米占領政治と韓国の労働運動1

11月2日紹介する韓国労働運動に関する論文の構成が、米国占領政治開始時の政策宣言から始まっていて、当初の基本姿勢が労働者意識・国民意識に大きな影響を与えたという認識を前提にしているようで、私の関心同様です。
これによって米軍の朝鮮「信託統治」は対日誹謗・反日意識洗脳目的で始まっていたことが裏付けられます。
10月29日紹介したカイロ宣言は戦争中の敵愾心もあり、戦略戦の一種でしょうからある程度の言い過ぎ・フェイクもあるでしょうが、(日本でも「鬼畜米英」と言っていました)戦争終了後の民政段階でもこの程度のことを公式表明するとは米國民度・・政治経験の底の浅さをあらわしたものです。
戦後70年もアメリカの譲れない戦後秩序は、日本がいかに酷い植民地支配をし、東南アジア諸国の人権侵害してきたかを宣伝し、これの批判を許さない姿勢でした。
米国流の単純政治に反応した朝鮮人は言うまでもなく同類レベルですが、米国の日本批判に安易に同調したことが朝鮮人の不幸拡大・・自殺増加や火病に象徴される精神の葛藤し深刻化の原因だったのではないでしょうか?
韓国民は米国宣伝のお先棒を担げば、米国や韓国政府の覚えがめでたいから率先実行してきました。
アメリカが自分の政治に自信があれば、日本的価値観からすれば「黙って良い政治をすれば良い」のであって前政権の政治を露骨に誹謗するようなやり方で・・政治がうまく行く訳がありません。
日本の場合、総理や社長交代でも全てそうですが前任者をたたえながら、やり残したしごとを発展させていくと抱負を語るのが普通で前任者批判から始める人はいないでしょう。
中国何千年の歴史といいますが、王朝崩壊の都度前王朝を全否定し全王朝の優れた文物を百%破壊す尽くし何も残っていない(日本に唐宋の文物が残っている状態です)と言われる行動原理・拙劣政治が中朝の歴史です。
我が国ではちょっとした民俗行事でも各地村落で何百年単位でそのまま引き継いで子孫に残していくのが我が国の伝統で、その代表格が正倉院御物であり法隆寺の宝物でしょう。
先日正倉院展で5弦の琵琶を(法隆寺宝物は、東博の法隆寺館に・・入れ替えがありますが常設されているので日頃見慣れておりますが)拝観してきましたが、螺鈿細工のきらびやかさには驚嘆したばかりです。
信長が切り取ったことで有名な蘭奢待実物を拝観して、信長が目の前にいるような気持ちになりました。
(もちろん信長が自分で正倉院へ行って切り取るわけがないので時代雰囲気を書いています)
明治天皇が切り取ったのを見ると、5〜6百年〜千年に一人の傑物しか許されない行為という私の勝手な価値観からすると自己評価が甘いお方だったか?と明治天皇の評価が内心グット下がった印象で帰ってきました。
(明治維新は歴史上の一大エポックですが、「王政復古クーデター」と言われる小御所会議は、慶応3年12月9日(1868年1月3日)で、1852年11月3日生まれの明治天皇(在位:1867年2月13日〈慶応3年1月9日〉- 1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日)は当時まだ15歳で天皇に即位したばかりです)
韓国も中国同様で前時代の良かった点を残すという考え方がないらしく、李氏朝鮮時代の統治が良くて日本支配が悪かったならば日本がいなくなれば、李氏王朝を復活させれば良いのにそれもしないで、ただ日本支配がひどかったと言うだけです。
日本では李氏朝鮮王族は日本の華族様より上の皇室に次ぐ格式を与えられて厚遇されて存続していましたのでいつでも再興出来明日紹介する韓国労働運動に関する論文のたのです。
李王家に関するウイキペデイアの解説です。

1910年(明治43年)の韓国併合ニ関スル条約は、その第3条で「日本国皇帝陛下は韓国皇帝陛下太皇帝陛下皇太子殿下並其の后妃及後裔をして各其の地位に応し相当なる尊称威厳及名誉を享有せしめ且之を保持するに十分なる歳費を供給すへきことを約す」(片仮名を平仮名に改める)として、韓国皇帝以下韓国皇族に対し、相応の待遇や称号付与をすることを定めていた。
また第4条ではそれ以外の韓国皇族についての類似の規定をしていた。この条約に基づき、王公族として李王家が立てられ、日本の皇族に準じる待遇を受けた[1]。「王」「王世子」「公」等の身位と、殿下の敬称が与えられた。

