原始的集落発展段階の中国版ですが、古代集落の原型が漢字の作りからして「膝まずく」上下関係から始まっているのには驚かされます。
日本の縄文時代集落のあり方から見ると支配者がいてそれに膝まづく上下関係から始まったとは到底想像できません。
東京大空襲後に母方実家/郷里で私が育った集落は「字〇〇」という地名でしたが、まさに明治新政府が合成した村の中に取り込まれた里でした。
その字では「東」と「西」」という2集落(各8〜10戸前後)に分かれていてその境目に幅1メートル足らずの小川がありその水源地付近にお寺が一つありました。
江戸時代に各集落に戸籍役場代わり(宗門人別帳)や、埋葬管理(衛生感の発達)のお寺が各地に設けられ(集落の寄り合い場所になるなど公的機能を果たしてきました)たのに合わせて、維持可能なように集落の統合が行われたようです。
現在、いくつかの市町村共同上下水道事業や共同消防組合等の走りです。
わたしが幼児〜学童期に育った集落「字」では東西2集落が、お寺を村の寄り合いの場として、10人程度の大人が集まり入会地の管理や道路普請〜水路の石垣の手入れ等の手はずを決めていましたし、女性は女性で観音講という夫人の集まり..茶話会の場葬儀やお寺の年中行事その他の共同化事業により、江戸200年余りでだいぶ一体化が進んでいたようですが、それでも「東ら」と「西ら」という区別意識が(幼心に残るほど)濃厚でした。
こういう「字」が数十個集まっているのが、明治以降に出来上がった「村」のイメージで、私の育った村は水田地帯の真ん中にあって正方形に近かったので子供心の記憶(自転車で走り回った記憶)では村の端から端まで3〜4キロ前後でしたので、1里四方→まさに日本古代の「さと」の規模でした。
近隣の村や町も皆似たような広がりのある地形でした
それぞれの村や町に一つの小学校、中学校があり、明治の学校制度創設に合わせてこれを維持するに必要な経済力・いわば学区ごとに最小単位を設けた(江戸時代の集落のままでは小学校すら作れません)イメージです。
小中学校では運動会等の行事が行われるので、自然に纏まり・共同体意識が仕上がる仕組みでした。
私は中学卒業と同時にその村を出たのですが、直後に昭和30年代の町村合併があり、近隣が一つの町になりました。
このように日本の行政上の地方単位は古代から大きくなる一方で、その代わり内部に旧単位が大字小字などとして残っていきます・・昨年秋香取神宮に詣でましたが、平成の大合併で佐原市と香取町が合併して由緒正しい?香取市になっていました。
平成以降の大合併では大字というより明治にできた村の元単位を残す何々地区という呼称が多いようです。
20年ほど前に仙台の泉区役所に行ったことがありますが、元は泉市か泉町で合併により区になったようでした。
政令指定都市では正規に区制を布けますが、その他の市では〇〇地区と称するようです。
弁護士になったばかりの頃の境界争い事件では当時、区長さんの家には古い地図があるという主張が多かったのですが、当時区長ってなんだろう?と思いながら聴いたものでしたが、明治の中央集権化政策で問答無用的に行政単位として江戸時代までの小さなむら( 〇〇の庄?)を統合して村を設置して事実上従来からのムラ組織が破壊されても自治組織として「区」を名乗ることが多かった・・今の町内会や自治会の始まり?という論文が出ています。

 「さと」(郷と里)2(村)

明治維新で小集落を大量に集めて現代の郡市町村制が布かれましたが、「村」や町に吸収された多くの旧集落(古代から続く「むら」)は、大字小字として名を残したのと同じです。
里部に関するウイキペデイアでは以下の通りです。

『周礼』によれば、五家を隣、五隣を里とするので、25戸であったとする。また距離の単位として300歩あるいは360歩(唐以降)を意味した(漢代頃400メートル強で唐代550メートル強)。なお現代では日本の尺貫法において4キロメートル、中国の市制において500メートルとされる。

