国会審議拒否と内閣総辞職(戦前の教訓)2

江戸時代の一揆の仕組みを佐倉宗五郎の例で紹介しましたが、騒動を起こすような大名には統治能力がない・企業でいえば部下が団体で社長に直訴するような騒動を起こされるような人(所長や支社長)は「人の上に立つ能力がない」という判断は概括的評価として便利な知恵です。
そして騒動原因の善悪に関わらず、首謀者は必ず処罰される江戸時代の「喧嘩両成敗ルール」も安易な騒動を起こさせない知恵でした。
両成敗の結果、安易な個人的恨みや出世競争を勝ち抜くための追い落とし戦略などない時代には合理的制度だったように思われます。
西欧の民主主義制度・・その一環としての政党政治が始まると、党利党略中心で、国家のためというよりは党派利益だけで相手の党を非難だけして騒動に持ち込めば与党が責任を取るという結果だけ真似した・両成敗ルールがないので騒いだ方に政権が転がり込む変な結果にしたのが西園寺ルールでした。
加えてエセ民主主義国家においては本当の民意を問う仕組みがないので騒動が大きくなると民意の支持を受けた騒動か否かの判断がつかないので・・本当の民主主義を求める革命騒動に点火するリスクを恐れて、目先沈静化の方便としての不満の種になっている担当者処罰で乗り切ろうとの考えが高まります。
こうした時代背景を前提に日露講和条約不満が合理的・正義にあっているか民意によるかの基準によらずに、元老院が内閣総辞職させて当時の少数野党に組閣させた理由でした。
この辺までは、まだ党利党略による不当な意図によって騒動を起こす政党政治が未発達でしたので、(元老院内で有能な政治家に白羽の矢を立てる)許容範囲でしたから元老院のミスとは言えないでしょうが、その後政党政治が発達するとこれが変な方向性・・・なんでも反対して政治を麻痺させれば野党に政権が転がり込むという歪んだ政治運動の基礎になっていきます。
政党政治を導入する以上は民意多数を得た政党=選挙で多数支持を得た政党が政権を握るという両輪の導入が必須だったのですが、明治政府はそこまでの民主化の徹底を認められなかったので、民意や正義に関係なく国会審議が滞れば結果責任主義で政権交代を行なったのがこのような歪みを起こした原因です。
この悪習が次第に大きくなって、野党が政権を握るには選挙で勝つよりは何かテーマを見つけてはメデイアと組んで根拠のない騒動を起こしさえすれば時の野党が政権を握れる習慣になったので、あることないことで騒動を起こしては(天皇機関説事件の例を紹介しました)政権党になる・政権交代のルールになっていきました。
下野した方は同じくメデイアや軍部(メデイアの応援がないと騒動にならないからですが・・そのうちメデイア主導(メデイアは軍部と組み)と組んではまた自分を追い落として政権を得た与党を攻撃する・・結果その都度軍部が増長していき日本を破滅に追い込んだ歴史です。
戦後は本当の民主主義社会になったのですから、民意を知る手段としては完全な自由選挙制度があるので、騒動の大きさによって民意を知る必要がありません。
赤ちゃんが生命の危機を伝えるには泣くしかないのですが、むずかるとか小さな動きを母親がきめ細かく感じ取って手当てしていくようになると大きな声で泣き叫ぶ必要を感じなくなります。
成長に連れて言語能力等が発達するように、国民の表現力が付き、為政者も察知能力が高まる・上下ともに共感力・察知能力→忖度能力が高まると大規模な革命騒動が不要になります。
このコラムで繰り返し書いているようにフランス革命や、中国で繰り返される王朝末期の大騒乱など大規模騒動を起こさない限り社会が変わらない硬直性こそ恥ずべきことです。
日本では昔から「民の声なき声」(赤ちゃんが泣き叫ばなくとも母親の多くがその前に表情等で気がつくように)をすくい上げる能力が発達していますし、これに加えて戦後民主主義制度の発達定着で民の声は十分に届いているので、命がけの一気に相当する反政府活動・.騒乱状態を必要としていません。
一部はねっかえり組織集団画題動員をかけてデモや集会を何回繰り返しても国民大多数の声など反映しているものではありません。
処罰される心配もない民主国家では、集会に千人参加すると(処罰が怖くて参加をためらう)その何百倍の支持があるという意味がほぼなくなり、最近ではどちらかと言えばデモや集会は自己集団の存在誇示運動目的になっているイメージです。
その集会目的とどういう関係があるのかわからない韓国語で書いたプラカードや組合の旗などが目立ちますが、仲間内でどこの組織が参加したかの出席表みたいになっているのでしょうか。
補欠選挙や地方議会選挙などで民意を絶えず反映している先進国では、選挙で得た民意・多数党になるしか与党になることができないにも関わらず、革新系野党は騒動さえ起こせば与党になれた戦前の旨味を忘れられないでいるように見えます。
戦後もこの威力を発揮したのが60年安保騒動でしたが、これはまだ戦前政治の記憶が強い時期だった・当時はまだ戦前政治経験者がほとんどだったから戦前の政治習慣に従って「揉めれば辞職」すべきという暗黙の合意があって、内閣総辞職になったにすぎません。
ところが、戦後の制度は民主制度に変わっていますので、内閣総辞職しても国民が自民党を支持している限り、少数野党に政権が転がり込むことはありません。
そうすると何のために何かといちゃもんつけては審議妨害をしているかの疑問が起きてきます。
ここから革新系野党の誤算が始まったように見えます。
その頃から「政権たらい回し」批判を頻りに行って「憲政の常道論」が起きたのですが、彼らの言う戦前の憲政の常道とは、騒動の責任をとって辞職した以上は、政権を(少数=民意を無視して)野党に引き渡すべきと言うものでした。
騒動を国民が支持しているならば、次の選挙で勝てばいいのですがそれを一切言わないところが味噌です。
歴史の審判の結果から言えば当時の日本国民の大多数は革新系の推進していた旧ソ連圏との同盟よりは、日米同盟を支持していたことは明らかでした。
戦後文化人と称する人達は、ずっとこの手の騒動を起こすことに主眼を置いて民意の支持を得る地道な努力をしないまま70年以上もやってきたことになります。
民(たみ)の支持を得る努力と書きましたが、日本の場合、古代から上下共にそれほど能力差がないことを書いてきましたが、「エリートが高邁な理想を唱えて愚昧な民を指導する」という発想自体がおかしい・・むしろ実務に参加して実務で磨かれた常識の中から国の進むべき道筋の方向が出てくるのが原則です。
ですから欧米的エリートと文盲に分化している階層社会を前提にして、(これを有難がって)エリート?の前衛思想家が国民を指導しようとする方向自体が間違っています。
国民意識を無視して有名教授の名を連ねて「違憲」という運動をいくらしても国民は共感しません。
この辺は、ポーツマス講和条約に反対した帝大7博士意見書の伝統を受け継ぐ古色蒼然たる運動形式です。
明治時代でも7博士の意見書は時代錯誤の主張であったことはほぼ百%明らかですが、それから約100年あまり経過後の今でも帝大7博士の故事に倣った憲法学者連名声明を錦の御旗のように掲げる?主張のおかしさに気がつかないようです。

