格差とは2(平等化進展)

フラット化は悪いことばかりではありません・・何よりも人権活動家の渇望する平等社会の実現ですから,フラット化に対して何故不満となるのかを考え直す必要があります。
体力差、身長差、不器用さ近視遠視、難聴その他心神のハンデイなどいろんな能力差があってもその差を最小化して同じように仕事をし、楽しめるようにして行くのが近代工業化・・豊かなよい社会の指標であり基礎目標です。
近代工業化の進展とは、これに比例して社会弱者の地位が補強されて男女差や身障者、視力差、高齢者など能力格差を縮小し、(記録媒体も記憶力の補完です)フラット化して行く歴史です。
人権意識さえあれば平等になるのではなく、女性・妊婦や子育て中の人、高齢者や病者・・ガン患者でも働ける医療環境・身障者用の補助具の発達などすべて格差縮小のためにあるといえるでしょう。
クルマ発達は足の早い人遅い人、あるいは荷車引きに必要な人力の格差をなくし・特殊車両・フォークリフトや銃器類の発達も体力格差を軽減したことは明らかです。
ハンドルがパワーステアリングになって、ハンドルサバキが楽になって運転する女性が増えました。
(以前書きましたがコンビニその他あちこちでトイレの設置が進んだことも大きいです)
自動運転技術が進めばもっと年齢差などを補強して行けるでしょう。
人権意識の発達で女性の運転が増えた訳ではありません。
流動食や離乳食や保健食品の発達も消化吸収能力の弱い人と強い人の格差補強であり、リハビリその他ありとあらゆる分野の科学技術の発達は能力格差を補填するものと言えます。
能力格差縮小に起因する平等化進むことと職業分化に目を転じると、重量物取り扱いには腕力不要、製鉄など高熱危険労働も遠隔操作が普通になり、パソコンの発達はそろばん等能力差や筆記能力差をなくし筆跡の上手下手の格差や漢字を読めるが書けない人と書ける人との格差もなくしました。
憲法14条の「平等」とは能力差による結果不平等を認めていると言いますが、他方で出来るだけ各種道具(眼鏡や補聴器あるいは義足の使い勝手の良さ)の工夫によって身体的能力差を克服する試みが推奨され身体能力による待遇格差をなくす方向に進んでいます。
高齢者が移動し易いようにあちこちでエレベーターやエスカレーターや休憩場所を設置しあるいは重い荷物を女性も持てるような補助具・・ロボット系の普及運動もみな同じです。
今流行の在宅勤務も子育てや介護しながら働けるようにする・・いろんなハンデイのある人も働けるようにする・・社会のバリアーフリー化こそが格差縮小の試みの基礎です。
その上工業製品に限らずいろんな分野でのベルトコンベアー方式(精神)の普及によって、事務作業その他の分業化(例えばテレフォンガールの大量雇用など)も進んでいます。
上記のように長い目でみれば、能力格差による結果不平等縮小克服・・スポーツ選手と違い、補聴器をつけていようと眼鏡で視力を補正していようと、薬物療法をしながらでも元気に働いた方が良いルール・・フラット化は抗し切れない趨勢ですし、それが人類の正しい目標と言うべきでしょう。
格差縮小と格差拡大論がここで何故問題になるかのパラドックスですが、フラット化によって、従来20〜40〜70点程度の人が能力格差に応じてピラミッド型の地位・収入を得ていたのに身体能力補完具の発達によって収入差がなくなって来た不満が基礎にあるからです。
10〜20点の人も60〜70点の人と同じ仕事ができるようになったならば60〜70点の賃金にすれば文句なしですが、そうはならないで競合(希少性の軽減)の問題もあって、実際には、みんな平均3〜40ポイントの賃金になってしまうことになり勝ちです。
先進国間の国内競争だけだと一定の閉鎖空間なのでその程度で収まりますが、新興国が参入するようになると国際低賃金競争の煽りで本来の能力水準・・20点の人ができる仕事なら20ポイントの賃金にならざるを得ません。