自国民の意思で(フランコ政権によって)廃されたスペイン王室でさえフランコ政権終了後復活しているのに、仇敵のごとく忌み嫌う?はずの日本によって廃止された旧王朝復活運動が起きたともきかないところを見ると、日韓併合によって朝鮮王朝がなくなったことを国民の多くが良かったと思っていると言うことでしょう。
ちなみに敗戦後李承晩政権が李王家の帰国を拒んだために帰国できなかった・朝廷の復活を求めるどころではなかったことも上記に出ています。
ウィキペデイアの続きです。

李垠(イ・ウン、り・ぎん)は、1897年に高宗と純献貴妃厳氏との間に生まれた。純宗の異母弟。英親王に冊封される。1907年(明治40年)の純宗即位と同時に韓国最後の皇太子となったが、幼少時より日本で教育を受けた。韓国併合と同時に日本の王公族として「王世子」に封じられた。
1917年(大正6年)に日本の陸軍士官学校を卒業(第29期)、翌年日本の皇族梨本宮守正王の第一女子である方子女王と婚約、1920年(大正9年)に結婚した。純宗が薨去した1926年(大正15年)には李王家当主を正式に継承し、「王」(李王)となった。李垠は日本の軍人として宇都宮連隊長などを経て、終戦時には中将にまで昇進した。
日本の敗戦後、1947年(昭和22年)の日本国憲法制定により李垠夫妻は王公族の身分と日本国籍も喪失した。しかし、李承晩政権時代には彼らの大韓民国への帰国は許されず、夫妻が帰国できたのは朴正煕政権が成立した1963年(昭和38年)のことだった。1970年(昭和45年)に死去。

弊履のごとく捨て去るという言葉がありますが、朝鮮人にとっては権力を失った以上なんの価値も認めないということでしょう。
任期制大統領制度は、議院内閣制と違いその間の身分保障があるのでその間民意を気にしないで法の範囲内で好きな政治をできる・一種の期間限定独裁制という後進国向けの制度だと説明をしてきましたが、任期で守られている分に比例して蓄積された不満が頂点に達した時点での退任となります。

米国占領政策2→乱闘国会

イラク侵攻の際にありもしない大量殺戮兵器を主張して正当性強調したのと同じレトリックで米国政府は対日戦争正当性を訴えるため奴隷状態にある朝鮮民族の解放戦争という宣伝を行ってきたのです。
西欧の植民地との比較では格段の厚遇でしたし、朝鮮神自身が自発的に対米戦に参加していたのです。
例えば以下の通りです。
https://cocolo-journal.com/archives/14333#toc4

朝鮮半島では、大日本帝国陸軍が清国軍を打ち破ったときの「軍旗」が旭日旗だったため、
中国から朝鮮独立を認めさせた“象徴旗”として称えられていました。
『アサヒグラフ』1938年10月19日号の朝鮮人特別志願兵の特集ページでは、
旭日旗を掲げて行進する4300名の「朝鮮聯合青年団」の写真が掲載されています。
当時、朝鮮人にとって50倍前後の倍率の志願兵に選抜されることは、大変な名誉でした。
志願兵に採用されなかった全朝鮮の若者15万人は「朝鮮聯合青年団」を組織しました。

