戦前政党政治の失敗の原因(政治能力の未熟2)

政党内閣に関するウイキペデイアの記事からです。

大正7年(1918年)9月に立憲政友会の原敬が内閣を組閣した。この内閣は閣僚の大半が政党所属であった。また原が衆議院に議席を有する現役衆議院議員の初の首相であったことから政党内閣として画期的存在とされた。
特に1925年の男性普通選挙により成立した護憲三派の加藤高明内閣から始まる政党内閣6代の頃には政党内閣は「憲政の常道」として定着した。その背景には元老のなかでただ一人存命していた西園寺公望の意向があった。西園寺はイギリスの立憲政治を理想としており、政党内閣に比較的好意をもっていたからであった。
普通選挙は実現し、有権者は大幅に増加したが、それは政治資金の巨額化に伴うことであった。

その結果、選挙資金を得るためという政治腐敗の増加を招いた。政党間の政権交代は総選挙という国民の審判を通じて行われるのが本来の形である。しかし、この頃の政党は官僚や軍、枢密院などの勢力と結んで倒閣をめざし、それを果たした野党が議会の少数派のままで組閣し、与党という有利な条件のもとで総選挙に勝って第一党へ躍進するという形式が政権交代の基本的形式となった。政党内閣は政党間の対立という困難な問題を処理できないままに1930年代を迎えた。

そこに中国問題の深刻化、昭和金融恐慌、世界恐慌による経済危機、世界的な軍縮の流れに対する軍部の反発など、内外の危機に対して十分に対処しえなかった。その結果、海軍・陸軍、官僚、国家主義団体などを中心に政党政治への不満が高まった。そして1932年5月、海軍青年将校らによる犬養毅首相の暗殺(五・一五事件)と西園寺が軍部・世論の反対から犬養後継に政党党首を立てるのを断念したことをもって政党内閣は終わりをつげた。

上記を見ると、在野政治家は実務能力が低いのに「憲政の常道」と称して、西園寺が(民意の支持を無視して)形式的な政権交代制を採用していたのが政党の健全な成長の芽を摘んでしまったように見えます。
経験がないなりに実務に基づいて堅実政治をしている与党の支持がせっかく多くなっていても、政変の都度毎回少数野党に政権が変わるので、結果的に野党が国民の支持獲得を目的にせず、メデイア受けする空虚なスローガン頼りで政権攻撃する習慣になっていったように見えます。
メデイアの煽りで(本当は国民の多くが冷めていても冷めている人はデモしませんので)国会周辺が騒がしくなると「民主主義」という言葉の魔力でこのままでは政権維持不能となって内閣総辞職になります。
メデイア頼りの運動の限界を補うために軍部でもなんでも倒閣に利用できるものは利用していった結果軍部がどんどん発言力を持つようになってガン細胞のようになってしまったと見るべきでしょう。
戦後は揚げ足取りで倒閣に追い込んでも次の内閣は(本当に国民支持を受けている与党から樹立されるので、野党の揚げ足取り攻撃は意味がなくなっています。
ところが戦前成功例を夢見て戦前の揚げ足取りの「世論」という名でメデイアとの二人三脚での政権攻撃を戦後も繰り返してきたことになります。
実際に揚げ足取りで倒閣してもその次の選挙で社会党が勝ったことがないので、(60年安保だって政権交代はありませんでした)国民多くは安保反対でなかったのです。
まして政策論争のない揚げ足取りだけでは、政権交代になるはずがありません。
今回も森かけ問題による倒閣運動が盛んですが、政策論争でないので、安倍内閣が辞任しても野党への政権交代になる余地がありません。
内閣弱体化運動=国家に必要な政策遂行能力を弱める運動でしかないのです。
実務経験のない野党は無責任な観念〜原理論しか言えないので、国民が成熟してくると支持が減る一方になります。
そこで元官僚を野党が取り込んで現実野党を目指し・これを売り物に民主党が政権を一旦握ったのですが、多くが官僚の傍流であり、明治初期の板垣らと同じ傾向が出て・第一次大隈内閣同様の大失望を買ってジリ貧になってしまいました。
話題を元に戻しますと、23日まで紹介した小西氏も東大卒・元官僚で・東大教授の名前程度は知っていることを鼻にかける特徴にも現れています。
明治期の政治家が、ちょっと官員さんをやったことを誇って庶民に訴える傾向がありましたが、今でも在野政治家はその傾向を引きずっているようです。
明治初年と違い今では、元「官員さん」東大卒の有り難みが薄れています。
東大卒や国家公務員の中でも2〜3流人材・出世できそうもない不満分子が在野になって政治家になっていたこともあって、戦前の政党レベルが低く「あら探し」しかできない結果政党の根腐れ現象を起こしたことが上記「政党内閣」の紹介でわかります。
それをうまく利用して(・・当時陸士や海軍兵学校出身といえば今の東大卒よりもエリートでした)空隙を埋めるように軍部がガンのように育っていったと見るべきでしょう。
戦前政治家は「アラ探し」政治に終始していたので、国民に呆れられてしまい政党政治を自ら葬ってしまった点を反省すべきです。
軍部に頼っていた野党は、(国民を欧米流の単純な2項対立社会化→民族分断を企図していた)GHQ占領政治・・軍国主義批判→国民や政党は被害者という宣伝に便乗し・・またもや時の権力に媚びへつらって「国民や政治家が軍部や権力の弾圧によって窒息させられた」・・・「軍部や治安維持法が悪い」と宣伝してメデイア・言論界が被害者意識強調ばかりしてきました。
挙句に「戦犯批判・靖国合祀を許せない」と中韓まで応援団に引き込んで国民分断作戦に肩入れしてきたのが左翼や文化人です。
今の慰安婦騒動に限らず日本の国難は戦前から今まで、ずっと野党とメデイアの二人三脚プラス軍部や外部勢力引き込みで育て上げてきたものばかりです。
軍部を育てて言論を窒素させて行ったのは野党政治家とこれを応援するメデイアそのものだったことを今日まで見てきました。
戦後ずっと、メデイアの宣伝にさらされている国民の多くが、メデイア界も政治家も戦前権力による被害者だったかな?と誤解している人が多いでしょうが、逆に彼らのほうが弾圧を煽っていた張本人でした。
政府権力者(滝川事件でも背後で就職先を世話するなど尽力していた西園寺公望)の方が、如何にして政党政治を守り育てるかに腐心していた・肝心の民意無視で形式的な政権交代に重きをおいた)様子を紹介します。
簡略にみるには以下の記事が重宝です。
https://hosokawa18.exblog.jp/20192131/