国会審議拒否と内閣総辞職(戦前の教訓)1

野党(立憲民主党は森かけ等の一連疑惑追及の急先鋒ですが・・)は、次官が懲戒を受ければ大臣の任命責任という順序の主張であり、メデイアはそれとなく国民理解が得られないと(5月2日紹介記事のように)主張して次官や大臣の辞任要求に徹しています。
最重要閣僚の解任になれば、総理の任命責任という図式を描いているイメージです。
これまで戦前の総辞職の事例を書いてきたように、内容の真偽や是非ではなく、「これだけの騒ぎになった以上内閣が責任を取るべき」と言う戦前の悪しき習慣の再現を野党とメデイアは共同して狙っているように見えます。
反論さえさせない・事実不明にしたままで「ともかく責任を取れ」という強引な態度を国民がどう見るかです。
野党やメデイア界全般の強引な対応を見ると、事実の有無を明らかにしない・他の審議を一切止める・・こういうことが国政上どういう意味があるかの議論よりも、政局に持ち込みたい?野党とメデイアの変な意図に対する憶測をたくましくする意見も一応の説得力があります。
この辺で自民党側から解散説が出てきたので、メデイアや野党の意向が民意の支持を受けているかの関心が高まってきました。
民主国家における「民意は何か」となると、戦後民主主義国家においてはメデイアの偏った?世論調査結果よりは選挙結果が文字通りの民意です。
昨年の解散直前の世論調査と選挙結果がまるで違っていた事実があります。
ここにきて野党は内閣総辞職に追い込んで選挙に勝てる自信があるか・本当に国民支持を受けて騒いでいるかの問題であることが、次第にはっきりしてきました。
戦前の天皇大権下のエセ民主主義時代・繰り返し書いてきたように、政治テーマの是非に関わらず騒動がおきると野党に政権交代させる西園寺ルール・・悪しき慣習によりかかっている野党やメデイアが困ってきたようです。
戦後は枢密院が次の政権を指名する時代ではなくなっている・・民意=選挙結果で政権交代交代する時代になっているのに、騒ぎさえすれば政権交代になる戦前からノスタルジアに浸っているメデイア・野党の限界が見えてきました。
戦後60年安保当時は戦前政権交代のルールに親しんでいる国民が多かったのでまだ内閣総辞職で対応しましたが、当たり前のことですが(国民の多くがソ連と仲良くするよりは日米友好基軸体制・・安保条約を支持していたので?)政権交代にならなかったので騒動を起こした支持者が失望しました。
その後国民に民主主義の意識が浸透するに比例して内容の是非に関わらず「騒動さえ起こせばいい」という運動に対する疑問が起きてきて、一般学生運動というよりは、原理主義というか過激運動家中心・ともかく「暴れることに意味がある」暴発運動に変わってきました。
この開き直りを正当化しようとしたのが?毛沢東語録「造反有理」のスローガンでしたし、政党的にはなんでも反対の社会党への変質であったと思われます。
このように戦前政治回帰は不可能になっているのに、いまだにその夢を追っているのがメデイアであり革新系政治家です。
造反有理は文化大革命の悲惨な実態が伝わるにつれて、なんでも反対で騒動を起こす政治運動が無理になったので、さらに開き直って、国民支持を気にしない一種のテロ活動(三菱重工爆破事件や連合赤軍によるあさま山荘事件)に変わって行き.ついには一般学生も国民の共感も得られなくなったのがその後の経過です。
メデイアが軍部(戦後は中ソの応援・ソ連崩壊後ソ連から、社会党に資金が流れていたことが明らかになった記事を紹介しました・・)等を背景に騒動を煽りさえすれば政権交代があった・戦前政治風土への回帰は民主化が本物になった戦後は、不可能になっているのに、いまだにその夢を追っているのがメデイアであり革新系政治家です。