上記の通り、中国の里は25戸ですし、日本の「さと」は50戸単位で規模が違うし、距離単位でも現在日本の1里は四キロメーターに対して現在中国の1里はわずか5百メーターです。
300歩四方といえば、日本の1町歩の面積(千坪=千歩・・1反歩=300歩・1畝30歩)に大方合いそうで・千葉市内の現在小学校の面積が大方この基準のようです。
日本では古代からムラが集落の基本単位のように理解しているのですが律令制では村の制度をそのまま取り入れず、明治の地方制度改革で初めて公式に「村」の名称が公認されたように見えるのは何故でしょうか?
村に関するウイキペデイアです。

近代化以前の「村」は自然村(しぜんそん)ともいわれ、生活の場となる共同体の単位だった。江戸時代には百姓身分の自治結集の単位であり、中世の惣村を継承していた。
江戸時代にはこのような自然村が、約6万以上存在した。また、中世初期の領主が荘園公領とその下部単位である名田を領地の単位としていたのに対し、戦国時代や江戸時代の領主の領地は村や町(ちょう)を単位としていた。
近現代の大字(おおあざ)といわれる行政区域は、ほぼかつての自然村を継承しており、自治会(地区会・町内会)や消防団の地域分団の編成単位として、地域自治の最小単位としての命脈を保っている面がある。
明治時代に入ると、中央集権化のため、自然村の合併が推進された。こうして、かつての村がいくつか集まって新たな「村」ができたが、これを「自然村」と対比して行政村(ぎょうせいそん)ともいう。

私は明治以降の村と区別するむら意識は古代からも群がる群れる・という和語から来ているので明治以降取り入れた漢字の村とは成り立ちが違うと思っていましたが、ウイキペデイアの解説では、行政村と自然村という区分けをしているようです。
古代のムラを現在用語である村と表現しているのは納得し難いですが、現在の行政単位としての村制度の中で生き残っている大字小字の原型という点は私の個人的的理解と同じです。
さらに自然村は、中世の惣村に始まるという学会?の傾向には直感的に納得し兼ねます。
それまでは散在していたが戦乱等で自衛のために?(映画7人の侍の学問的説明・・)地域共同体が強まったというのですが、古代から鎌倉時代まで人類が一匹のトラのようにバラバラに住んでいたかのような説明はいかにも不自然です。
短期的に見れば、荘園制度が発達して庶民がその下人として働く(自作農皆無?)時代には、自然発生的集落は衰亡していたかもしれない・この説明は江戸時代の商人の住み込み丁稚小僧らは自分の家を持てなかったのと同じイメージで説明されてもっともらしいのですが、安寿と厨子王の設定もそのようばイメージです・・仮にその意見が、実証研究に裏づけられているとしても、それは長い人類の発展過程では(日本の場合何千年という縄文時代の存在から考えても)荘園全盛期は一時的例外に過ぎない事象に過ぎないのではないでしょうか?
惣村に関するウイキペデイアの記事です。

中世初期(平安時代後期〜鎌倉時代中期)までの荘園公領制においては、郡司郷司保司などの資格を持つ公領領主、公領領主ともしばしば重複する荘官、一部の有力な名主百姓(むしろ初期においては彼らこそが正式な百姓身分保持者)が管理する「」(みょう)がモザイク状に混在し、百姓、あるいはその身分すら持たない一般の農業などの零細な産業従事者らはそれぞれの領主、名主(みょうしゅ)に家人、下人などとして従属していた。百姓らの生活・経済活動はモザイク状の名を中心としていたため、彼らの住居はまばらに散在しており、住居が密集する村落という形態は出現していなかった。

漢字になる前の集落・村に関心がない・・何でも漢字にしないと落ち着かない人が書いているのでしょうか?