戦前の政党政治はなぜ終焉したか
・・・昭和になってからは 「西園寺公望」 しか元老がいませんでしたから、
昭和における首相は全てこの男一人の手によって決められたのでした。
西園寺は 「政友会」 と 「民政党(憲政会)」 から交互に首相を奏薦します。
若槻礼次郎(憲政会)が金融恐慌の処理にミスって退陣したら、その次は田中義一(政友会)。
田中義一が張作霖爆殺事件で昭和天皇の勘気に触れて総辞職すると、次は浜口雄幸(民政党)。
浜口雄幸がテロによって倒れると、その次は若槻礼次郎(民政党)。
若槻礼次郎が満州事変の処理を巡り総辞職に追い込まれると、その次に首相に奏薦されたのが犬養毅(政友会)。これが 「憲政の常道」 たる 「西園寺ルール」 ですが、首相がテロで倒れた場合は政権交代させてません。
さもないと暗殺合戦が始まっちゃいます。
浜口首相がテロで倒れた後、首相に奏薦されたのは同じ 「民政党」 の若槻礼次郎でした。
このルールでいくと、次の首相は新しく政友会の総裁となった 「鈴木喜三郎」。
鈴木喜三郎もその気マンマンで、首相になる準備を始めています。
しかし西園寺は 「海軍出身」 の斉藤実を次期首相に奏薦。
これで戦前の政党内閣は終わりを告げたのでした。
つまり戦前の政党内閣が終焉した原因。それは・・・
「西園寺が鈴木喜三郎を首相に奏薦しなかったから」
この一言に尽きます。
なぜ西園寺は 「鈴木喜三郎」 を首相にしなかったのでしょうか。
まず 「政友会」 と 「民政党」 の抗争が激しすぎたコトが挙げられるでしょう。
国内・国外で問題が山積みなのに、とにかく彼らは党利党略が優先。帝国議会はお互いのスキャンダル暴露合戦と化しており、日本にとって害を及ぼすレベルにまで来ていました。
そして 「政友会」 があまりにも親軍的な政党と化していたコトも問題でした。
犬養首相は 「憲政の神様」 と呼ばれただけあって、党内のこうした勢力を抑えていたのですが、鈴木喜三郎は親軍派の代表的な人物であり、むしろ軍部よりも強硬意見の持ち主。
「こんなヤツを首相にしたら、日本がファシズム化しかねない」
それに比べて 「斉藤実」 は海軍出身ではありましたが、穏健で常識的な人。
「政党は平和で、海軍は戦争」
決してそんなコトはありません。
この場合は鈴木よりも斉藤を首相にした方が平和を望めたのでした。

