学者の公式意見であるならば合理的根拠が必要で、根拠なし(日清戦争でいくら取れたから大国のロシアからはその何倍を取るべきという程度での主張では庶民の皮算用レベルで学者の意見とはいえません)に願望を書くだけならば、庶民の感情論と同じです。
ただし、これまで書いてきたように、(ウイキペデイアの解説には出ていませんが)「賠償金を取らないと日本経済が持たない」と言う危機感を持ってその種の説明もしていたのでしょうが、「日本に金が必要」ということと相手のあることで相手から金を取れるかは別問題ですから、いまの韓国のように「国民感情が許さない」と国内事情を対外的に喚けと主張していたことになります。
日露戦後に戦時経済の穴埋めために巨額資金が必要である点では異論がなかったと思われますが、賠償金獲得は資金手当の一方法でしかなかったことになります。
賠償金で賄うほどの戦勝ではなかった客観事実・・「負けないうちに終われてよかった」のが実態である以上は、その現実を受け入れて、戦後経済・復旧資金をどうやって工面するか、資金手当が無理ならば従来の拡大政策を修正し(民間企業でいえば、出店計画を縮小して台風や水害等で荒れた既存店舗工場の補修資金・死傷した従業員や下請け納入業者の支援などに優先配分する)腰を矯める時期・・どうやって戦争経済を平時モードに切り替えて行くかの提言こそが、学問のある人のなすべきことでしょう。
取れそうもない賠償金要求を貫徹しない政府・担当大臣を国民感情が許さないと言って政府を非難し、内閣総辞職を勝ち取ったものの、それで一件落着・結果を受け入れるしかないとなると、今度はその不平感情のはけ口・代償として満州への傍若無人な進出を煽っていったことになります。
アメリカは日本の賠償金要求を取り下げさせて満州権益を認めることで講和を仲介した以上は、「日本の満州進出に文句いえない筈」という程度の浅はかな意見で煽り続ける・・結果的に満州への傍若無人な進出を当然とする感情論が広がっていったのでしょう。
賠償金を取れなかったのは、アメリカによる不当な介入(多分日清戦争後の三国干渉の結果同様のアメリカに不当に干渉されたかのように煽っていた印象です)によるのではなく、日本の実力からみれば最大限の利益を図ってくれた現実無視の「感情論」(・・アメリカ系教会襲撃を見れば)であったように見えます。
最近のネット世論?に出る、その道の通らしい人・〇〇評論家の意見を見ていても、左右を問わずこの種の前提事実を独断的な読み方をした上で、一方的邪推の上に邪推を重ねれればこうなると言う議論が広がっていることが散見されます。
最近の憲法学者の憲法関連声明も研究論文発表とはとても言えない代物が中心である点では同様です。
憲法学者は憲法の専門家であって、政治の現場にいないのですから政治声明を出す以上は、肩書きによらない個人意見であるべきでしょう。
日比谷焼打事件でも帝大教授の肩書で出すのではなく、自己の意見が正しいと思うならば、肩書きなしで自説を展開し、国民がその意見だけを見てどのように受け止めるかでしょう。
酒の鑑評会では出品者を不明にして味を見るのがルールになっているのと同じです。
このように本来学問研究成果と関係のない政治意見(3月31日に紹介した7博士意見書を読むと学術研究論文ではなく、単なるアジテートに過ぎません)を学者の名で発表し政治運動に利用することにより、本当に必要な学問の自由を侵害する危険がこの頃から始まっていたのでしょう。
えせ学者の跳ね返り行為が過ぎたことによって、せっかくの親日国の米国に対日疑念を抱かせ仮想敵国視(いわゆるオレンジ作戦の対日適用)へ移っていく切っ掛けになっていった原因です。
紹介したウイキペデイアに
「暴動・講和反対運動が日本国内で起こったことは、日本政府が持っていた戦争意図への不信感を植えつける結果になってしまった。」
書いていますが、(政府は謙遜に勤めていたのに)7博士は余計なことをしたものです。
米国は7博士の主張を危険視したのではなく、米国はこのような過激派を煽る民衆運動に弱い日本政府の傾向を読みとったのは慧眼というべきでしょう。
以降学者もどきの政治運動が政治を動かす傾向が続き騒動が起きる都度事なかれ式に内閣総辞職が慣例となってしまい、日本を取り返しのつかない方向へ走らせていくのです。
現在もそうですが、「学問の自由」とは学問発表の自由であって、政治運動する行為は政治運動というべきであって、それは「学問の自由」となんら関係がありません。
それは学問ではありません。
一旦学者になれば何を言っても何をしても全て免責されるかのように主張するのは、学問の冒涜です。
「学者」という特権身分があるものではありません。
帝大教授の肩書きで発表し国民を扇動しても何をしても許されるというのは傲慢です。
単に権威を利用した政治運動にすぎません。
日露戦争後約30年後に起きた天皇機関説事件も政府が始めたのではなく、メデイアが騒ぎ、これに便乗した野党の追求によって始まったものです。
政府は学問のことは学問論争に任せせればいいであって政府は関知しないという答弁をしているのに、メデイアの応援を受けた野党がこれを追求していたことが以下の記事でわかります。
天皇機関説事件に関するウイキペデイアの記述です。
松田源治文部大臣は、天皇は国家の主体なのか、天皇は国家の機関なのかという論議は、学者の議論にまかせておくことが相当(妥当)ではないか、と答弁していた。
岡田啓介首相も文相と同様に、学説の問題は学者に委ねるべきだと答弁した。
同年2月25日、美濃部議員が「一身上の弁明」として天皇機関説を平易明瞭に解説する釈明演説を行い、議場からは一部拍手が起こり、菊池議員までもがこれならば問題なしと語るに至った。
しかし、3月に再び天皇機関説問題を蒸し返し、議会の外では皇道派が上げた抗議の怒号が収まらなかった。しかしそうした者の中にはそもそも天皇機関説とは何たるかということすら理解しない者も多く、「畏れ多くも天皇陛下を機関車・機関銃に喩えるとは何事か」と激昂する者までいるという始末だった。最終的に天皇機関説の違憲性を政府およびその他に認めさせ、これを元に野党や皇道派[1]が天皇機関説を支持する政府・枢密院議長その他、陸軍統制派・元老・重臣・財界その他を排撃を目的とした政争であった[2]
これに乗じて、野党政友会は、機関説の提唱者で当時枢密院議長の要職にあった一木喜徳郎や、金森徳次郎内閣法制局長官らを失脚させ、岡田内閣を倒すことを目論んだ。一方政府は、陸軍大臣からの要求をのみ、・・・」
結局美濃部氏の告発まで政府がやらざる得なくなる方向へ進みます。
政友会やメデイアの政権攻撃は一見反政府運動・民主的運動になりますが、いつも背後に軍部内の小数強硬意見・跳ねっ返りの支持を受けて「虎の威を借りる」運動形式だったのが本質だったのではないでしょうか?
政権党が野党になると軍部の強硬派意向を背景に今度は次の政権を追い詰めることの繰り返しでした。
戦前の議会では非常識な軍部内の経論を持ち込んでは審議妨害・倒閣運動ばかりが華やかになったのは、当時のキングメーカーであった西園寺公望の憲政の常道論によります。
彼の憲政理解・・「時の内閣が総辞職すれば当時の野党に組閣させるの正しい」という形式理解による交代論が、戦前議会を歪な方向へ曲げてしまった原因です。