フラット化される水準が20点〜25〜30〜35〜40点と順次上がって来て従来大卒なら中間層以上・・大丈夫と思われていた人たち(囲碁さえも人工知能に負ける時代です)も単純労働に飲み込まれようとしています。
今や大卒の現場系が増えて来て、エリートだけがフラット化・低賃金化から逃れられている状態ですから、大変なことはそのとおりですが、これを格差反対と言ってレバ済むかかは別問題です。
人間の能力構成は富士山の裾野のような分布のママですが、比喩的に言えば従来5〜60点の人は5〜6合目あたりまで登って能力相応の景色を見られたのですが、現在ではそう言う人もみんな1〜2合目の裾野あたりまで行くと、その次が絶壁になっていて自分の能力を発揮出来るもっと高い場所まで上がれないで景色の見えない裾野付近で単純労働者の仕事しかなくて低迷している状態です。
これはどこの国でも同じですから、格差問題を主張する以上は30〜40〜50〜60点の人にはその点数どおりの展望を開けるような社会・・少しずつの能力差に応じた処遇が用意されないと・・2〜30点の次は80点以上の人しか仕事がないと言われると向上努力する意欲を失う人が多くなります。
なだらかな上り坂ならば2000メートルの頂上付近まで時間をかけて登れますが、500メートルまで登ってみるとイキナリ1000メートルの絶壁があるとそこですくんでしまいます。
かと言って格差をなくすためにエベレスト登頂能力のある人の登山を禁止する・・高度な研究や便利な道具を考案したり新たな事業モデルを考え出すのを禁止するのでは人類のよりよき生活が保障されません。
高度研究者やジョブズ氏や野球のイチローのような特定の成功者・・比喩的言えば80点以上の人の給与・報酬が高すぎないかの批判が格差問題です。
画一的事業化によって、4〜5〜6〜70点の人に払っていた賃金を一律20ポイント前後に落とした差額巨額収入・・考案者利益→知財収入と事業化した資本家の利益→金融関係の高額報酬と一般労働者との格差が目立ち過ぎるようになりました。
ノーベル賞受賞者への賞讃気分でも分るように、研究開発や新規事業モデル開発成功による利益はまだ納得出来るが、この成功者に群がる周辺人そ・・秘書や幹部社員・・金融関係者の報酬が高過ぎる批判がこれの表現です。
格差反対論とは、フラット化とセットになった80〜99点台の高収入者との格差を言うとすれば、有能者がより良いものを造って行こうとする行為を批判出来ない「成功するな」【努力するな」とは言えないとすれば、せいぜいその周辺で働く人を批判するだけとすれば、無理があります。
天才的創業者や発明家がいても、一人では何も出来ないのでその周辺人材が必須でこれをなくす訳には行きません・・真田幸村には十勇士がいた・・勇将の下に弱卒無しと言われるように、これを非難していても解決出来ません・・何となくやっかみの域を出ない印象です。
反対論の中核は中間層が単純労働者化・底辺労働者化して行くことに対する不安・不満でしょうが、庶民や子供が不安・不満の表明なら分りますが、解決すべき役割の政治運動家が不安を煽っても何の解決にもなりません。

個人責任と組織の関係1

日弁連や単位弁護士会が政治活動するのはどうか?と言う意見に対して、人権擁護活動だと言う議論がすり替えっぽい疑念がつきまといます。
世の中何事でも、尖鋭な政治対立も人権擁護に関係すると言えば言えますが、結局は一般人が法律解釈運動と許される政治運動の限界をどのように考えるかと言う国民判断によることになると思われます。
マスコミの中立違反・偏向しているかどうかの判断も、最終的には国民常識・・市場で淘汰して行くしかないのと同様です。
個人ならば何をしても組織の評判に関係がないのでしょうか?