天皇機関説事件でも紹介しましたが、政府会は政敵を攻撃するために時の政府が機関説を支持していることを攻撃し政党政治の理論的支柱である天皇機関説を潰す方を選んだのです。
以上紹介して来たように、社会党や民進党が政策論なしに政権や大臣の揚げ足取りに終始する体質は、戦前政党の悪しき系譜・DNAを引きずっていることがわかります。

戦前政党政治の失敗の原因(政治能力の未熟1)

昨日紹介した論文https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3735/JNK001702.pdf
の続きです。
論文記載の鹿児島県等の1984年(昨日紹介した就学率でいえば、1885(明治18)就学率49.62%の翌年ですが)の自署率は以下の通りです。

明治初期に文部省によって実施された自署率(6歳以上で,自己の姓名を記しうるものの割合)の調査に注目し,学制公布まもない時期の識字状況をしらべている。その結果はいくつかの県しかわかっていないが,滋賀県:64.1%(1877年),岡山県:54.4%(1887年)と50%をこえる県がある一方で,青森県:19.9%(1884年),鹿児島県:18.3%(1884年)など,20%に達しない県もあった(八鍬友広:2003,p.56)。

近江商人で知られる滋賀県は1877年でも64%の効率なのに青森や鹿児島では84年でも20%に届いていません。
文字を必要とする社会か否かにかかっていることがわかります。
http://www.tastytables.net/history/の「義務教育の歴史」によると以下の通りです。

日本での義務教育の歴史というと、まず1871年に国のでも文部省を設置し、翌年の1872年(明治5年)に日本で最初の学校制度を定めた教育法令である『学制』が公布され、義務教育推進運動が始まったというところが原点となっています。その当時は義務教育を推進しながらも授業料を徴収していたためそれほど普及することがなかったのです。その後1890年に改正された小学校令で尋常小学校の修業年限であった3年間または4年間を修了するか、学齢の8年間までが義務教育期間と定められており、3年間〜8年間と過程主義と年齢主義の併用をおこなっていたのです。たとえば、尋常小学校を3年間で修了した場合にはそれで年齢に関係なく義務教育は修了となるのですが、それでも修了できない場合は年齢制限である14歳になるまで義務教育が続くというものです。
1900年に小学校令が全面的に改正され、ここで尋常小学校の修業年限が4年間となったために義務教育期間が4年間からになっています。またこの法令により尋常小学校の授業料が無料になるなどしたために通学率がこれを機にどんどん上昇していったのです。1907年には尋常小学校が今と同じ6年間となったために6年間〜8年間となり、また1941年になるとこの尋常小学校の名称が国民学校初等科と変わっています。

上記の通りで、3年や4年小学校に通っても、多くの児童はちょっとした文字を習う程度でしかなかったでしょう。
在野というか自己意見・現状無視原理論が採用されないで下野したものは、民意重視と言っても漸進的にやるしかない・・この辺の機微がわからないで民衆を焚きつけて政府批判をするのが共通項です。
民権運動の功績を大げさに歴史で習いますが、条約改正のためにも近代法整備・・憲法その他の法制度準備と訓練期間・教育の普及等々を総合してどの程度のスピード・準備が必要か・・社会が混乱しないで受け入れ可能かの判断の違いでしかなかったことになります。
現在の「保育所落ちた日本シネ」の標語も同じですが、保育所増の必要性について与野党共に意見相違がない・現行法制との兼ね合いで、どこまで規制を緩めるか近隣住民の新設反対運動などをどうするか・保育士の人材供給など具体的な提案競争であるべきですが、野党はイメージ主張で対策が遅い批判しかできないのが自由民権・板垣時代から続く野党の特徴です。
ここで、在野系が組閣した大隈板垣内閣で政治が混乱した歴史を紹介しておきます。
最近でいえば民主党政権であり、韓国も全学連的政治家と言われる現代の文政権同様のことを明治30年代に起こしていたことがわかります。
第一次大隈内閣に関するウイキペデイアの記事からです。