こんな欧米植民地があったでしょうか?
このような偏った刷り込みを前提に朝鮮半島に上陸し、占領政策を遂行するにあたっては必然的に日本統治実績をけなし、良い面を米軍支配の実績にすり替えるしかなかったでしょう。
これが戦後朝鮮人の反日意識形成→反日運動の源流です。
慰安婦問題の具体的証言では、ジープに乗せられ、ドラム缶がどうのなど米軍支配下の出来事だったことが明白になっていますが、それでもこれが日本軍の悪事として世界に流布されてきました。
米軍に対する不満であれ、自国政府に対する不満であれ、韓国国民は反日を唱えれば全て許されるように思い込んで70年以上経過したことになります。
ところで26日にヤルタ会談の一部を紹介したように米国や連合軍軍自体、日本軍・日本政府要員撤退後、朝鮮民族による自主政府樹立までの手助け・・いわゆる自立にまだ無理のある民族としての国際評価を前提に米国が太平洋諸島の信託統治領同様に保護者になる・・国連概念の信託統治としての関与予定でした。
一人前になるまでの短期占領政治の予定が、朝鮮戦争勃発→休戦状態で固定されてしまったので国連軍としての米軍駐留が今に至るまで続いている結果、長期的に米国宣伝(日本統治配が如何にひどかったかの刷り込み教育)の直接的影響下におかれました。
74年といえば2世代以上に渡って日本人がいかに人道上ひどいことを朝鮮人に対して行ってきたか、道徳のない民族であるかの虚偽教育を生まれたときから受け続けてきたのですから、おそるべき隣国が誕生していることになります。
昭和60年大頃まであっ本当のことを知っている世代がいたので、学校教育や目でアイデアが煽っても親世代は冷めたところがありましたが、平成に入ると、日本統治を経験した世代がいなくなり、学校教育やメデイアの流し続ける反日宣伝を盲目的に受け入れる・・日本を憎む世代ばかりになってきたようです。
これが慰安婦その他何でもでっち上げては「そのくらいの仕返しをしないと気がすまない」という気分になってきた素地ではないでしょうか?
朝鮮半島の南半分・大韓民国は建国以来米国の唱える大戦の大義?に縛られて日本支配の道義否定を国是のようにして始まった結果、占領政治では日本支配時代との違いを鮮明にするためにもっと目に見える改革・成果が必要となりました。
日本の統治方法はいきなりの制度変更ではなく、教育制度の一般化によってヤンパンの特別権力維持の源泉・・ヤンパンの文化独占を打破してヤンパンの文化的優位性を崩していったのですが、米国はもともとこういうじっくりした政治は苦手である上に、対日戦争の名分として日本の朝鮮統治を批判して来た手前、早期に目に見える成果が必要でした。
そこで(今の投資ファンド同様に短期成果を求める傾向がもともとある上に)日本を戦争に引きずり込んだ戦争の正しさを証明するためにもドラスチックな改革の必要性があり、地道な時間のかかる自発的発展を待ってられなくなり、結果的に強権的改革が多くなった・韓国国会では何か法案を通すためには、日常的に乱闘→強行採決になっていった原因の一つと思われます。
https://www.sankei.com/politics/news/150629/plt1506290039-n1.html

世界を震撼させてきた韓国・武闘派国会。ただここ数年は、暴力沙汰はほとんど沈静化している。
実は「国会先進化法」と呼ばれる法律が2012年5月に成立している。時期的には、先に紹介した「催涙弾事件」の後ということになる。
法律では「与野党間で意見の食い違いがある法案を本会議に上程する場合、在籍議員の5分の3以上が賛成しなければならない」と規定されている。乱闘につながりがちな対決法案の緊急上程、強行採決を防ぐ措置なのだろう。
ただ、暴力こそは影を潜めたものの、あまりに高いハードルであるため、今度は肝心の法案処理がままならなくなった。2014年の7月国会で法案処理にいたった案件はゼロ。続く9月国会で90本余りの法案を一気に成立させるという荒業を繰り出さざるを得なかった。

上記のように乱闘国会が常態化していたので今度5分の3の特別多数制度にするしかなかったので、そうしてみるとどんな法案も通らなくなったというのですから、ほぼ漫画状態です。
工場のように先進設備を導入すれば、ちょっと機械操作を練習すればすぐに製品になって出てくるのとは違って、社会制度というのは制度・器だけは真似できても運営は人民の能力次第です。
国会も労組も同じ人民の能力にかかるものですから、乱闘国会同様に韓国では労働運動の激しさも有名ですが、韓国社会は何事も妥協して決めていく経験がないまま現在に至っている状態です。
民主社会では労組のあり方も重要な要素です。
韓国労働運動については報道を通じたイメージしか知らなかったのですが、ネットでは以下の論説が出ていますのでこれを明日以降一部引用して行きます。
以下紹介する韓国の激しすぎる労働争議関連の論考には米占領軍は占領当初政策方針として「1945年10月30日に軍政法令第19号の国家緊急事態宣言の中で『過去40年間存続してきた絶対的奴隷状態から労働者を救出しなければならない』と強調し」

たと紹介されています。

占領政策の変化(レッドパージ・日本戦前思想弾圧とは?1)