ここ数十年では単なる反対では国民が相手にしなくなったので「護憲」「民主主義」「平和主義」というスローガンによっていますが、具体的処理の必要な政治決断を何でも「護憲」「平和」と言う原理さえ言えば解決できるはずがありません。
今の時代内乱は滅多にないので平和主義とは国際紛争解決をどうするかが中心テーマですが、中東の戦乱・イスラエルとアラブ諸国との紛争、サウジを中心とする湾岸諸国とイランを中心とするシーア派の抗争・イエメンでの内乱、シリア内戦に関するトルコやイランの立場の違いとクルド族の独立問題、シーア派とスンニ派の宗教対立とイランの浸透などなど・・・これを平和主義という一言で解決ができるでしょうか?
高校の頃だったか?現実理解がなかったのでソクラテス・プラトンの授業だったかで哲人政治という言葉に惹かれましたが、大人になると世の中具体的事象に応じた例外の例外の例外の応用・TPOが必要で原則論さえ知っていれば物事が解決できるものでない・哲学者や憲法学者に政治ができるものではないことが分かりました。
ノーベル賞物理学者が、車や電気釜、自転車一つまともに作れないのと同じです。
原理論しか言えない人は、(そんなことは中学生でも知っているレベルです)政治家あるいはまともな政党・・実務家とは言えないでしょう。
「花の都パリ」というだけで、文明開花の匂いを嗅いだ気になっていたのですが、みんなが海外旅行出来るようになると「憧れ」の時代が終わり具体的運用が重要になる・・民主主義や平和主義という原理論のスローガンだけで酔い痴れるレベルの人は、具体的な民主主義の運用など知らなかった時代の人のことです。
・・April 7, 2018のコラムにに新宿駅前の反〇〇集会写真を紹介しましたが、参集しているのはほぼ旧時代の人・・夢多き時代の生き残り・・高齢者中心です。
戦後いきなり始まった民主主義の言葉に酔いしれた高齢者がまだ(現実をみようとしないで)夢を追い続けていることがわかります。
現在の国会審議拒否状態を国民がどう見ているか?については以下の記事を引用しておきましょう。
undgarge.com/20180313a-nikkei-early-bird

財務省の問題と、内閣総辞職の必要性とは、全くリンクしない
今朝の日経朝刊(3/13)早読み。本稿を書こうと新聞を読んで、記事を選ぼうとして、一旦は止めました。あまりに下らない。税金を使って運営されている国会の実態が小学生の学級会以下だと思われてならないからだ。
なぜ、財務省の倫理、コンプライアンスの類の問題から一足飛びに「内閣総辞職」という言葉がチラつくまでにエスカレートするのだろうか?新聞記事の紙面も、経済新聞でありながら、殆どがこれ関連だけだ。
仮にもし、こうしたことで政治空白が生じ、市場や経済に影響が出たら、野党はどう責任を取るつもりなのだろう。
またそれを面白おかしくヒステリックに煽り立てるマスコミという存在は何なのだろうかと思ってしまう。
・・・公文書を行政の現場で書き換えたこと自体は非常に由々しき問題であるが「野党側は強く反発しており、安倍晋三首相は厳しい政権運営を迫られる」というのは、正直解せない。
何を誰に対して、どうして野党側は反発しているのか?国政を司る国会運営という原点に立ち戻った時、野党のすべきことは「反発」なのだろうか?
民主主義の中でのマイノリティが、何かと問題を見つけてはマジョリティの転覆を諮ることだけを大命題にしている気がしてならない。
事実首相は「「行政全体の信頼を揺るがしかねない事態であり、責任を痛感している。国民に深くおわびする」と謝罪した」とある。一方野党側は「組織的に行われ、極めて悪質だ。内閣全体の問題だ」(希望の党の玉木雄一郎代表)と指摘して組織的な隠蔽だと批判、内閣総辞職を求めた」とある。まるで指先の怪我とは言わないが、手首を挫いた程度で「死ぬ、死ぬ」と騒ぎ立てている子供のように思えてしまうのは私だけであろうか?