第3次伊藤内閣が伊藤博文の政党組織準備(のちの立憲政友会)のために総辞職し、元老が議会勢力に妥協した結果、当時衆議院第一党であった憲政党の首班大隈と板垣に大命が降下して組閣された。
首班が議会(衆議院)に議席を持たないという意味ではやや条件を欠くが、軍部大臣以外を政党人によって固めたという点では、日本史上初の政党内閣であるといえる。
この首相奏推の元老会議は御前会議として行われ、お通夜のような雰囲気の中、明治天皇は「本当に大丈夫なのか」と何度も念を押したと語り草になっている。
実際に寄合所帯の憲政党内部では、旧進歩党系と旧自由党系の軋轢が強く、自由党系が求めていた星亨の外相任命を大隈が拒んで自ら兼務を続けたことに加え、文相尾崎行雄の共和演説事件による罷免をめぐり後任人事が両者間で紛糾し、星らによる憲政党の分裂騒ぎに発展した。
そして代議士が大臣だけでなく省庁の次官・局長の地位までも占めたために、行政は大混乱した(所謂「キャリア官僚」制度はこの反省により生まれた)。
またアメリカのハワイ併合に対して、「これほど激烈で宣戦布告か最後通牒に等しいような外交文書は見たことがない」とマッキンリー大統領に言わしめるような強硬姿勢を示して外交危機を招いた。そして組閣後4ヶ月余りで総辞職を余儀なくされた。

これが政党政治の始まりでした。
救援を求めてきたハワイを助けたい気持ちは正論としても、在野が政権を握ると常識に欠ける傾向がある点では今も同じです。
民主党菅総理が原発事故に対して(緊急性があったにしても)トップは具体的行為を指示すべきではなく方向性や大綱表明に止めるべきなのに、(合戦でいえば総大将が末端組織の動きまで直接指示したのでは混乱します)むやみに介入して官僚機構〜東電指揮命令系統が大混乱した点も同じです。
その後政党政治を理想とするキングメーカー西園寺公望をバックにヨチヨチ歩きの政党を暖かく育てる動きが続いたのですが、昨日紹介したように政敵攻撃ばかりでまともな政策提言能力が育たないまま昭和恐慌を迎えて、なすスベもなくついに終焉を迎えたのです。
国民能力という点で普通選挙施行の1925年を見ると、昨日見た表で言えば、就学率が99.43 ですが、選挙権者が25歳以上ですから19年前に小学校入学した子供がようやく25歳です。
有権者平均年齢が仮に40歳前後とすれば、約35年前=1880年の就学率・識字率レベルが対象です。
個々人を見れば深い素養のある人もいますが、一人一票ですから大衆を基準に考えるべきです。
こういう状態で普通選挙実施になると政治家は浅薄な感情に訴える傾向が強めて行くしか無くなります。
1935年の天皇機関説事件では機関車や機関銃にたとえて感情を煽る宣伝が横行しました・・。
政治家レベルは選挙民のレベル次第と一般的に言われますが、以後政党政治は堕落・・レベル低下の一途をたどっていったのです。
日本の産業革命は模倣から始まったのでキャッチアップ速度が速く、短期間に世界強国の一角を占めるまで上り詰めたものの、裾野からの政治意識の成熟には模倣や「西欧ではこうだ」という啓蒙だけでは無理があった・・普通選挙実施は民度レベルから見て早すぎたのではないでしょうか?
日本人のレベルが低いのではなく、戦後民主主義が根付いたのは明治以降2〜3世代くらい時間が必要だったからでしょう。
普通選挙法に関するウイキペデイアの記事からです。

有権者数は、1920年(大正9年)5月現在において307万人程度(人口に対し約5.5%)であったものが、改正後の1928年(昭和3年)3月には1240万人(人口に対し20.1%)と、4倍になった。

未成熟社会4(ロシア原油下落)

未成熟社会4(ロシア原油下落)