左翼系再生産の仕組みは、占領時に大学やマスコミ等で地位を確保したこの種グループに属さないと大学教授・研究職に採用されないし・・マスコミも採用しません。
大学の指導的グループに気に入られないと採用されず安定収入を失うし、個人が勇気を出して独自の研究をして民間で発言・発表してもマスコミは全く取り上げず出版も出来ない・・発表の機会がないことになります。
収入源・・生きて行くには大学の主流やマスコミ迎合するしかないと言う繰り返しで、学者のマスコミ迎合意見が洪水的に報道されて来た原因です。
戦後70年の間にマスコミ界は、マスコミが選別報道すれば米中韓露に都合の良い噓の歴史教育も出来る・・政治誘導出来ること(まさにユダヤ的価値観浸透成功?)に味を占めてしまいました。
これに味を占めた人材・・これを利用したい勢力がマスコミ界にドンドン浸透して行く・・昇進して行くシステムになっていく・・承継再生産して現在に至っているように見えます。
ただ4〜5年前から、マスコミとは別のネット空間が影響力を持ち始めたのでさすがにアメリカ(コミンテルンとの合作)によるマスコミ支配の遺産・・今は中韓ベースのマスコミ界の影響力が色あせてきました。
これが昨今の欧米覇権衰退に繋がっていることが確かでしょうが、この問題はネット発達とマスコミの弱体化や「欧米覇権終焉」等のテーマで16年9月に別に書いて来ました。
アメリカの日本占領政策は、共産主義に親和性を持っていたルーズベルト→トルーマン政府下で始まり、実務を担ったGHQの民政局(GS)は、共産主義者で知られる民政局長「ホイットニー」が中枢を担って日本共産党などを合法化して行った歴史です。
その後中共政権成立・朝鮮戦争などを経て冷戦時代に突入すると、アメリかも容共政策ばかりでは済まなくなってきます。
アメリカは日本を叩き潰すために共産主義者を利用して来ただけ・・お互い相手の利用が終われば本来の喧嘩が始まったと言うことでしょうか?アメリカ本国では1950年から赤狩り・マッカ−シー旋風が起こり、これに歩を合わせてそれまで共産主義伸長援助関係にあった日本占領軍もレッドパージに大転換します。
占領直後の勅令では、https://ja.wikipedia.org/wikiによれば、
「聯合国占領軍の占領目的に有害な行為に対する処罰等に関する勅令(昭和21年勅令第311号)として1946年6月12日に公布され、同7月15日より施行され」ています。
「占領目的に有害な行為」を「連合国最高司令官の日本帝国政府に対する指令の趣旨に反する行為」「その指令を施行するために、連合国占領軍の軍、軍 団又は師団の各司令官の発する命令の趣旨に反する行為」「その指令を履行するために、日本帝国政府の発する法令に違反する行為」と定義していた。
占領目的に有害な行為をした者は10年以下の懲役若しくは罰金又は拘留若しくは科料に処すると規定された。」
「軍国主義破壊」と言う意味不明の占領目的で占領した結果、これを具体化するには「占領目的に有害行為」と言う漠然とした定義で処罰するしかなかったのでしょう。
https://kotobank.jp/word・・団体等規正令が施行されます。
「昭和 24年政令 64号で,いわゆるポツダム政令の代表例。「平和主義及び民主主義の健全な育成発達を期するため,政治団体の内容を一般に公開し,秘密的,軍国主義的,極端な国家主義的,暴力主義的及び反民主主義的な団体の結成及び指導並びに団体及び個人のそのような行為を禁止することを目的」 (1条1項) として制定された。」
以下レッドパージに関するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/の記事です。
「GHQの主導権がGSから彼と対立関係にあった参謀第2部(G2)に移り、共産主義勢力を弾圧する方針に転じた。冷戦の勃発に伴う、いわゆる「逆コース」である。」
1950年5月3日、マッカーサーは日本共産党の非合法化を示唆し、5月30日には皇居前広場において日本共産党指揮下の大衆と占領軍が衝突(人民広場事件)、6月6日に徳田球一ほか日本共産党中央委員24人、及び機関紙「アカハタ」幹部といわれた人物を公職追放し、アカハタを停刊処分にした。同年7月には9人の日本共産党幹部について、団体等規正令に基づく政府の出頭命令を拒否したとして団体等規正令違反容疑で逮捕状が出た(逮捕状が出た9人の日本共産党幹部は地下潜行し、一部は中国に亡命した)。
こうした流れのなかで、7月以降はGHQの勧告及び、9月の日本政府の閣議決定により、報道機関や官公庁や教育機関や大企業などでも日共系の追放 (解雇)が行われていった(なお、銀行業界などでは「当職場に共産党員は居ない」などとして、日共系の追放が最小限度に留まった例や、大学では日共系の追放が殆ど行われなかった例もあったし、逆に反対派を共産党員だとして名指しして解雇させ主導権を奪った国労のような例もあった)」
上記のとおり、レッドパージと言っても主義主張だけで区別するのは無理があるので、米軍指令に従って型通り(やったことに)しただけで、よほどの筋金入りだけ・それ以外のいわゆる左翼系思想家は何ら問題になっていません。
もともと日本は戦前から思想信条の自由がかなり保証されていた・具体的国家転覆行為に関与しない限り処罰される仕組みではなかったことに由来します。
ありもしない戦犯でっち上げの東京裁判や慰安婦騒動同様で、戦前の思想圧迫がひどかったという米軍政に都合のよい宣伝が行われ、これに便乗・誇大表現する意見が多すぎることを検証し直すべき時期が来ています。
弾圧と言うほどのものか・企業でもどこの組織でも派閥類似のものから外れたり敵対グループに属すると出世から外れたり子会社に出向させられたりしますが、これを弾圧とまでは言いません。
非常事態下で一定の行き過ぎがなかったとは言えないでしょうが、行き過ぎた面がどのくらいあったか、あったとした場合、その程度が戦争直前〜戦時中の諸外国の国内締め付けに比べて日本の方が厳しかったかどうだったかを検証しないと本当の歴史がわかりません。
20世紀の大思想家と言われるハイデガーでさえ、ナチス迎合があったと言われますが・ナチスと比較して日本の規制がゆるいと言っても仕方ないとしても、その100前の時代のヘーゲルだって、ドイツ君主制に気兼ねした論文になっていたと言われます。
どこの文献で読んだか探せないので、ウイキペデイアによると結論だけですが、以下の通り解説されています。
ヘーゲルの立場と影響
・・かれの哲学思想は、全体としてドイツの市民革命の前夜の動向を反映しながら、他方で現実の君主国家に妥協する面も写しだしていた。