https://kotobank.jp/word/%E6%9D%91-140799

むら【村】
〈むら〉とは農林水産業,すなわち第1次産業を主たる生業とするものの集落単位の総称であり,商工業者を主とする〈まち〉に対応する概念である。したがってそれは人類の歴史とともに古く,地球上どこにでも存在する普遍的かつ基本的な社会集団であるといえるが,〈むら〉のしくみや経済的機能は,民族により,また同じ民族であっても地域により,時代によって,きわめてまちまちである。ましてやその人口の多寡,村境域の構造,集落の形態,耕地のあり方,さらにはその法的な性格などということになると,〈むら〉とはこういうものだということを一律に規定することは,はなはだ困難である。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について

上記が一般的な理解でしょう。

「こおり」2と「さと」(郷と里)1

漢字の本家でさえも仏教伝来時に意味と関係ない、既存漢字の表音を音写して間に合わせていたのですから、朝鮮半島でも漢字の音を借りて朝鮮半島のいろんな言葉に漢字を割り当てる慣行があったと見てもおかしくないでしょう。
朝鮮での一定の地域単位をもしかして評と言う漢字で表していたのが日本列島に伝播してそのまま日本での利用が始まっていた場合もあるでしょうから、和語の「こおり」を何故「評」の漢字に当てていたのかを素人が詮索しても意味ないのかも知れません。
大宝律令を導入するにあたっては、社会の骨格を決める大規模な法制度導入である以上は、(今で言えば、首相や大統領、議会と言っても国によって権限が大幅に違うように)制度的にどのような権限あるかどのように運用されているかなど深い実態調査に基づく制度導入が必要ですから、表面的な漢字の意味だけでなくかなりの制度研究が進んだものと思われます。
明治時代の欧米制度導入にあたっても、西洋語の皮相的な単語翻訳だけでなく(王とか議会というだけでなく議会や総理・王にどんな権限があるかなど具体的調査を経てドイツ式の法制度導入に至ったものです)欧米の実態研究を行なってからの立案でした。
ウイキペデイアの大宝律令の記事です。

大宝律令に至る律令編纂の起源は681年まで遡る。同年、天武天皇により律令制定を命ずる詔が発令され、天武没後の689年(持統3年6月)に飛鳥浄御原令が頒布・制定された。ただし、この令は先駆的な律令法であり、律を伴っておらず、また日本の国情に適合しない部分も多くあった。
その後も律令編纂の作業が続けられ、特に日本の国情へいかに適合させるかが大きな課題とされていた。そして、700年(文武4年)に令がほぼ完成し、残った律の条文作成が行われ、701年(大宝元年8月3日)、大宝律令として完成した。