今後中国の高度成長が低下し賄賂を出せなくなる・・いわゆる都市戸籍と農民戸籍の差別〜一人っ子政策に反しているために生じた無戸籍者など日常的に人間扱いされていなかった層・数億人?にとって、医療その他生活の最低サービスすら賄賂を出せないと受けられなくなるなど大変な状態になると思われます。
結局は、公的サービス水準をどこに置くかによってくるでしょう。
10月19日にロシアの平均年齢のグラフで見たように恐怖政治をやめて国民生活の自由化を進めると却って混乱する社会であることから、エリツインからプーチン(第一次大統領就任・2000年〜2008年)の一強独裁的強面(コワモテ)政治に戻り、治安悪化を止める方向に舵を切って成功しました。
プーチン氏は大統領職連続任期2回限定の憲法を守るため、2008年任期満了とともに部下のメドベージェフ氏に次期大統領を譲り、(その間自分は首相になって事実上実務の全権を握って)同氏の任期満了を待って再び大統領に返り咲き12年から第二次大統領就任〜現在に至っています。
プーチン氏の強権的政策開始と同時頃に運が良くちょうど原油価格の上昇トレンドが始まりと重なったことが彼の強運で長期政権を維持出来ている基礎原因になります。
ちなみにエリツイン氏は、ソ連崩壊後の大混乱を乗り切る最も大変な矢先にアジア通貨危機)98〜99年)の大波乱と原油その他資源安をまともにかぶったことが不運でした。
19日に紹介したソ連平均寿命の最低期は1994〜5年ですが、下記原油相場グラフを見れば底値の頃が、エリ ツインの任期とほぼ重なっています。
本日のウィキペデアによれば以下の通りです。

「ボリス・ニコラエヴィチ・エリツィンロシア語: Борис Николаевич Ельцин、1931年2月1日 2007年4月23日)は、ロシア連邦政治家で、同国の初代大統領(在任: 1991年 1999年)である。ロシア連邦閣僚会議議長(首相)も歴任した。大統領在任中にソ連8月クーデターに対する抵抗を呼びかけロシア連邦の民主化を主導した評価と共に、急速な市場経済移行に伴う市民生活の困窮、ロシアの国際的地位の低下、チェチェン紛争の泥沼化、強権・縁故政治への批判もあった。」

この15年以上のロシアの復活はプーチン氏の手腕のように見えて実は原油その他資源価格トレンドによるとした場合、下記グラフの通り、2013〜4年に原油価格がピークを打って急激に下がり始めたのがプーチンには痛手です。
平均寿命が急落するような大混乱を収拾して欲しい国民の当面の願望に合わせた強面(コワモテ政治)で成功したのであって、プーチンは・複雑な利害調整で成功した経験がありません。
治安回復後急激な原油価格上昇による豊かさ到来に助けられてきたメッキが剥がれる局面が始まっています。
この数年で頼みの原油価格下落によって、やむなく?国民不満をそらすために?無用なシリア介入やクリミア併合・ロシア伝統の外延政治に戻って行かざるを得なくなった懐具合が見え見えです。
原油価格の推移はhttp://ecodb.net/pcp/imf_group_oil.htmlによれば以下の通りです。

この15年以上のロシア経済の復活はプーチン氏の手腕のように見えて実は原油その他資源価格トレンドによるとした場合、上記グラフの通り、13〜4年に原油価格がピークを打って急激に下がり始めたのが痛手です。
平均寿命が急落するような大混乱を収拾して欲しい国民の当面の願望に合わせて登場したプーチン氏が強面で成功したのであって、プーチンは複雑な利害調整で成功した経験がありません。
治安回復後急激な原油価格上昇による豊かさ到来に助けられてきたメッキが剥がれる局面です。
この数年で頼みの原油価格下落によって、やむなく?国民不満をそらすためにロシア伝統の無用なシリア介入やクリミア併合・外延政治に戻って行かざるを得なくなった懐具合・内政困難度合いが見えます。
http://toyokeizai.net/articles/-/180689によれば原油価格とロシア経済との関係は以下の通りです。
ケネス・ロゴフ : ハーバード大学教授
2017年07月27日