南原繁氏が戦時中の1942年に発表した全体主義批判の論文(「国家と宗教」を中心に彼の思想を紹介してきましたが、同氏は価値平行論でナチスの全体主義を批判しただけでなく、ナチス思想を日本的応用?主張する便乗的思想家に対する批判も書いているのですが、当時の内務省はこれを問題にしないままにしていました。
暗黒時代というものの思想発表だけでは獄につながれるような過酷なものではなかったのです。
何か政権維持に不都合な発言等を問題視してメデイアによる集中砲火的的批判を浴びて国務大臣を罷免されることがありますが、これを弾圧と言うならば、「靖国神社参拝批判その他の発言を理由に弾圧された政治家が数知れず・暗黒の戦後」となります。
南原論文を問題・発禁処分しない理由とするところは「学術論文に過ぎないから」(難解すぎてレベルの低い右翼やメデイアには理解できないだろう・・社会問題にならないだろう)と言うものだったようです。
治安維持法によるの暗黒時代といいますが、「弾圧」を叫んで煽ったのはメデイアだったのでメデイアに問題視されなければ良いというのが内務省の立場でした。

ロシアの脅威(幕末対馬・不法侵入事件)4

幕末の欧米が通商を求めて次々とやってくる中で、ロシアの海軍が対馬に実力上陸して居座る事件が発生しました。
ウィキペデイアによると以下の通りです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E8%BB%8D%E8%89%A6%E5%AF%BE%E9%A6%AC%E5%8D%A0%E9%A0%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6ロシア軍艦の進出
ニコライ・ビリリョフ
文久元年2月3日(1861年3月14日)、ロシア帝国海軍中尉ニコライ・ビリリョフは軍艦ポサドニック号で対馬に来航し、尾崎浦に投錨し測量、その後浅茅湾内に進航した。
対馬藩内では対応を巡って、武力での排撃を主張する攘夷派と紛争を避けようとする穏健派で論争が起こり藩内は混乱した。宗義和は事を荒立てず穏便に解決しようと接しながらも、問状使をポサドニック号に派遣し、その不法を何度か詰問した。しかしロシア側は無回答を貫き、優勢な武力をもって日本側を脅かしたり、住民を懐柔したりし、木材・牛馬・食糧・薪炭を強奪または買収して滞留の準備を整えた。またロシア水兵は短艇を操って沿岸を測量し、山野を歩き回って野獣を捕獲したり、中には婦女を追跡して脅かす水兵もいたため、住民は激昂し、しばしば紛争が起こった。
ビリリョフ艦長は対馬藩に対し藩主への面会を再三要求し、3月23日には芋崎の租借を求めて来た。ロシア側としては強引に対馬藩に租借を承諾させ、これを既成事実として幕府に認めさせる思惑であった。対馬藩では対応に苦慮し、面会要求を拒否しつつ、長崎と江戸に急使を派遣して幕府の指示を仰いだ。
江戸に戻った小栗は、老中に、対馬を直轄領とすること、今回の事件の折衝は正式の外交形式で行うこと、国際世論に訴えることなどを提言。しかし老中はこの意見を受け入れず、小栗は7月に外国奉行を辞任することになる。
5月26日、交渉に行き詰まった対馬藩では藩主謁見を実現せざるを得なくなり、ビリリョフは軍艦を府中に回航し、部下を従えて藩主宗義和に謁し、短銃、望遠鏡、火薬および家禽数種を献じ、長日滞留の恩を謝した。しかしロシア側は芋崎の永久租借を要求し、見返りとして大砲50門の進献、警備協力などを提案した。対馬藩側では幕府に直接交渉して欲しいと回答して要求をかわした。沿道警備にあたった藩内士民はロシア兵の傲岸な態度に激怒したが、辛うじて事なきを得た。
イギリスの介入
7月9日、イギリス公使ラザフォード・オールコックとイギリス海軍中将ジェームズ・ホープが幕府に対し、イギリス艦隊の圧力によるロシア軍艦退去を提案、老中・安藤信正らと協議する。
7月23日、イギリス東洋艦隊の軍艦2隻(エンカウンター、リンドーブ)が対馬に回航し示威行動を行い、ホープ中将はロシア側に対して厳重抗議した。しかし実はこの時点においてオールコックも、イギリスによる対馬占領を本国政府に提案していた(8月2日付・坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社)。
また老中・安藤信正は再度、箱館奉行・村垣範正に命じてロシア領事に抗議を行わせた。これまでビリリョフの行動をそのままにさせていたロシア領事ゴシケーヴィチは、イギリスの干渉を見て形勢不利と察し、軍艦ヲフルチニックを対馬に急派し、ビリリョフを説得。文久元年8月15日(1861年9月19日)、ポサドニック号は対馬から退去した。