上記の通り丸20年かかって中国の実態研究と日本の実情のすり合わせをしています。
明治維新後明治22年の明治憲法制定までの期間とほぼ同様です。
制度研究の結果、漢字の意味を深く知って利用するようになってくるとそれまでの音を借りただけの「評」では意味のない利用法・文化的ではない・恥ずかしい利用法だとなったように思われます。
大宝律令導入にあたって中国の郡県制度の地方単位を導入するにあたって意味を含まない「こおり」に対する当て字を「評」から意味を含んでいる郡に変えたように思われます。
どの漢字であろうと和語でいう「こおり」であったことが変わりないので、日本列島では、一定の集団が固まって(こおる→塊の意味らしいですので)住む地域を単位としていたことになります。
流域文化圏を基礎としたムラ社会ほど濃密すぎない程度の地縁血縁の緩やかな集合体・・その後地域ごとに倭国100余国と言われる地域集団領域と古代の評(こおり)→郡の領域とはほぼ重なるのではないでしょうか?
郡(こおり)は、後世戦国時代の地方豪族の領域ともほぼ重なるように思われる重要な地域単位になっていた(江戸時代にも一定規模以上の藩に郡(こおり)奉行が置かれていました)と思われます。
「こおり」=隣接する郡は気候風土というほど大きな差がないのですが、どこか隣接の郡とは違う気風がある印象で、千葉県では山川で隔てられていないにも拘らず印旛郡と千葉郡、市原郡、君津郡など、郡によって気風が違う印象を受けます。
関東平野以外ではもっと大きな差があるでしょう。
「こおり」には、下位単位としてのサト(里・これも漢字表記であって和語は今もサトのままです)が、大宝律令で割り当てられていますが、日本の基礎集落はムラですから、このとき自然発生的集落をいくつか集めてサトという中間的単位を創設したように思われます。
(このコラムで「思われる」という書き方は全て調査研究した論説によらない私の直感的思いつきを書くものです)
こおり・評を郡に変えるにあたって同一支配者に属するいくつかの「こおり」を集めて大規模にしたものでしょうし、こおりの規模を大きくすればその中間的単位が必要となり律令制の模範とする中国に「里」の制度があったのでこれを律令制導入時に当てはめたようです。(条里制と学校で習う制度です)
「こおり」ごとに支配者が違えば一つにまとめるのは抵抗がありますが、大和朝廷成立前にはいくつかの「こおり」を支配する豪族の大規模化が進んでいたでしょう。
戦国時代に上杉や信長が、まず尾張国や越後国内で親世代が築いた郡単位の勢力を徐々に広げて国内統一→周辺国進出、最終段階で全国区の戦いになるのが普通ですので大和朝廷成立時には、歴史に残る出雲や吉備とか越前の勢力は数カ国にまたがる勢力を持っていたでしょうし、その配下武将も数郡程度の支配地を持つ中規模豪族がいたものと推測されます。
信長や信玄等の勢力拡大につれて配下武将も大名に成長していたように、大伴氏や葛城、蘇我等の大豪族は大和朝廷内の有力豪族としても、それでも大和朝廷が大きくなるにつれて・・本拠地以外に勢力の根を扶植していたものと思われます。
武田信玄配下の有力武将(12将)はそれぞれ勢力に応じた支配地を持っていたように、地形の複雑さから直接支配地が限られる・・足利政権の脆弱さが顕著でしたが・・中央権力の弱さが日本列島の歴史でした。
戦国時代に多い勢力拡大時における被占領地の国人層に対する本領安堵方式は、先史時代から続くものであったことは各地の神々がそのまま残っていることがその証拠でしょう。
地形の複雑さが、直接統治に無理があったために峠を越えて勢力拡大しても一次的支配しかできないので、大軍で押し寄せてもいつまでもいられないので引き上げるまでに地元に協力組織を構築視して帰るしかなかった・・いざという時に戦役に応じる義務・兵力提供義務程度にするしかなかったのが現実でしょう。
この結果負けた方の地域名も残るので、ムラの上の中規模単位もそのまま残ります。
明治維新で小集落を大量に集めて現代の郡市町村制が布かれましたが、「村」や町に吸収された多くの旧集落(古代から続く「むら」)は、大字小字として名を残したのと同じです。

国造から郡司へ(国郡里制)