「ロシアの経済学者グリエフ氏(後に亡命)が、司法などの制度が脆弱なままでは、資源輸出依存のロシア経済が変わる望みはないと主張していた。あまりに多くの決定が1人の人間によって行われていたからだ。同じ会議で私は、大規模な改革が行われないかぎり、エネルギー価格の急落は深刻な問題を引き起こすことになると力説した。
かくして、原油価格は暴落した。現在の市況(7月上旬時点で50ドル以下)ですら、2011〜2012年ピークの半分に届かない。輸出の大半を石油と天然ガスに頼っている国にとっては大打撃だ。
ロシア規模の不況が民主主義の西側諸国で起きたとすれば、政治的に乗り切るのは極めて困難だったろう。だが、プーチン氏の権力は、まるで揺らいでいない。
国営メディアは失政を覆い隠すために、西側からの経済制裁を非難したり、クリミア併合やシリアへの軍事介入への支持をあおっている。たいていのロシア人は、学校教育や国営メディアによって、西側諸国のほうがひどい状況にあると信じ込まされている。残念ながら、そのような情報操作は改革への処方箋とはなりえない。」

こんな苦しい時になぜウクライナ紛争を起こし、クリミヤ併合するのか(純粋経済的に見ても軍事行動は巨額経済負担です)というと、この紛争で愛国・民族主義を煽て目を外に向けるだけではなく、クリミア併合に対する欧米による不当な経済制裁という問題設定をして苦しいのは「欧米の不当制裁」という悲憤慷慨を煽る仕組みに利用しているのです。
・・北朝鮮も不当な経済制裁を煽っていますので、経済制裁ではどうなるものでもありません。

混乱収束後の政治体制(ローマの場合)

ロシアの大統領制はソ連崩壊の混乱の中で失うものがない状態で生まれたものですが、中国の場合共産政権が崩壊してもいないのに結果がどうなるか不明(選挙というものはやってみないと結果はわからないものです)の選挙など怖くてすぐにはできません。
(対立候補が出ないように)よほど周到な準備をしてからでないと怖くて選挙をすると言い出せませんので、今は内々にその準備中でしょうが、中国にとっては大統領制のロシアでプーチンが2000年以来約20年も続いている体制が理想となっているのでしょうか?
大統領制で守られているはずのプーチン氏でさえも、家族でさえ信頼できない・・日本が贈った秋田犬だけが心を許せる状態?・・らしいですが・・・。
権力争いに関係のない国民にとっての関心は、習近平の粛清がどの段階でとどまれるか・スターリン粛清のように庶民まで及ぶのかでしょう。
中国歴代暴動では暴動を生き抜いた覇者を次の皇帝にすることで、際限ない闘争に終止符を打ってきた例を10月21に「漢承秦制の思想」として(003/30/10「パックスアメリカーナから中国専制支配へ2」のシリーズで紹介したこと)紹介しました。
一定の民度以下の社会ではどこでも一旦独裁が始まった以上は、終身制・・どころか子孫へ世襲していける皇帝や国王にして安心させない限り独裁者が権力維持のための際限のない猜疑心に陥り大変なことになるのが歴史教訓というべきです。
古代ローマでもシーザーへの権力集中→終身独裁官にまでしたものの、シーザーへの権力集中が進むことへの危機感から「共和制の大義」を守るために有志で?「ブルータス、お前もか (et tu, Brute?)」の文句で知られるクー・デ・ターで倒したものの、結果的にそのブルー タスを皇帝にして行った歴史が参考になります。
シーザーに関するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/によれば以下の通りです。

ローマ内戦
紀元前46年夏、ローマへ帰還したカエサルは市民の熱狂的な歓呼に迎えられ、壮麗な凱旋式を挙行した。カエサルはクレオパトラ7世をローマに招いており、クレオパトラ7世はカエサルとの間の息子とされるカエサリオンを伴っていた。紀元前45年3月、ヒスパニアへ逃れていたラビエヌスやポンペイウスの遺児小ポンペイウス・セクストゥス兄弟らとのムンダの戦いに勝利して一連のローマ内戦を終結させた。
終身独裁官就任
元老院派を武力で制圧して、ローマでの支配権を確固たるものとしたカエサルは共和政の改革に着手する。属州民に議席を与えて、定員を600名から900名へと増員したことで元老院の機能・権威を低下させ、機能不全に陥っていた民会、護民官を単なる追認機関とすることで有名無実化した。代わって、自らが終身独裁官に就任(紀元前44年2月)し、権力を1点に集中することで統治能力の強化を図ったのである。この権力集中システムは元首政(プリンキパトゥス)として後継者のオクタウィアヌス(後のアウグストゥス)に引き継がれ、帝政ローマ誕生の礎ともなる。
紀元前44年2月15日、ルペルカリア祭の際にアントニウスがカエサルへ王の証ともいえる月桂樹を奉じたものの、ローマ市民からの拍手はまばらで、逆にカエサルが月桂樹を押し戻した際には大変な拍手であった。数度繰り返した所、全く同じ反応であり、カエサルはカピトル神殿へ月桂樹を捧げるように指示したという[28]。 共和主義者はこの行動をカエサルが君主政を志向した表れと判断した。また、カエサルは「共和政ローマは白昼夢に過ぎない。実体も外観も無く、名前だけに過ぎない」「私の発言は法律とみなされるべきだ」などと発言したとされる[29]。これら伝えられるカエサルの振る舞いや言動、そして終身独裁官としての絶対的な権力に対し、マルクス・ユニウス・ブルトゥスやガイウス・カッシウス・ロンギヌスら共和主義者は共和政崩壊の危機感を抱いた。
暗殺『カエサル暗殺』(La Mort de César) フランス人画家ジャン=レオン・ジェロームによる1867年の作