3月から9月までの6ヶ月間も他国に侵入して居座って、何ら根拠もなく租借の要求をしていたのですから、いわば強盗行為です。
強盗に押し入った者が、「家屋敷の一部を寄越せそこに住み着くから・・」と要求しているような事件でした。
上記ロシア軍艦の幕末対馬への実力上陸は、日露の外交交渉が成立して函館を開港場として、ロシアは函館に領事を置いて平穏な付き合いがはじまってからのことですから、対米戦争敗戦時の不可侵条約破っての満州侵入同様の酷い話です。
日露通商条約は以下の通り安政2年1855年締結であり、対馬上陸事件は1861年ですからこんなことが白昼公然と行われるのでは何のための和親条約締結か分かりません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E5%92%8C%E8%A6%AA%E6%9D%A1%E7%B4%84
日露和親条約(にちろわしんじょうやく、露: Симодский трактат)は、安政2年12月21日(1855年2月7日)に伊豆の下田(現・静岡県下田市)長楽寺において、日本とロシア帝国の間で締結された条約。日本(江戸幕府)側全権は大目付格筒井政憲と勘定奉行川路聖謨、ロシア側全権は提督プチャーチン。
本条約によって、千島列島の択捉島と得撫島の間に国境線が引かれた。樺太においては国境を設けず、これまでどおり両国民の混住の地とすると決められた[1]。この条約は1895年(明治28年)に締結された日露通商航海条約によって領事裁判権をはじめ全て無効となった。
以下は函館日ロ交流史研究会の記事からです。
http://hakodate-russia.com/main/web/hakodate-russia/
箱館開港
 ロシアは樺太・千島・蝦夷地に早くから開港を求めていたが、ロシアに先立ちアメリカがペリー提督を日本に遣わし、幕府は1854年(安政元)日米和親条約を結び、箱館・横浜・長崎を開港しアメリカ船に薪炭給水食料の補給を許した。
 1854年(安政元)日露和親条約が締結され、箱館にロシア領事館が置かれることになった。」
上記函館日ロ交流史研究会の記事では安政元年となっていて、1年早くなっています・・どちらが本当か今のところ私には不明ですが、何れにせよ日ロ間では正式に外交条約が結ばれているのに、条約無視で実力行使してくる始末です。
幕府は無断上陸したロシア艦隊・条約無視の違法行為を自力で追い出す軍事力がないので困っていたところでイギリスが動いてくれて追い出してもらったのでことなきを得ました。
この時イギリスの仲介解決がなかったら(その分イギリスに借りができましたが・・)大変でした。
対馬は海路遠く離れている関係で援軍を送って戦端を開いても、当時日本には洋式軍艦ひとつない・・海軍力のない我が国が防衛しきれたか不明の状況でしたから、その内ロシアの要求に妥協するしかなかった可能性がありました。
そうなるとその他列強も「遅れてはならじ」とばかりに我先に各地で占拠〜租借地要求事件が起きたでしょうから、幕府も手がつけられなくなり、清朝末期の中国のように国内は租借地だらけになっていた可能性があり、重大な事件に発展するところでした。
こうしてみると1904年の日露戦争前からの日英同盟の下地・日本の英国頼りの信頼感は、この頃から準備されていたことになります。
最近EU離脱の影響からか英国の日本接近が急ですが、日英同盟復活?気運が出ていることに、(経済面の結びつき・対欧州の経済・貿易関係も日本企業の多くが英国を足場にしてEUへの輸出していることが知られているとおりです)多くの日本人はそれほど悪い気がしないのはこうした歴史があります。
幕末の乱暴な行動を見てもロシアという国は、(韓国もいくら国際合意しても自己都合によって簡単に破る国ですが)せっかく平和条約を締結しても相手が抵抗できないとなれば、何のトラブルもなくとも条約破棄してすぐに侵略してくる国であることは、対米敗戦の時の日ソ不可侵条約破棄の前から分かりきっていたことです。
その上ロシアは未だに北海道全土に対する領土意欲を隠していないし、これに呼応するかのように「もともと日本の領土ではないアイヌの土地だ」という運動体が国内で着々と育成されているのですから、平和条約締結さえすれば済む簡単な話ではありません。
以上がロシア軍による6ヶ月間に及ぶ対馬実力占領行為に対する顛末ですが、ロシアの条約無視・武力万能・・強盗的体質は日本敗戦時の満州侵入の時だけのことでないことを肝に命じておく必要があるでしょう。