以上が常識的感想と言うべきでしょう。

戦前政党政治の失敗の原因(政治能力の未熟2)

政党内閣に関するウイキペデイアの記事からです。

大正7年(1918年)9月に立憲政友会の原敬が内閣を組閣した。この内閣は閣僚の大半が政党所属であった。また原が衆議院に議席を有する現役衆議院議員の初の首相であったことから政党内閣として画期的存在とされた。
特に1925年の男性普通選挙により成立した護憲三派の加藤高明内閣から始まる政党内閣6代の頃には政党内閣は「憲政の常道」として定着した。その背景には元老のなかでただ一人存命していた西園寺公望の意向があった。西園寺はイギリスの立憲政治を理想としており、政党内閣に比較的好意をもっていたからであった。
普通選挙は実現し、有権者は大幅に増加したが、それは政治資金の巨額化に伴うことであった。

その結果、選挙資金を得るためという政治腐敗の増加を招いた。政党間の政権交代は総選挙という国民の審判を通じて行われるのが本来の形である。しかし、この頃の政党は官僚や軍、枢密院などの勢力と結んで倒閣をめざし、それを果たした野党が議会の少数派のままで組閣し、与党という有利な条件のもとで総選挙に勝って第一党へ躍進するという形式が政権交代の基本的形式となった。政党内閣は政党間の対立という困難な問題を処理できないままに1930年代を迎えた。

そこに中国問題の深刻化、昭和金融恐慌、世界恐慌による経済危機、世界的な軍縮の流れに対する軍部の反発など、内外の危機に対して十分に対処しえなかった。その結果、海軍・陸軍、官僚、国家主義団体などを中心に政党政治への不満が高まった。そして1932年5月、海軍青年将校らによる犬養毅首相の暗殺(五・一五事件)と西園寺が軍部・世論の反対から犬養後継に政党党首を立てるのを断念したことをもって政党内閣は終わりをつげた。

上記を見ると、在野政治家は実務能力が低いのに「憲政の常道」と称して、西園寺が(民意の支持を無視して)形式的な政権交代制を採用していたのが政党の健全な成長の芽を摘んでしまったように見えます。
経験がないなりに実務に基づいて堅実政治をしている与党の支持がせっかく多くなっていても、政変の都度毎回少数野党に政権が変わるので、結果的に野党が国民の支持獲得を目的にせず、メデイア受けする空虚なスローガン頼りで政権攻撃する習慣になっていったように見えます。
メデイアの煽りで(本当は国民の多くが冷めていても冷めている人はデモしませんので)国会周辺が騒がしくなると「民主主義」という言葉の魔力でこのままでは政権維持不能となって内閣総辞職になります。
メデイア頼りの運動の限界を補うために軍部でもなんでも倒閣に利用できるものは利用していった結果軍部がどんどん発言力を持つようになってガン細胞のようになってしまったと見るべきでしょう。
戦後は揚げ足取りで倒閣に追い込んでも次の内閣は(本当に国民支持を受けている与党から樹立されるので、野党の揚げ足取り攻撃は意味がなくなっています。
ところが戦前成功例を夢見て戦前の揚げ足取りの「世論」という名でメデイアとの二人三脚での政権攻撃を戦後も繰り返してきたことになります。
実際に揚げ足取りで倒閣してもその次の選挙で社会党が勝ったことがないので、(60年安保だって政権交代はありませんでした)国民多くは安保反対でなかったのです。
まして政策論争のない揚げ足取りだけでは、政権交代になるはずがありません。
今回も森かけ問題による倒閣運動が盛んですが、政策論争でないので、安倍内閣が辞任しても野党への政権交代になる余地がありません。
内閣弱体化運動=国家に必要な政策遂行能力を弱める運動でしかないのです。
実務経験のない野党は無責任な観念〜原理論しか言えないので、国民が成熟してくると支持が減る一方になります。
そこで元官僚を野党が取り込んで現実野党を目指し・これを売り物に民主党が政権を一旦握ったのですが、多くが官僚の傍流であり、明治初期の板垣らと同じ傾向が出て・第一次大隈内閣同様の大失望を買ってジリ貧になってしまいました。
話題を元に戻しますと、23日まで紹介した小西氏も東大卒・元官僚で・東大教授の名前程度は知っていることを鼻にかける特徴にも現れています。
明治期の政治家が、ちょっと官員さんをやったことを誇って庶民に訴える傾向がありましたが、今でも在野政治家はその傾向を引きずっているようです。
明治初年と違い今では、元「官員さん」東大卒の有り難みが薄れています。
東大卒や国家公務員の中でも2〜3流人材・出世できそうもない不満分子が在野になって政治家になっていたこともあって、戦前の政党レベルが低く「あら探し」しかできない結果政党の根腐れ現象を起こしたことが上記「政党内閣」の紹介でわかります。
それをうまく利用して(・・当時陸士や海軍兵学校出身といえば今の東大卒よりもエリートでした)空隙を埋めるように軍部がガンのように育っていったと見るべきでしょう。
戦前政治家は「アラ探し」政治に終始していたので、国民に呆れられてしまい政党政治を自ら葬ってしまった点を反省すべきです。
軍部に頼っていた野党は、(国民を欧米流の単純な2項対立社会化→民族分断を企図していた)GHQ占領政治・・軍国主義批判→国民や政党は被害者という宣伝に便乗し・・またもや時の権力に媚びへつらって「国民や政治家が軍部や権力の弾圧によって窒息させられた」・・・「軍部や治安維持法が悪い」と宣伝してメデイア・言論界が被害者意識強調ばかりしてきました。
挙句に「戦犯批判・靖国合祀を許せない」と中韓まで応援団に引き込んで国民分断作戦に肩入れしてきたのが左翼や文化人です。
今の慰安婦騒動に限らず日本の国難は戦前から今まで、ずっと野党とメデイアの二人三脚プラス軍部や外部勢力引き込みで育て上げてきたものばかりです。
軍部を育てて言論を窒素させて行ったのは野党政治家とこれを応援するメデイアそのものだったことを今日まで見てきました。
戦後ずっと、メデイアの宣伝にさらされている国民の多くが、メデイア界も政治家も戦前権力による被害者だったかな?と誤解している人が多いでしょうが、逆に彼らのほうが弾圧を煽っていた張本人でした。
政府権力者(滝川事件でも背後で就職先を世話するなど尽力していた西園寺公望)の方が、如何にして政党政治を守り育てるかに腐心していた・肝心の民意無視で形式的な政権交代に重きをおいた)様子を紹介します。
簡略にみるには以下の記事が重宝です。
https://hosokawa18.exblog.jp/20192131/