 紀元前44年3月15日 (Idus Martiae)、元老院へ出席するカエサル

4〜5年前に松本幸四郎主演の「カエザル」を日生劇場で見た時の舞台装置はこれを参考にしたらしく上記写真のようでした。
以下は、ローマ帝国に関するウィキペデアの記事からです。

「紀元前44年にカエサルが暗殺された後、共和主義者の打倒で協力したオクタウィアヌスとマルクス・アントニウスが覇権を争い、これに勝利を収めたオクタウィアヌスが紀元前27年に共和制の復活を声明し、元老院に権限の返還を申し出た。これに対して元老院はプリンケプス(元首)としてのオクタウィアヌスに多くの要職と、「アウグストゥス(尊厳なる者)」の称号を与えた。一般的にこのときから帝政が開始したとされている。
以降、帝政初期のユリウス・クラウディウス朝の世襲皇帝たちは実質的には君主であったにもかかわらず、表面的には共和制を尊重してプリンケプス(元首)としてふるまった。これをプリンキパトゥス(元首政)と呼ぶ。彼らが即位する際には、まず軍隊が忠誠を宣言した後、元老院が形式的に新皇帝を元首に任命した。皇帝は代々次のような称号と権力を有した。」

上記経過を見るとクロムウエル独裁やナポレン帝政の原型・混乱を鎮めたスターを国王または皇帝にしないと世の中がおさまらない歴史の原型がローマ時代からあったことがわかります。
クロムウエル独裁時に議会が国王になるように求めた例がありましたが、現実的判断の利くイギリス人の一面を表しています。
中国歴代王朝が大暴動で滅びこれを鎮めた武将が次の皇帝になり過去の王朝制度をそのまま踏襲してきたのもその一例です。
北朝鮮がどんなに貧困状態にあっても政治が安定しているのは、意外でもナンでもない・民度レベルからしてできもしない民主主義・能力主義政治あるいは、政策目標を掲げたり約束していない身の丈にあった世襲制政治をしているからです。

政争と粛清5(飢餓輸出・平均寿命低下)

政争と粛清5(飢餓輸出・平均寿命低下)

国民を飢え死にさせてまで穀物を輸出するようなことが、何故起きるのでしょうか?
飢餓輸出に関する本日現在のウィキペデアの記事からです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/