中国ロシアの脅威3(自衛力の必要性)

「私は暴力を振るいません」と言うだけで安全ならば、女子や子供が夜道を一人でむやみに歩きまわらないと言う常識・不文律が世界中である訳がありません。
非武装平和論の女性が、深夜人通りのない道を一人でそぞろ歩きをしたり自分の娘や子供に安全だからと独り歩きを勧めているのでしょうか?
都会地の場合、大して強くない男でも同行していると相応の自衛力があるので、襲った方も相応のダメージを受ける・・その上時間がかかると警察などが来る・逃げても傷を負っているとアシがつき易いなどのことから、むやみに襲ってこないのです。
このように自衛力は襲ってきた相手に勝つほどの力がなくとも一定の抵抗力さえあれば、そのうち誰かが駆けつけて応援してくれる仕組み・・治安力整備・市街地であればこれがなりたちます。
これが成り立つ社会を治安の良い社会というのです。
日本のように婦女子が一人で夜道を歩いていて、しかもすぐに警察が駆けつけることのない場所でも被害にあわない社会は、超安全社会というべきでしょう。
誰も見ていなくとも悪いことをしない・・これが大災害で治安力が弱っても略奪が起きず逆に助け合いが活発化する日本社会の現状です。
クリミヤ併合や中国による南シナ海での埋めて強行→軍事基地化の現実を見ると、国際社会ではまだ一定の自衛力を持つことで身を守るしかないのが現実ですので、この仕組みを国際的に応用しているのが相互防衛条約〜集団自衛権と称するものです。
戦後我が国の非武装論は世界で突出した武力と経済力を有していたアメリカが平和を保障してくれている限り意味がありました。
言わば強力な護衛兵に守られている場合に、政治家や貴婦人が自分で拳銃や刀を持っている必要がないのと同じです。
護衛兵役のアメリカが守りきれないので、お客(日本)の方もある程度の武器を持って一緒に戦って頂けませんか?あるいは補給程度は協力していただけませんかと言われるようになったのが最近の国際情勢です。
海賊対策として護衛艦5隻あれば万全だが、2〜3隻しか一緒に行けない場合、不足分を商船隊の方も一定の商戦に大砲の一門くらいを備えて一緒に戦ってくださいとなるのが普通です。
砂漠の隊商などはこの方法・商人自身武器を取って戦う外護衛武人の食料供給をするのが昔から普通でしょう。
話題がそれてしまいましたが、裸の暴力ではなく道義攻撃から守るには、日米安保はもともと役立ちません。
アメリカは、対日戦開始に向けた謀略〜戦争犯罪その他に後ろめたい面が多々ある結果、将来的に日本から報復を受けないように半永久支配の道具として軍の駐留を続ける名目に日米安保条約を押し付けたに過ぎないので、もともと(敵対国占領支配の継続意識で)日本を真の同盟国と認めていませんでした。
本来の同盟であれば同盟国が強く信用がある方がいいのですが、日米安保は日本を弱くしておくために縛りをかけるための同盟関係でした。
だから表向きの同盟国でありながら日本の足を引っ張ることがあれば内心歓迎・・アメリカの意図を汲んだ国々が、率先して慰安婦問題や南京虐殺その他のでっち上げ批判に走ったのです。
いじめっ子がいると、そのお先棒担ぎをする子がいるような関係です。
裏から見るとアメリカの意図を汲んで行動する韓国を見れば、アメリカの真意やユダヤ系の巧妙に隠された価値観を読みやすい便利な面がありました。
アメリカが今後日本を頼りにすることが増えていくとアメリカのお先棒担ぎ的な露骨な日本批判は今後へっていくと思いますが、今後はアメリカの威信に挑戦する中露の動きが活発化するとそのお先棒担ぎ・国内呼応勢力が増えていきます。
この数十年は次第に日本寄りになっていくアメリカのご機嫌とり的お先棒担ぎとこれから日本を敵視していく中露の先棒担ぎが競合していた時代でした。