戦前の政党政治はなぜ終焉したか
・・・昭和になってからは 「西園寺公望」 しか元老がいませんでしたから、
昭和における首相は全てこの男一人の手によって決められたのでした。
西園寺は 「政友会」 と 「民政党(憲政会)」 から交互に首相を奏薦します。
若槻礼次郎(憲政会)が金融恐慌の処理にミスって退陣したら、その次は田中義一(政友会)。
田中義一が張作霖爆殺事件で昭和天皇の勘気に触れて総辞職すると、次は浜口雄幸(民政党)。
浜口雄幸がテロによって倒れると、その次は若槻礼次郎(民政党)。
若槻礼次郎が満州事変の処理を巡り総辞職に追い込まれると、その次に首相に奏薦されたのが犬養毅(政友会)。これが 「憲政の常道」 たる 「西園寺ルール」 ですが、首相がテロで倒れた場合は政権交代させてません。
さもないと暗殺合戦が始まっちゃいます。
浜口首相がテロで倒れた後、首相に奏薦されたのは同じ 「民政党」 の若槻礼次郎でした。
このルールでいくと、次の首相は新しく政友会の総裁となった 「鈴木喜三郎」。
鈴木喜三郎もその気マンマンで、首相になる準備を始めています。
しかし西園寺は 「海軍出身」 の斉藤実を次期首相に奏薦。
これで戦前の政党内閣は終わりを告げたのでした。
つまり戦前の政党内閣が終焉した原因。それは・・・
「西園寺が鈴木喜三郎を首相に奏薦しなかったから」
この一言に尽きます。
なぜ西園寺は 「鈴木喜三郎」 を首相にしなかったのでしょうか。
まず 「政友会」 と 「民政党」 の抗争が激しすぎたコトが挙げられるでしょう。
国内・国外で問題が山積みなのに、とにかく彼らは党利党略が優先。帝国議会はお互いのスキャンダル暴露合戦と化しており、日本にとって害を及ぼすレベルにまで来ていました。
そして 「政友会」 があまりにも親軍的な政党と化していたコトも問題でした。
犬養首相は 「憲政の神様」 と呼ばれただけあって、党内のこうした勢力を抑えていたのですが、鈴木喜三郎は親軍派の代表的な人物であり、むしろ軍部よりも強硬意見の持ち主。
「こんなヤツを首相にしたら、日本がファシズム化しかねない」
それに比べて 「斉藤実」 は海軍出身ではありましたが、穏健で常識的な人。
「政党は平和で、海軍は戦争」
決してそんなコトはありません。
この場合は鈴木よりも斉藤を首相にした方が平和を望めたのでした。

天皇機関説事件でも紹介しましたが、政府会は政敵を攻撃するために時の政府が機関説を支持していることを攻撃し政党政治の理論的支柱である天皇機関説を潰す方を選んだのです。
以上紹介して来たように、社会党や民進党が政策論なしに政権や大臣の揚げ足取りに終始する体質は、戦前政党の悪しき系譜・DNAを引きずっていることがわかります。

戦前政党政治の失敗の原因(政治能力の未熟1)

昨日紹介した論文https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3735/JNK001702.pdf
の続きです。
論文記載の鹿児島県等の1984年(昨日紹介した就学率でいえば、1885(明治18)就学率49.62%の翌年ですが)の自署率は以下の通りです。