発生原因
国家財政が破綻するなど経済情勢が極端に追いつめられた局面で発生する。
宗主国が植民地(国)に対して行う強要。
外貨獲得のための単一作物の一辺倒な作付けによる、主食となる食糧生産量の減少。
20世紀、一部の計画経済の国では、国力の限界を超過した重工業化が行われ、その為の手段として、外貨獲得の為にその国の食料需要を無視した食料輸出が頻繁に行われ、発生した。
実例など
ロシアでは、ロマノフ朝末期から西欧諸国(特にフランス)への債務返済の目的で、小麦の飢餓輸出をおこなっていた。飢餓輸出はソ連時代になっても、外貨獲得の手段として続行された。ウラジーミル・レーニンは市場経済廃絶も兼ね、根こそぎ強制搾取で500万以上の死者を出し、ヨシフ・スターリンによる強引な農業集団化政策の影響で、1932年‐33年にウクライナで大飢饉が発生した際も、スターリンの命令により、引き続きウクライナから大量の小麦が輸出目的で搬出されたことで、飢饉の影響はより深刻かつ凄惨なものとなった。
近年で有名なところではルーマニア社会主義共和国の元首、ニコラエ・チャウシェスクの行ったものである。西側諸国からの累積債務返済のため、飢餓的な輸出を強行し、生活用品や食料品も不足したとされ、ルーマニア革命の遠因ともなった。
日本の1993年米騒動では、日本国内で米が不足したため海外から米を輸入することとなった。そのため米を輸出したタイ国内では逆に米が不足、高騰を招く事態となった。海外では、当時の日本国内には米以外の十分な食料があったことを皮肉って、ある種の飢餓輸出と呼ぶこともあった。
北朝鮮では国内各地で食糧不足が深刻化しているにもかかわらず、外貨を獲得するために飢餓輸出を続けているとされる。主な輸出品目はマツタケや魚介類である(ただし、正確な情報の不足から完全な把握は困難)。
中国の大躍進政策で多数の餓死者を出す原因となったのは、ソ連からの借款の返済に農作物を充てていたことが一因となったという指摘もある。

上記を見ると表向きは出てきませんが、中国大躍進政策による餓死者について18日に見たようにチベットなど少数民族の餓死率が極めて高いなど国内に抱える被支配民族に対するジェノサイド目的が背後にあったと見ればソ連との共通項が見えてきます。
大躍進政策失敗責任で一旦公職を退いた毛沢東が失地回復のために打ったのが文化大革命という名の大規模粛清でしたが、この気狂いじみた大粛清の大嵐がスターリンに比べて短期間で終わったのは、毛沢東が死去したことにより側近として猛威を振るった4人組が失脚したことによります。
粛清政治が一旦始まるとガン細胞のように巨大化する一方でスターリンやクロムウエル同様に権力者の病死、あるいはナポレンやヒットラーのように外征の失敗以外に終わらないのが特徴です。
粛清政治の連鎖による民生圧迫・疲弊の螺旋状強化に歯止めをかけるべくスターリン死亡後登場したフルシチョフのスターリン批判〜ゴルバチョフのペレストロイカ→ソ連崩壊後のエリツイン政治へと粛清政治をリセットしてみると社会が大混乱に陥りました。
これを収拾するにはプーチンの強権的政治にもどるしかなかったようです。
民主化に端を発した大混乱の総合結果であるロシアの平均寿命の急落を見れば、いかに民主化による混乱がひどかったかがわかります。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/8985.htmlからの引用です。
これによると単に生産が減って食料等不足になっただけではなく、恐怖時代に社会のあらゆる場面に病根が広がっていた結果によることを具体的に見ることができます。

年齢別の死亡率から計算される平均寿命はその国の健康状態、経済発展、社会病理の状況を集約して示す指標である。
2015年の平均寿命は、男は66歳、女は77歳である。男の平均寿命が60歳代半ば、すなわち定年年齢程度である点はやはり目を引く。ロシアでは年金問題は生じないとも言われる位である。男性の平均寿命が短い点とともに男女差が世界一大きい点がロシアの特徴であるとされる(図録1670参照)。
ゴルバチョフが企業の独立採算制と自主管理制を導入する経済改革などペレストロイカ政策を本格実施しはじめた87年から、いったん低下したアルコール消費量の再拡大と平行して、平均寿命は再度低下しはじめた。1991年のソ連邦崩壊後、1994年にかけては、一層急激な平均寿命の低下をみており、この時期の社会混乱の大きさをうかがわせている。
労働市場の改革、1990年代の深刻かつ長期にわたった景気後退、そして社会保障の崩壊が人々の心理的ストレスを増やす結果となったと考えられる。これは、アルコール消費量とアルコールが原因の病気に表れている。同時に、法、秩序および治安を扱う国の制度が崩壊したことに伴い、暴力的な犯罪が増加している。インフォーマルな経済活動や、暴力にものを言わせた取り立ても、平均寿命低下の原因となっている。1990年代前半だけで男性の殺人被害者は2倍に増えた。
裕福な世帯の多くは新たな民間の医療サービスに頼るようになっており、多くの貧困世帯にとっては、あらゆるところで賄賂その他の正規外の支払いを求められるために、「無料」の公的医療サービスは手の届かないものになってしまった。」