韓国は両天秤で少し中国寄りに傾斜しすぎて失敗したのです。
アイヌ先住民論や沖縄先住民論は・・「日本だってやっているじゃないか」・・いう欧米の道義的反撃材料に使えるだけではなく、ロシアの北海道侵略意欲・中国の沖縄侵略意欲が背景になっているとすれば、従来型欧米の日本叩きの意図が背景にはないものの新興勢力?ロシアや中国が背景にいるので、アイヌや沖縄先住民論の応援団がなお世界規模で強力です。
中国の南京大虐殺運動・反日教育も、チベットやウイグル族の弾圧に対する欧米の批判に対する目くらまし効果を狙っているだけではなく尖閣諸島侵攻→その先の沖縄切り離しを狙っている意図を中国は隠していません。
隠すどころかこの意図を明らかにすることによって、日本に対して「尖閣諸島を手放さないと沖縄まで取ってしまうぞ!」と言わんばかりの脅迫です。
幕末〜明治にかけて西欧諸国が中国のあちこちを虫食い的に租借できたのは、その程度の妥協に応じないと本体が潰れてしまう恐怖心に訴えた結果でした。
明日以降紹介するロシアの対馬上陸事件は対馬藩が租借に応じないと対馬全島を占領、または荒らし回るゾ!という無言の恫喝が背景にあってのことです。
欧米にとっても大市場に育った中国市場で最大競争相手の日本が中国といがみ合う関係がいくら激しくなっても構わないどころか願ってもないチャンスです・・ドイツはこの隙に大々的中国進出成功していますし、サード配備決定前の韓国も同様でした。
慰安婦騒動も日本国内でこれに呼応して捏造文書を書く人(いわゆる吉田調書発表)がいて、一方でこれを大々的なニュースに仕上げるメデイアと合体で問題が大きくなったものですが、内部結束さえ強ければ外の敵はそれほど大きな問題になりません。
慰安婦騒動は米国が策源地ではなく韓国による自主的お先ぼう担ぎによるとしても、アメリカが日本敵視・日本弱体化政策をやめて真の同盟国として必要となる・・日本との協力関係が今後ますます必要になることから、自然に収束に向かうしかないでしょう。
韓国としては慰安婦問題を激しくやってもアメリカのご機嫌が良くなるどころか、逆に大事な同盟関係を壊すのか!とアメリカに疎まれマイナスに作用し始めたからです。
アメリカの逆鱗に触れて驚いた朴槿恵大統領は、やむなく180度方向転換して日韓合意になったのですが、「不可逆的」という前代未聞の恥ずかしい前提条件をつけられた上に内容的にもわずかに10億円での決着ですから、100%の完敗でした。
日本の要求でアメリカの高官が立ち会った上での国際合意形式自体が、韓国を一人前の国と認めない異例の形式でした。
続けてアメリカの強い要求に応じてサード配備を決めたことで、中国が激怒して今の韓国が中国から嫌がらせを受ける関係になっていることは周知の通りです。
要するに韓国は強いもののお先棒担ぎをしていた結果、却って二進も三進もいかなくなってしまった哀れな国です。
アイヌと沖縄の先住民族運動に戻します。
中国の沖縄侵略意欲は多くの人が知っていますが、日本敗戦時に火事場泥棒的に北海道占拠に失敗したソ連〜ロシアは北方4島を日本に返すどころか、今でもチャンスさえあれば北海道自体の占拠支配の野望を捨てていない可能性に留意しておく必要があります。
ソ連〜ロシアはもともと相手が弱いとなれば、なんの恥ずかしげもなく問答無用で露骨に実力行使してくる・強盗みたいな国です。
数年前のクリミヤ併合や敗戦時の満州侵入〜何十万将兵が強制連行されたのは突然行われたのではなく、昔からそういう体質の国です。
例えば幕末にロシア軍が一時対馬に無断上陸して駐留を始めたことがあります。
ロシア軍の対馬での実力行使事件について明日以降紹介します。