明治初期に文部省によって実施された自署率(6歳以上で,自己の姓名を記しうるものの割合)の調査に注目し,学制公布まもない時期の識字状況をしらべている。その結果はいくつかの県しかわかっていないが,滋賀県:64.1%(1877年),岡山県:54.4%(1887年)と50%をこえる県がある一方で,青森県:19.9%(1884年),鹿児島県:18.3%(1884年)など,20%に達しない県もあった(八鍬友広:2003,p.56)。

近江商人で知られる滋賀県は1877年でも64%の効率なのに青森や鹿児島では84年でも20%に届いていません。
文字を必要とする社会か否かにかかっていることがわかります。
http://www.tastytables.net/history/の「義務教育の歴史」によると以下の通りです。

日本での義務教育の歴史というと、まず1871年に国のでも文部省を設置し、翌年の1872年(明治5年)に日本で最初の学校制度を定めた教育法令である『学制』が公布され、義務教育推進運動が始まったというところが原点となっています。その当時は義務教育を推進しながらも授業料を徴収していたためそれほど普及することがなかったのです。その後1890年に改正された小学校令で尋常小学校の修業年限であった3年間または4年間を修了するか、学齢の8年間までが義務教育期間と定められており、3年間〜8年間と過程主義と年齢主義の併用をおこなっていたのです。たとえば、尋常小学校を3年間で修了した場合にはそれで年齢に関係なく義務教育は修了となるのですが、それでも修了できない場合は年齢制限である14歳になるまで義務教育が続くというものです。
1900年に小学校令が全面的に改正され、ここで尋常小学校の修業年限が4年間となったために義務教育期間が4年間からになっています。またこの法令により尋常小学校の授業料が無料になるなどしたために通学率がこれを機にどんどん上昇していったのです。1907年には尋常小学校が今と同じ6年間となったために6年間〜8年間となり、また1941年になるとこの尋常小学校の名称が国民学校初等科と変わっています。

上記の通りで、3年や4年小学校に通っても、多くの児童はちょっとした文字を習う程度でしかなかったでしょう。
在野というか自己意見・現状無視原理論が採用されないで下野したものは、民意重視と言っても漸進的にやるしかない・・この辺の機微がわからないで民衆を焚きつけて政府批判をするのが共通項です。
民権運動の功績を大げさに歴史で習いますが、条約改正のためにも近代法整備・・憲法その他の法制度準備と訓練期間・教育の普及等々を総合してどの程度のスピード・準備が必要か・・社会が混乱しないで受け入れ可能かの判断の違いでしかなかったことになります。
現在の「保育所落ちた日本シネ」の標語も同じですが、保育所増の必要性について与野党共に意見相違がない・現行法制との兼ね合いで、どこまで規制を緩めるか近隣住民の新設反対運動などをどうするか・保育士の人材供給など具体的な提案競争であるべきですが、野党はイメージ主張で対策が遅い批判しかできないのが自由民権・板垣時代から続く野党の特徴です。
ここで、在野系が組閣した大隈板垣内閣で政治が混乱した歴史を紹介しておきます。
最近でいえば民主党政権であり、韓国も全学連的政治家と言われる現代の文政権同様のことを明治30年代に起こしていたことがわかります。
第一次大隈内閣に関するウイキペデイアの記事からです。

第3次伊藤内閣が伊藤博文の政党組織準備(のちの立憲政友会)のために総辞職し、元老が議会勢力に妥協した結果、当時衆議院第一党であった憲政党の首班大隈と板垣に大命が降下して組閣された。
首班が議会(衆議院)に議席を持たないという意味ではやや条件を欠くが、軍部大臣以外を政党人によって固めたという点では、日本史上初の政党内閣であるといえる。
この首相奏推の元老会議は御前会議として行われ、お通夜のような雰囲気の中、明治天皇は「本当に大丈夫なのか」と何度も念を押したと語り草になっている。
実際に寄合所帯の憲政党内部では、旧進歩党系と旧自由党系の軋轢が強く、自由党系が求めていた星亨の外相任命を大隈が拒んで自ら兼務を続けたことに加え、文相尾崎行雄の共和演説事件による罷免をめぐり後任人事が両者間で紛糾し、星らによる憲政党の分裂騒ぎに発展した。
そして代議士が大臣だけでなく省庁の次官・局長の地位までも占めたために、行政は大混乱した(所謂「キャリア官僚」制度はこの反省により生まれた)。
またアメリカのハワイ併合に対して、「これほど激烈で宣戦布告か最後通牒に等しいような外交文書は見たことがない」とマッキンリー大統領に言わしめるような強硬姿勢を示して外交危機を招いた。そして組閣後4ヶ月余りで総辞職を余儀なくされた。