年末から児童売買春の規制に関するNGOの国連(海外)での活動の怪しさを書き始めていましたが、児童の人権は正に弁護士の関心事であるべきことには相違ないですが、それと国連に出て行って日本の酷い?現状を過大にアッピールする必要性があるかは、別途の国内政治判断です。
弁護士個人の政治活動は、日弁連などの組織の政治運動とは違って民主国家において自由ですが、国連男女差別撤廃委員会(日本弁護士が委員長)皇室批判の勧告案が日本政府に示されたことがタマタマ大ニュース・・になっていますので個人と組織の関係に触れておきます。
野球や芸能人の業界や一般企業組織等で、組織内の個々人が業務を離れて何をしようと何を言おうと本来組織に関係のないことです。
それでも組織の一員が不祥事を起こすと組織として対応し記者会見などで大騒ぎしています。
物造りやスポーツなど社会道徳意識の合致と無関係に構成されている組織でさえそうです。
もっと広く言えば何の関係ない筈のムラや街から立派な人が出ると、その地域の誇り・・立派かどうか分りませんが、甲子園やオリンピックで活躍するとその地域が盛り上がります・・・逆に言えば、おかしな人が出てもその地域の評価に関係している筈です。
血縁の多いムラ社会ではなくなっても、地域の評判を気にするのは単なる名残か、あるいは犯罪者が出るとその近くに住むのが不安になる・・偉い人がいると周辺人がいい方向へ薫陶を受ける・・メリットとデメリットとがあるからでしょうか?
今は地域社会よりも企業や組織社会での生活時間が長いので、組織内の人格的影響は地域社会よりも何倍も大きい時代です。
従業員が何万人といる大企業の末端で不祥事があったり暴言を博と組織トップが謝罪の記者会見を開いたりするし、トップ次第で企業のあり方が大きな影響を受けると言われています。
従業員が何をしようと暴言を吐こうと企業に関係がないと開き直っていると、社会の支持を得られない・・売上減や優秀な人材獲得競争に負けるので企業が対応に追われるのです。
芸能界・野球や相撲の場合タレントや選手は独立事業者としても、不祥事があると業界全体のイメージ低下になるので業界が必死です。
政治家も何を言おうと勝手ですが、評価・支持率の上下作用があるので、無茶な独りよがりは次の選挙に影響します。
政治家全体が社会から見ておかしいと思われると優秀な人材が政治に行かなくなりますので、「政治業界」全体としての利害もあります。
大金がかかってスポンサーの言いなりになるしかない・・アメリカの大統領になり手がいない・・変な人しか立候補しないと言われるようになっているのは世界全体の不幸です。
こうして見ると民主国家においては個々人の行為や発言を国家が発言を規制したり(違法でない限り)処罰出来ない代わりに、市場評価で自ずから規制されて行くことが分ります。
業界員全体が市場評価に曝される仕組みこそが正に民主政治の基本です。
裁判官や弁護士のように直接的な市場評価のない分野で暴走があった場合、どうすべきかが最近の関心になっています。
超長期的には優秀な人材が行かなくなる点では政治家その他と同じですが、短期・中期的弊害をどうするかの問題です。
裁判の暴走リスクに関しては市場評価による修正が間に合わないので上訴制度があってその間に効力が出ないようになっていますが、仮処分の場合即時に効力が出てしまい、異議申し立てがあっても異議審で取り消されない限りその間に効果が出たまま(異議審の決定が出るまでには数年かかるのが普通)になってしまうのが大問題です。
今朝の日経新聞では高浜原発稼働禁止仮処分命令が出たと言うニュースが出ていますが、一旦仮処分が出ると仮に明白に行き過ぎで違法である場合でもこれを覆すには数年単位の時間が必要ですからその間巨大な原発設備が停止したままになってしまう・・一企業の損失に留まらない国益喪失は巨大なものになります。
弁護士が個人で国連で活動を続ける(とは言っても日弁連の推薦があったのではないか?)・・あるいは一裁判官が原発停止を命じる・・・等の行為が、もしも国論の割れる問題である場合、反対論者からの彼らを推薦したり任用している組織全体に対する批判になりませんか?