律令制以前からあった国造は、みゃつこ=宮の子の意味ですから、中国で王族を国王に封じたのを真似したのかとも言えますが、元々我が国では、降伏した相手の神を祭る習慣があり、我が国古来からの智恵の現れとも言えます。
前回書いたように被征服民族や服属民族を皆殺しに出来ないので、これらを融和することが古代から必要でした。
自分の会社を大きくして行くばかりではなく、M&Aで大きくして行く場合の話です。
今のように地下資源目的の戦争ではないので、征服するのはその土地にいる労働力を入手することが目的だったからです。
造(みやつこ)は大和朝廷の大王の子の扱いですが、事実は地方服属者でしょうし、後世発達する猶子制度の先がけだったかも知れません。
國造と縣・あがた主の並立は、当時の中国の制度をそのまま真似せずに我が国の実情に合わせて漢の郡国制と同様の混合政体を採用したものと思いますが、朝廷は先ずは被征服王朝の代表者を大和朝廷・・大王の子供扱いに優遇して融和を図ったものと思われます。
江戸時代までに確立していた国名・範囲は何時からのものかを知りませんが、『隋書』倭国伝によれば、6世紀末から7世紀初頭頃には約120の国造が置かれていたようですから、(これは論文ではなく思いつきコラムですので原典に当たっていません・・)江戸時代まであった国の大きさ・範囲とは違うようです。
きっちり数えた訳ではないので数字は正確ではありませんが、一般に日本60余州と言われていたことから見ると江戸時代の2倍の数・・面積が半分だったことになります。
(当時と今では朝廷の勢力範囲が違うので面積的には3分のⅠくらいだったでしょうか?)
律令制によって国郡里制が始まる・・前提として従来の国造支配地を「評」(コオリ・コホリ)とする大化5年の再編行為(国評里制)がありました。
(大宝律令に「郡」が記載されているので、その前から郡制だったような解釈が主流でしたが、あちこちから出土した木簡にこの記載があったので分ったのです)
地域単位を我が国の言葉では「コオリ・コホリ」と表現していて漢字輸入に伴いいろいろな漢字をこれに当てていた時期があったのです。
「評」だって中国からの漢字輸入によるのですが、大宝令まで何故「郡」を使わずに「評」だったのかも不思議です。
それまでは高句麗経由だったのが、思想関係も直輸入になって変更されたのかも知れません。(この辺は私の空想です)
英語の勉強で「ネイテイブの発音は違う」と教えられるようなものです。
国造の支配地を評(コオリ)としていたのですが、この「評」を郡と言う漢字に大宝律令で置き換えたので、これらいくつかの集合体の上に國を作り直せば、国司が郡司の上に位置する監督官の地位を設けるのに無理がなくなりました。
ちなみに國評里制から律令制で国郡里制に変わったときに、国造が郡司さんに横滑り出来たのは上記のとおり元の国造の行政区域を「評」と言い換えて「評」の主に変更していたからです。
このときに領域も少し変えたようですが・・どこをどう代えたのかの詳細は不明ですが、今で言えば中選挙区を小選挙区に変えたようなもので、従来の国造の支配領域はぐっと狭くなりました。
(元国造ではない郡司も新たに出来たことになります)
中国では郡衙も縣衙も中央政府任命による官吏の運営する役所ですが、日本の郡司は国造の改名・横滑りしたものが中心ですから世襲的・半独立終身官が基本です。
律令制で出来た国司こそ中央任命制ですから、中国の郡長官あるいはこの頃には一般化されていた州長官(後漢以降一般的となっていた刺使)と命名すべきでしょうが、郡の上に、州ではない国名を持って来た・・定着していたので州に変えられなかったのでしょう・・関係からか、刺使(長官)でもないし国主でもない中途半端な「国司」(我が国の造語・和製漢語かな?)と言う名称になったように思えます。
ところで、我が国の地方制度は唐の律令制だけではなく中国古代からの郡縣・郡国制を参考にしていたし、地方単位をコオリ・コホリと言いこれを縣にも「評」にも当てていた時期があったのですが、縣だけ古代の制度では何故消滅して行ったか(1200年後の明治で郡縣をひっくり返して復活したか)です。
国造のあった時代には、昨日5月1日に書いたように、服従度が高い意味で並列的にアガタ主の治める地域もありましたが、律令制施行・・中央集権化の強化目的により全国を大和朝廷が直接支配する國に再編し直しました。
半独立地域と直接支配区域に区別する必要がなくなり、全部をアガタ主の治める地域にするか全部からアガタ主を不要にするかしかありません。
古代からの豪族の力を弱めて中国並みの直接統治制度を目指した朝廷では、豪族支配を前提とする県主も邪魔になったのでしょう。
全国統一の国司派遣制度にも反するので、この機会に朝廷成立の功臣・アガタ主の特権を奪ってしまったものと思われます。
ちなみに天武天皇の制定した「8色の姓」ではそれまで存在していたアガタヌシの姓(かばね)「あたい・直」がなくなっています。
ヌシは、大国主のみことの神話でも知られているように神話時代からの由緒ある姓の1つでした。
そしてアガタ主に当てていた漢字「縣」も利用されなくなって、明治維新まで来たと言うのが私の推測です。