これが政党政治の始まりでした。
救援を求めてきたハワイを助けたい気持ちは正論としても、在野が政権を握ると常識に欠ける傾向がある点では今も同じです。
民主党菅総理が原発事故に対して(緊急性があったにしても)トップは具体的行為を指示すべきではなく方向性や大綱表明に止めるべきなのに、(合戦でいえば総大将が末端組織の動きまで直接指示したのでは混乱します)むやみに介入して官僚機構〜東電指揮命令系統が大混乱した点も同じです。
その後政党政治を理想とするキングメーカー西園寺公望をバックにヨチヨチ歩きの政党を暖かく育てる動きが続いたのですが、昨日紹介したように政敵攻撃ばかりでまともな政策提言能力が育たないまま昭和恐慌を迎えて、なすスベもなくついに終焉を迎えたのです。
国民能力という点で普通選挙施行の1925年を見ると、昨日見た表で言えば、就学率が99.43 ですが、選挙権者が25歳以上ですから19年前に小学校入学した子供がようやく25歳です。
有権者平均年齢が仮に40歳前後とすれば、約35年前=1880年の就学率・識字率レベルが対象です。
個々人を見れば深い素養のある人もいますが、一人一票ですから大衆を基準に考えるべきです。
こういう状態で普通選挙実施になると政治家は浅薄な感情に訴える傾向が強めて行くしか無くなります。
1935年の天皇機関説事件では機関車や機関銃にたとえて感情を煽る宣伝が横行しました・・。
政治家レベルは選挙民のレベル次第と一般的に言われますが、以後政党政治は堕落・・レベル低下の一途をたどっていったのです。
日本の産業革命は模倣から始まったのでキャッチアップ速度が速く、短期間に世界強国の一角を占めるまで上り詰めたものの、裾野からの政治意識の成熟には模倣や「西欧ではこうだ」という啓蒙だけでは無理があった・・普通選挙実施は民度レベルから見て早すぎたのではないでしょうか?
日本人のレベルが低いのではなく、戦後民主主義が根付いたのは明治以降2〜3世代くらい時間が必要だったからでしょう。
普通選挙法に関するウイキペデイアの記事からです。

有権者数は、1920年(大正9年)5月現在において307万人程度(人口に対し約5.5%)であったものが、改正後の1928年(昭和3年)3月には1240万人(人口に対し20.1%)と、4倍になった。

戦前政党政治の終焉(政治家の自殺行為1)

政党は政策論で競うべきであって相手の揚げ足取りで大臣の解任要求を主目的にするのは邪道です。
本来やるべき政治論争をしない低レベルの政府攻撃の繰り返しで、国民が政治家を信用しなくなり、政党政治が死滅していった戦前の歴史を再現したいのでしょうか?
戦前せっかく始まった政党政治が(在野政治家のレベルが低すぎたために)国民の信を失い、「レベルの低すぎる政治家よりもエリートに委ねた方が良い」と国民が思うようになって、政党政治が根元から腐っていったことは歴史上周知のことですが、戦後野党政治家、マスコミ、文化人?にはこの反省がなく、一方的に軍部が弾圧した治安維持法が悪かったという被害者意識の教育をし、国民に虚偽のイメージを植え付けてきました。
日本は明治維新以降急速な近代化に成功したとは言え、(戦後の韓国民主化・・形だけ真似して苦しんでいる今の韓国や、現在中国同様)国民意識レベルの変化は・・文化は3代と言いますが・世代交代しないと簡単に行きません。
明治の農村で行きなり洋風建築を建てても居住者の意識(はある程度「器」に影響を受けますが)がその日から欧米風になりません。
明治以降産業近代化に合わせて急いで欧米法制度の取り入れに勤しみ約20年経過でようやく国会開設しましたが、ザンギリ頭にして洋服を着たり議事堂さえ作れば政治風土が変わるものではない・・まだ政党政治をするには早すぎた・・国民意識とそれを基礎にする在野政治家の人材が育っていなかったのです。
このコラムで繰り返し書いていますが、昭和40年代中頃までは、何かある都度欧米事情に通じた「識者」が出てきて「欧米では〇〇」と解説する時代が続いていましたが、戦前は国粋主義・排外的時代だから、留学組の権威がないかというとそうではなく、今では想像もつかないほど外国風潮に通じている人の権威が高かった時代です。
中韓の反日運動を見ればわかるように、排外主義とは言い換えれば対外コンプレックスの逆表現であることが多いのです。
明治初期の大隈重信や板垣退助植木枝盛など見ればわかるように戦前政治家とは超エリート・・欧米先進事情に通じた者の仕事でしたから、欧米留学組が最権威者で結果的に、各分野の競争に負けて(板垣や大隈重信も下野したときに在野で敗者復活戦を仕掛ける仕組み)有り体に言えば落ちこぼれた2〜3流の人材・・一般人に比べて元官僚等である程度政治を知っていることを鼻にかける点は今の野党も同じです。
今後日本は欧米並みの憲法が必要という明治初年の民権論はそれ自体正しかったし政府も追いつく必要を感じて必死に準備していったのですが、憲法の下位の刑事や民事の身近な法令整備→日常的法運用に慣れさせるには教育から始めないとうまくいかないので)国民意識を徐々に涵養していく期間が必要でした。
たとえば民法を見ればわかりますが、民法制定にはその前提になる不動産登記(その前提には地番や地籍など特定制度の創設・・・江戸時代までは大名や旗本の功績を愛でて加増した時の知行地の表示を見ると「何とか庄の宮前の何反何畝」程度の特定しかなかったのです)や戸籍制度が必須です。
これらの準備期間なしに、いきなり「全国民に普通選挙権を認めろ」といっても、まだ選挙権者特定自体に無理があったし仮に選挙権を与えても小学校へ行ったこともない人口が大多数の時代に(明治初年にはまだ小学校制度が始まったばかり)猫に小判で、結局は地域有力者意見に従うしかないし結果的に政治腐敗がはびこるばかりになります。
これが後進国に対して投票箱民主主義を押し付ける米国流民主主義強制が失敗した原因です。
中国アフリカ等の後進国で腐敗指数が高い原因ですし、韓国で政権交代がある都度前政権幹部の(汚職理由の)検挙(昨日あたりから李明博元大統領の逮捕が騒がれています)が繰り返される原因です。
日本戦前の政党政治が自壊作用を起こした大元の原因は、制度設計が実力より早すぎた点は同じでしょう。
明治22年まで時間かけてようやく憲法発布になりますが、(日常生活を律するルールである民法は10年遅れの明治31年施行)それでもまだ日本社会が庶民まで参加の民主主義を運用するにまだ無理があったことがわかります。
ウイキペデイアによると以下の通りです。

1896年、明治29年法律第89号により定められた民法第一編・第二編・第三編(総則、物権、債権)及び1898年6月21日の明治31年法律第9号により定められた民法第四編・第五編(親族、相続)で構成されており、また附属法例として6月15日、明治31年法律第11号民法施行令が設置され[3]、全体が7月16日から施行された。これによりいくつかのそれまでの法規が廃止された[4]。原案起草者は穂積陳重・富井政章・梅謙次郎の三名である。
この民法典は、社会情勢と価値観が大きく転換する明治維新の後に妥協的に成立したものであった
日露戦争講和条約時(1905年)にもしも普通選挙があったら、メデイアに煽られるだけの庶民が政治に直接口出しできていたら講和条約がどうなったかと思うとぞっとする人が多いでしょう。
逆の立場では、「情報を国民に知らせない方が悪い」ということでしょうが、戦争中に「日本はこれ以上継戦能力がない」と内外に明らかにするのは利敵行為ですし、軍部内で強硬論が採用されなかった不満者が一部だけメデイアにリークすることによりメデイアが極論だけ煽った結果です。
選挙でまともな判断ができる人かの基準として学歴がなくとも一定の商売等の成功者(サントリーや松下創業者のように)は相応の判断力があると見るのが普通ですから学歴で決めるよりは公平です)一定の納税者を基準にしていたのは簡単な能力の篩制度としてコストパフォーマンスもよく合理的です。
普通選挙に関するウイキペデイアの記事です。
1918年 イギリスで男子普通選挙が実施された。ただし居住地以外に財産を保有する者は複数選挙権を得る。
1919年 ドイツ共和政において、世界初の完全普通選挙が実施された。
1920年 アメリカで女性参政権を認めることが連邦憲法修正第19条により義務付けられる[3]。
1928年 日本で衆議院選挙(第16回総選挙)の際に男子25歳以上(最初の男子普通選挙)の者で実施された。(普選運動

やっと欧米並みの憲法を制定し対外的に格好をつけたのですが、(農民がいきなり背広を着たようなもので)・鹿鳴館時代がわかり良いので揶揄されますが、日本社会全体・・法制度も背伸びだったことが分かります。
文字さえ読めれば選挙民の能力があるわけではないですが、日本の江戸時代から明治にかけての識字率や就学率の研究をした論文が見つかったのでその中の表だけ紹介しておきます。
https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3735/JNK001702.pdf

表1 学齢児童就学率
出典:文部省『学制八十年史』  『学制百年史』『学制百二十年史』
年度         就学率(%)    年度    就学率(%)
1875(明治08)    35 19     1935 (昭和10)    99.51
1880(明治13) 41.0 6 1940(昭和15)   99.64
1885(明治18) 49.62 1945(昭和20)    99.79
1890(明治23)  48.93 1950(昭和25)    99.64
1895(明治28)  61.24 1955(昭和30)    99.77
1900(明治33)   81.48 1960(昭和35)    99.82
1905(明治38) 95.62 1965(昭和40)    99.82
1910(明治43) 98.14 1970(昭和45)    99.83
1915(大正04) 98.47 1975(昭和50)    99.91
1920(大正09) 99.03 1980(昭和55) 99.98
1925(大正14) 99.43 1985(昭和60) 99.99
1930(昭和05)  99.51    1990(平成02)   99.99

上記の表はその年の就学率ですから、例えば明治5年の学校制度発足後3年経過時にこれだけ就学したと言うだけのことで、(実際にはたまにしか学校に行けなかった子供が多かったでしょうし)小学1年にあがったからといってすぐに複雑な政治判断などできるはずがありませんし、みんなが卒業したわけでもありません。
この子供が3年間の義務教育を終えて大人になる20年後といえば明治28年です。